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※エブリスタ 新星ファンタジーコンテスト 魔女・魔法使い 参加作品
※9060文字
「マホウ」
シンデレラの魔法は十二時に解けた。
私の魔法は十二時にはじまり、今に現実が解けた。最悪の一日は終わったのだ。
スドウさんという人がいた。スドウさんは大学の一個上の先輩で、去年の四月にコンビニの深夜アルバイトで知り合った。ここでもスドウさんは一個上の先輩だった。
スドウさんは背が高くて、明るくて、人気があって、馬鹿な人だった。おつりの計算とか、しょっちゅう間違っていた。計算もそうだけど、それ以前に見間違えがひどかった。スドウさんにとって五十円玉は五円で一万円札は千円だった。
「馬鹿にしてんのか」と客に怒鳴られたら、
「いえ、馬鹿なんです」謝っていた。
私が同じことしたら、もっと怒鳴られてしまいそうだけど、スドウさんは人柄いいから、たいてい許してもらえていた。
二人きりになってから、「馬鹿だと思われちゃいましたね」言ったら、
「馬鹿だからね」笑ってた。ほっぺのしわが柔らかそうだった。
「私のほうが馬鹿だから大丈夫」
「そうなんですか」
「すっごく馬鹿なんです」
私たちの大学はすっごく馬鹿な大学だった。いわゆるFランだって、誰でも入れるんだって、友達が教えてくれた。たしかにそんな気もした。高校とか中学ほど頭いい子がいない気がした。
けど、友達がいう話と違って、みんなちゃんと勉強してるし、先生に質問する子だっている。それこそ高校とか中学と同じくらいいる。みんながんばってるから、みんな馬鹿とかいうけど、がんばってない私からしたらみんな馬鹿じゃなく思えた。
スドウさんはみんなじゃなかった。私と同じ馬鹿だった。
「私、仕事はできてますけど、それ以外はひどいんですよ」
「へー、どんなところがです?」
「どんなところが。どんな……」どんなところか、考えてみてもわからない。
「こんなところが」答えられたら、それがいいんだろうなと思った。
それから二か月もしたら、スドウさんも私のひどいを理解した。ドアを開けたらなんかの段ボールが寄りかかってきた。ゴミ捨て場と間違われたら大変だと思って言った。私の家です。
大学から歩いて五分とかのとこにあるアパート。朝は犬が鳴いて、昼は醤油ラーメンが香って、夜は女の喘ぐ安アパート。
私はスドウさんもこういうところに住んでると思ってた。けど、そうじゃなかった。スドウさんの実家はお金持ちで、スドウさんは七つもエレベーターが付いてるとこに住んでるらしい。
「六つだったかな。いや、やっぱり七つだ。配達の人用のがあるから七つだ」
一つエレベーターが減ったって私にはどうでもよかったけど、スドウさんはこのどうでもいいの正確さにこだわっていた。「タワマンってのに住んでんだ」
「タワマン!? そんな遠くから!?」
「……?」
私はタワマンって東京にしかないんだと思ってた。高いマンションが東京以外にもたくさんあるのは知っていたけど、タワマンと呼ばれるものは東京にしかないと、東京のものでなければいけないと思ってた。
その日のことだったかな。
スドウさん、スドウさん。喘いだら、
「その、スドウじゃないっす。ストウです」言われてしまった。
「あれ、けど、漢字がさ」
「僕のはストウって読むんですよ」
「でも、けどさ」
「ストウなんですよ」
馬鹿は一つ覚えだから何度も言った。そのたびにストウさんの声は強まって、力も強くなった。
思えば、この頃にはすでに気づいておくべきだったのだ。私はストウさんを愛していたし、私たちは何度も愛し合ったけど、好きとかお互い言わなかったし、告白とかしてないし、されてもないし、別に付き合ってはいなかった。
ただ、ゴールデンウィークとか、夏休みとか、ハロウィン、クリスマス。一緒に働いてただけ。働いたあとに、二人でしてただけ。
そうだったな、去年のクリスマスは働いてた。
だからじゃないけど、だから、気づかなかった。
クリスマス会えますか、聞いたら「ムリだよ」って、なんでですか、聞いたら「なんでって……」笑って「そういう関係じゃないしさ」って。
だから、そうですねって。
