『これにて終幕』
目の前で牛鍋がくつくつと煮えている。春菊に白滝、椎茸、ネギ、焼き豆腐。たっぷりの牛肉。甘い出汁の香りが台所に漂う。
肉は黎夜が持って来たもの。鍋の横に桐箱があり、その中にまだまだ上等な肉がこれでもかと言うほど詰まっている。
その横に置いてある、苺に林檎。そして珍しいパイナップル。これは兄上からの差し入れ。食後に皆で食べようと持って来てくれた。
「まさか、黎夜も含めて鍋をつつくことになるなんてなぁ……」
はぁと、ため息を吐くと。
「黙れ。俺だってこんな日が来るとは思って無かった。これも全て千里様のためだ。あと、それ以上煮詰めると出汁が辛くなる。火を止めろ」
横に居た黎夜が口を挟んできて「鍋奉行か」と言いつつ、コンロの火を止めた。
黎夜は仕事帰りに僕の家に寄ったので、黒のスーツ姿をしていた。上着は脱いでいるものの、シャツとズボンの姿。姿勢の良さもあって、台所に立つと執事を彷彿させた。
「おい、澪。食器はこれを運ぶといいのか?」
「あぁ、その棚の器や。千里と兄上はもうすぐ帰ってくると思うから、先に持って行って和室に並べておいて」
今日、僕や兄上。黎夜が夜に集まれると分かれば、千里が皆と食事をしたいと言ったのだった。
そうして四人が僕の家に集まり。千里と兄上は牛鍋をほぼ作り上げると食後に、水菓子だけじゃ物足りない。
和菓子が食べたいと言い出して、僕と黎夜に牛鍋の仕上げを任せて家を飛び出していた。
もう少ししたら帰ってくるだろう。
黎夜は「わかった」と返事をして、意外にテキパキと食事の用意を手伝ってくれた。几帳面な男だと思う。
黎夜が器を和室へと運ぶその後ろ姿を見送り、なんとも平和な時間に苦笑する。
「これも全ては百合子様の計らい、か……」
苦笑すればあの二カ月前の、仙石邸での出来事が蘇る。
──僕と兄上は千里を取り戻す為に桐生家を調べた。
調べたら調べるほどに桐生家が格式ある華族の家柄。しかも黎夜は警視正。さらには親族にはごろごろと高官がいると言うのが分かった。
そんな相手に正面から立ち向かうだけ無駄。
調査の結果は、僕達に分が悪いということだけが浮き彫りになった。
それは歯痒くもあったが僕達は商人。人のツテは多くあるのだ。分が悪ければ、分が良い立ち回りを探すだけ。
そうして桐生家への足掛かりになるものをと、調べて分かったのが。侯爵家・仙石百合子様によるお茶会。
それは外部の人間を呼んでの催しもの。
華族や庶民なども関係ない。百合子様の興味さえ惹ければお茶会への参加が許される。しかも毎回、優秀な芸を披露した者には褒美を与えると言うことを知った。
ここに辿り着くまで一カ月ほどは掛かった。
「ほんま、変わった人やで」
くすっと笑い、手拭いを手に持ち。コンロから鍋を外す。
これも黎夜に持って行って貰おう。僕はその間に菜箸や匙、布巾なども準備する。
まぁ、ホンモノの傑物とはあぁ言う。百合子様みたいに変わった人のことを言うのだろう。どうであれ。
これを利用する他はなかった。
僕達はそうして百合子様へと、全ての事情を手紙に書いた。
……絶対に千里や黎夜には言えないが、僕達が送った手紙には千里に恋焦がれ。千里を奪った黎夜を凶刃に掛けかねないと、切迫詰まった内容を延々と書いた。
「老いも若きも、人の色恋沙汰は面白いからな」
そう、特に百合子様は楽しいものが好きな人なのだ。千里のこともあるが絶対に返事が来ると見込んだ。
そしてそれは読み通りすぐに返信が来て、お茶会の参加を許された。それはニカ月後に開催と知った。
これで千里に近づき、上手く褒美を貰えるなら千里奪回の足掛けとなる。
しかし──百合子様を初め。お茶会に参加するお歴々の方に芸を披露しなくてはならないのだ。
歌や踊りなどの付け焼き刃では、お目に適うはずもない。さらに言うなら、貧相な芸では藤井屋の看板にも泥を塗りかねない。
僕達は熟考して、資力と人脈を惜しみなく使い。時間も金も掛けて藤井屋に相応しい、芸を考えたのがあの奇術だったのだ。
「ようやりきったわ」
