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1週間後、無事にカットのチェックに合格することができた。
本当に、このネックレスのおかげかもしれない。
「かんぱーい!」
久しぶりにミサキの家に泊まりに来ていた。
帰り道で買った酎ハイとお菓子を並べて、ささやかながらも二人で合格祝い。
そのささやかさが、今のチカにはちょうどよかった。
「ケン君に合格の報告、もうした?」
「今から!」
そう言ってバッグから携帯を取り出す。
思わず顔がニヤけてしまうのを自分でも止められない。
画面に指を走らせながら、メッセージを打ち始める。
《チェック合格しました! ケン君と、このネックレスのおかげです!》
すると、ミサキがチカの首元を指差して言った。
「それ、返さなくていいの?」
「うん……返さなきゃね。けど、もうひとつだけ――叶えてほしい願い事があるの」
今、私がいちばん強く願っていること。
その時だった。
テーブルの上に置いたケータイが、ブルブルッと小さく震えた。
表示された名前に、チカの胸がふわりと浮き立つ。
《おめでとう。近いうちに、合格祝いとモデルのお礼も兼ねてご飯でも行こうか? 3月2日の21時くらいからはどうかな?》
その一文だけで、笑顔が込み上げる。
晴れた空のように、チカの表情がぱっと明るくなった。
《ぜひ! 私も大丈夫です!》
すぐに返信を送ると、間もなく返事が届いた。
《じゃあ、21時に吉祥寺駅の公園口で待ち合わせしよう》
《楽しみにしてます!》
ケータイをそっと閉じて顔を上げると、ミサキはすでに寝息を立てていた。
起こさないようにそっと部屋の明かりを落とし、チカも布団に入る。
最近は、なかなか寝つけない。
でも、それが嫌というわけではない。
胸の奥がぎゅっと締めつけられるようなこの感じ――
不安と期待が溶け合うような、この感情の正体を、私はもう知っている。
ときどき、根拠のない不安に襲われることもある。
それでも、今はこの感情ごと抱きしめていたいと思う。
温かくて、少し苦しくて、でも確かに“誰かを想っている”という証だから。
心のどこかで、それを愛しくさえ感じている。
そう思いながら、チカはゆっくりと目を閉じた――。
【2006年3月2日(木)】
いつもより少しだけ早く営業が終わり、昼食を取れていなかったミサキがスナック菓子で空腹を満たしていると、チカがそっと隣に座ってきた。
「ミサキは、告白ってしたことある?」
「あるよ! まさか、ないの?」
スナック菓子を唇に挟んだまま、ミサキは一瞬、固まった。
「怖くて……」
「まあ、今の関係が壊れちゃうかもしれないしね。でも、その瞬間の気持ちを大事にすればいいんじゃない? 今日の気持ちって、今日しかないんだし」
“今”という一瞬は、“今”にしか存在しない。
“今”を大切にできない人間に、“未来”なんて大切にできるはずがない。
「ミサキ、いつもありがとう」
そう言って店を出たチカは、ケータイの画面を見つめながら、澄んだ夜空の下をゆっくりと吉祥寺駅へ向かう。
待ち合わせ時間の10分前。公園口に着いたと同時に、胸の高鳴りが始まった。
それを抑えるように目を閉じ、静かに深呼吸をする。
――すると、背後から優しい声が聞こえた。
「お待たせ。行こうか」
チカには一瞬、ケンが微笑んだように見えた。
些細なことかもしれない。
けれど、その微笑みがどれほど嬉しかったか。
その一瞬で、どれだけの不安を消し去ってくれたか――きっと、あなたは気づいていない。
今日、伝えたい想いがある。
ずっと心に秘めてきた、この気持ちを。
勇気の欠片が溶けてしまう前に。
今日が明日へと変わってしまう、その前に――。
すぐ目の前にある背中を見つめながら、チカは少し大きめの歩幅に合わせて歩く。
いつもは喧しく感じる街の騒がしさも、今日だけは遠くのざわめきのようで、耳に入ってこない。
聞こえてくるのは、自分の鼓動だけ。
速く強く鳴るこの音が、不安からくるものなのか、それとも幸せからなのか――それはまだ、わからない。
けれど、たった一つだけ確かなことがある。
その原因は、“あなた”だということ。
