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しばらく、お互いに口を開くことがないまま、
時間だけがゆっくりと過ぎていく。
樹音くんの胸に顔を埋めると、
さっきまで早かった鼓動が、少しずつ落ち着いてくるのがわかる。
耳に当たる規則的な音が、
「ここにいていい」と何度も繰り返してくれているみたいで。
背中に回された腕は、
逃がさないように、強く抱きしめられている。
けれど乱暴じゃなくて、
確かめるみたいに、ゆっくりと背中を撫でてくれる。
その一つひとつの動きが、
言葉にしなくても「大丈夫だよ」と伝えてくるみたいで、
胸の奥がじんわり熱くなった。
「……もう大丈夫だから。
ここにいる理由も、〇〇のことを守る理由も、
全部ちゃんとあるから。」
耳元で低く囁かれて、
思わず息を呑む。
理由なんて、
そんなもの考えたこともなかった。
ただ一緒にいたい。
ただ離れたくない。
それだけで十分だと思っていたのに。
その一言で、
ずっと張り詰めていたものが、音を立ててほどけた。
力が抜けて、
身体の奥から支えが消えていく。
樹音くんに体重を預けても、
何も言わず、当たり前みたいに受け止めてくれる。
それが、
胸が苦しくなるほど嬉しかった。
「寒くない?」
そう聞かれて、
小さく首を横に振る。
この距離が、
この温かさが、
失われないことが、なにより嬉しくて。
離れることを想像するだけで、
胸がきゅっと縮こまる。
『……もう少しだけでいいから、
抱きしめてほしい……です。』
自分でも驚くくらい、
素直な言葉がこぼれ落ちた。
わがままかもしれない。
困らせるかもしれない。
そう思ったのに。
「ずっとこのままでもいいよ。」
即答だった。
「寂しくなったら、いつでも抱きしめるし、
もう離れないから。」
その言葉に、
胸の奥がじんわり満たされていく。
思わず零れた願いだったのに、
嫌な顔ひとつせず、
当たり前みたいに受け止めてくれる。
この人の優しさは、
特別なときだけじゃない。
こうして何も言わずにそばにいてくれるところも、 迷いなく抱きしめてくれるところも。
その全部に、
きっと私は心を奪われたんだと思う。
胸に顔を埋めたまま、
そっと指先に力を込める。
——もう離れない。
そう信じてもいいんだって。
初めて、
心から思えた夜だった。
樹音 side
あの夜のことを、
忘れたことは一度もなかった。
仕事帰り、あの繁華街を通るたび、
雨が降っていなくても、
ふと足が止まりそうになる。
あのときの俺は、
正直、余裕なんてなかった。
気分転換のつもりで街に出ただけで、
心はずっと重たいままだった。
誰かに優しくできる状態だったかと聞かれたら、 きっと違う。
それなのに。
人の流れの中で、
あの子だけが、
世界から切り取られたみたいに立っていた。
助けを求めるわけでもなく、
泣いているわけでもなく、
ただ、雨に打たれてそこにいるだけ。
……ああいうのが、一番危ない。
理由も根拠もない。
それでも確かに、
「このままじゃだめだ」と思った。
声をかけた瞬間、
見上げてきた目を見て、
胸の奥が静かに痛んだ。
綺麗だったからじゃない。
弱そうだったからでもない。
——戻る場所を失くした目をしていた。
「大丈夫です」
そう言い切るには、
あまりにも頼りない声だった。
立ち去ろうとする背中を見て、
頭より先に身体が動いた。
手首を掴んだ感触は、
驚くほど軽くて、冷たかった。
今考えれば、
初対面でやることじゃない。
でも、
あのまま見送っていたら、
俺はきっと、
一生あの夜を引きずっていた。
「おれんち来なよ」
言葉にした瞬間、
彼女が息を呑んだのがわかった。
怖かっただろう。
疑って当然だった。
それでも、
振りほどかれなかった。
その事実が、
なぜか胸に残った。
——あの夜から。
一緒に過ごす時間が増えて、
笑う顔も、泣きそうな顔も、
少しずつ知っていくうちに。
ようやく、
あのときの行動に、
言葉が追いついた。
俺は、
助けたかったんじゃない。
選びたかったんだ。
誰にも選ばれず、
雨の中に立たされていたあの子を。
ここにいていいって、
そう言える場所を。
もしあの夜、
声をかけていなかったら。
きっと今も、
どこかで「大丈夫です」って言いながら、
ひとりで立ち尽くしていた。
……そんな想像をするだけで、
胸の奥が締めつけられる。
だから。
あの声かけは、
衝動でも偶然でもない。
あれは、
俺が初めて「逃げなかった」夜だった。
そして同時に、
この先も離れないと、
静かに決めた瞬間だった。
『樹音くん……?』
声をかけられて、
はっと現実に戻る。
同じ繁華街。
同じネオン。
でも、
あの夜とは違う。
隣にいる人が違うだけで、
景色はまるで別物だった。
「雨、降りそうだね。」
少し立ち止まって、
空を見上げる。
『あのときも、こんな日だったな……。』
同じように空を見上げながら呟く〇〇を、
横目で見る。
少し目を細めたその表情は、
どこか懐かしくて、少しだけ切なかった。
『あのとき、
樹音くんがいなかったら……
わたし、どうなってたんだろう。』
そう言う〇〇の手をそっと取って、
離れないように指を絡める。
「どうなってたんだろうね。」
一息ついてから、続けた。
「でも今は一緒にいる。
それだけでいいでしょ
それに……
あのときおれがいなくても、
きっとまた見つけてたと思うよ」
「こうして出会って、
一緒に生きてるの、
運命みたいなもんだから。」
そう言うと、
〇〇は少しだけ微笑んで、
『じゃあ、
もしわたしがいなくなったら、
また見つけてくれますか……?』
繋いだ手に、思わず力がこもる。
「いなくならせないよ。」
不安を断ち切るみたいに言った。
「不安になったら、ちゃんと伝えればいいし。
おれ、〇〇が思ってるより愛重いから。」
「いなくなるなんて
考えたくもないし、考えない。」
そう言い切ると。
『わたし、めんどくさいよ。
たぶん、すぐ不安になるし……。拗ねるし。』
『それでもいっしょにいてくれるの…?』
「うん、いいよ。 」
即答だった。
「どんなところも〇〇だから。
めんどくさいところも不安になるところも全部すきだよ。」
「だから、
余計なこと考えないで、
おれと一緒にいればいいの。」
そう言い終える前に、
『雨、降りそうだから……
急いで帰らなきゃ!』
繋いでいた手を離して、
走り出す背中を追いかける。
「それ、照れ隠し?」
少し意地悪に言うと、
『樹音くん、足速い…… すぐ追いつかれた。』
「あ、話逸らしたね」
『もう。
わたしだって怒りますよ?』
頬を膨らませるその顔が愛おしくて、
もう一度、さっきより強く手を握る。
それに応えるみたいに、
〇〇も力を込めた。
「ごめんごめん。
ほんとに雨降りそうだし、
早く帰ろ。」
あの夜、
世界にひとりぼっちになった彼女を、
助け出せてよかった。
もう二度と、
あんな顔はさせない。
そう、
誓い直した夜だった。
_____
end