居酒屋を出ると、初夏の湿った風が、埃っぽい街の匂いを際立たせていた。
篠崎はいつの間にか火をつけていた煙草の煙を吐き出すと、少し前かがみの由樹を振り返った。
「お前、帰りは?」
「あ…タクシーで」
言いながらバッグで前を隠す。
篠崎はその動作を気にする様子もなく、夜の空を見上げた。
つられるように由樹も空を見上げた。
まだまだ明るい夜の街のネオンに遮られて、晴れているはずなのに、星は見えなかった。
ふと、今日、契約書にサインをしてくれた女性の顔が浮かんだ。
今、彼女は何を思っているだろう。
自分から一世一代の買い物をしたこと、後悔していないだろうか。
「幸せになってもらいたいな…」
思わず呟いた言葉に篠崎が振り返る。
「誰に?」
「……あ、今日契約していただいた女性と、その子供たちに…」
「お前、母子家庭だもんな」
「…………」
由樹は驚いて上司の顔を見つめた。
秋山が話したのだろうか。
「だからお前の話すこと、きっとあのお客さんに刺さったんだと思うよ」
篠崎が微笑む。
「…………」
その先ほどまで、自分の口内を犯していた唇を見て、由樹は胸が締め付けられた。
自分には、好きだという気持ちはないと。
恋愛感情はないと。
さっき自分が発した言葉を、今すぐ取り消したい。
こんなに。
こんなに……。
「……お前にはお客さんの前に幸せにしなきゃいけない女性がいるけどな」
夜風が篠崎が持つ煙草から白い煙をさらっていく。
「就職して1年たてば、とりあえず住宅ローンの仮審査は通るから。さっさと家建てたほうがいいぜ」
言いながら篠崎は歩き出した。
だがそれは篠崎が車を停めたコインパーキングの方向ではなかった。
「……篠崎さん、どこに?」
言うと彼は振り返った。
「近場に泊まる家があるから、そこ行くわ」
―――泊まる家………?
由樹は呆然と口を開けた。
「お前も気を付けて……」
その時篠崎のスマートフォンが鳴った。
「あ、俺。……ああ、終わった。………今からそっち行くから。鍵開けといて」
言いながら由樹に向けて手を上げる。
慌てて会釈をすると、微笑みながら踵を返した。
「別に寝ててもいいよ。……起こすけどな」
笑いながら、足を軽くクロスしながら、よろけて歩いていく。
その後ろ姿が、薬屋がある角を曲がっても、由樹はそこから動けなかった。
彼は今から、女を抱くのだろうか。
ついさっき、由樹にしたように熱い唇を押し付けて。
強引に舌を差し込んで。
力強い腕で抱きすくめながら。
そしてそれ以上のことを……。
涙が滲んできた。
(……俺は、どうして男なんだろう)
由樹も踵を返し、街のネオンに背を向けた。
(……どうして俺は、ゲイなんだろう)
歩いて帰るとゆうに1時間半はかかった。
しかしどうしてもタクシーで帰る気になれなかった。
歩くことで、回る視界ともつれる足をどうにか前に出すことで、思考回路を停止させていた。
篠崎の顔が浮かばないように。
今夜のキスのことを思いださないように。
アパートについた。
入り口の切れかけた蛍光灯が点滅している下に誰かが立っていた。
白いワンピース。
長い髪。
別に幽霊でも構わなかった。
由樹は臆することなく、その影に近づいていった。
「…………」
口を開けた。
そこには雨の気配を含んだ湿気で、髪の毛をぼさぼさにした千晶が立っていた。
「なんで……?」
今日は初の受注をもらった祝いで、会社の人と飲んでくるとメールを送っていた。
彼女からも、
『わかった。おめでとう!!お祝いは後日に!』と返信が来ていたはずなのに―――。
「初受注、おめでとう」
千晶は立ちっぱなしで疲れたのか、少し足首を回しながら微笑んだ。
「料理もプレゼントもないんだけど、直接お祝いだけ、言いたくて」
由樹は持っていたバッグを思わず落とした。
彼女の小さな体に駆け寄り、力いっぱい抱きしめた。
「……由樹?」
耳に心地よい千晶の声。
フローラルな香り。
骨が細く柔らかい体。
どうして自分は、こんな素敵な彼女に夢中になることができないんだろう。
どうして好きなのに好きだと言うことを許されないような、無謀な恋をしてしまうんだろう。
「千晶……!」
顔を埋めた彼女の肩から、優しい笑い声が聞こえる。
「もしかして、すごい酔っ払ってたりする?」
酔っ払っている。
でも酔っ払っていなければ……。
また自分はうやむやにして。
楽な方へと逃げてしまう。
由樹は顔を上げた。
(やっぱり……)
その大きな緑色の瞳が潤んでいる。
千晶は頭のいい人だ。勘のいい女性だ。
言葉と態度では笑っていても、本当は気づいている。
自分が言葉にしてあげなければ、ずっと彼女は、気づかないふりを続けることになる。
それは自分のためにじゃない。
……由樹のために。
「……千晶」
由樹は一歩退き、千晶の真正面に立つと、彼女に言った。
「……俺、好きな人ができた」
千晶の体がピクリと震える。
「俺と……」
目頭が熱くなってくる。
ごめん……。
ごめん……。
ごめんごめんごめんごめん……。
いくら吐き出しても足りない贖罪の言葉が、涙に形を変えて、溢れ出してくる。
頭を下げる。
アルコールを浴びるように飲んで、1時間半の道のりを経て、足元がふらつく。
それでも両の踵で爪先で、踏ん張り彼女に頭を下げ続けた。
その革靴を囲むようにアスファルトに丸い跡がついていく。
雨だと気づいたのは、アスファルト全体が黒く染まってからだった。
酔っているからか、濡れることに冷たさも不快感も感じなかった。
自分はどうでもいい。
一張羅のスーツも、初任給で買った革靴も、どうでもいい。
でも千晶が……。
慌てて顔を上げると、彼女は長い髪から水を滴らせながら、由樹の頭上に傘をさしていた。
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