1
つぼ浦の口から「オ」と声が漏れた。無意識に漏れた間抜けな音だった。慌てて口に拳を当てて、キョロキョロ左右を見回す。海沿いの土産屋はガランとしていて、干物の魚だけがつぼ浦を見ていた。
当然知り合いはいない。ホッと胸を撫で下ろし、キーホルダーがジャラジャラついた二段スタンドを回転させる。カラフルな光の粒が店内をくるりと回った。
つぼ浦はドキドキしながらそのうちの1つを手に取った。青いトンボ玉だった。白と水色で編み込んだネットに包まれて、海を切り取ったようなガラスが揺れる。
いわゆるビン玉ストラップだ。小さな気泡がキラキラ瞬いて、つぼ浦の手のひらを反射光で星空のように染めた。
美しい青で思い出すのはただ一人。
「アオセン……」
呟いた瞬間、つぼ浦は自分でギョッとして口をバシンと叩いた。サングラスの奥で瞳が右往左往して、「チゲ、お土産、深い意味はねえぜ! オイ、なぁ。ダーッ」と誰も聞いていない言い訳を重ね連ねる。
ひとしきり汗を飛ばして手を動かして、ようやくこの言い訳がすべて自分を誤魔化すためのものだと気付いた。ドッと肩から力が抜けて、ショーケースにもたれてズルズルしゃがみこむ。真っ赤な頬が透明なガラスに冷やされていく。
「……チクショウ」
悔しそうに眉をひそめ、Tシャツの胸元を擦る。それは恋する男の顔だった。
つぼ浦は青井に淡い想いを寄せていた。
キーホルダーひとつで大騒ぎする、小学生みたいな初恋だった。
2
夢を見た。
銃弾の飛び交う物騒な世界で、青井を笑わせようと歌った。
何でもできる四角い世界で、青井と二人でラジオに出演した。
温泉で、雪山で、荒野で、宇宙で。飛び跳ねるように場面が変わって、そのどこにでも青井がいた。
「百も夢路を辿ったのに、どうして俺の事置いてくのかな」
耳元で青井が話す。寝かしつけるような優しい響きなのに、鳥肌が立つほど真っ黒な声だった。怨念と情欲の渦巻いた重たい声だった。
何かを答える前に目が覚めた。
朝日がまぶたを透かす。夢とうつつが混じりあってつぼ浦はむにゃむにゃ言いながら寝返りをうった。柔らかな布団を頭まで引き上げて、「……あ?」と違和感に気づく。
警察署のソファではない、大きくて柔らかな敷布団に寝かされていた。二度と起き上がれないほどフカフカの枕に、暑いほどの羽毛布団だ。
「うおっ」
布団を蹴飛ばして起きた途端、ツンと冷たい風を感じる。見覚えのない和室であった。視線を向ければ開け放たれた障子の外に粉雪がチラチラ舞っていた。縁側に薄く雪が積もって椿ばかりが赤い。冬の日本庭園だ。
つぼ浦は細く白い息を吐いた。早朝の雪景色は風景画のように美しかった。もっとよく見ようと縁側に素足を下ろして、ぴゃっと引っ込める。床板は氷のように木目まで冷えきっていた。仕方がないので布団をマントのように無理やり羽織り、モコモコの毛虫みたいな格好で胡座をかいた。まだ少し眠かったので、そのまま障子に寄りかかってぼおっと外を眺める。
「つぼ浦起きてるじゃん」
淡い藤色の着物が隣に座った。白い顔を晒した青井だ。つぼ浦の脳みそが(ウワかっこよ)だけでいっぱいになる。
「ア、オセン」
「おはよ。めっちゃ寝てたね」
「そうなんすか?」
「そうなんだよ。こんなところで何してたの?」
「庭が良くて」
「寒かったでしょ」
「や、全然」
「嘘つけ。鼻真っ赤にして。囲炉裏ン端行って暖まったら?」
「もうちょっと」
「んはは。じゃあ人間カイロ食らえ~」
青井はつぼ浦の布団に勝手に入り込んで、そのままぐうっと体重をかけた。気を許した人間に青井がやる兄妹みたいな甘え方だ。優美な瑠璃色の髪がつぼ浦の首に触れる。外気に触れていた冷たい体温は、毒のようにつぼ浦の胸をときめかせた。
――このままでは心臓が爆発して死ぬ!