到着したのは、吉祥寺でも有名なカジュアルフレンチ「Bon Appetit(ボナペティ)」。
「ワインは飲める?」
「白なら好きです!」
「じゃあ、白にしよう。嫌いな食べ物は?」
「何もないです!」
「それなら、いくつかおすすめがあるから俺が決めてもいい?」
「ぜひ! 前からここ、来てみたかったんです!」
チカは目を輝かせながら、店内をじっくりと見渡した。
「なら、よかった」
注文を終え、グラスワインが運ばれてくると、再びケンの心地よい声が響く。
「合格、おめでとう」
そう言って微笑むケン。
ずっと願っていたその笑顔が、今、目の前にある。
またひとつ、願いが叶った気がした。
けれど、幸せを感じたその瞬間、胸の奥が少しだけきしんだ。
それは、ふいに訪れた幸福が消えてしまいそうで怖かったから。
食事を終え、二人はあてもなく吉祥寺の街を歩いていた。
「井の頭公園の桜、見に行きません? もしかしたら、もう咲いてるかもしれないし!」
「まだ早いんじゃない?」
チカの思いつきのような誘いに、ケンは苦笑しながらも足を井の頭公園へと向けていた。
夜の井の頭公園は、どこか幻想的で――
まるで、現実とは違う別の世界に足を踏み入れたような気がした。
二人はしばらく言葉もなく、その異次元のような空気に身を委ねる。
公園を囲む桜の木々は、春の訪れをじっと待ちわびているかのように、ふっくらとした蕾を枝先に宿していた。
さすがに3月の初め。まだ桜は咲いていなかった。
けれど、どうしても見つけたかった。
ただの“桜”ではない、“キッカケ”を。
もしも、一輪でも咲いている桜が見つけられたなら――
それは、あなたの心に降り積もった雪を、春の息吹がそっと溶かしてくれる気がして。
そうすれば、この想いもきっと伝わる。
だから、必死に探した。
春の訪れを信じて――。
「まだ寒いな」
ケンが身をすくめながら、そう呟いたその瞬間――
「温かいよ」
チカは振り返り、優しくそう言った。
「ほら、あそこ見て!」
空に向かって指を伸ばす。
その先にあったのは、夜の闇に浮かび上がる、一輪の桜の花。
たった一輪、静かに、けれど力強く咲くその花は、春の訪れを告げるように風に揺れていた。
“なぜ、咲いていたの?”
心の中で、チカは桜に問いかける。
まるで、自分のために咲いてくれたのだと錯覚してしまいそうで――
けれど確かに、それは“奇跡”だった。
「ケン君……」
花を見つめていたケンが、ゆっくりとチカの瞳を見つめ返す。
その真っ直ぐな眼差しに、小さな勇気が吸い取られていく気がした。
チカは瞳を閉じ、首にかかる金のネックレスをそっと握りしめ、心の奥で願いを込める。
「……あなたのことが、好きです」
なぜだろう。
声に出した瞬間、堰を切ったように涙があふれてきた。
想いを伝えられた安心感?
それとも、答えを聞くことへの怖さ?
想いがすべて届くわけではないと知っているから?
叶わぬ願いもあることを知っているから?
答えはわからなかった。
そんなチカの前へ、ケンがゆっくりと歩み寄ってくる。
街路灯の淡い光が、ふたつの影を地面に映し出す。
やがて、ひとつの影がもうひとつをそっと包み込み、影は重なった。
「こんなこと、初めてで……顔を見ては言えそうにない。だからこのまま聞いてほしい」
ケンの声が、チカの耳元で静かに響いた。
「俺も、君が好きだ」
「でも……ずっと怖かった。俺のせいで、君を傷つけてしまうんじゃないかって。苦しめてしまうんじゃないかって」
「けど君が言ってくれたんだ。“本当は自分を守ってるだけ”だって」
「そのとおりだった。俺はずっと、自分の弱さから目を逸らしていた。だからこそ虚勢を張って、わざと冷たくふるまったりもした」
「それでも、君は離れなかった。拒絶しなかった」
「……凍てつく“雪”が俺なら、君はそれを解かしてくれる温かい“春”だ」
その透き通る声が、不安の涙をそっと癒し、チカの頬に流れるそれを、幸せの涙へと変えていく。
このまま、時が止まってしまえばいい。
本気で、そう思った。
ずっと――
ずっと、あなたが好きだった。
ずっと、心でつながりたかった。
ずっと、あなたの“生きる意味”になりたかった。
こんなにも、嬉しくて、愛しくて、温かい気持ちになれるなんて。
