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「ねえ、あなたってゲイなの?」
それは確か駅前のホテルで行われた新入生歓迎会という名の宴の席だった。造形学科のハイカラな生徒の中でも、一際注目を浴びていたのが櫻井秀人だった。
当時は珍しかったツーブロックに髪を切り、緑がかっていた。黒に青いストライプが入ったスーツがよく似合っているのは、日本人離れした手足の長さのせいかもしれない。髪型やスタイルにくらべ、そこまで主張しない容姿が、却って清潔感を醸し出し、バランスがとれていた。
なんでもガラスで大きな賞をとったとかで、そのルックスも相まって注目を浴びていた。常に女の子の中心におり、身動きがとれないように見えた。自分も芋男たちに囲まれていた鞠江は遠目に彼を見て、違和感を覚えたのだった。
トイレに席をはずした一瞬をついて、赤絨毯が敷かれた廊下で引き留めた。
彼女の指摘に彼は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに笑った。あまりに笑うので勘違いだったかと赤面した直後、
「どうしてわかったの?」とうなじを掻いた。
彼から正式に絵のモデルの依頼があったのは、そのわずか数日後だった。
「ガラスで人物は造ったことがなくて、今後も作らないと思うんだけど、骨の上に肉があって、皮があって、という生き物の基礎を身に着けておきたくて。デッサンが手っ取り早いかなって思うんだよね」
おおよそ理解できない芸術家の言葉は無視して、二時間五千円で引き受けると、鞠江はほぼ毎週、彼の作業室に足を運んだ。
彼はそこをアトリエと呼んでいた。行くといつも他に人はいなくて、五十人収容できる教室に、彼の作品が並べられ、その中心に彼がいつもポツンと座っていた。
ポーズを決めると、彼は決まって鞠江を褒めた。
「ああ、本当に綺麗だね。君は」
その手放しの賞賛の言葉に、薄っぺらさを感じずにはいられなかった。
語尾に「ゲイの僕には魅力は感じないけど」という言葉が続いているようだった。
休憩に淹れてもらったコーヒーを飲みながら、作品を改めて見回した。
そこにはガラスアートだけではなく、彫刻、絵画も並んでいた。
黒と赤、透明と不透明が混ざりあった、ガラス細工の髑髏、なにか荒い刃でズタズタに切断されたような手首の石膏、行列が出来ていて、一方は光輝く天空に、一方は血のマグマ沸く地底に導かれる、審判の油絵。
「結構、どす黒いのも生み出すのね」
少しばかり気分が悪くなって、寄っ掛かった机の隣の席に彼も腰かける。
鉛筆を削るナイフで切ったのか、右手首から血が出ている。
「まるで死を連想させるような」
言いながら怪我を指差す。
「あー。なるほど」
彼は軽くうなずきながら、手首から垂れる血を、舌先でツーと小指まで舐めとった。
その姿が妙に禁忌的かつエロティックで、慌てて目を反らすと、彼は呟くように言った。
「それはもう、僕が死んでるからじゃないかな」
彼はことあるごとに、自分は死んでいると口にした。
ふざけている様子なければ深刻な様子もない。
ごく当たり前のように死という言葉を使い、いつどこで呼吸を止めようか考え倦ねているようだった。
「じゃあ、私はなに?幽霊と話してるの?」
「そうなるね」
そんなことより、と言って彼が近づいてくる。
「デザイン課の人に聞いたんだけど、君って有名人なんだってね、マリー」
「その名前で呼ばないで」
「なんで?美人で頭のいいマリーさん?誉め言葉だろ」
「どこが。ワガママで放漫だから、マリーアントワネットの名前をとって、マリーなのよ。斬首台で聴衆の前に晒されてる気分だわ」
「そう?中学校の頃はモテモテでマドンナだったって聞いたけど」
「あなたに関係ないでしょ」
窓際におかれた巨大な造形に近づく。
めずらしくカバーが掛けられている。
「見ていい?」
「どうぞ、マリーさん」
「今度その名前で呼んだら殴るわよ」
カバーをとった瞬間、私は口をあんぐりと開けた。
色とりどりでありながら、どこまでも透明で瑞々しいガラスの花輪がそこにあった。
