突然わたしの前に現れたあなたは、 地獄のような日々から救ってくれた。
たとえ、この結婚に愛がないとしても たとえ、この関係が偽りだとしても
「嫌って言っても離してやんないよ」
その瞳に捉えられれば、もう―――。
「ねえ、あの子って借金しててここの給料だけじゃ足りないからって他で体売ってるらしいよ」
「え、あの体で?世の中飢えてる人は飢えてるんだね」
午後20時過ぎ。
クラシックのような音楽が優雅に流れる音が聴こえてくる場所で落ち着いた黒いシックなドレスを身に纏った女性とワインレッドのドレスを着た女性がヒソヒソと小さな声で話しているのが耳に届く。
それはきっと自分のことを指しているのであろう会話。
ううん、きっとじゃない。
100%、わたしの話。
彼女たちが話している会話の中身は半分嘘で、半分本当のこと。
18歳のわたしは親が連帯保証人になって、そのまま残していった借金……五千万円を抱えて生きている。
だけど、身体はまだ売っていないからそこは間違ってる。
まあ、もう否定するつもりもないけどね。
とんでもない負の財産を残して死んでくれたものだと思っているけれど、5年前のあの日に死ねなかった自分が悪い。
死に損ないのわたしがどれだけ嘆いても喚いても借金返済は待ってはくれないからわたしは今日も自分を奮い立たせて必死で働いているというわけ。
借金なんてなかったらわたしも放課後にクラスメイトと一緒に遊んだりできたのかなあ、なんてタラレバを思いながらせっせと手を動かす。
小さい頃はこんなことになるなんて思っていなかったから大きくなったら好きな人ができて、大好きな人と愛し愛されて生きていくのだと思っていた。
手を繋いで、抱き締め合って、甘いキスをして、とろけるような夜を重ねて。
密かに憧れていたのにこんな生活じゃそんなのは夢のまた夢の話。
でも、こんな人生でも運はいい方なんだと思う。
だって、今も毎日ヒーヒー言いながらも生活できているから。
まあ、それもこれも全部ここのオーナーであるママのおかげなんだけど。
飲食店などのバイトよりも給料が良いこの店で働き始めて早2年。
本当は18歳未満は出入り禁止なのだけど、2年前にたまたま事情を知られたオーナーであるママに拾ってもらい、ママのご厚意でこうして働かせてもらっている。
ママにはいくら感謝しても足りないほどお世話になっているからいつかわたしがこの借金を無事に返し終えた時は恩返しがしたいなぁ。
借金返すほうが優先になっちゃうけど。
そんなわたしが働かせてもらっている場所は数々の有名人や政治家、経営者などが集う会員制の高級クラブ。
毎晩のようにどこぞのセレブ達が夜の時間を楽しみにきている。
みんな楽しそうでキラキラしてるんだよ。
わたしはあの二人のように綺麗なドレスを着て、誰かをもてなすなんてことは一切なくて、ホール業務がメイン。
主にドリンクや料理の配膳、灰皿の交換、そしてお客様がお帰りになったらテーブルの上を清掃といった裏方のお仕事。
キラキラした華やかな世界で生きる人たちとはまるで違う。
でも、実際に住む世界が違うから仕方ないんだけどね。
わたしみたいなのに贅沢なんて必要ないし、きっと一生できない生活。
多額の借金を抱えている今ではもう普通の生活すらできない気がしている。
そう考えるとわたしの人生はかなりハードモードで笑えてくるな。
はあ、ともう何度目かわからないため息を零しそうになった時、
「そういえば、今日はあの方が初めて来店されるらしいよ!」
先程のヒソヒソ声とは打ってかわり、興奮気味に話す声が聞こえてきた。
いつの間にかわたしの話題から変わっていたみたい。
まあ、ああやって嫌味を言われることも嫌がらせをされることも慣れているから大丈夫。
わたしはこの数年で強くなったんだもん。
こんなことでへこたれてる場合じゃない……!
