教室には、数学教師の声が響いていた。
開け放たれた窓からは、気持ちの良い風が吹き込み、生徒の発する気怠そうな空気を洗い出してくれる。
ホワイトボードにペンを走らせる教師。
真面目な表情で、慧は板書をしていた。話を聞きながら、教師の話を簡単にメモっていく。走り書き程度の汚い文字だが、自分で読む分には十分だった。
慧は凝り固まった肩をほぐすように、背筋を伸ばして肩を回した。
深呼吸をして、首を回す。ふと視線を感じて左後ろを見ると、美緒と目が合った。彼女は慧と視線を合わせると、ニコニコと微笑みながら小さく手を振った。
慧は気恥ずかしさから、美緒のように手を振ることはできなかた。ただ、彼女に微笑んだだけだ。しかし、美緒は手を振り返さない慧にムッとした表情を浮かべながら、なおも手を振ってくる。仕方なく、慧は美緒に小さく手を振り返すと、咳払いをして正面に向き直った。
美緒を見ているだけで、心が躍る。
今まで送ってきた毎日の生活が、色褪せた写真のようだった。美緒と付き合い始めて、まだ数日しか経っていない。それなのに、こんなにも毎日が楽しい。普段は退屈でつまらない授業も、美緒と一緒に受けていると思うだけで、これほどまでに楽しく感じられる。
梅雨が明ければ、期末試験が待っている。その時には、慧は美緒に勉強を教えなければいけない。彼女に勉強を教えるためにも、もっともっと、慧は頑張らなければいけない。
逸り、踊る心を律しながら、慧は授業に集中した。
「慧!」
三時間目と四時間目の間の休み時間、トイレの帰りに慧は呼び止められた。
「健介」
丁度、健介が教室から出てきた所だ。
坊主頭に褐色の肌。野球部に所属している彼は、慧と違って運動が良くできた。
彼は白い歯を覗かせながら、小走りに慧の元へ駆けてくる。
「おい! お前、やるじゃないか!」
太い腕を慧の首に回しながら、健介は軽いボディーブローを打ってくる。
「何がだよ?」
「あの話だよ。お前達、付き合ってるんだろ? で、どうよ! 初めての彼女は、もうヤッたか?」
「やったって、何を?」
「何をって、だから、ナニをだよ」
健介は下品に腰を動かす。廊下を歩いていた女子が、「キャッ」と小さな悲鳴を上げると、怪訝な表情を浮かべながら、慧達を迂回して通り過ぎる。
「ナニをって、健介……!」
慧は笑いながら、健介の腹筋を小突く。鍛え上げられた腹筋が、慧の小さな拳を跳ね返してくる。
「効かないな! この鍛えられた腹筋には!」
力を込め、慧は強めに拳を健介の腹筋に放つが、慧の拳は無情にも跳ね返ってしまう。
「ヌハハハハ! 筋トレ馬鹿を舐めるな!」
「笑い事じゃない、恥ずかしいから止めて」
パチッと、声と共に平手が飛んできた。
健介と、何故か慧の頭が叩かれる。
「あ、なな」
「こんにちは、慧君。健介、恥ずかしよ。声、でかいし」
六本木ななは、健介の恋人だ。
おかっぱの黒髪に、黒縁眼鏡。そばかすが特徴の女の子だ。中学の時はスマートな印象だったが、高校に入り、全体的に肉付きが良くなった。
「ゴメンゴメン、この間、話しただろう? コイツ、やっと彼女ができたんだぜ?」
「鹿島さんでしょう? 聞いたわよ。まあ、健介よりも、慧君のほうが見た目も頭も良いしね。がさつじゃないし」
「おい、お前、カレシをディスりすぎじゃね?」
「ディスってないわよ。事実でしょう? まあ、私は慧君よりも健介が好みだけどね」
言って、ななは笑う。健介も、照れたように笑う。二人は、端から見ていても本当に仲の良い、理想のカップルだった。
「あっ、いたいた、みんなして何やってるの?」
満面の笑みを浮かべ、パタパタとこちらに駆けてくるのは、夕貴だった。
「ナニをやってるんだよ」
健介は、夕貴を馬鹿にするようにイヤらしい笑みを浮かべるが、夕貴は健介の言動には慣れた物で、「はぁ?」と、眉をへの字に曲げてななを見る。
「今、慧君が彼女が出来たって話をしていたの」
「ねぇ! そうみたいね。私、驚いちゃった。何の相談もなしに決めちゃうんだもん」
「いちいち夕貴に相談が必要なの?」
「そりゃ、幼馴染みとしては、相談に乗りたいわよ。慧って、女子に免疫ないでしょう? 変な虫が付かないか心配なのよ」
「心配しすぎだろう、お前は。こいつのお母さんかよ」
「気持ち的には、お母さんよ。ポジション的にも、そんな感じでしょう?」
エッヘンと胸を張る夕貴に、健介は溜息をつきながら、慧の耳元で囁く。
「貫禄だけはな」
言われ、慧は夕貴の胸元、腰回りを見た。確かに、貫禄だけならうちの母親と同じくらいかも知れない。
「バッチリと聞こえてるし! 慧も頷かない!」
声を荒げるが、夕貴の柔らかな雰囲気はやはり壊れない。