つぼ浦は「ダァ!」と布団を青井に投げやった。
「お、良いの? ありがてー」
「アオセン!」
「何?」
「ここ、アオセンの実家すか?」
「まあそんなところ。よく分かったね」
「なんとなく。なんで俺ここにいるんすか?」
「覚えてないの」
「……勿論覚えてるぜ! ただアレだ、一応確認だ。なあ?」
つぼ浦は勿論覚えていなかった。
「俺が呼んだからだよ」
「そうでしたっけ」
「そうだよ」
「へー」
青井と反対の方向を向いて、努めてなんでもない声を出す。片思い相手の家に呼ばれた嬉しさと、それを思い出せない悔しさでちょっと見せられない顔をしていた。
「……成金っぽくて、アオセンっぽい家っすね」
「成金はギリ悪口じゃない?」
「育ちの良さそうな家っすね?」
「いいね。最初からそう言って」
「でもアオセン悪い奴だからな」
「えぇ、どこがー?」
「よく後輩に飯タカるとことか」
「ウ。アー、今日はご馳走してあげるよ。何食べたい?」
「やったぜ。あー、カレーだな。それにラーメン。あとハンバーガー」
「チョイスが小学生」
「やっぱ寿司が良いです。もしくはステーキ。菖光亭くらい高いやつ」
「しょうがないなぁ」
「マジっすか! やりい」
青井はカタン、と漆塗りのお膳をつぼ浦の前に置いた。
その上には煌びやかな寿司と湯気の立ったステーキが乗せられていた。
「……あ?」
「どうしたの。食べたかったんでしょ?」
「いや」
さっきまで匂いもしなかったのに、肉の焼ける匂いが満ちていく。
「ああ、ナイフとフォークがない?」
「そう、っすね」
「よく見て。あるよ」
瞬きをした一瞬、確かに無かった銀食器が現れる。
「今、どうやって」
「食べて」
疑問は遮られた。爛々と輝く青井の目がつぼ浦を至近距離で見つめている。それは獲物を捕らえた捕食者の目だった。
お膳などどこにもなかったのに。一瞬でリクエスト通りの料理を用意できるのだろうか。そうだとして、ナイフとフォークをどうやって。
嫌な予感が止まらず、つぼ浦の声の端が震えた。
「……アオセン、ここ何処なんすか」
「俺の家」
「どうやってこれ出したんすか」
「んー、手品かな」
「アンタ、本当にアオセンすか」
「……」
青井とつぼ浦は同時に動いた。身を翻したつぼ浦を、青井が人間とは思えない力で引き倒す。
縁側の甲板が木片となって飛び散った。お膳が食事ごとひっくり返る。布団が引き裂かれて羽毛が舞い落ちる。つぼ浦の左腕から竹の割れるような音がして、凄まじい痛みが走った。青井の握力で骨が潰されていた。
「イ゛ッ!」
「あ、ヤベ。ごめん」
「イッテェなチクショウ! 離しやがれ!」
「ごめんって。でもさー、つぼ浦が逃げるから」
「誰でも逃げるぜこんな状況! 誰かー! 助けてー!」
「声でっか。誰も来ないよ。俺とお前しかここには居ない」
「誘拐じゃねえか!」
「あー、もう。とりあえず食べてつぼ浦。ほら、美味しいよ?」
「食うわけねえだろハンストだぁ! 非暴力非服従! テメエが泣くまで塩の行進するぞゴラァ!」
つぼ浦が辛うじて自由な足でビチビチ床を蹴るので、青井は「言ってる側から暴れてる暴れてる」と困った顔をした。
「お腹すいちゃうよつぼ浦。ハンバーガーの方がいいならそうしてあげるから」
「品目の問題じゃねえんすよ。あっ、チクショウ敬語使っちまった。めちゃくちゃアオセンだなこいつ」
「まあ、そりゃ、本人だし」
「行動が疑わしいんすよ。誘拐して飯食わせて怪我させて。俺に何させようってんですか」
「ずっとここに居て欲しい」
「なんでだ?」
「お前が俺を置いてくから」
「なんすかそれ」
「……酷いやつだねお前は。俺ばっかり覚えてるんだ」
抱きしめるように、青井の腕が首に回される。先ほどの力を思えば人間の首など爪楊枝よりも簡単にへし折れるだろう。震えるつぼ浦の前に青井の指が差し出された。人差し指を濡らす赤い液体からはE5バーガーと同じケチャップの匂いがした。