なんだか、その日から世界が変わってしまった。これまで平気だった自分の家がダメに思えた。私のとよくわかんない獣の、毛が散らばってて、ダメだと思った。チェキとかレシートとか、よくわかんない紙とかなんかが散らばってて、これはダメだと思った。
掃除機をかけた。ソファを動かした。かつてお茶だったもののペットボトルと、味噌が出てきた。
おお、味噌ってこんなニオイになるんだって思った。
私、泣いちゃった。泣いたからってなんでもないけど、泣いちゃった。
一か月前か半年前か、もっと前のことだったっけな。酔って起きたら味噌がなくて、味噌汁が飲めない! ってコンビニに走った。ストウさんがレジだった。
「馬鹿だなあ、うちには味噌ないでしょ」
「味噌汁は、私の人生の光なの」
「レトルトでいいなら、それはありますよ」
「じゃあ、今日はそれで」
「ずいぶんとちっぽけな光っすね」
十二月二十五日、最悪の一日は夜にはじまった。目が覚めたのは早かった。九時には起きていた。が、その時にはすでにぼんやりとした感じで、なにをしてもぼんやりとしていた。
昼に朝ご飯を食べ、家を出た。こんな日でも醤油ラーメンが香っていた。私は、とりあえず大学と反対へ進もうと思った。
しばらく歩いた。しばらく歩いてパン屋を見つけた。女性店員からクリームパン、メロンパンを受け取った。小さな公園があったから、そこで食べた。貪り食った気もするが、人目もあったし、やっぱり大人しく食べたんじゃないかと思う。
で、このあとからの記憶が曖昧なんだが、どうやら私は来た道を戻って大学を越え、電車に乗ったみたいで。たぶん、ショッピングモールを歩き回った。
どの店にも立ち寄っていないと思う。便所にすら行っていないと思う。
私はそういったところが大の苦手なのだ。ラーメン、たばこ、腐卵、精液が臭くないことはないが、少なくとも平気ではある。だが、香水なんかの洒落た香りがダメだった。対極にあるということが、私という存在を突き放して感じさせる。
なによりも女子便所が耐えられなかった。便と芳香剤に、彼女らのそれが交わった時の、その会合によって生じる断裂が、私にどれほどの無を感じさせることか……。
どれほどの間、私はショッピングモールを歩き回っていたのだろう。記憶が曖昧なのは五時手前ごろまでだが、まさかそれまでのずっとだろうか。
そのまさかなのだと思う。というのも、こういった不安に囚われている間、私の意識はどこかにある存在と無の世界。私の中にあるのだろう妄想の世界に囚われてしまうのだ。
私はこの境界を意味もなく放浪していたことを記憶している。ただ、これはあくまで妄想の世界での記憶だったので、現実の時空のどこに位置しているかがわからなかった。が、たぶんこの間だったのだろう。
女子高校生ってか高校生カップルの声がして、私のぼんやりはついに去った。これが五時手前のことである。
私は地下通路の途中にある便所を利用した。ここは比較的人が少ない。すべてを出して、ようやく気分も落ち着いた。そして、私は気がついた。左右で違う靴下をはいていたのだ。
聖なる夜に光を見に行った。ストウさんのいうところのちっぽけじゃない光を見に行った。イルミネーションというやつだ。恋人たちが手をつないで、腕を組んでいる中、私は彼らに加わった。
私の前を二組のカップルが並んで歩いていた。一組はいかにも初々しい二人だ、高校生と思われる。最近の高校生は大人っぽくて年上に見えることもあるが、この二人は高校生と仮定して見れば、高校生にしか見えない。
もう一組は二十代だか三十代だかわからない女と、なにかしらの権力者のふくよかな男の二人。病的に痩せこけた体、時代によっては下着と見なされる服装、過度に骨盤を揺らす不気味な歩き方。女はさながら死体のようである。
対する男は五十は超えているように見えるが、依然『生』に満ちていた。男と女は肉体的、精神的に対照的であった。殊に笑顔は女の必死と男の余裕を映している。あまりの鮮明に、本当に生に満ちているのは女であり、死んでいるのは男であるようにも見えてしまう。
この二組のカップルが私の前を並んで歩いていた。
高校生の二人はそつないことを話しながら淡々と歩いている。冬休みの宿題について、共通の知人についてなどを。二人はよく笑った。そして、たまに目が合うと、そのたびに息をのんで、笑った。
