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『お前、本当に家が好きなのか?』
篠崎の声が、言われた言葉が、何度も頭の中で回っている。
林は事務所の無機質な天井を見上げた。
秋山を乗せた篠崎の車を見送り、買ってもらった缶コーヒーを飲み終わって展示場に戻ると、新谷たちはまだアプローチ練習をしていた。
手持無沙汰になり、だからといって回る現場があるわけでもなく、林が席に着いた途端、室井が飛び込んできた。
「林!今、時間あるか?」
「え、はい」
思わず頷くと、
「今夜から明日にかけて、台風並みの強風が吹くらしい。すでに風が強くなってきている」
「―――え」
防音性の高い窓ガラスのため、外の様子に気づかなかった。
林は窓の外を見た。
「今工事課のやつらが片っ端から現場の養生してる。お前も手伝えるなら来てくれ」
「はい!」
慌てて立ち上がり、作業用のジャンバーを着た。
「……あ」
展示場に続くドアを振り返る。
室井が展示場を見る。
「……紫雨は新人とアプローチ練習だろ?あいつの現場もやってこよう。ほら、早く!」
「―――はい!」
林は頷くと、室井の後に続き、展示場を飛び出した。
◇◇◇◇◇
「あ、林さんも来てくれたんすかー?」
足場から屋根に上がると、ヘルメットを装着した猪尾が振り返った。
「らしくないすねっ」
―――どういう意味だよ。
状況は切迫しているのに、いつも通りの気の抜けた声と、失礼な言葉にカチンとくる。
「俺は横断幕を外してるんで、お二人は懸垂幕をお願いします。室井さん降りて、地面に刺さっている杭を外してきてくださいー」
室井が言われた通り、デンデンデンデンと派手な音を立てて、鉄筋で組まれた足場の階段を下りて行った。
「へいっ!林さん!」
言いながら猪尾が予備のヘルメットを投げてくる。
「ヘルメットしてないで現場にいると、工事長にぶっ殺されますよっ!」
言葉とは裏腹に、ニコニコと笑っている。
現場用のヘルメット。
林も持っていたはずなのだが、どこにしまっただろう。
構造現場見学会も現場撮影も久しくしていないため出番のなかった自分のヘルメットは、すっかり姿が見えなくなってしまった。
地上に到着した室井が、刺さっている杭を抜くと、『断熱性能NO.1』と書かれた懸垂幕が風に舞い上がった。
「ははは。こいのぼりみたいですねー」
猪尾が笑う。
「ほら、林さん!捕まえてー。ぶつかったら窓ガラス割れちゃうよー」
「――――くっ!」
簡単に言ってくれるが、厚みのある塩化ビニールでできている懸垂幕は、見た目以上に重い。
必死に手繰り寄せるが、風に煽られなかなか思う様にいかない。ちょっとでも気を抜けば、細い足場から振り落とされてしまいそうだ。
だめだとは思っても、つい足場の下に目が行く。
地上から8メートル。
普段こんな高さから、真下を見ることなんてない。
高所恐怖症じゃなくても足がすくむ。
こんな強風の中で、その上、不安定な足場で―――。
もし――落ちたら……。
「はいはい。大丈夫」
後ろから手が伸びてくる。
「落ち着いてー」
言いながらあっという間に風に泳ぐ懸垂幕を捕まえると、猪尾はそれを一気に引き寄せた。
軽々と懸垂幕が屋根の上に引っ張りあげられていく。
紐のついた端を手繰り寄せると、猪尾はそれを器用にくるくると丸め始めた。
巻きずし状になったそれを、紐で足場の上に固定すると、猪尾はふうと額の汗を拭いた。
「――すごい……」
思わず呟くと、
「1年間に何回の台風が来ると思ってんすか」
そう言って猪尾は笑った。
「はい!懸垂幕、横断幕は終わったんで、今度はメッシュを足場に巻き付けてくださいー」