雇った奇術師達と何回も相談して、作り上げた一世一代の奇術。
二度としたくないと思いながら手を動かして、全てのものを用意し終わると、和室から戻って来た黎夜が怪訝そうな顔をしていた。
「何を笑っているんだ。よからぬ策でも練っているのか?」
「まさか。ちょっとあの時のお茶会のことを思い出していただけや」
「お茶会、か……。懐かしいな。そろそろ、あの奇術の種明かしをしてもいいだろ。あれからニヶ月も経つんだ」
すっと僕の横に立つ黎夜。
黎夜は相変わらず鋭い眼差しだったが、前のような検はない。諍いのあったことはお互いに水に流している。
「そやな。時間も経ったし、知ったところで誰にも真似出来へんしな。けど千里には秘密ってことで。思い出を塗り替えることはしたくないから」
「わかった。桐生の名において約束しよう。まずはそうだな、あの枯れ木から桃色の蝶が舞踊ったのは何故だ?」
黎夜の整った表情に興味心が広がるのがわかると、僕の口も軽やかになり。体の重心を台所へと寄せる。
「あれは事前に茶色の蝶を捕まえて、内側に桃色の箔粉を塗り付けた」
「……一匹ずつか?」
「そうや。死ぬほど大変やった」
もちろん。その工程には昆虫の専門家などを雇ったが、僕も手伝っている。その工程は今思い出しても大変だったとしか言いようがない。
「蝶の翅の色を変えても、あのように一斉に羽ばたかせて操ることは何故出来た?」
「あれは蝶の特性。低い気温では動きが鈍るのを利用して、鈍っている間に木に貼り付けた」
「そんなことができるのか」
「でっかい氷室を用意して、そこに蝶を保管していた」
ほぅと、感心したように声を出す黎夜。
そこはもっと驚いて欲しいところだ。
「なるほど。では、翅に色を付けた蝶を氷室にて保管し。事前に木に貼り付けた。それを外に出すことによって太陽の光で蝶の動きが自然と活発になり……自然と木から飛んで行くのを利用したと言うことか?」
「ご明察。そうや。あとは活発になるように、蝶が好む花蜜の甘い香りをばら撒いて行動を促した」
「それが『灰』の正体か!」
その通りだと頷いて「最後は陣幕の後ろから、協力者達が特性の大きなパーティ宴会クラッカーを一斉に鳴らした」と言うと、黎夜は瞳を丸くさせた。
「だから音がして、陣幕の後ろから花びらが舞ったのか。なんとも壮大で、手間暇を掛けた奇術なんだ」
「それぐらいせんと、千里姫様には見合わないやろ。婚約者殿?」
ふっと笑ってやる。
本当にどれだけ大変だったことか。とんでもない労力で、二ヶ月間があっと言う間だった。
このことについては三日間ぐらい、ずっと喋っていられる。
兄上との入れ替えの奇術もどれだけ練習したか。
僕の目の色だけは誤魔化せないからそこは用意したカツラの前髪を長めにして、目元を隠したり。
僕が兄上の声真似を習得したり、いっとき。芸の練習のしすぎで、商人であることを忘れてしまいそうになったりもした。
しかし、いわぬが花。
苦労をべらべら喋るのはサマにならない。
だから誰にも言わなかったが、黎夜にはこうして種明かしをしても良いだろう。兄上も納得してくれるはず。
「──確かに千里様と百合子様に披露するのに相応しい芸当だな。褒美を与えられるのも分かる」
「褒美ねぇ……それも全て含めて百合子様の手の内かと思うけどな」
「言うな。百合子様に逆らっても良いことは、本当に何もないからな」
若干、遠い目で語る黎夜。
百合子様と黎夜はそれなりの付き合いがあるらしいから、そこは突っ込まずにしておく。
……僕も百合子様に逆らう気などさらさらない。
今回の『褒美』もとい、百合子様の采配は千里は黎夜と婚約者でいる事には変わりなかった。
しかし千里の後継人は僕達。藤井兄弟になった。
僕達の許可が降りなければ、千里と黎夜は結婚は出来ない。
千里は黎夜を拒むことを出来るがその場合は後継人、相談の上。千里が二十歳までに必ず誰かと結婚をすること。
もしくは、このまま千里が黎夜を受け入れるとなれば、千里が二十歳を迎えてから二人は結婚する──と言うことで僕達四人は了承した。
