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放課後の空は、晴れているはずなのに、どこかくすんで見えた。
太陽の光が、まるで窓ガラス越しのように白くぼやけていて、肌に落ちるはずの温もりが届いてこない。
楡野奈々は、赤井亮太との待ち合わせ場所へ向かっていた。
駅裏の旧倉庫――かつて繊維工場として使われていた廃墟で、今は誰も近寄らない。
「自殺者が出た」とか、「夜中に誰かが泣いている」とか、そういった類の噂が、静かに街に根付いている場所だった。
到着すると、倉庫のシャッターは半分だけ開いていた。
奈々は一瞬、躊躇したが、中から声が聞こえた。
「……こっちだ、楡野さん」
中は薄暗く、天井からは剥がれた鉄骨がむき出しになっている。
埃と鉄の匂いが充満していて、そこに立つだけで、過去に何かが“腐って消えていった”ような気配があった。
「亮太……」
「来てくれてありがとう」
亮太は壁際に座っていた。彼の足元には、大きな紙袋と数冊の古いノートが積まれていた。
「これ、全部……うちの母さんが倒れる前に残してたものなんだ」
ノートの表紙には日付が書かれていた。5年前、そして6年前。事故があった時期と重なる。
「母さんは、昔から“視る”ことができたらしい。普通の人には見えないものが。病院じゃ“統合失調症の疑い”って言われてたけど、俺は……違うと思ってる」
奈々は無言で頷いた。
母・真奈の目に宿っていた“何か”を思い出していた。あの、空っぽなのに全てを見透かすような視線。
「この日記の最後のページを、見て」
奈々はノートを受け取った。最終ページには、震えた文字でこう記されていた。
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『灰の女は、“模す”。
記憶を食べ、姿を真似、やがて心を奪う。
灰が降ったら、それは始まり。
鏡に映らぬ母は、もう母ではない。』
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「……“模す”?」
「コピーするってことだよ。形だけを真似て、本物のように振る舞う。“真似”じゃなくて、“模す”。もっと根深い。人の中に入り込んで、誰かになりきる。完全に」
奈々は寒気を覚えた。
5年前、事故の直前。母が「おかしい」と感じた数日間の記憶が、ふと甦る。
妙に無口になった母。
好物だったはずの紅茶を突然嫌がった母。
そして、夜中に一人で鏡をじっと見ていたあの姿。
「……あの人、本当に……母じゃないのかも」
奈々の声は震えていた。
亮太は静かに頷いた。
「うちの母さんが倒れた日の前日、鏡の前で『あれ、これ……私?』って、ずっと呟いてた。
“灰の女”は、鏡に映らないんだ。代わりに、**“誰かの記憶にある姿”**が映る。
母さんは、自分の顔が自分じゃないって、最後に気づいたんだよ」
言葉が冷たく胸に刺さる。
「じゃあ……私が見てる母も……」
「違うかもしれない」
倉庫の天井から、コンクリ片がぱらぱらと落ちてきた。風が、どこかから吹き抜けていった。
奈々はその風の中に、かすかな焦げた匂いを感じ取った。
それは、事故の日、車内に立ち込めた匂いと同じだった。
「なあ、奈々……“灰の女”が現れる前、必ず“灰が降る”らしいんだ」
「……え?」
亮太は袋の中から、ジップロックに入った何かのサンプルを取り出した。
細かい、灰のような粒子。だが普通の灰より黒く、粘性がある。
「これ、俺の母さんが倒れた病室の窓枠に落ちてた。分析に出しても、“正体不明の有機質”。
焦げた皮膚に近い成分って言われた」
「そんな……」
「君の家、最近、灰が降ってないか?」
奈々は、言葉を失った。
そういえば、昨日、風が強い日だった。
ベランダの手すりに、黒い粉のようなものが溜まっていた。掃除する前に、妙に手がヒリヒリしたことも思い出す。
あれは、ただの土埃ではなかったのかもしれない。
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その夜。
奈々は意を決して、母のいる部屋に忍び込んだ。
祐介と羽奈が寝静まった深夜、廊下を足音を殺して進む。
母は、ベッドの上に静かに座っていた。目を開けている。
が、何も見ていないような空虚な目だった。
その前に、古い姿見の鏡が置かれていた。
奈々はゆっくりと、それに向き合った。
鏡には、自分の姿が映っている。
そして――母の姿も。
しかし、その姿は、数秒遅れて動いた。
鏡の中の母は、奈々が一歩動いたあとに、顔だけをカクンと傾けた。
奈々の喉から、声が漏れた。
「……やっぱり、あなたは……お母さんじゃない」
その瞬間、鏡の中の“母”が、にたりと笑った。
それは、今まで奈々が一度も見たことのない“真奈の笑い方”だった。
口が、耳まで裂けるように歪んでいた。