室井にも聞こえる大きな声で叫ぶと、猪尾は足場の階段を使わずに、鉄筋を渡って猿のようにするすると下りていった。
「――――」
すごい。
命綱をつけていても、自分にはとても真似できない。
工期が遅れたり、現場が汚かったり、時間外の作業に近所から苦情が来たりで、自分も他の営業と同じように工事課には文句しか言ってこなかったが、こうやって体を張って現場を守ってくれていたのだ。
林は口に麻ひもを咥えながら次々に足場にメッシュを巻き付けていく、年齢と勤続年数でいえば自分とそう変わらない猪尾を見下ろした。
「……猪尾さん」
林の声は暴風に吸い込まれていく。
「……家は好きですか?」
聞こえないだろうと呟いた言葉に、風下にいた猪尾は振り返った。
「え、家ですか?」
「……はい。好きですか?」
やけくそで聞いてみる。
「えー。大っ嫌いですよ」
猪尾がメッシュに視線を戻して笑う。
「建て終わるまで一瞬も気が抜けないし、イレギュラーな事件は起こるし、現場は、暖房ナシ、冷房ナシ。真夏の建て方で真っ赤に日焼けしたかと思えば、冬の建て方で睫毛凍るし。営業に比べて給料安いし、相手にするの現場のおっさんばかりで、女にモテないし。営業が調子よくサービスした皺寄せがこっちにくるし、設計は実現不可能な夢を盛り込んでくるし、良いこと1個もないんで!」
強風の中、叫ぶように答える。
「―――じゃあ……」
なんでこの仕事をしているんですか?
飲み込んだ質問に、
「あーでも…」
猪尾が答えた。
「引き渡しの時のお施主さんの笑顔は好きかなっ!」
「―――笑顔?」
「うん。その瞬間は、好きです!ちょこっとだけね!」
猪尾は足場に脚を絡ませ、不安定な姿勢のままこちらを見上げ、ニカッと笑った。
「――――」
なぜだか心臓を掴まれたように、胸が痛くなった。
この人も、同じだ。
紫雨さんや、篠崎さんや、新谷君や、金子君たちと―――。
この仕事が、好きなんだ。
じゃあ、俺は――?
俺は――。
『イグサの香りが好きなら、別のメーカーに転職してはいかがですか?』
『俺は、落ちないよ。忘れらんない人がいるんだ。わかるだろ?』
『俺さ、負けるが勝ちって、すげえ営業に当てはまると思うんだよ』
『無理だな。もうとっくに、落ちてるから』
――俺は、ただずっと……。
紫雨さんが好きだっただけだーーー。
結局、天賀谷市すべての現場の養生を終えたときには、日が暮れていた。
「お疲れさん」
室井が言いながら肩を回した。
「明日も仕事だから飲めないけど、飯くらいなら奢るぞ」
室井が誘ってくるなんて珍しかった。
しかし、今日はとてもそんな気分にはなれない。
「あ、すみません。今日は予定があって―――」
言うと室井は「そうか」と大して残念でもないように頷くと、自分の車に乗って展示場を後にした。
「――――」
残された林は天賀谷展示場を振り返った。
さすがにアプローチ練習は終わったらしく、展示場の照明は消えている。
事務所は明るいが、新谷のコンパクトカーも、金子のステーションワゴンも、そして紫雨のキャデラックもなかった。
ジャンパーの胸ポケットから携帯電話を取り出す。
着信もメッセージもない。
(紫雨さん。家に帰ったのかな。それとも3人で飲みにでも行ったかな…)
いずれにせよ今日は、林のアパートには来ない気がした。
だからと言って、紫雨のマンションに行く勇気などない。
家は好きじゃない。
自分の気持ちは、分かった。
しかしそれが導き出す結論を、出すのが怖い。
その先にあるのが、もし―――。
一番失いたくないものを失うことになってしまったら―――。
握りしめた携帯電話が震えだす。
「わ……!」
驚きのあまり落としそうになったそれを、掴み直してディスプレイを見つめる。
「―――え?」
そこに浮かび上がった名前に、林は目を丸くした。