――あなたを好きになって、本当に良かった。
「こんな俺に、もったいないくらいの言葉を……ありがとう」
ケンはチカを優しく抱きしめたまま、耳元でそう囁いた。
その声は、震えていた。
次の瞬間、ぽたぽたと頬を伝って、彼の涙がチカの肩に落ちた。
俺は、初めて誰かの言葉に“幸せ”を感じて、涙がこぼれた。
ずっと縛られ続けていた“何か”から、許されたような気がした。
それは、誰にも打ち明けられなかった重たい過去。
どうしても許すことができず、ずっと背負ってきた罪の記憶。
それを語れば、誰もが目を逸らすと思っていた。
それを知ったら、誰だって遠ざかってしまうと思っていた。
でも、君は違った。
俺のすべてを知って、それでも「好きだ」と言ってくれた。
そのたったひと言で――俺は、自分のことを少しだけ、好きになれた気がした。
君に受け入れられたことで、初めて、自分を少しだけ許せそうな気がした。
それが、どれほど救いだったか……君はきっと知らない。
まるで、君の温もりで少しずつ解けていく“雪”のように。
心の奥に凍りついていたものが、じんわりと溶けていくのを感じていた。
涙は止まらなかった。
けれどそれは、痛みの涙ではなく、あたたかな涙だった。
「ケン君の胸……あったかい」
チカはそっと顔を埋めたまま、動けずにいた。
その胸に触れているだけで、世界のすべてから守られているような、優しい気持ちになれた。
“願いを叶えるネックレス”――
もしかしたら、本当にそんな力があるのかもしれない。
だって、ずっと願っていたこの瞬間が、今ここにあるのだから。
「……これ、返さなきゃ」
チカは静かに手を伸ばし、自分の首にかけられたネックレスを外す。
そしてそっと、ケンの首にそれを戻した。
まるで、おまじないをかけるように、優しく、慎重に。
“ありがとう”――
そのひと言を、心の中で何度も何度も繰り返しながら。
人生には、いつだって二つの道がある。
「運命なんて、あるわけがない」そう諦めるように歩く道と、「これはきっと、運命だ」そう信じるように歩く道。
あの頃の私は、迷いなく後者を選んでいた。
“運命”を、どこまでも綺麗で、どこまでも優しいものだと信じていた。
信じることが、希望に繋がると思っていた。
……まさかこの先に、そんな“運命”の残酷さを思い知る日が来るとは、思いもせずに。
【2006年3月3日(金)】
昨日の夜、ミサキには「話があるから一緒に出勤しよう」とメールを送っておいた。
“3月2日”
この日が、自分たちだけの記念日になったことを伝えるために。
「おめでとう!」
ミサキの弾けるような声とともに、白い吐息が朝の空気にふわりと浮かんだ。
「ありがとう」
まるで自分のことのように喜び、いつも支えてくれるミサキに幸せな報告ができる――そのことが、何よりも嬉しかった。
その日一日、満ち足りた笑顔を浮かべたまま営業を終え、夜の練習前にジュンにも報告をすることにした。
「ここまで、色々あったもんな。……ありがとう。ケンのこと、頼んだよ」
人は生きる中で、常に“どの道を歩むか”を選び続けている。
舗装されたアスファルトの道は、歩きやすい。けれど、そこに足跡は残らない。
砂浜の道は、柔らかくて、すぐに足を取られる。でも、そこには確かに、自分が歩いた“証”が残る。
誰だって、できれば平坦で歩きやすい道を選びたくなる。
だけど、それは時に――ただの“逃げ道”かもしれない。
不器用で、遠回りで、泣きたくなるような道だったとしても。
必死に踏みしめて進んだ先には、ちゃんと“自分だけの足跡”が刻まれている。
そうして刻まれた足跡は、きっと誰かが見てくれている。
そして、その足跡が誰かの背中を、そっと押すことだってある。
――きっと。
ケンと次に会うのは、4日後の火曜日。
その日は、東京タワーへ遊びに行く約束をしている。
東京生まれなのに、彼は東京タワーに一度も行ったことがないらしい。
私は中学生のとき、修学旅行で一度だけ訪れたことがある。
けれど、あのときは昼間だったから、夜景なんて見られなかったし、そもそも夜景そのものに興味なんてなかった気がする。
あの頃の私は、まだ子どもだった。
今は違う。