「今度、大学のエントランスに飾る用に頼まれたんだ」
赤、白、紫、ピンクに咲き乱れるガラスの花。
「へえ、素敵じゃない。こういうのもっと造ってよ」
しかし、その中のひとつを見て、心は凍りついた。
彼が隣に並ぶ。
「未来を担う若人に送る作品さ」
感情が読み取れないマネキンのような彼の横顔を見る。
「あなたはこの世が、人間が、とことん嫌いなのね」
「え、どうして?」
彼が振り向く。その動作がひどくわざとらしく感じる。
「一番外側の白い花、スノードロップでしょ」
「へえ。よくわかったね。だいぶ抽象的に崩したつもりだったけど」
「わかるわ。あんなに長い外花被と短い内花被で出来た白い花なんて、他にないでしょ」
「ーーーだめだった?」
「ええ。だってあの花、死を望む花でしょう」
しばしの沈黙のあと、彼が微笑む。
「そうなの?知らなかった」
「芸術家はモチーフにこだわると聞いたわ。こんな繊細な作品を生み出すあなたが、花の持つ意味を調べないはずない」
櫻井はクククと笑い、私を見た。
「じゃあそういう意味かもね」
ニコニコと笑う端正な顔を見て、怒りと失望で眩暈を覚えた。
「最低ね。私、花が好きなの。ううん。好きだったの。だから花に呪いをかける人って、大嫌い。
あなたがどんなにこの世に絶望しようが、人の不幸を願っていいはずがないわ」
踵を返して出ていこうとする。
「ーーー花に呪いをかける、か。面白い表現するね」
思わぬ称賛の声が後ろから追いかけてきた。
「マリー」
気がつけば彼の顔に平手打ちをしていた。自分でも驚く。
「その名前で呼ばないでって言ったでしょ!」
「ーーー聞いて」
櫻井が先程とはうって変わって真顔でそこに立っている。
「エデンを追放されたイブは、地上で初めての冬を迎えた。一年中花々が咲き乱れていた楽園とは違い、雪が降り積もった大地には、一輪の花もなかった。楽園での日々を嘆くイブに、舞い降りた天使がそっと、雪を花に変えた」
「何それ。聖書?」
「そうだよ」櫻井が頷く。
「スノードロップのもう一つの花言葉は“希望”。僕があの花に込めたのは呪いじゃない。これから人生のどんな困難にも、希望を見いだしてほしいという“願い”さ」
櫻井は私が進めた歩数分、歩み寄った。
「僕が手に入れられなかったものを、芸術を志す若者たちには手にいれてほしい。マリー、君にもだよ」
今度は彼の肩を軽く殴る。
ソフトな物腰からは想像もできないほど、それは固かった。
「よっぽど殴られたいのね」
彼はまた笑顔に戻って言った。
「ごめんよ、マリー」
人には希望の作品を作りつつ、彼の死への執着は日に日に濃くなっていった。
あれはいつのことだっただろう。彼のアパートでワイン片手に、珍しく酔った彼がつらつらと話し出した。
「できればね、タイミングは、もう無理ってくらいセックスをした後、この世で一番美味しい酒を飲みながら。場所はね、見渡す限り僕が好きなガラスで埋め尽くされてる真ん中に、でんと座り心地の良いソファーを置いてね、そこで終わりにしたいかな」
もちろん死ぬときのことだ。
まるで宝くじが当たったらどうするかを考えるように、ニコニコ話している。
「なかなかその場所が見つからなくてね。
ガラス美術館とか、ガラス館みたいなところはなくもないけど、見渡すほどガラスで埋め尽くされてはないし、ファミレスでもあるようなコップや100円ショップでも売ってるようなガラス細工を見ながら死ぬなんて、嫌だしさ。
本当に目に写る全てが、僕の認めたガラスであってほしいんだ」
「そんな場所、一生見つからないんじゃない?」
「無理かなぁ。やっぱり。理想の場所は諦めるか」
櫻井がテーブルに突っ伏した。
「じゃあ、その空間を、あんたが作れば?10年でも20年でもかけて。別にいいでしょ、死ぬのがちょっとくらい延びたって」
櫻井は、顔をあげてふうと気の抜けたようにそこに座り込んで頭をかいた。
「作ろうかな。美術館。ガラスのガラスによるガラスのための美術館を」
「諭吉ー」笑う私に、
「リンカーンだよ。君ってたまにおバカさんだよね。マリー」
櫻井が呆れて言った。