「食べて。それだけでいいよ」
「……」
「お願い。そうしたら、もう怖いことしない。約束する」
こんな時なのに、つぼ浦は青井から煙草の匂いがすることに気が付いた。
煙草と機械油と柔軟剤のいつもの匂いだ。
「……アオ、」
口を開いた瞬間、指がねじ込まれる。
咄嗟にかみつけばケチャップに木をいぶしたような臭いが鼻を突いた。酷い苦みが舌の上に広がる。青井の血であろう液体が唇の端から溢れていく。木目に沿って流れていくそれは、唾液と混じり薄墨色をしていた。
「飲み込んで」
青井が徐々につぼ浦の首を絞めていく。息ができない。折られた腕を踏みつけられ喉の奥で悲鳴を上げる。両足は空をかくばかりだ。残された右腕からも力が抜けていく。
「……グッ、ウ」
つぼ浦は喉を鳴らし、飲み込んだ。
青井がパッと手を離す。体が支えられず、つぼ浦は床に倒れ伏してゲホゲホ荒く咳き込んだ。
「痛かったね、ごめんね」
痛みと窒息で流れた涙を青井が優しく拭う。噛みついた人差し指には、もう傷一つなかった。
「これで、お前はここから出れないね」
「ケホ、ケホ……。ア゛ー」
「大丈夫?」
「腕も、首も、信じらんねえくらい痛いです」
「可哀想ー」
「アオセンのせいなんすよ……」
つぼ浦はぐったりしたまま「ヨモツヘグイすか」と聞いた。
「そう言うの? 人間はなんにでも名前をつけたがるね」
「人間って。アオセンは」
青く美しい男は、やっぱり美しい顔のままつぼ浦の背中をさする。
「当てて。そうしたら家に帰してあげる」
「鬼」
「んー、35点!」
「赤点ギリギリっすか」
「あんまり酷いと食べちゃうからね」
「怖っ」
「怖いのはお前だよ。何でもかんでも忘れちゃうんだから」
3
「さて、約束しよ」
青井は順番に指を立ててこの家のルールを話した。
ひとつ、一人で行動しないこと。
ふたつ、青井の渡すもの以外食べないこと。
みっつ、気軽に襖を開けないこと。
「ふすま?」
「そう。障子はいいけど、アレはダメ」
「開けたらどうなるんすか」
「分かんない」
「へー」
実家みたいに寝っ転がって煎餅を食べていたつぼ浦は、海苔の部分を口に咥え、腕だけを伸ばして襖を開けた。あまりにも物臭な蛮行に青井が「エ?」と口をぽかんと開ける。
引き戸の向こうには男の顔があった。
「うお」
まつ毛の1本1本が見えるほどの距離で真っ黒な目と視線がかち合う。つぼ浦の指に男の生暖かい鼻息がかかり、跳ね除けた爪の先でニキビを潰した感触がした。ぎょっと身を引いた途端、男の顔は下へ落ちた。
敷居の向こうは別世界だった。
青空に男達が浮いている。あるものは背を向け、あるものは横顔を晒し、皆一様に山高帽とコートを被っていた。古臭いモノクロな男たちがベタリと絵の具を塗ったような街に等間隔で佇んでいる。白く霞むほど遠くまで、規律正しく、バラバラな方向を向いて突っ立っているのだ。
流石のつぼ浦も背筋に冷たいものを感じ、「オオ……」と呻き声を漏らした。
「エッなんでなんでやるなって言ったよね今!?」
「『やるなよ』ってやつですよね? 俺お笑い詳しいんすよ」
「バカ! お前、このっ、バカ!」
青井が大慌てで襖に飛びつく。力尽くで閉めようとするが、引き戸の溝に何かが引っかかってガタガタ音が立つばかりだ。
空に浮かぶ男が吊るされた人形みたいにゆっくりと振り返る。
気づかれた。
「アオセン、なんか、ヤバい」
つぼ浦の言葉と同時、視界に映る男達の顔が一斉にでろりと溶けた。目鼻が一緒くたのオレンジ色になって、クラシックなコートを濡らし雨のように滴り落ちていく。首の内側から林檎が浮かび上がってくる。それは目の冷めるような黄緑色をしていた。青林檎はだんだんと膨らみ、大きくなって青空を埋めていく。巨大な林檎に小さな人間の手足は、間抜けと不気味の間にあった。
「これはパイプではありません」
「これはパイプではありません」
「これはパイプではありません」