夜景の美しさも知っているし、それを誰と見るかが一番大事だということも、少しだけわかってきた気がする。
本当のことを言えば、たとえ行き先がどこであっても、彼と一緒にいられるだけで、私はきっと幸せを感じてしまう。
そんな風に想像しているだけで、ふわりと心があたたかくなって、いつもより仕事も練習も楽しく感じてしまう。
単純だな、と思う。けれど、それくらい今の私は幸せなのかもしれない。
これほどまでに、次の休みが待ち遠しいと感じたのは、本当に久しぶりだった。
【東京タワーデート前日】
「明日はやっと休みだ!」
チカは嬉しさを隠しきれず、星空に向かって両手を突き上げた。
その表情はまるで、空に浮かぶ星々までも掴んでしまいそうなほど無邪気だった。
「嬉しそうだね」
ミサキのからかうような声とともに、その視線がチカの額へと移る。
「……チカ、おでこにニキビできてない?」
「えっ?」
慌てておでこに触れてみると、指先に感じる小さな腫れ。
ちくりとした感触とともに、現実が押し寄せてくる。
「うそ、なんで今日……!? 明日、デートなのに!」
「えっ、いいな! どこ行くの?」
「東京タワー! それより、このニキビ、コンシーラーで隠れるかな?」
チカは急いでポーチからミラーを取り出し、額に視線を集中させる。
不安そうな顔つきで眉を寄せ、ミラーの中の自分とにらめっこを始めた。
「ニキビがあるチカも、十分可愛いよ」
ミサキは肩をすくめて笑いながら言ったが、チカにはそれを受け止める余裕がなかった。
帰り道、チカは途中のコンビニに立ち寄り、ビタミンC入りのドリンクを手に取った。
藁にもすがる思いで、それを一気に飲み干す。
そして帰宅後――
今度は、コーディネートとの静かな戦いが始まった。
鏡の前で何度も服を合わせ、少しでも「いい感じ」に見える組み合わせを探し続ける。
気がつけば、深夜をまわっていた。
最後は、ニキビに薬を塗りすぎというほどたっぷり塗りつけて――
明日には少しでも目立たなくなってくれることを祈りながら、ようやくベッドに潜り込んだ。
【東京タワーデート当日】
お昼前に目を覚まし、ゆっくりと支度を始めた。
昨日から居座り続けている厄介者――おでこの小さなニキビは、何とかコンシーラーで隠すことができた。
けれど、その代償のように、いつもならすぐ決まるはずの髪型がどうしても決まらない。
余裕をもって起きたはずが、最後の最後で手間取ってしまい、結局10分遅れで待ち合わせ場所に着いた。
「遅れてごめんなさい!」
そう言って駆け寄るチカに、ケンは柔らかく微笑みながら答える。
「大丈夫だよ。さあ、行こう」
その笑顔はどこか穏やかで、少し前の彼からは想像もつかないような表情だった。
その些細な変化が、チカには胸が苦しくなるほどの幸せだった。
二人は吉祥寺駅から電車に乗り、東京タワーへと向かった。
到着した東京タワーは、改めて見上げると圧倒的な存在感を放っている。
中へ入ると、そこは修学旅行中の学生や外国人観光客で賑わいを見せていた。
まずは館内のカフェに立ち寄り、二人で軽く話をしながら一息つく。
そして、次はフロアを回ってみることにした。
あなたは、私の少し先を歩く。
私は、ほんの少し後ろからあなたを追いかける。
何気なく揺れるあなたの左手に視線を向けながら、心の中で“ある想像”を思い浮かべていた。
それだけで、胸の奥がくすぐったくなるような高鳴りに包まれる。
ドキドキと、心地よさ。
そんな感情が同時に存在する、不思議な時間。
ほんの少しのことで、こんなにも笑顔になれる。
これは、あなたにしか作り出せない“本当の私”なんだ。
ふと外に目を向けると、さっきまでの綺麗な夕焼けが夜の帳へと姿を変えはじめていた。
「チカ、そろそろ展望台に行ってみようか」
その声に、すぐ気づいた。
――“君”から“チカ”へ。
たった一言、呼び方が変わっただけ。
けれど、それは胸の奥をくすぐるような嬉しさを連れてきた。
幸せすぎて、頬が緩んでしまうのを隠すのに、必死だった。
展望台に到着すると、夜景にぴったりな雰囲気の音楽が、静かに流れていた。
薄暗くライティングされたフロアを、ゆっくりと歩いて周る。
時折立ち止まっては、窓の向こうに広がる光の海を眺めた。
――こんなにも綺麗だったっけ?