さながら清純そのものである。が、私はこの二人に凄まじいものを楽しんでいる姿を見た。二人の意識は、互いに相手にあるようで相手にはないのだ。つないだ手の感覚、自身の感覚にあり、その『本性』は読んで字のごとく『性欲』である。
強さ、弱さをはかり、相手の肉体を妄想に生成していく。相手を知りたい、親密になりたいという清純とされている欲望は、すでに夜の入り口にあるのだ。
もう一方の二人は、こぶし一つ分の距離を開けて歩いていた。特になにかを見るような様子はなく、イルミネーションも見えていないかのようだ。
しかし、女が言う「すてきですね」と。
男は頷く。
二人は人々を見ていたのだ。聖なる夜の光に照らされた人々の、そのさまを見ていたのだ。
私も二人の見ているものを見た。奇妙な光景だった。男と女、男と男、女と女――多数の親しい間柄にある人間がみんな笑っていた。通路の中央で接吻している二人も、踊っている彼らも、缶ビール飲んでる輩も。光に照らされたすべての人間が笑っていた。
「美香紗さん、バイト辞めるってマジですか」
最後に会った日に聞かれた。「本当だよ」
私、ストウさんの目が好きだった。馬鹿だけど、馬鹿だからいい人なんだなってわかる目だったから。
「なんでですか」
「なんでって……色々あってね」
ストウさんはまた「なんで」と聞いたけど、遮った。
そういう関係じゃないでしょって。ストウさんはなにも言わなくなった。もしかして僕のせいですか、とは言わなかった。
聖なる夜の光は求めていたそれとは違っていた。私から見てそれは闇であり、断裂であり無であった。友情や愛情、彼らの『情』が私にはわからなかった。
そして、この身の裡にあるものが生まれた。炎が生まれたのである。
いや、おそらくは以前より、炎は存在していたのだが、私は今日までこれを恐れてきた。
性欲が自己と対象の境界の解消を求める欲であるように――炎は自己と対象の断裂の解消を求める。事実これは人間の欲であり、最も力強いとされる欲だった。
逃げた。逃げ出した。私は走った。
けど、どこへ向かうべきなのか、なに一つとしてわかってはいなかった。ただ、ここにはいられないという観念に動かされたにすぎなかった。
気がつけば私はゲロの上に立っていた。酒を飲んだ誰かのものだろうとわかった。幅五十センチちょっとのこの裏路地からは、下水と安酒の空気が感じられた。ゲロにはいくつかの固形物が混じっていた。肉と、白菜に見える。
ゲロは不思議と私を落ち着かせた。息を吸うと、息ができたと思った。さっきまでの私は息すら上手くできていなかったらしい。
ふと、あたりを見渡すと、今私は一人だということがわかった。私はここがどこであるのかなにもわからない。わからないが、あたりは暗く、どす黒いものが隠れている危険な場所のように思えた。来た道を引き返そうとは思えなかった。しかし、私にはこの先へ進む勇気もなかった。私は動けなくなった。
その背中を押したのは一匹のネズミである。赤い目をしたやつがやって来て、私は半歩退いた。このネズミはどうやらゲロを食いに来たようだ。すぐに食いはじめた。貪り食っていた。
そして、振り返り前を向くと、行ける気がした。たった半歩進んだだけなのだが、それで私は歩きだした。
すぐにでもここを離れたくはあったが、私は走らずに歩いた。これにはいくつかの理由がある。まず一つとして、私はそれが礼儀であると感じていた。下水と安酒の香るこの場所において、むやみに走ることは失礼にあたると奇妙にも感じていた。次にこれも礼儀なのだが、ここで私が急ぐことはあのネズミに対して失礼だと思った。私は、私に半歩を与えてくれたあのネズミに恩を感じていたのだ。
また、もう一つの理由として、私には走るだけの余裕がなかった。一度は和らいだ炎が再び姿を見せていた。というよりも、私はそれから目を背けられなくなってしまったのだろう。問題は炎の持つ自己矛盾にあった。すなわち、断裂の解消を求め、断裂を求めること。そしてそれが、断裂をより断裂とするだけだということである。嘔気があったのだ。
私は光を求めて歩いた。
歩いて、路地を抜けた先で、ついに光を見た。それは商店街の一角にあった。周囲の建物にはシャッターが下りている。人は見当たらない。この街は廃れ切ってしまったのだろうか。いや、もしかすると……。
イルミネーションでふくよかな男と死体のような女を見てから、頭にあった考えなのだが、もしかすると私は冥界にいるのではないか。ぼんやりと歩き、記憶の曖昧な間に迷い込んで……。いや、もしかするとすでに私は……。