「これはパイプではありません」
ザラザラした男の声が、四方八方から響く。壊れたレコードのように妙に途切れ途切れの声だった。
「これは、こ、これ、こ」
バラバラだった男たちの声が唐突に重なる。
「「「こんばんは。いい空ですね」」」
「ぎゃー!」
スパン、とつっかえが取れたように襖が閉まった。
「何、何だったんですか今の!」
「知らないよ。あーびっくりしたー」
「襖開けると毎回こうなるんですか」
「ウン」
「チクショウ、嫌すぎる!」
「まあアタリもあるんだけどさ」
「アタリ?」
青井はそれ以上説明しなかった。指1本分だけ襖を開けて、閉めてを繰り返す。アタリを引こうとしているのだろう。
つぼ浦はまだ心臓がドキドキしていたので、青井の背中にベタっと体重をかけてくっついた。絹の着物はスベスベ肌触りが良くて、少しタバコ臭かった。
「お前あったか。湯たんぽよりデカくて良いわ」
「おう。南国デカだからな」
「んはは。腕頂戴、首に回してよ」
「調子乗ると絞めるぜ! さっきのお返しだ」
「グワーッ」
つぼ浦が青井の首を絞めるフリをすれば、青井はアハアハ赤ん坊のように笑った。
思った通り、もう怖さはどこかに行ってしまった 。代わりにピンク色に胸がドキドキして、好きだな、の気持ちでいっぱいになる。
「チクショウ」
つぼ浦の顔は真っ赤で、呆れるほど熱かった。
「何?」
「あ?」
「今なんて言ってた?」
「チクショウ、とうとうアオセン幻聴まで」
「おい、人を老人扱いするな」
「ふふっ。してないしてない、それはマジでしてねえぜ」
「おっ」
青井が襖の開け閉めを止めた。
「つぼ浦、星好き?」
「あー、まあ。好きでも嫌いでも……。特別な感情を抱いたことがないっすね」
「そこは素直に好きって言って!」
「嫌です」
「言えよー」
「嫌だ!」
「こいつー」
襖が開け放たれる。四角い枠に切り取られた先、夜空が広がっていた。薄いベールの雲が所々を星の光に照らされながら紐のように連なって、風の流れがよく見える。右側に何より明るい巨大な三日月が浮かんでいた。
青井がつぼ浦の手を握った。
「なら言わせてあげる」
敷居を超えた青井の髪がなびく。藤色の着物が青と黄色の夜空に馴染んでいく。頭から襖の向こうへ落ちる青井は絵画のように美しかった。
つぼ浦が気が付いた時には、致命的に体は傾いていた。青井の手を強く握った途端、底のない星月夜へ落ちる。
「ぎゃー!」
「アハハハハ! ふは、わはははは!」
必死に腕を振り回して青井にしがみつく。
「大丈夫、地面には落ちないよ」
「落ちてるじゃねえっすか! 現在進行形で!」
「んふふ、つぼ浦が慌ててんのウケんね」
「死ねーっ!」
体は雲をなびかせどこまでも落ちていく。流れ星が腕を照らしながら通り過ぎて、はるか下の街並みに消えていく。
「まだ来るよ」
青井が優しい声で囁いた。流れ星はひとつ、またひとつと増えていき、やがて数えきれないほどの光となって夜空を照らした。空気を巻き込んでキラキラ輝き、雲のベールを風の形に照らしては通り過ぎていく。巨大な糸杉に触れるか、触れないかの瞬き。
つぼ浦はその光景を見たことがあった。
青と黄色の有名な絵画『星月夜』。
「……ゴッホだ」
「そうだね」
「ここは、絵の世界なんすね」
「そう。ならここを自由に行き来する俺は?」
鬼の絵、と答える前に、青井と目が合う。星空が映りこんでキラキラと輝く、どこまでも深い瞳。海沿いの土産屋で買ったトンボ玉と同じ色。
どうしてこんなにも好きなのだろうか。
青井の色だから、でもその前に何かがあった気がする。
心の縁に、記憶に、星が流れてはじける。
「あ」
古い掛け軸だった。
つぼ浦がまだ小さな匠くんだった頃の話だ。テレビでは忍者のアニメが流れていて、囲炉裏の火がパチパチ音を立てていた。匠はいい子に静かにしていたけれど、どうしても飽きてしまった。それで、庭の片隅にある大きな蔵にコッソリと立ち入った。