好きな人と見る夜景は、これまでに見たどんな景色よりも美しく思えた。
展望台は観光客で賑わっているはずなのに、耳に届くはずの喧騒さえ、今は聞こえない。
意識を集中させてしまうのは、歩くたびに、かすかに触れ合う私とあなたの手の感触だけだった。
触れるたび、胸が波立つ。
“手を繋ぎたい”――そう思っているのは、私だけ?
周りの景色も、音も、視界の端にさえ入ってこない。
ただ、あなたのぬくもりを求める気持ちだけが、頭の中を埋め尽くしていた。
「チカ、危ない」
ふと、人とぶつかりかけた瞬間――あなたの手が伸びてくる。
温かくて、やさしい手。
冷たくなっていた私の手をそっと包み込み、二つの手が自然と重なった。
心地よい温度が、指先から胸の奥までじんわりと広がってゆく。
初めて知った。
あなたの手が、こんなにも温かくて、こんなにも大きいことを。
私の小さな手を、すっぽりと包み込んでしまうほどに。
これから先も、ずっとこの手に触れていたい。
この温かさが、私だけの特等席。
「ここよりさらに100メートル高い、特別展望台があるって書いてある。行ってみようか?」
「うん! 行ってみたい!」
チカはつないだ手を小さく揺らしながら笑顔を返した。
エレベーターを乗り継ぎ、特別展望台にたどり着くと、ケンは南側の窓の前で立ち止まり、ぽつりとつぶやいた。
「……すごい。神秘的な光景だ」
「え? 何が?」
同じ景色を見ているはずなのに、チカにはケンが何に感動しているのか分からなかった。
夜の街並みが広がるだけで、“神秘的”と呼べるものはどこにも見当たらない。
なのに、彼の表情はまるで少年のように目を輝かせ、無邪気なほどにその景色を見つめていた。
そんなケンの横顔を見ているだけで、チカの好奇心がくすぐられる。
「どこが神秘的なの?」
「ほら、あそこ見て」
ケンが指差した先には、幾筋もの光が交差する道路があるだけ。
「何か……浮かび上がって見えない?」
首をかしげながら視線を向けるチカに、ケンはゆっくりと語りはじめた――。
「あの、縦に通って途中で二股に分かれてる道が外苑東通り。漢字の“人”って字に見えない?」
「……あっ! ほんとだ、見える!」
「それと交差するように湾曲してるのが桜田通り。外苑東通りと重ねて見てみると……“大”の字に見えるの、わかる?」
チカは目を輝かせながら、嬉しそうに何度も頷いた。
「その二本の道を走る無数の車の赤いテールランプと、オレンジの街灯の光、よく目を凝らして見てみて」
その瞬間、チカの全身に衝撃が走った。鳥肌が立つのを感じる。
偶然か、それとも奇跡か。
道路を走る車の赤いテールランプとオレンジ色の街灯が交じり合い、夜の街にもうひとつの“東京タワー”が、まるで浮かび上がるように姿を現していた。
これまで見たどんな夜景よりも、ずっと美しい光景だった。
東京タワーから眺める、もうひとつの東京タワー――。
それは、ケンの“想像力”というブラシで、東京というキャンバスに施された幻想的なメイクのように感じられた。
こんなに素晴らしい光景が“偶然”に見えるわけがない。
むしろ“運命”と呼ぶほうが自然だった。
あの光景を、あなたと一緒に見ることができた。
それがなによりも嬉しかった。
――“偶然”が“運命”へと変わる瞬間。
それを目の当たりにしたのは、きっと初めてだった。
人生におけるすべての“偶然”。
それは神様が与えてくれた、ほんの小さなきっかけにすぎないのかもしれない。
そのきっかけを“運命”に変えていくのは、いつだって自分自身なんだと思う。
「目に見えるものじゃなくて、“心の目”で見るものに意識を注ぐこと。目に見える景色は一時的だけど、心で見たものは、ずっと心に焼き付いて残る」
ケンの声が、胸に優しく染み込んでいった。
――やっぱり、この人は特別だ。
他の誰とも違う、独特の世界観を持っていて。
