「青酸カリ⋯⋯」
無味無臭の毒を調べて、出てきた筆頭が青酸カリだった。
しかし、青酸カリなど博貴のバックグラウンドで入手できる気がしない。
彼は私と同じ慶明大学卒だ。
慶明大学生はエリートと評される反面、性加害でも博貴と同学年の人間がニュースになったことがある。
その時、女の子に盛ったのはエロ目的の薬物で、即死するような劇薬の青酸カリではない。
博貴の両親は彼が19歳の時に自宅の火事で亡くなっている。
彼の実家は全国展開している老舗和菓子店だった。
青酸カリなどを手に入れられる環境ではないはずだ。
工場と青酸カリ入手で検索すると金属メッキを剥がすのに青酸を使うという文言を見つけた。
(流石に和菓子工場じゃ、手に入らないか⋯⋯)
でも、彼の過去なんて全て知っている訳ではない。
青酸カリを何らかの形で入手した可能性もある。
実際に、カプセルに青酸カリを入れてパートナーを殺害する凶悪事件が過去にあったらしい。
私は恐ろしい可能性に気がついた。
博貴は私をお金目的に殺そうとした男だ。
彼は両親の死と引き換えに多額の保険金を受け取ったと聞いているが、その火事は本当に事故だったのだろうか。
(博貴はお金のために、人を殺せる男だ⋯⋯)
「疲れた。今晩はカナデの相手もしなくちゃいけないのに⋯⋯」
私の心は急に不安に囚われて、疲労困憊した。
自分がどうして時を戻っているのか分からないこと。
なぜ赤ワインを飲んだら死んだのかが、分からないこと。
今まで見たこともないようなサイコな夫の相手をしなければいけないこと。
そのような中でずっと望んでいたお腹の子だけが私の支えだった。
「おい、寝ているのか? 夕食の時間だぞ。妊娠中は、こんなに寝てばかりの生活をするものなのか?」
私を愛おしそうに眺めるカナデを見て、私を殺さないならイケメンだしサイコでも構わないと思った。
「暇過ぎて、死にそうなんです。子供がある程度大きくなったら仕事に出ても良いですか?」
「さあ、どうだろう。その時に俺がどう考えているか次第だな」
カナデは私に微笑みかけると、お姫様抱っこをした。
「ちょっと、危ないし、重いでしょ! 降ろしてください!」
「断る! これが、僕の子供と妻の重さなんだな⋯⋯」
私を抱っこした重さを感覚で測って、悦に入っているカナデを見てため息が漏れた。
カナデは私をそっと椅子に座らせると解放してくれた。
「こう言っては何ですが、今までカナデは自分の子を殺してますよ。無差別に女に子種を注いできたのではないですか? できてしまった子を堕ろすように言ったこと何回もあるでしょ」
私は彼に眠らされ、無理やりに妊娠させられたことを思い出した。
思い出すと彼のような犯罪者に、絶対に気を許してはならないと強く思う。
しかし、そんな狂人の彼に心を開きたくなるくらい私は病みはじめていた。
「そうだな。でも、そんな僕の子を殺す選択を皆がしてきた。君だけだ、僕の子を生かす選択をしたのは」
愛おしそうにカナデに見つめられて、私は思わず目を逸らした。
彼みたいな頭のおかしい男には、惑わされず冷静に対処しなければならない。
「結婚してから、浮気をしなかったのは予想外でした。でも、カナデはやっぱり規格外で理解できず、私はあなたを好きになれる気がしません」
私の言葉を不思議そうな顔で聞きながら、彼は私の頬を撫でてきた。
「嘘だな。君はもう僕を愛している。お腹の子と同じように」
私に愛おしそうに口づけ、彼は自分の席についた。
「結婚してから、急に愛を語り出したのはなぜですか? 私の前でパフォーマンスは不要ですよ」
「僕は結婚をするのも、僕の子を産む女を前にするのも初めてだ。だから、なぜ君を急に愛おしく思うようになったのかは分からない」
令和のモテ男から射抜くように見られても、私は特にときめかなかった。
時を重ねたせいか、今の状況を客観的に見るようになってしまっている。
「まあ、不倫は今の時代は致命傷ですからね。結婚前に散々遊んでおいて良かったですね。今、浮気をしないのは遊び疲れているだけでしょう」
カナデが浮気をしないことは、私にとって予想外だった。
だからこそ、つい皮肉を言ってしまう。
浮気もしない夫が自分だけを求めて、産まれてくる子を待ち侘びてくれるなんて夢がある訳ない。
「亜香里は意地悪だな。人は環境によって変わるものなんだよ」
私を心底愛おしそうに見つめながら、カナデが語ってくる。
「変わったかどうかは、これから長い間見ていかないと分かりません」
「これから長い間、僕だけを見つめてくれ。今日は貰い物のワインがあるんだ一緒に飲もう」
メイドがカナデのグラスにワインを注いだ後、私のグラスにも注ごうとしてくる。
「私は妊婦です。遠慮をさせて頂きます」
私は手でワインを注ぐのを制した。
「フハハッ! 1杯くらい大丈夫だろ。本当に生真面目で、頑固だな。君のそういうところに俺は惹かれているのかもな」
低い声で笑うカナデの声がくすぐったい。
私は彼とこれから上手くやれるのではないかと少しだけ期待し始めていた。
「では、乾杯!」
カナデはワインの入ったグラスを、私は水の入ったグラスを掲げる。
(私、このままお腹の子とカナデと幸せになれる?)
小さな期待を胸に抱いた瞬間、カナデが凄い勢いで吐き出した。
床に飛び散った血が混じった赤ワインを私は硬直しながら見つめた。
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