全ては千里の血を残す采配だろう。
千里も自分の中に流れるものを理解したからこそ、穏やかに百合子様の提案を受け入れていた。
そうして、話し合いの結果。
千里は先生になりたいと言う本人立っての希望があり。来年高等学校を受験する為に、月の半分を黎夜のもとで勉強をして過ごし。
残りの半分はこの僕の家で再び、藤井屋の手伝いをすると言うところに落ち着いたのだ。
黎夜の背景も全て把握して、こうして食事をする仲にもなったが、互いに協力関係を結べる間柄と言うのが正しいかも知れない。
この辺りは百合子様が穏便にと、藤井屋に大口の仕事の案件を幾つか回してくれたこともある。
黎夜は黎夜で百合子様のお気に入りと言う後ろ盾が知れ渡り、それなりの旨味があったらしい。
持ちつ持たれつ。それでいい。
そして今日は千里が黎夜の家から僕の家に来る日。
千里声掛けのもと、現状報告も兼ねて四人での食事会となった。
やはり、こうして思えばなんとも奇妙な縁だと微笑してしまう。
するとからりと、玄関の開く音がしてパタパタと元気の良い足音がしたと思うと、台所の入り口からひょっこりと千里が現れた。
男装ではなくて、華やかな赤い花柄の着物に髪も揃いの赤いリボンで纏めていた。
色白の肌と合いまって、明るい雰囲気を周囲に振り撒いている。
──本当に随分と女らしくなった。
千里は僕と黎夜を見つけるとにこっと笑って、胸に風呂敷を抱えてこちらへと寄って来た。
「ただいま戻りました。澪様、黎夜様」挨拶をして黎夜に近寄り、風呂敷と黎夜を見つめて口早に喋る。
「お鍋を見てくださり、ありがとうございます。黎夜様は甘いものが得意じゃないって言ってたから、黎夜様には醤油餅を。澪様にはけし餅を買って来ました。あとで皆様で食べましょうね」
千里は他にも臣様は最中、自分にはニッキ餅を買って来たと笑う。
その笑顔を見て良かったと思う。僕はこんなふうに千里が笑っていればいい。
いつかの雑木林で見せた、唇に血を滲ませながら悲壮な表情を見せた千里など二度と見たくない。
「千里様。ありがとうございます。鍋も出来ていますので食べましょうね」
僕のときとは違って穏やかな物言いと表情の黎夜。本当に分かりやすい。それだけ二人の関係は良好なのだろう。それもまた、良いことだと思っていると兄上も顔を覗かせた。
「澪。今、戻った。あぁ、牛鍋のいい匂いがするね。美味そうだ。俺は手を洗ってくるからその間に黎夜、早く部屋に運んでくれ」
戻った兄上に軽く手を振ると、横で黎夜が「俺に指示をするなっ」と言いつつ。牛鍋をキリキリと運び出して行く。
その様子を千里が見て「なんだかんだで、黎夜様は臣様と仲良しですね」と笑っていた。
きっと歳も同い年で、どちらも物怖じしない性格。それが噛み合ったのだろうと僕は思っている。
千里は和菓子の包みを机の上に置いて。チラッと僕を見てぎこちなく目線を逸らした。
「わ、私も手を洗わなければ。そうだ。えーっと、和菓子屋さんに聞いたのですが、この近くにカフェが出来るそうですよ。楽しみですね」
えへへと、笑いながら台所で手を洗う千里。
千里は僕と二人きりになれば、こうして他愛のない会話を千里から切り出すようになっていた。
沈黙を避けているかのような、ずっとこんな調子だった。
以前は僕と二人っきりになって、沈黙があっても千里はそれを受け入れていたと思う。
今の状況が悪いと言うわけではない。
ほんの少し、千里なりに僕への線引きをしていると感じていた。
それもそのはずかと、百合子様のお茶会のとき。千里は自分の気持ちを百人一首で返歌した。
それは恋を忍ぶ歌。
その意味を後で理解した僕は何も言うまいと思った。
十六の少女が恋の為に命を断ちたいと思った。
千里が秘めたいと願った。
それを僕が暴くのはあまりにも無粋だろう。だから、兄上も黎夜も千里に問うようなことはしなかった。
何より千里は最初、僕の身を案じて黎夜の指示に応じた。
その気持ちを汲み取ってやるべきだ。それに僕だって後継人と言う立場に了承をしている。