その考え方も、感性も、限りなく広くて、深い。
「そっか。……それって、天国に行っても心に残り続けるのかな?」
チカはふと、少し寂しそうに微笑んで首をかしげた。
「……もしそうなら、“永遠”って、本当にあるのかもしれないね」
“永遠”
その言葉を、俺はこれまで信じたことなんて一度もなかった。
“永遠の愛”なんて、どこか物語の中の出来事のようで、リアルに感じたことがなかった。
“天国”も同じ。
否定するつもりはないけれど、信じてもいなかった。
きっと、こちら側の人間が“救い”を求めるために作り出した、都合のいい空想の世界に過ぎない。
けれどもし仮に“天国”という場所があるのだとしたら――
俺はそこからこの景色を、君と一緒に、もう一度見下ろすことができるのだろうか。
もし、それが叶うなら。
“永遠”という言葉を、俺は少しだけ信じてもいい気がした――。
「写真、撮ろう!」
チカはケータイを取り出し、左腕を高く掲げた。
「撮るよ!」
パシャッ――。
画面に映し出されたのは、希望に満ちた二人の笑顔。
その瞬間をそっと胸に刻むように、チカは願いを込めながら保存ボタンを押した。
――いつかまた、この写真を一緒に見る時も、今日と同じ笑顔でいられますように。
「そろそろ行こうか」
その声と同時に差し出された手に、チカも嬉しそうに手を重ねる。
二人が歩き出そうとしたその瞬間、カラン――という小さな音が足元で響いた。
「あっ……ネックレス……」
チカの声が弱々しく揺れた。
落ちたネックレスを拾おうとチカがしゃがむと、繋いでいた二人の手が自然と離れていく。
その時、チカの胸の奥に不意に走った、妙な胸騒ぎ――。
これは、ただの“偶然”なんかじゃない。
ネックレスが切れたのは、何かが壊れはじめる“前触れ”なんじゃないか……。
そんな不吉な予感が、チカの背筋をひやりと這った。
「形あるものは、いつか壊れる。だからこそ、美しいんだよ。すぐ直るから、大丈夫」
そう言ってケンは、再びチカの手を包み込んだ。
その手は、少しだけ冷たかった。
すると、ケンのポケットの中でケータイが震えた。
取り出したケンは、表示された着信に一瞬視線を止め、迷うように応答ボタンを押す。
「……もしもし」
その声はかすかに揺れ、顔から血の気が引いていくのが、チカにもはっきりと見て取れた。
短い沈黙のあと、ケンは無言で通話を切る。
「行かなきゃ……」
さっきまでの穏やかな表情は、もうどこにもなかった。
「どこに……?」
「ばあちゃんのところ……」
呟くような小さな声。
それ以上の説明などなくても、チカには十分すぎるほど伝わってしまった。
けれど、心のどこかで“違っていてほしい”という願いが先に立ち、口がきけなかった。
しばらくの沈黙ののち、チカは黙り込んだままのケンの腕をつかみ、揺らすようにして問いかける。
「……何かあったの?」
「容体が急変して……意識不明だって」
その一言一言が、チカの全身を凍りつかせた。
ケンの手を強く握り、チカは無我夢中でエレベーターへと駆け込んだ。
尋常ではないほど、心も手も震えていた。
けれど、それ以上に――あなたの心はきっと、もっと怯えている。
だって、ついさっきまであんなに温かかったあなたの手が、今はこんなにも冷たいから――。
東京タワーをあとにし、二人はすぐにタクシーへと乗り込んだ。
車内でチカは、強く祈っていた。
どうか、ただの間違いであってほしい。
どうか、何も起きていませんように――。
冷たくなったケンの手を、チカは自分の両手で包み込み、温めるように握り締めた。
ただ、その手に少しでも安心を伝えたくて。
やがて、タクシーは病院の前に到着した。
ケンはまだ放心状態のまま、怯えたような面持ちでタクシーを降りた。
チカに肩を支えられるようにして、足を運ぶ。
夜の病院は、まるで時間が止まったかのように静まり返っていた。