ちゃんと借金を返さないといけないのだから。
借りたお金はきちんと返す。それが人として当たり前のこと。
今更、誰かを恨んでも仕方ない。
きっとお父さんもお母さんもわざと借金を作ったわけじゃないもん。
誰かのために、と思って連帯保証人になったんだよ。 結果は裏切られちゃったけどさ。
「え!そうなの!?お化粧直ししとかなきゃ」
「やだなあ。わたしたちみたいなのを御影家のご令息様が相手にするわけないわよ」
「そんなわかんないでしょ。人生一発大逆転があるかもしれないし」
キャッキャとはしゃぎながら奥のメイクルームへと消えていった二人。だけど、わたしはそんな二人のことなんてもうどうだってよかった。
―――御影家のご令息。
その言葉を聞いてどきり、と心臓が跳ねた。
瞬間、それだけが頭の中を支配してしまう。 人生で一度だけ、この目で彼の姿を映したことがある。
あれは両親の会社が倒産する前に行われた誰かの誕生パーティーに出席した時だったはず。
彼が人前に姿を晒すのはその日が初めてということもあり、誰もがどのような方なのか内心楽しみにしていた。
そして彼の姿を瞳に映した瞬間、これ以上ないくらいドクンと心臓が飛び跳ねて目が離せなくなった。
ワックスできちんとセットされた艶やかな漆黒の髪、 スッと筋の通った鼻、 羨ましくなるくらい雪のように白い肌、 どこかやる気がなさそうな二重まぶた、 その他どこをとっても完璧なその容姿。
さらり流した前髪から覗く瞳は深い闇のようで見つめられたら最後、逃れられないような圧倒的なオーラを放っていた。
なんて綺麗な人なんだろう……。
わたしはこの時初めて誰かに対して綺麗だと思い、きっと眉目秀麗というのは彼のような人のことを指すのだと幼いながらに感じた。
それにまだ彼もわたしとほぼ変わらない歳の小学生だというのにこの距離からでも格の違いを見せつけられているかのような気持ちになったのをはっきりと覚えている。
あれが経済界トップで今後を担っていく御影家のご令息。
一般人であれば、通常関わることのない人。 わたしだってたまたまこのパーティーに参加したから姿を見ることができた人。
彼はそういう特別な人なのだ、とお父さんは言っていた。
しばらくしてお父さんが御影様のお父様にご挨拶をした際に隣に立っていた彼に対して、当時小学生だったわたしは失礼がないように「初めまして、朝見と申します」と言い、ぺこりと頭を下げる。
すると冷たい氷のような瞳が数秒わたしをじっと見つめた後「初めまして、御影と申します。よろしくお願いいたします」と頭を下げてくれた。
やっぱり、礼儀はきちんとされているんだな、なんて呑気に考えていると、ばちりと視線がぶつかった。
そして、光を宿さない漆黒の瞳がすうっと弧を描いた。
その表情の変化に小学生ながらどきり、とした。
だって、あまりにもわたしが知っている“笑顔”というものからはかけ離れているように感じたから。
この人に近づいてはいけない、と心の中で警告音が鳴り響く。
幸い、すぐに他の所へ行ってしまったからよかったものの、あの一瞬だけでも瞳の奥にあるどこまでも深い闇へ誘われてしまうかと思った。
今も忘れられないほどの衝撃を受けたあの日から月日が経ち、わたしは18歳で向こうは20歳くらい。
きっと、中小企業の社長の娘なんて覚えていないだろうから万が一、顔を合わせることがあっても大丈夫。
まだ当時小学生とかだったし。
なんて、呑気なことを考えながら食器を洗う。
「いらっしゃいませ、御影様」
ママの凛とした声が裏まで聞こえてきて、彼がやってきたことを知る。
20歳に成長した御影様は小学生の頃よりもかっこよくなっているんだろうなぁ。
ただ、彼は他人の人生など考えもしない冷酷無慈悲な人間であり、平気で人を殺せるようなどこまでも恐ろしい人だと風の噂で聞いたことがある。
彼はわずか20歳という若さで代々受け継がれてきた御影家当主である証のクリスタルリングを継承したというのだからその実力は本物であり、わたしのみたいな者からしたら雲の上のような存在の人ということは間違いない。
……なんて、どれだけ彼を知ったところでわたしなんかが近づけるような人ではないし、黙って今日も働こっと。