蔵は薄暗くて埃まみれで、冒険の匂いがした。小さな背丈を一生懸命伸ばして開けられる箱という箱を開けていく。
最後に見つけたのが古い掛け軸だった。巻物だと思って封を解き、息を呑んだ。
それは冬の日本庭園に佇む青鬼の絵だった。瑠璃を砕いた深い青色が、雲母の煌きを乗せて宇宙のように輝いている。赤と白ばかりのぼやけた風景に、その鬼だけが輪郭を保ってジッとこちらを見ている。爛々と輝く、獲物を捕らえた捕食者の目だ。
匠はなんだか胸がドキドキしてしまって、掛け軸をパッと置いた。手汗を服の裾で拭いて、入れ物の上蓋を見る。埃をかぶった紙の箱には、達筆な草書のタイトルがつらつらと書かれていた。連綿と連なる墨は、平仮名を習い始めたばかりの匠にはこう読めた。
『ら……た、だ? お。らだお』
「……鬼の絵、青い、鬼の『らだお』」
光でいっぱいの青い目がゆるり細くなる。
「正解!」
黄色い月が二人を包む。
4
椿が重たげに俯いて、遠くで屋根から雪の落ちる音がした。白い庭には二人の足跡が刻まれていく。
「アオセン、俺のこと追って街に来たんですか」
「そう。まあ、追ってというか先回りだけど」
嬉しいやら恥ずかしいやらで、つぼ浦は「ははは……」と顎を撫でながら笑った。
「つぼ浦」
「なんすか」
「もう置いていけないでしょ。お前が名前を付けた、お前だけの青鬼だよ」
「うす……」
「反応悪!」
「や、はい、嬉しいです」
「でしょー。ねえ、ずっとここにいてくれる?」
「絵の世界に?」
「そう。ご飯は美味しいし、歳はとらないし、つぼ浦が望むならほかの人も招ける」
「あー」
良いな、と思った。絵の世界は退屈知らずで、きっと友人たちも楽しんでくれる。おとぎ話のように、永遠に幸せになれるのだろう。警察ではなくなってしまうけれど。
つぼ浦はしばらく考えてから、青井の目を見て「あっ」と言った。
「帰りたいです。てか帰らなきゃ」
「嫌だった?」
「ちょっと」
「マジか。ごめん」
「嘘です」
「おい謝罪返せ」
「あの、あれなんすよ。お土産アオセンに買ってて」
青いトンボ玉のことだった。
「……渡したいから帰るってコト?」
「そうです。あと、あのー」
「ウン」
「多分、アオセン俺と同じ気持ちなんじゃねえかなって」
つぼ浦は立ち止ってギュウとこぶしを握った。意地で顔だけは上げ続けるが、その顔は雪も解けるほど真っ赤だった。
「俺のあと追っかけて、閉じ込めて、ずっと一緒にいたいって、多分そうだと思うんすけど」
「何?」
「そういうの、好きって言うんですよ」
「……人間はなんにでも名前をつけたがるね」
つぼ浦の熱がうつったように、青井の頬が赤く染まる。
「おう。なんで、次の旅行は一緒に行きましょ」
「うん。置いてかないでね」
「いや遅かったら置いていきますけど」
「おまえー!」
「ワハハ、忖度はしねえぜ!」
つぼ浦は雪に足を沈めながらドタバタ駆け出した。白い息がたなびいて消えていく。青井がその背中に体当たりでぶつかって、二人は棟門を超えた。
笑い声だけが庭に残った。
参考
ルネ・マグリット『ゴルコンダ』(1953)
フィンセント・ファン・ゴッホ『星月夜』(1889)
作者不明『和花鬼図』(年代不明)
本作の表紙はCC0画像を加工し作成しました。また、このお話はフィクションです。現実のありとあらゆるものと関係ありません。
コメント
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お久しぶりです。新作の通知に飛んできました。思いっきりファンタジーに振り切った🟦🏺も素晴らしかったです。🏺があまりにも純愛過ぎる。 日本画には明るくないですが、何となく日本版Ib見たいだなと思いました。魂ネタも健在で歓喜。星月夜、絵画の中で一番好きなので表紙だけで嬉しくなってしまった。青色自体も好きです。ガラス玉って何であんなに心惹かれるんでしょうか。