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夏目莉央
1,537
131
くま🐻☁️
12
地下駐車場から上階へと繋がる階段を上がっていった。
一階の居室へ続く扉は、テンキーロック式の電子錠だった。朝倉くんが暗証番号を入力すると、電子音がして扉が開く。
彼が扉を押さえてくれて、私は先に朝倉邸へ足を踏み入れた。
目に飛び込んできたのは、光沢感のある大理石の廊下だった。
(自宅の床が大理石?)
一歩を踏み出すと、コツコツとハイヒールの音が響く。その後ろから、朝倉くんの上質な革靴の足音が続いた。
(ここは、本物だ。美麗さんの言う通り、私は場違いかもしれない)
まるで伏魔殿に迷い込んだような錯覚を覚える。
廊下の先には仕切りのない吹き抜けの大広間が広がっていた。大きな窓から光が差し込み、広々とした空間をさらに際立たせている。
「……すごい」
圧倒された私の口から出たのは、その言葉だけだった。
「祐二さま、牧野さま。ようこそいらっしゃいました」
白髪の燕尾服の男性が穏やかな声で迎えてくれた。
執事の黒川さんだ。
「お車での移動でお疲れでしょう。お茶をお入れしますので、どうぞおかけください」
「兄と母はどちらにいるんですか?」
朝倉くんは周囲を見回した。
五年ぶりの実家なのに、懐かしむ様子はない。
「貴浩さまは、すぐにいらっしゃいます。お待ちください」
黒川さんはそう言って頭を軽く下げた。
「長居する気はない。結婚の報告を済ませたら、すぐに出る」
朝倉くんは不愛想にそう言うと、私の腰に手を添えてソファへ誘導してくれた。
ひび割れひとつない、手入れの行き届いた本革に腰を沈める。なめらかな感触に、思わず背筋が伸びた。
「失礼します」
お盆にティーセットを乗せて、中年の女性が入ってきた。
不快を感じさせない薄化粧。前髪や後れ毛まで綺麗にシニオンネットでまとめられている。
「どうぞ」
声だけをかけると、女性はすぐに退室した。
そつのない対応。
仕事のできる家政婦なのだとわかる。
(でも、なんだろう。冷たい感じがする)
「瞳子さん、いただきましょう」
「……ええ」
朝倉くんに促されてティーカップを手に取った。
開口部の大きなカップには、金の縁取りが施されている。骨董の知識が皆無な私でも、高級なものだとわかった。
慣れ親しんでいる朝倉くんは、気に留めることなく紅茶を飲んでいる。
(朝倉くんには、これが当たり前……)
朝倉くんは、生まれた時からこれが当然の生活だった。
これを維持するために、美麗さんはどれほどのものを背負ってきたのだろう。
そう考えると、なんだか切なくなった。
そのとき、奥の扉がゆっくりと開いた。
そこから若い男性が、優しい笑顔を浮かべて入ってくる。
「祐二っ、久しぶりだな!」
目尻を下げ、嬉しそうに朝倉くんのもとへ歩み寄る。
「兄さんっ!」
朝倉くんの硬かった表情が、一気に緩んだ。
彼も立ち上がり、兄のもとへ急いだ。
「祐二、五年ぶりだな! 顔も身体も立派な大人になった」
「はい。ありがとうございますっ」
あの朝倉くんが、照れたように答えている。
兄弟の良好な関係が伝わってきて、見ている私まで微笑ましくなった。
「そちらが婚約者の牧野瞳子さんだね」
「そうです。紹介しますね」
私は急いで立ち上がった。緊張で、お腹の前で手を組んでしまう。
「初めまして。牧野瞳子です。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
やや早口になった私を気遣うように、朝倉くんが優しく声をかけてくれる。
「兄は優しい人間です。そんなに緊張しないでください」
「ええ」
貴浩さんが穏やかな眼差しで私に笑いかけた。
「瞳子さん、とお呼びしてもいいですか?」