明日は土曜日で学校は休みだから単発でバイトでも入れようかな。ここは夜だけだし。
なんて考えていると、
「ねえ」
「……はい?」
突然、後ろから声が聞えてきた。
振り向くと、鋭い視線でわたしのことを見ているレオナさんがいた。
「リアさんがVIP席まであんたに酒を持ってこさせろって言ってからよろしくー」
にやり、と不敵な笑みを残して店内へと戻っていった。
「わかりました」
誰もいなくなった部屋にわたしのため息交じりの声だけが響いて空気の中に溶けた。
リアさんというのは誰もが振り向くほどの美女で、接客スキルや話術にも長けたこの店で一番人気のキャストのこと。
でも、わたしはよく思われていないようで普段は存在していないかのように扱ってくるのにこういう時だけ仕事を振ってくる。
確かに華やかなこの世界でこんな借金まみれでろくに可愛くもなくて話術もないわたしなんて場違いだというのはわかってる。
でも、わたしだって好きでやってるわけじゃないのに……。
ううん、わたしの努力が足りないからダメなんだ。
もっともっと頑張っていつか認めてもらえるように頑張るしかない。
弱気になる心を奮い立たせ、注文の入ったお酒の銘柄を見て目を見開いた。
そこに書かれていたのはこの店で一番高いシャンパンだったから。
一晩でこの値段……すごい。
いつもなら高額のシャンパンが入ると、ベテランの黒服さんが持って行くけれど、今日はリアさんの指示ということでわたしが持って行かなくちゃいけない。
正直、気が重いし行きたくない。
もし、落として割ったなんてなったらシャレにならない。 それこそ、落としたシャンパン分の借金も加算されてクビになってしまう。
それだけは何とか避けたい……。
頑張れ、頑張るんだ、わたし……と何度も自分に暗示をかけて指示されたVIP席へと向かった。
◇◆◇
―――コンコンコンッ。
「失礼いたします」
震える手でドアを開けた先にはリアさんと他2名のキャストと取引先であろうスーツを着た中年の男性と数年前に見た時よりもさらに美しさと気高さに磨きのかかった彼―――御影様がいた。
やっぱりかっこいいなぁ……。目の保養。
整った綺麗な顔をちらりと盗み見ながらわたしはリアさんの隣に移動し、地面に左膝をついた。
御影様の隣には彼の秘書かボディガードかはわからないけど御影様と同じ年頃の男性がニコニコと愛想のいい笑みを浮かべながら座っていた。
「ご注文いただいたドンペリゴールドになります」
両手でお酒を持ち、落とさないように慎重にテーブルの上に置く。
ふぅー、なんとか落とさずに持ってこれた……。
無事に持ってこれたことにほっと胸を撫で下ろしていると、中年の男性が御影様にペコペコと頭を下げて接待をしているのが視界の端に映る。
大人の世界も大変なんだなぁ。
自分よりもはるかに年下の人をもてなすなんて。
まあ、御影様は特別らしいからそりゃあ、ああもなるか。
なんて思っていると、突き刺さるほど痛い視線を感じてチラリと目線を上げると光の届かない海の底のような深い黒の瞳と視線がぶつかった。
え、なんでこっちを見てるの?
なんかダメなこととか失礼なこととかしちゃったかな……!?
急に不安の波が胸に押し寄せてきてぶわりと変な汗が出てくる。
「で、では……失礼いたします」
この場所から逃げたくなって立ち上がろうと動いた瞬間、隣にいたリアさんが自分の足を動かした。
その足がわたしの体に当たり、視界がぐらりと揺れる。
あ、ダメだ……コケる。
そう理解しても、今更崩れたバランスを戻すことができない。
ゆっくりと倒れていく自分の体。
たった一瞬のことなのにまるでスローモーションのように思えた。
そのまま大人しく倒れていればよかったのに、どうにか転ぶことを阻止したくて手を動かしたのが悪かった。
―――パリンッ……!
部屋にお酒の入ったビンが割れる硬質な音が響く。
よろけて転んだ弾みで尻もちをついたはずなのに全然痛くないのはきっと目の前に広がる悲惨な光景のせい。
アルコール特有のツンとした香りが鼻を突く。
……わたしの視線の先でこぼれたお酒の中にビンの破片が散らばっている。
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