灯りもどこか頼りなく、誰一人いないのではと錯覚するほど、薄暗く、ひっそりとしている。
病室の前にたどり着き、ケンは一度だけ小さく深く息を吸い込んだ。
ノックをする間もなく、震える手でドアを開ける。
「……ばあちゃん!」
突然、抑えきれない感情があふれたかのように、ケンは叫び声をあげ、ベッドに駆け寄った。
そして、その手を――おばあちゃんの手を、力強く握りしめた。
――“ばあちゃん”。
その呼びかけが本当に届いているのかは、わからなかった。
握った手のぬくもりが、ほんの少しでも伝わったのかも、わからない。
だがその直後――
心電計から、悲しくも無慈悲な長い電子音が、病室全体に響き渡った。
その音が放たれると同時に、病室の空気は灰色に変わった。
沈黙が広がり、時が止まったような感覚に包まれる。
「……21時56分、ご臨終です」
担当医の低い声が静かにそう告げた瞬間、ケンの身体が崩れ落ちた。
「ウソだ……ウソだって言ってくれよ……目を開けてくれよ……なあ、ばあちゃん……お願いだから……」
ベッドに縋るようにして、何度も何度も声をかけ続ける。
それでも、もう返ってくる声はない。
まるで、ただ穏やかに眠っているだけのようだった。
つい先日会いに来たときと、ほとんど変わらない表情。
いや、それ以上に安らかで、優しい寝顔だった。
現実は、あまりにも静かで、冷たくて、残酷だった。
「ばあちゃん……ばあちゃん……」
ケンは何度も名を呼んだ。
けれど、どれだけ呼んでも――あの優しい声は返ってこなかった。
ケンは、ベッド脇の冷たい床に崩れ落ちた。
それでも、おばあちゃんの手だけは、離そうとしなかった。
その手には、確かにぬくもりが残っていた。
それはまだ、幼かった頃に抱きしめられていた時と同じぬくもり――。
気づけば、病室にはもうケンとチカ、そしてベッドで静かに眠るおばあちゃんの三人だけしかいなかった。
ふと窓の外に目をやると、静かに降り始めていた雨は、今や本降りに変わっていた。
あれから、どれほどの時間が過ぎたのか。
もはや感覚は曖昧で、“夢”でも“現実”でもない、どこか異次元にいるような心地だった。
そっとケンに視線を戻すと、彼はわずかに落ち着きを取り戻しているようにも見えた。
だが、まだ何かを語れる状態ではないことは、一目でわかった。
彼はただ、黙ったまま、おばあちゃんの手をしっかりと握りしめていた。
チカもまた、何も言葉をかけられなかった。
かける言葉が、どうしても見つからなかった。
あまりにも悲しすぎるその光景に、自然と涙があふれる。
それを拭おうとした、まさにその瞬間――。
聞こえてきたのは、かすかな声だった。
「……これで俺は、本当に、ひとりぼっちになったんだな……」
ケンは静かに、けれど確かな大粒の涙を零した。
思えば、いつだって争いばかりだった――
言葉をぶつけ、想いをすれ違わせ、大切な時間を無為にしてしまった。
俺は、自分のことばかり考えていた。
それなのに、ばあちゃんはいつだって、俺のことばかり考えてくれていた。
俺のせいで、反吐が出るような中傷を浴びて、言われる筋合いもない罵声を受けて、それでも一度たりとも嫌な顔を見せることなく、俺をここまで育ててくれた。
迷惑ばかりかけて、感謝の一言もろくに伝えられなかった俺を――
決して見捨てることはなかった。
どんな時も、味方でいてくれた。
ばあちゃん――
本当にありがとう。
そして、ごめんな。
もっと、恩返ししたかった。
たくさん、伝えたいことがあった。
なのにどうして……どうして、俺を残して、こんなに早くいなくなるんだよ。
――目を開けてくれよ。
――俺を、ひとりにしないでくれよ……。
まだ、物事の分別もつかないような幼い頃。
俺はばあちゃんと、あるひとつの約束をした。
「涙の分だけ、強くなれ」
あの約束、守れてきたのだろうか。
なぜ、人は涙を流すのか。
悔しいから? 悲しいから?