「もちろんです」
貴浩さんの声や身のこなしから、温和な人柄が伝わってくる。
顔立ちは母親である美麗さんにそっくりだった。猫っ毛の頭髪をふんわりと整え、白のハイネックにチャコールのテーラードジャケットを合わせている。
その姿は、上級紳士という言葉がよく似合っていた。
貴浩さんもソファに座り、私たちと一緒にお茶をいただくことになった。
「母は支度に少しばかり時間が必要そうだ。その間に、祐二に相談したいことがあるんだ」
紅茶を一口飲んで、貴浩さんは切り出した。
「ああ……では、場所を移しましょう」
「いや、瞳子さんにも話を聞いてもらいたいんだ。祐二と結婚するなら、今後のことは瞳子さんにも共有したほうがいい」
朝倉くんが心配そうな目で私を見る。
きっと、朝倉家の問題に私を巻き込みたくないのだろう。
しかし、私は覚悟を決めてきた。
この問題は、私も一緒に背負うつもりだ。
「大丈夫よ。私はあなたの妻ですから」
困惑する彼に、私は余裕の笑みを返した。
「さすが、この朝倉家と結婚を決めた女性だ。肝が据わっています」
貴浩さんが感嘆の声を漏らす。
「兄さんっ、やめてください。僕は瞳子さんを無駄に関わらせたくはないんですっ」
「祐二……申し訳ない。私が不甲斐ないばっかりに……」
そう言って、貴浩さんは手元に視線を落とした。
「兄さんの体調はいかがなんですか? 胃潰瘍で入院したと黒川に聞きました」
「ああ。先週、退院したが、医師からストレスは減らせと注意を受けたよ」
「ストレスは、母ですね?」
「まぁ、そうだ。私と母上の経営方針は相容れない。私は名ばかりの社長で、実際に鳳凰グループの決定権を握っているのは母上だ」
貴浩さんは苦しそうに息を吐いた。
「私が経営改革をしようものなら、罵倒され、否定される。何度も抗おうとしたが……気がついたら、自分の胃がボロボロになっていたよ」
その声には、どうしようもない悔しさが滲んでいた。
「鳳凰グループの社長は兄さんです! もっと強気にいくべきですっ」
朝倉くんが語気を強める。
「そう思ってやってきた。だが、母は事業を私に譲り渡す前に株式会社を設立し、株主も役員も母と旧知の仲間で固めた。私の方針が気に入らなければ、総会で退任騒ぎを起こす。結局、母の意向を通さざるを得ない。私も、さすがに疲れてしまったよ」
貴浩さんの顔に影が落ちた。
「なぜ母は表舞台に出てこないのですか?」
「母はいまだに父の過ちを許してはいない。ホテル業そのものに強い関心があるわけでもない」
「では、なぜ……」
「お爺様が蒐集した骨董品が心配なのだよ」
貴浩さんは静かに続けた。
「五つ星の鳳凰ホテルの格式を保つために、母の私財である一流の骨董品が使われている。大事な宝が人質となって、簡単には手を引けないのだろう」
その説明で、朝倉家の事情が少し見えてきた。
美麗さんは、浮気をして亡くなった夫を恨んでいる。
それでも自分と父親の宝が絡むホテル業を、おざなりにはできなかった。
ようやく家業を貴浩さんに譲ったものの、経営に口を出し続け、その結果、貴浩さんは心身ともに追い詰められてしまったのだ。
あの気の強い美麗さんに、穏やかな貴浩さん。
この組み合わせなら、こうなってしまうのも無理はないように思えた。
朝倉くんは、ただ黙って聞いていた。
「この仕事は、私には不向きのようだ。妻とも話し合い、家業から離れようと考えている」
貴浩さんの発言に、朝倉くんが顔を上げた。
「ではっ、鳳凰グループはどうなるのですか? 母が再任することを了承したのですか?」
貴浩さんは、諦めたように首を振った。
「その気はないそうだ。浮気夫の事業など、二度と関わらないと」
「では……っ」
さすがの朝倉くんも、言葉に詰まった。
貴浩さんが、まっすぐ弟を見つめる。
「祐二に託したいと考えている」