ただの古民家に見える、その建物だけに灯りがともされていた。『足立食堂』と書かれた大きな看板の陰影がその刻印の深さを物語っている。私は醤油ラーメンの香りに暖簾をくぐらざるをえなかった。
店内は賑わっていた。カウンター席が一席と、大テーブルが二つとも人で埋まっていた。テーブルでは天板いっぱいに皿、ジョッキを広げて大人が騒いでいた。彼らはいわゆる下層の人種であるように見えた。もっとも、その食欲と金使いはそれとは違っていたが、彼らの目に映る闇の深さは下層の人種のそれそのものだった。
店員は一人、竜のように背の曲がった老婆である。百四十センチにも満たない小柄な体、布越しに浮き出た凹凸は背骨だろう。特に首の根元のあたりが歪んでいた。
彼らはテレビを見てげらげら笑っていた。が、私が暖簾をくぐると止んだ。彼らは私という存在が不思議な様子だった。
「こっち座りなよ」
私は、私を呼んだカウンター席の男に従った。産毛らしかぬ太さのものをまばらに生やした男だった。座ると、黄ばんだメニュー表を手渡してくれた。
「若いね。いや、こういうのって今の時代ダメなのか――指の爪で頬をかいて、しわを引っ張ったり離したりして――すまん。いや、見ない顔なもんだから、不思議でね。どうやってここを知ったのさ?」
「どうやって。どうやって……」どうやってここを知ったのか、私にもわからない。
「まあいい。いいからなにか頼みなよ。ええっと……」
「美香紗」
「美香紗さんは幸運だな。なんと驚くなよ、今日はただ飯だぜ」
「ただ飯?」
彼らは快活な調子で笑った。男も「驚けよ」と笑った。
オレたちはこのあたりの人間なんだが、なんやかんや何百年と続いてきたこの商店街もついに朽ちてしまった。残ったのは、この場所にいるオレたちだけよ。もうじきオレたちは終わっちまうのさ。来年はねえ。婆ちゃんを見てみな、なあ? そう長くはねえんだ。てなわけで、これは現世とのお別れ会なのよ。はっはっはっ。どうせ終わるんなら、金なんて汚ねえもん巻き上げてもって感じだろう。なんならあっちに持って行きたくねえ、使い切っちまいたいくらいだぜ。好きなもんを頼みな。メニューの上のものでも、書かれてないものでも、たぶん大抵は作れるからよ。
私は味噌汁を頼んだ。男は特盛キャビア海鮮丼を頼んだ。私は笑ったけれど、数分後に特盛キャビア海鮮丼も運ばれてきた。それじゃあ、足りねえだろ。でかいスプーンでそれをすくって、男はあーんした。私は断った。やはりまだ嘔気があったのだった。
「美香紗さんは、そうだな、なにか好きなものってある?」
「好きなもの。好きなもの……」なにか答えようと思った。「私、味噌汁好きです」
「なら、婆ちゃんのはバリ美味いぜ」
男はどこか楽しそうな目で私を見ていた。今更に気がついたが、男はここにいる誰とも違っていた。男の目には微弱ながらも光が映っていたのだ。その光が私に味噌汁を飲めと言っていた。そう思えた。
「美味いです」
「だろ? オレたちは婆ちゃんの料理が好きなんだ。オレたちにとっちゃ、ここがいわゆる第二の実家なのよ」
「実家の味ってやつですか」
実家の味。そうは言ったが、私、実家の味ってもう覚えていない。
「いいや、むしろ新鮮ってかな。ここの味はいつだって懐かしくはねえ。だが、だからこそどんなオレに対しても優しくあってくれたのよ」
「…………」
男は老婆を呼び、「あれ」とやらを二人分頼んだ。私と男に頼んだらしい。私と男は初対面の男女のする適当な話をしてあれを待った。
面と向かい見ると、男は若いのだということがわかった。そして、意外なことに整った顔をしているのだとわかった。口元なんかはストウさんに似て思えた。私はストウさんと男を想像上で重ねてみようとしたが、私はストウさんの顔を覚えていなかった。中年のようにぷっくり膨らんだお腹は覚えていたけれど、男はすらり――どころかひゅらりと痩せていた。
病的なまでの細さだった。それで私は現実でない、現実のようなところへ戻されたように感じた。ここは境界なのだな。存在か無の奥にある、生と死あるいは我々が現世や冥界と呼ぶ神々の境界なのだな、と。