その理由や意味を考えたことはあっても、本当に「惟る」ことはなかった。
そんな理由もわからぬままに、俺は涙を重ね、少しずつ、大人になっていった。
でも――
今、ようやくわかった気がする。
今まで俺が流してきたのは、「自分のための涙」だった。
けれど今、こうして流れているのは――
「大切な人のための涙」。
それは、こんなにも切なくて、温かくて、そして冷たいものだった。
ばあちゃん――
“2006年3月7日(火) 21時56分”
ばあちゃんは、64年という長いようで短い生涯を、静かに終えた。
それは、ケンの瞳からあふれる涙に呼応するように、
夜の空から強く降り出した冷たい雨がすべてを包み込んだ――
春の訪れを前にした、あまりにも悲しすぎる出来事だった。
今から10年前。
まだ俺が中学生だった頃――
人には、生きている間に“三度”、輝く瞬間が訪れる。
そんなことを、ばあちゃんが話してくれた。
一つは、この世に生を授かった瞬間。
もう一つは、死に直面した瞬間。
この答えを聞いたとき、俺は素直に頷くことができなかった。
けれど、ばあちゃんは言った。
「いつかわかるときが来る」と。
そして最後の一つ。
それだけは、いくら尋ねても教えてはくれなかった。
あれから10年が経ち、ばあちゃんは今こうして、安らかな眠りについている。
けれど、あの問いの答えは、まだ見つかっていない――
葬儀は小規模ながらも、親しい者たちだけで静かに執り行われた。
最初で最後になってしまったけれど、俺は、たくさんの皺が刻まれたばあちゃんの顔に、そっとメイクを施した。
不思議と、ばあちゃんは少し笑っているように見えた。
その深く刻まれた皺のひとつひとつは、ばあちゃんが歩んできた歳月と、積み重ねてきた苦労の証だったのかもしれない。
穏やかな表情のまま眠るその顔を見つめながら、冷たいけれど、どこか温もりを残すその手を、俺はしっかりと握った。
そこに、24年間分の感謝を込めた。
そして――
火葬場で、最後の別れを告げた。
「ありがとう、ばあちゃん」
ばあちゃんは、蒼く高い空の向こう、遥か遠くの場所へと旅立っていった。
“天国”――
それがどんなに曖昧で、不確かであっても、残された俺たちが“今”を生きていくためには、必要な“居場所”なのかもしれない。
「きっとどこかで、見守ってくれている」
そう信じなければ、すべてが崩れてしまう。
心を、立たせておけなくなってしまう――
亡くなる前日、ばあちゃんと電話で少しだけ会話をした。
あの時、もしかしたらばあちゃんは、すでに自分の最期を予期していたのかもしれない。
電話を切る間際、ばあちゃんがふいに尋ねてきた。
「覚えてるかい? 昔に話した“三つの輝く瞬間”の話」
その言葉に、俺はもう一度、最後の一つを尋ね返した。
すると、ばあちゃんは静かに言った。
「自分で見つけなさい。そうでなきゃ、意味がないのよ」
――それが、ばあちゃんと交わした最後の会話になった。
今の俺は、果たしてどれだけ輝けているのだろう?
葬儀が終わり、夜空を見上げる。
東京では滅多に見ることのできない、満天の星が広がっていた。
その空に、一筋の流れ星が走る。
その瞬間、不思議と思い出した。
まだ俺が幼かった頃。
ジュンと交わした、あの会話のことを――。
「流れ星って、幸せなイメージがあるだろ? 願いが叶うとか。でも、俺は嫌いだ。輝くのを諦めて、流れ落ちたそんな星に、どうして人は願いを託す? なぜ、願いが叶うと思う?」
“願い”――
今でも、ただ願っただけで何かが叶うとは思っていない。
けれど、あの流れ星を見た瞬間、俺は……願っていた。
“またいつか、ばあちゃんと会えますように”
ばあちゃん。
あの時、最後に呼んだ俺の声……ちゃんと届いていたよね?
最後に握ったあの手……ちゃんと伝わっていたよね?
思い出すのは、ばあちゃんの穏やかで優しい笑顔。
24年間、何もかも捧げて、俺を育ててくれた。
優しく、そっと、ずっと見守っていてくれた。
かけがえのない幸せを与えてくれて、誰よりも強く、深く、愛してくれた。
本当に――ありがとう。
俺のせいで、きっと安心して眠れた夜なんてなかったんじゃないかな。
でも、もう大丈夫だから。
チカもジュンもいるから。
もう、心配しなくていい。
だから――俺の心の中で、どうかゆっくり休んでください。
おやすみなさい、ばあちゃん。
大好きだよ。またね――
そう心で最後の会話を交わした俺は、お揃いの金のネックレスを、強く、静かに握り締めていた。
チカとふたり、実家へ戻る。
そこは耳が痛くなるほど静まり返っていて、誰もいないという現実を、改めて思い知らされる場所だった。
俺はそっと畳の上に腰を下ろし、ずっとこらえていた“何か”から、ようやく解き放たれたように、静かに涙を流した。
人は、涙なしでは生きていけない生き物だから――
どうか私の前では、無理に強がらなくていい。
弱さを隠さず、泣いてほしい。
時には、何かに耐えて笑うより、何もかも忘れて、ただ泣く時間も必要だから。
あなたが流したその涙は、いつかきっと、誰かを守る“強さ”に変わる――。