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月詠 涼
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また不動産屋かと思ったが、表示されたのが『山中日和美』の文字だったから、信武は慌てて通話ボタンをタップした。
日和美に見本誌を渡してから一時間も経っていない。
さすがにもう本を読み終えましたという連絡ではないはずだ。
とすれば、何かあったのかも知れない。
「もしもし?」と呼び掛けながら携帯を耳に押し当ててみたけれど、ガサガサと言う音が聴こえてくるばかりで、なかなか日和美が喋ってくれないから。
「もしもし? おい、日和美! 雨、すっげぇ降ってっけど……まさか何かあったのかっ? なぁ、無事なのかっ? おいっ! 返事しろって!」
気持ちが焦る余り日和美の言葉を待ちきれずに一方的にまくし立ててしまった信武だ。
『ふぇ……っ、……し、のぶっ。あ、のねっ、車で帰っ、てたらね……、急に……すっごい雨が降ってき、たの。それでね、前がいきなり見えなくなっ、て……。わ、たしっ、すぐにスピード落と、し……たんだよ。だけど……だけど……。ねぇ……ど、しよう……しの、ぶっ。私、……私っ……』
どこか要領を得ない調子で、泣きじゃくる日和美からSOSを出された。
***
何とか日和美に場所を聞いて駆けつけてみると、現場は日和美のアパートまであと数百メートルと言った場所だった。
信武は少し広くなった路肩へハザードランプを焚いて愛車を停車すると、さっきまでの豪雨が嘘みたいに止んだ、――だけどそこらじゅう水溜まりだらけの道路を足元が濡れるのもお構いなしに水を跳ね飛ばしながら日和美の車へ急いだ。
日和美の車にたどり着くなりコンコンと窓ガラスをノックしたら、日和美が窓にしなだれかかるみたいに項垂れさせていた顔をノロノロとこちらへ向けて、ドアロックを解除してくれる。
駆けつけるまで電話を受けて五分も経っていなかったはずだ。
だけど、日和美は呆然としたままずっと泣き続けていたんだろう。
目を泣き腫らしてぐしゃぐしゃになっていた。
***
「……し、のぶっ」
信武が車のフロントドアを開けてくれるなり、日和美はシートベルトを外すことも出来ないまま懸命に信武に縋り付いた。
まだ風呂に入れていないらしいTシャツにスラックスというラフな姿の信武からは、嗅ぎ慣れた柔軟剤の香りと彼自身の体臭がふわりと香って。
日和美の動揺しまくった心を優しく包み込んでくれる。
信武にしがみ付いていてもなお震えの止まらない身体を、信武の大きくて温かい手がそっと労わるように撫でさすって。
「――何があった? ゆっくりで構わねぇから俺にも分かるように話せ」
信武が静かに問い掛けてきた。
そんな信武に応えようと、日和美は懸命に口を開いたのだけれど、出てきたのは「、っ……ぬ、が……」という意味不明な音だけで。
ちゃんと伝わるように話したいのに、思うように言葉が出てこないことをもどかしく思った日和美だ。
だけど要領を得ない日和美の物言いを、信武は微塵もイラついた様子を見せず「何のことか」と聞き返してくれるから。
日和美はひくひくとしゃくりあげながら、道路上にうずくまっていた小さな犬を跳ね飛ばしてしまったかも知れない、と泣きながら途切れ途切れ。
何とか信武に訴えた。
本当はすぐにでも車から降りて確認しないといけないのに怖くて出来なくて……。
自分がこうやってモタモタしている間にも車の下でワンコが苦しんでいるかも知れないのに……。
そう思うといたたまれない気持ちで押しつぶされそうなのに、日和美はまるで心と身体が分離したみたいに動くことが出来なかった。
そんななか、スマートフォンに搭載された音声入力操作の力を借りて何とか信武に電話を掛けたことが、日和美に出来た精いっぱいで最良の方法で――。
信武がこの場に到着してくれてからやっと。
日和美は信武にしがみ付くと言う形で初めて自分の身体をぎこちないながらも動かすことが出来たのだ。
「ど、んなに頑張っ、ても……身体、動、かなくてっ。外に出、ることさ、え出、来なかっ、たの。……も、しかしたらっ、車の下でっ、ワンちゃ、が苦しんで、るかも、知れ、な……ぃのにっ。……私、私……」
――最低だ。
泣きじゃくりながら、声に出せなかったセリフを心の中で付け加えて。
信武に懸命に訴えたら、彼がピクッと反応したのが分かった。
「し……のぶ……?」
日和美の呼びかけに「大体分かった……」とだけ告げて、日和美の腕を振り解くようにして信武が日和美のそばを離れてしまうから。
