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桜咲かな
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今から、四年前。
それは私が、まだ『テレジアンの悪名高い姫』と呼ばれる前のこと。
「初めまして、ルクレティア姫様」
夢のような瞬間だった。
どれほどこの時を待ち望んだことだろう。
代々、王室の姫たちが十四歳を迎える誕生日に開催されるデビュタント。
その日を迎えてはじめて社交界への参加を許される。
それまで姫という存在は、安全な王宮の中で大切に育てられる。
それは私、ルクレティア・フォン・テレジアンも例外ではなかった。
十四回目の誕生日を迎えた私は、黄金に輝く大広間のまさに中心にいた。
初めて会う人々から向けられるのは、惜しみない羨望の眼差し。
その中で最も温かく、好意に満ちた視線を向けてくれたのが、侯爵令嬢セシリア・マルグリッドだった。
「セシリア・マルグリッドと申します。姫様にお会いするのを、ずっと楽しみにしておりました」
可憐で優美な微笑みを浮かべる令嬢。
私は一瞬で彼女の虜になった。
「わ、私も……みなさんとずっと仲良くなれたらいいと思っていました」
「本当に? 嬉しいです。ずっと姫様とお友達になるのが私の夢でしたの」
甘い香りの漂う花畑へ飛び込んだかのような、まさに夢心地の気分だった。
どれほどこの社交界という華やかな世界に恋焦がれていただろう。
私にとって王宮は、生まれ育った場所であると同時に、冷たく寂しい孤独の象徴でもあった。
私を産むと同時に産褥熱で亡くなったという母のことを、深く恋しく思ったことはない。
だって、私にはお父様がいるから。
お父様は母のことを心から愛していたと聞いた。
ならば、母に瓜二つだという私のことも、きっと愛してくれるはず。だって、私はお父様の実の娘なのだから。
そんな淡い期待を抱いていたのは、デビュタントを迎える一ヶ月前のこと。
「ほ、ほんとうに? ほんとうにお父様に会えるのね?」
「姫君たるもの、軽易に感情を表に出してはなりませぬと教えたはずですが」
「ご、ごめんなさい……だけど、本当に嬉しくて。知っているでしょう? 私がどれほどお父様にお会いするのを望んでいたか」
そうして、胸を躍らせて向かった先で、私は初めて実の父親と対面した。
ミスはなかったはずだ。ただ、私が何をしようが初めから関心などなかったというだけで。
『かわいそうな姫君だよ、生まれた瞬間から母親を無くすなど……』
みんな、何を言うのよ? お母様がいなくても私は少しも寂しくない。だって私にはお父様がいるのだから。
「初めまして、お父様。私は……」
「お父様だと?」
氷のように冷たく、奈落のように低い声が落とされる。
この時点で私はすぐにすべてを察し、その場から離れるべきだった。
そして実の父親のことなど、すぐに忘れてしまうべきだった。
「国王陛下、こちらはルクレティア・フォン・テレジアン姫様です。陛下の実のご息女ですよ。おそらく、じきに開催されるデビュタントの件でお越しになられたのでしょう」
「姫……ああ、そういえばそうだったな。顔だけは出すようにしよう。仮にもお前は私の娘らしいからな」
「仮にも……? い、いえ! ありがとうございます。その、私、お父様にずっとお会いし……」
「もう下がれ。要件は済んだだろう。私は忙しいのだ」
ずっと褒めて欲しかった。この世にただ一人、あなたに褒められることだけを望んでいた。
そうして、望み続けた父との初対面はそうして幕を閉じた。
結局、デビュタント当日、お父様は私の前に姿を現せなかった。
その代わり、会場への入場はエミリオお兄様がエスコートしてくれた。
お兄様と顔を合わせたのもその時が初めてだったけれど、私の心が跳ねることはなかった。
父から一切の関心を向けられなかった失望が尾を引いていたからか、それとも兄が私へ向ける乾いた眼差しに気づいてしまったからかは分からない。
だけど、お兄様のことなんでどうだってよかった。
生まれて初めてできた友人に対する喜びの方が勝っていたから。
「ルクレティア姫様!」
「セシリア嬢……」
「姫様、ぜひこちらへ来てください。友人たちをご紹介しますわ。私は一足先に社交デビューを果たしておりますから、何でも聞いてくださいね」
「ありがとうございます、セシリア嬢がいてくれてよかったです」
「当たり前です。だって私たちは、お友達ですもの」
デビュタントの後、セシリアとはあっという間に親しくなった。
彼女は私にとって特別な存在だった。
私を見つめる眼差しはどこまでも優しく、口から紡がれる言葉のすべてが、私がずっと飢えて求め続けていた温もりそのものだった。
だけどそんな幸せはいつまでも続かない。
それはセシリア嬢に招かれたマルグリッド侯爵家で開かれたお茶会でのこと。そこには顔を合わせただけで会ったばかりの令嬢たちがたくさんいた。
「さあ、私たちも庭園に移動しましょう」
「はい、セシリア嬢」
「我が家の庭園はそれなりに美しいので、きっと姫様にも喜んでいただけると思いますわ。もちろん、王宮の庭園には負けてしまうと思いますが」
「ふふっ、そんなことはありませんよ。私、とっても楽しみで……」
信じられない光景だった。
さっきまで私に向かって微笑みかけていた少女が、階段へ背を向けて落ちているのだから。
「セシリア嬢!」
私は咄嗟に手を伸ばした。けれど、可憐な彼女の手は虚しく空を切り、そのまま彼女の身体は鈍い音を立てながら階段を転がり落ちた。
「セシリア嬢、大丈夫ですか!」
「ルクレティア姫様……」
「はい、私はここにいます。誰か、すぐに医者を呼んできてください!」
なりふり構わず階段を駆け降りた私は、床に痛々しく倒れ伏す彼女の体を抱き起こす。
「姫様……どうして、どうしてですか……」
セシリアは目元に大粒の涙を溜めると、縋り付くように私の胸元を強く握りしめた。
そして震える声で、けれど確かにその場にいる全員に届く音量で告げたのだ。
「どうして私を突き落としたのですか。私、姫様に何か無礼を働いてしまったのでしょうか……」
「……え」
いつも華やかに着飾っているセシリア嬢が、髪を乱し、怯えた瞳で私を見つめている。
すぐに気遣う言葉をかけたいのに、彼女の口から出た理解不能な言葉に、全身の血が凍りついて石のように固まってしまった。
その言い方ではまるで、私が彼女を突き落としたみたいじゃないか。
『どういうことでしょう……セシリア様が落ちたのは事故ではなかったのですか?』
『まさか、ルクレティア姫がセシリア様を……』
『なんて恐ろしい……お二人はご友人じゃなかったのですか?』
背後で成り行きを見守っていた令嬢たちが、次々に息を呑み、ヒソヒソと蔑むような視線を向けてくる。
違う。そんなことはしていない。私は何もしていない。
そう撤回したいのに、あまりの恐怖に声が出なかった。
……すべては彼女の思う壷。
この日を境に、私は『テレジアン王国の悪名高い姫』として社交界にその名を轟かせることになった。