金曜日。
陽子の提案に2つ返事で了承した郁は、学校帰り、駅から電車に乗って松が岬の実家に泊まりに行った。
陽子は夫にメールを打った。
「大切な話があるので、今日だけは早く帰ってきてください」
しかし送った瞬間エラーで返ってきた。
いつの間にか、アドレスが変わっていた事実に笑いながら、陽子はショートメールで同じ内容を打ってから、スマートフォンを傍らに置いた。
19時。夫に言う言葉を復唱していた。もう、迷わない。
20時。早くにお風呂に入っちゃえばよかったと後悔しながら、うるさすぎるテレビを消した。
21時。冷蔵庫に偶然あった、貰い物の発泡酒を開けた。
22時。左手の指輪に手を伸ばし、それを外して、ダイニングテーブルの上に置いた。
23時。
夫が帰ってきた。
スーツではなく、背広を着た夫は、同い年のはずなのに、42歳の宮内よりも妙に老け込んで見えた。
「悪い。仕事で遅くなった」
陽子は心の中で笑った。
市役所の女友達がいるので、知っている。
金曜日は市をあげてのノー残業デー。模範になろうと市役所は、6時15分には強制的に消灯する。
(暗い中で仕事してたの?)
思わず嫌味の一つも飛び出しそうになるが、堪える。
悪いのは、陽子だ。
15年間ずっと、この男を騙し、裏切っていた、自分なのだ。
夫は何気なく視線を投げたダイニングテーブルに、外された指輪を見つけ、何か覚悟を決めるような表情で、陽子を見た。
「私と、別れてください」
陽子は言った。
「好きな人がいたの。ずっと前から」
離婚の理由は、夫の浮気じゃない。
陽子の、最初で最後であろう、人生最大の恋だ。
そう思ったら、胸を張って言えた。
すがすがしく頭を下げられた。
カチ コチ カチ コチ
あんなに耳障りだった秒針の音が心地よく聞こえる。
時が動き出す。
この音は、始まりのカウントダウンだったのだ。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!