柔らかな千里の心に触れてはみたいと思うが──。
水の音に紛れて、流されて行くほどに小さく呟く。
「それはせめて千里が二十歳になる直前、かな」
それでいい。きっと。
僕の中にも歳の差と言う迷いもある。
僕の気持ちより、千里には教師になりたいと言う夢がある。それを応援してやりたい。
千里の夢が叶い。千里が決断するとき。また互いに見えてくるものあるだろう。
「もしくは、何かきっかけがあれば……とか」
声の調子を抑えずに、出てしまった言葉に千里が反応した。
「澪様、今なにかいいましたか?」
きゅっと蛇口を閉めている千里に手拭いを渡してやる。
手の雫を拭き取り、きょとんと首を傾げる千里。
「いや。なにも。新しいカフェ楽しみやなって思っただけや」
「ふふっ。あと一ヶ月ほどで開店だそうです」
「じゃ、開店したら行ってみよか。結局バタバタして、心斎橋のカフェには行けず仕舞いやったから……って、千里は皆で行った方がええかな」
そうだろ? と、千里を見れば千里は顔を真っ赤にして俯いた。
「私は……皆と一緒じゃなくて、澪様と二人の方が……行くと約束したのは澪様が最初だったし……」
手の中で手拭いをもじもじとさせ。
小さなその声を聞き捨てるには愛らしすぎた。
つい千里の顔を覗き込んで、ニヤッと笑ってみた。
「千里は僕と二人気きりの方がええ?」
「っ! そ、それは……っ」
瞬間、千里は驚いた猫のように瞳を丸くしてから目を泳がせた。
「ま、また私をからかっているのですねっ。み、澪様が子供の私と一緒に行っても仕方ないですもんね。うん。皆様でいきましょう。きっとそれが良いです。変なことを言ってすみませんでした。さぁ、ご飯を食べましょう」
くるっと僕から背を向けるその刹那。瞳に翳りが見えた気がした。
それはあの、雑木林で別れを告げられた時の瞳の色を彷彿させて──と思った瞬間には、体が自然に千里へと動いていた。
台所から千里が出ようとする前に、後ろから千里を抱き締めてしまった。
やってしまったと思った。
まさかコレがきっかけなのかと、自分自身に驚くがそれも束の間。
鼻先に千里の甘やかな香りがして、僕の腕の中に収まる千里の体はあまりにも華奢。
まるで華だと思うと、先程考えていたことは消え失せ。口からするりと言葉が出ていた。
「僕は千里を子供とはもう思ってない。今度、必ず二人で行こ」
「!」
驚き身を固くする千里のその耳に囁く。
「これは秘密な」
抱き締めた千里華をそっと離すと、千里はととっと前に進んでから顔を真っ赤にしていた。
「み、みみ、お様っ。じょ、冗談が過ぎるのではっ!?」
「冗談でこんなことするか。それとも今のじゃ不服か。最近の女子はませてるしな」
千里の赤い顔を見つめる。
気恥ずかしさはあるが、それを悟られないようにさらりと喋る。
「台所で誘うのは色気に欠けるから、やり直せってことか。分かった」
「そ、そうじゃなくて!」
分かっている。千里はそんなことを思わない。千里の反応を見ていると、どうしてもこう言う態度を取ってしまいたくなるのだ。
さて、どう切り替えそうかなと思っていると。千里がきっと僕の瞳を見てきた。
「冗談じゃなかったら、そう言うことはちゃんと。私の顔を見て言って下さい。澪様がどんな顔をしていたか見たかったです」
凛とした態度に、僕の方が背筋が伸びる気持ちだった。
千里と名を呼ぼうとしたら、和室から僕と千里を呼ぶ兄上の声がして千里はハッとして「澪様の意地悪」と言ってから、手拭いを持ったまま千里はぱっと和室に向かった。
その去り行く小さな背を見ながら。
──意地悪をしたくなるのは千里だけ。
抱き締めたくなるこの想いも千里だけ。
それを人は恋と言うのだろうと、やっと自覚する。
まさかこんな場面で自覚するとは。きっかけも何も──千里への想いはあったのだ。
恋とは突然の嵐のようだと、青くさいことを思ってしまう。僕もまだまだ。
深く深呼吸する。
「……あとで、ちゃんと言わなアカンな……」
呼吸を整えて。
次は真正面。抱き締めながら言ってやろうと思うのだった。
完