男の名は「須藤」といった。これを見せられて私はストウと読んだが、男のはスドウと読むとのことだった。私とスドウさんは同い年だった。スドウは高卒で、それから日雇いという仕事に就いて毎日をどうにか食いつないできたらしい。
スドウはこれでいて子供らしいところのある男だった。酒飲んで酔ってきたら、ちょっと話すだけで泣くようになってきた。私も酔ってきて二人で泣いた。それ見た大人たちは「よかったなあ、よかったなあ」ってスドウを笑った。笑いながら。みんなで泣いた。
あれが運ばれてきたのは十二時のほんの数分前のことだった。あれは天丼だった。スドウは、オレはこの天丼を食って今日まで生きてきたんだ、と教えてくれた。そして、ぜひ美香紗さんにも食ってみてもらいたいのだと。
しかし、私には嘔気があった。酒はそれを感じることを鈍らせていたが、依然、嘔気は変わらず私の裡に存在していた。
私は酒を飲んだ。酒を貪り飲んで、飲んだ。生ビールをチューハイで流し、チューハイを生で流した。食道が胃が、熱を持つほどに強くなり、同時に鈍るのを感じた。私が曖昧にとけていき、現実がついに裡と錯綜して。私は食った。
*****
その朝、私がなにか気がかりな夢から目を覚ますと、私はあるものの感覚を発見した。初め、それは裡にあるものだと考えていたが、意識の再生とともにそうではないことを知ったのだった。
店内には自分と同じようにつぶれた人間が溢れていた。けれど、そこにスドウの姿はない。スドウのいたその席には、代わりに老婆が腰を掛けていた。
「あいつなら、行っちまったよ」
「どこへです?」
「…………」老婆は眼鏡を外した。
「手を見せな」言われて、カウンターに左手を乗せた。
老婆は裸眼ではほとんど見えていない様子だった。が、表情があまりに真剣だったために、すべてが見えているかのようでもあった。むしろ老婆は見えていないからこそ、見えているのではないかと思えた。老婆の視線はくすぐったく、私は老婆の首裏の突き出た骨らしきものを、されているのと同等程度の強さで凝視した。
なぜこんなものがありながら、この人は生きていられているのだろう。思うと、心を読んだかのように「わたしゃあ魔女なのさ」と。
「魔女。魔女ですか。ああ、道理で……」
「お嬢さん。最近、人生に大きく関わる出来事。それも望ましくないことがあったね」
「占いですか?」
「いいや、魔法だよ」
「魔法……」
言われてみれば、老婆の風貌や風格というのは、ただ歳を重ねたというよりも超常の現象に触れた人間のそれのようである。例えばそれが魔力であり怪奇であり、老婆を魔女としたのだろうか。
「ズバリ当ててみせよう。色恋に関することだね」
「すごい、まさしくそうです」
「ひゃっひゃっ。これが魔法だぜ、お嬢さんよお」
「すごい……」
のど渇いたな、思って手を伸ばしたが、先に老婆が取り上げてしまった。逆さにし、ぼとんって水を落とした。奇妙にもその広がりが模様を描いた。私にはそれがなにかわからなかったが、老婆は「蛇だな」と言った。
「蛇。どこらへんがです?」聞いても教えてはくれず、ただ、見えないのかい、とだけ。老婆には確信があるというのに、やはり私には偶然に変な散り方をしただけに思える。
「まあ安心しな、それも今のうちだけさ。じきに見えてくる」
そして、私は数分をそれを凝視することに使った。細かな水滴が床や空気に吸われていき、一時はようやくかと直感したが、やはりそこにあるのは単なる偶然だった。こうしたことをしていると、私は幼少の日々に戻って来れたように感じた。そういえばあの頃は、見るもの見るものに想像を働かせ、意味を見出そうとしていた気がする。窓に張り付いた雨粒の、くっついたりはなれたりするのを、じっと眺めていた気がする。
大きく息を吐くと、老婆が笑った。げらげら笑った。私はまんまとこの魔女に騙されたわけだ。
「ありがとうございました。では、そろそろお暇させていただきます」
「そうかいな。またおいで」
「はい。天丼、バリ美味かったです」また来ます。
暖簾をくぐると光が痛かった。頭も痛かった。二日酔いだろう。朝焼けに染められた空は赤――朝焼けの字のごとく、まさに燃えているかのようだった。
さながら炎。さながら美香紗。
その帰途、私は一匹のネズミと出会った。裏路地を抜けて、曲がったところで。私を、憂いても恐れてもいない風に見上げていた。
哀れなシンデレラはゲロを落とした。嘔吐して、そのゲロをネズミが貪り食った。