自分でも自覚していたとは言え、信武からも〝最低〟と言うレッテルを貼られたのかも知れないと思ったら、日和美は涙が次々と溢れて止まらなくなった。
不安でたまらなくて……縋るような気持ちで信武を見上げたら、「車の周り、確認してくるだけだから。お前も気になってんだろ?」と頭をふんわり撫でられた。
***
オロオロと涙目で自分を見上げる日和美のそばを離れると、信武はスラックスが濡れるのもお構いなしに日和美の車そばにひざまずいて車体の下を覗き込む。
暗くてよく見えなかったから、スマートフォンのLEDライトを灯してみると、助手席側のタイヤの下で、茶色いふわふわがつぶされていた。
雨に濡れそぼった路面のせいで血が流れているのか、雨で濡れ光っているのが判別しづらい。
信武は日和美に見えないよう小さく深呼吸をすると、助手席側に回った。
(頼むから違ってくれ)
信武だって生き物は嫌いじゃない。
自分自身、ちょっと前に可愛がっていた愛犬を亡くしたばかりでもある。
出来ればとうぶんの間、生き物の死骸なんて見たくなかったけれど、愛する日和美のためだと思ったら、自分を鼓舞することが出来た。
一度大きく深呼吸をしてすぐそばから確認してみると、タイヤ下でつぶれていたのは生き物ではなく何かの動物を模したぬいぐるみだったから。
「良かったぁぁぁー」
そのことに心の底からホッとした信武だ。
――日和美、お前が轢いたのは生き物じゃねぇよ。
すぐにそう伝えて日和美を安心させてやりたくて立ち上がったと同時、信武の足に何かがまとわりついて来た。
「――?」
ライトを向けて足元を照らせば、それは生後三か月ぐらいのよく肥えた黒い子犬で。
四つ足の先全てと、尻尾の先だけが白い毛なのが、とても目立って見えた。
「ちび、お前、どっからわいた」
――黒毛だったから暗がりに紛れて見えなかったんだろうか。
そんなことを思いながらそっと抱き上げてみると、雨に濡れそぼっているからだろう。
子犬はふるふると小刻みに身体を震わせていた。
一瞬日和美が跳ね飛ばしたと言ったのはこいつだったか?と不安になった信武だったけれど、こうして抱き上げてみた感じ、どこからも血が出ているような気配はなくてホッとする。
あちこち撫で回してみたけれど別段痛がる様子もない。
信武が子犬を抱いたまま視線を転じると、すぐそばの建物の駐車場にある看板の支柱わき。
ぐしゃぐしゃによじれたブランケットと、ドッグフードの入った器が、倒れた段ボール箱の周りに散乱して、雨に打たれてドロドロになっていた。
暗くてよく分からなかったが、どうやら背後の建物は小さな動物病院らしい。
中の明かりはおろか、外に立てられた看板の照明すら完全に消えているところを見ると、診察時間は終わっているようだ。
信武が、亡き愛犬ルティシアを連れて行っていたのは別の病院だったからここへは来たことはないけれど、おそらくこの子犬、どこかのろくでなしがそこのスタッフに見つけてもらえることを期待して捨てて行ったんだろう。
「バカが……! 無責任なことすんなよ」
思わず信武が苦々しげに吐き捨てたのも仕方があるまい。
用意されていたのは深めのミカン箱だったけれど、子犬はじっとしていられなかったんだろう。
その箱から抜け出してウロウロしていたところに、折悪しく日和美が居合わせてしまったのだ。
未遂だったから良かったようなものの、タイヤ下にいるのがこの子犬だったらと思ったら、日和美をどう慰めたらいいか信武にも分からなかった。
「……生きててくれてサンキューな」
幸い日和美が轢いたのは恐らくこの子犬と一緒に入れられていたぬいぐるみだ。
「お前は無傷……だよ、な?」
服や手が汚れるのもお構いなしに濡れた子犬をしっかり腕に抱いて撫でさすったら、まるで信武に応えるみたいに可愛い声で腕の中の小さいのが「クーン」と鳴いた。
信武は子犬を抱いたまま日和美のそばまで戻ると、「子犬、無事だったぞ」と日和美の前にプルプル震えている、黒いちっこいのを突きだして見せる。
「……本当に? でも……私、確かに何かを」
「ああ、助手席タイヤ下にぬいぐるみがつぶれてっから多分それだろ」
信武の言葉に、日和美が心底ホッとしたように脱力した。
コメント
1件
あおいです🤍今回も胸がいっぱいになりました…。 日和美さんがパニックになりながらも、信武さんに電話をかけたのが本当に精一杯のSOSで、そこに駆けつける信武さんの「大体分かった」の一言がもう、言葉じゃ足りないぐらい優しくて。ぬいぐるみだと分かって「良かったぁぁぁー」って声が出ちゃうのも、愛犬を亡くした彼だからこそのリアルな安堵で、じんと来ました。ラストの子犬との出会い、ふたりの新しい暮らしの予感みたいで、すごく好きです🌷