朝倉くんと私は、その提案に衝撃を受けた。
黒川さんは微動だにしない。
彼は貴浩さんの思いを知っていたのだろう。
「無理ですっ、僕にはっ」
朝倉くんが動揺し、短く答える。
「私より祐二のほうが、経営者に向いている。大学の学費を自ら稼いで自立し、海外にも足を運んで人脈を広げた。その行動力と度胸、賢さは私を上回っているよ」
朝倉くんには商才がある。
それは私も認めている。
「私は社長の座を降りる。祐二、鳳凰グループを引き継いでくれないだろうか」
貴浩さんが背を正し、改まって頭を下げた。
突然の家督譲渡の提案だった。
追い詰められても華麗に切り抜ける話術を持つ朝倉くんでさえ、口ごもってしまう。
「……無理ですよ。僕には……」
社長の座を譲る。
こんな深刻な打診を受けるとは、想像もしていなかったのだろう。
朝倉くんの表情が、来たときとは比べものにならないほど深刻なものになっていた。
そのとき、貴浩さんのスマホの着信音が鳴った。
「すまない」
貴浩さんは席を外し、しばらくして戻ってきた。
「祐二、瞳子さん、すみません。妻から連絡で、子供が発熱してしまったようです。一旦、家に帰ることにします」
「帰るって、兄さんもこの家を出たのですか?」
朝倉くんが驚いて身体を揺らす。
貴浩さんは嘆息し、ゆっくりと口を開いた。
「ああ……妻に同居の限界がきてね。妻と私の健康を守るために、この家を出ることにしたよ」
その視線は下がっていた。
かなり悩んだ末の決断なのだと思われた。
「致し方ありません。この家から人が離れていくのは、母上の自業自得ですから」
朝倉くんも、貴浩さんに同情していた。
私は天井の高い、広いリビングを見回した。
少し慣れたせいか、家の印象が変わってきた。
広々とした空間は寒々としている。
少しの乱れも許さない潔癖さが、家全体から感じられた。
そして私は、窮屈さを感じ始めていた。
(この家から、人のぬくもりを感じない。美麗さんは、本当にそれでいいのだろうか)
胸が苦しくなった。
貴浩さんは続ける。
「こんなに重い話をすることになって、本当に申し訳ない。しかし、前向きに検討してほしい」
貴浩さんが神妙な面持ちでそう言った。
朝倉くんの膝の上に置かれた拳が、強く握られたままだった。
それに気がついた貴浩さんが、空気を変えるように手を叩いた。
「この件とは切り離して、祐二と瞳子さんの結婚は祝福しているよ。改めて私の家族を紹介させてほしい」
「ええ、喜んで」
「では、また連絡する」
「わかりました……」
戸惑う朝倉くんは、その場に立ち上がり、貴浩さんを見ていた。
「お先に失礼します。瞳子さん、またお会いしましょう」
「はい……」
私も起立して、貴浩さんに会釈をした。
貴浩さんは、またあの優しい眼差しに戻っていた。
美麗さんの心も穏やかになれば、貴浩さんのような柔らかな印象になるのかもしれない。
息子たちに厳しい態度で接する美麗さんのことを思うと、やはり少し切なくなる。
朝倉くんは、貴浩さんの後ろ姿を無言で追っていた。
もっと話したいことがあったのかもしれない。
けれど、どうしようもない事情であることを、彼自身も理解しているように見えた。
やがて朝倉くんが私に振り向いた。
「瞳子さん、気分を害してすみませんでした」
「ううん。結婚するなら、朝倉くんの身に起こることは知っておきたいから」
「瞳子さん……極力、迷惑を掛けないようにしますので」
朝倉くんの切ない瞳を見ていられなかった。
今の生活を継続する。
彼が思い描いていた未来。
それが崩れるかもしれない。
簡単に答えを出せる問題ではない。
美麗さんも交えて議論しなければならない重大な件なのに……。
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