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久しぶりに神田グループ本社ビルを見上げた。高層階は遠く小さく見え、このビルにはグループの全関連会社が入っている。大阪、名古屋、福岡、海外にも多くの支社を持つ大企業だ。
エントランスに足を踏み入れると、三階分もの高さの吹き抜けが目に入った。そこにはワークスペースや大きな受付、カフェ、コンビニ、さらには飲食店が立ち並び、クリニックまで完備されているため、ここでほとんどのことが完結するように設計されている。とても働きやすい環境だと感じた。もし大学を卒業していたら、この場所に通う日々があったかもしれないと思うと、少し時間を無駄にしたような気がして、私は小さく息を吐いた。
「沙織!」
後ろから声がして振り返ると、そこには見慣れた顔があった。
「芹那!」
懐かしい顔に、思わず表情が和んだ。ヒールを鳴らしながら歩く芹那は、美しくてとても目を引く存在だ。
「今日からよろしくね」
芹那の言葉に、私は「こちらこそ」と微笑み返す。
「ねえ、今日は久しぶりに飲みに行こうよ。あのクズの話、聞かせてよ」
クズとはもちろん芳也のことだ。中高と同じだった芹那は、私の相談に乗ってくれていて、芳也のこともよく知っている。
「昔は気弱で、沙織がいなければ何もできなかったくせに、バカな女に捕まるなんて、後で後悔しても遅いんだから」
芹那はエントランスからエレベーターホールへ向かう道すがら、苛立ちを隠さず毒づいていた。
「もう、いいの。関係ないし」
私は苦笑しながらそう言うと、芹那は少し声を落として話を続けた。
「それはそうと、元旦那の会社、さっそくまずいことになってるわよ」
「え?」
今までの軽い話とは打って変わって、真剣な表情になった芹那を見て、私は問いかけた。
「沙織がチェックしなくなったせいか、出してきた資料がひどい内容でね。さすがに呆れて、担当者に白紙に戻すって伝えちゃったの。勝手にそんなこと言っちゃってよかった?」
最後は少し気遣うような声だったが、私は迷わず「もちろん」と答えた。
「少しだけ仕返ししたい気持ちもあったし、すっきりした」
私がそう言うと、芹那は明らかに不満げに顔を歪めた。
「もっと徹底的に復讐すればいいのに。あんな男、もっと痛い目に遭えばいいのよ。沙織なら、それができるでしょう?」
「もう少し様子を見る。また何かあれば、考えるかもしれないけど」
苦笑しつつ私がそう答えると、芹那は「自滅するのも時間の問題な気がするけどね」と吐き捨てるように言った。
「それから、頼まれていた通り、神田グループからの出向という形にしておいたから。人事部長しか知らないから安心して」
「ありがとう、いろいろ助けてもらって」
社長令嬢だと知られると厄介なこともあるし、芹那にも相談されていたことがあったので、そのようにしてもらった。
「こちらこそ、あの件頼んじゃってごめんね」
芹那が申し訳なさそうに顔の前で手を合わす。
「謝らないで。問題は早期に解決しないと」
芹那が言っている「件」とは、最近社長の仕事ぶりに不審な点があるという話だった。現社長は海外支社から戻ってきたばかりで、彼の就任後、不透明な契約が増えたと芹那は感じていると言っていた。
「沙織、社長と会ったことは?」
「私のことを知っている人は少ないし、もちろん彼とも面識はないから、大丈夫」
そう言いながら、私と芹那はエレベーターに乗り込んだ。
コードシステムは神田グループの中で、スマホなどの電子機器を作っている会社だ。広々とした開放的なオフィスは、窓の外に東京のビル群が広がり、各々が電話をしたり、パソコンを操作したりして活気に満ちている。
各営業部のほかに、芹那が部長を務めているプロジェクト管理部門もそこにあった。
今、中心となっているスマホ開発事業は、本来半導体や製造など、神田グループやその下請け会社に仕事を任せることが多い。
しかし今回、私が芳也の会社「サクシード・ソリューションズ」にもチャンスがもらえるようにした。
芳也の知識や仕事を私は認めていたし、コードシステムにも利益をもたらすと信じていた。
しかし、会社が大きくなるにつれて、彼は部下に仕事を丸投げすることが多くなっていた。だから、私がフォローしていても、この仕事はうまくいかなかったのかもしれない。
そんなことを考えつつフロアに入ると、多くの社員が一斉に私を見た。芹那の姿を見ると、彼らは口々に挨拶をする。
「神田沙織さん。今日からこの部署に入ってもらいます。語学も堪能だから、主に海外対応をお願いすることになります」
芹那の紹介に続いて私も挨拶をし、席に着いた。午前中は仕事の把握や、周りのスタッフとのコミュニケーションであっという間に時間が過ぎた。一日掃除をして過ごしていた日々と比べると、とても充実していて、忘れていた自分を取り戻せるような気がした。
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