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「何をなさっているんです? 取り仕切る者さん」
フタレヴサと呼ばれた女は静かにびくりとし、呼びかけた女を睨みつけて囁く。「殉教者さん。静かにしてください」
昼を過ぎてなお高みから日差しの降り注ぐ頃、国史に名だたる偉人たちの血脈よりも古く貫禄ある館の中央を貫く廊下でのこと。廊下に限った事でもないが、召使いたちの日々の甲斐甲斐しい労働によって窓も床も天井でさえも染みも埃もなく清潔に保たれている。その廊下の奥、館の主の一室の扉に耳を当てて、物音も囁き声も一切聞き漏らすまいとフタレヴサは中の様子を窺っていた。この館と主に仕え、十数人いる召使いたちの長を務めている女だ。侍女に与えられたお揃いの衣装を見に包んでいる。肌は白磁だが、他の召使いたちには白磁のようで通っており、髪は絹だが、やはり絹のようで通っている。人形に憑りついた魔性の女だ。
「何をなさっているかですって?」白磁の喉を通る透き通った声でフタレヴサは問う。「ご主人様の部屋の中の様子を窺うべく聞き耳を立てているように見えませんか?」
フタレヴサより若い、遥かに若い召使いトニアはきょとんとして頷く。「そう見えますが、良くないことだと思うんですけど」
召使いの中でも最も若いトニアだが、他の召使いたちと違って物怖じしない性格であり、怪しげな存在であるフタレヴサに用件を伝える時の伝言役になることが多い。
「良くないと思うんですか? ご主人様を心配することが」
「いえ、盗み聞きすることがです」
フタレヴサは大仰に溜息をつき、反った睫毛を瞬かせる。
「いいですか? トニアさん。情報を掴んだ者が成功を掴むのです」
かつてフタレヴサが小国居留地王国に仕えていた頃、かの国が栄光の時代を迎えたのはフタレヴサが周辺国の王族の弱みを握ったことに端を発する。諸侯の離反、政略結婚、あらゆる政治的取引を取り仕切り、エムアディア王国は歴史の石碑に深く刻まれた。
そうとは知らないトニアは首を傾げるばかりだ。
日は傾き、騒々しい昼と神秘の夜が交じり合う頃、家々から炊事の煙が立ち上り始めていた。この館も同様だ。広い館だが、フタレヴサには夕食の進捗具合すら音と匂いから判断できた。
フタレヴサは部下の娘を睨みつける。「それより主に何の用です? 盗み聞きに来たのですか?」
若い召使いは憮然として答える。「フタレヴサさんに用があって来たんですよ。皆混乱してますよ」
「混乱? 何を混乱しているのです? わたしの指示が明確でなかったとでも?」
もちろん銀行家や投資家を丸め込んで、かつて黄金の星の下と謳われた王国の国庫を潤したのもフタレヴサの詳細な計画と明確な指示のお陰だ。
「指示は明確ですけど、一体何のためにこんなことをするのかって、何の記念日でもないですよね?」
「何のためにですって? 勿論皆さんを混乱させるためではありませんよ。わたしのなすことは全てご主人様のためです。それも皆で一致団結協力して成し遂げることが大事なのです」
フタレヴサによって王族から民草まで愛国心と強調心を煽り、朋輩王国から疫病や飢餓を撲滅した頃のように。
トニアは疑わしげな眼差しを歴史の黒幕に向ける。
「川蝉様のため、ですか? 今夜の催しも? 初耳です」
「ええ、オーア様のためです。ここ最近、彼が何をなさっているかご存じですか?」
若い召使いトニアは首を振る。「私、魔法についてはとんと疎くて」
「とんと疎いでしょうね、あなたは」フタレヴサはさもありなんとしたり顔で頷く。「もちろんわたし如きが知っていることもご主人様からすればあなたと大差のないことでしょうが。ご主人様はかの魔導書を完全に破壊、消滅させる魔術を日夜孤独に研究なさっているのです」
トニアは息を呑む。「私も知ってます。魔導書ってとっても悪い魔法なんですよね?」
「ええ。もちろん魔法というものは使い方次第ですが、邪な使い方をすれば多大な被害を出してしまうのが魔導書だそうです」
部下の娘はしかし要領を得ない様子で首を捻る。
「それが今夜の催しと何の関係が?」
「それは今夜の催しとは関係ありません」
「何なんです?」召使いの声が高く響き、フタレヴサは口に指をあてる。
「問題はご主人様が研究のために休息なくお働きになっていることです」
「生真面目なご性格ですものねえ」
部下トニアの気のない相槌を聞き流してフタレヴサは続ける。「そんなご主人様を癒すべくわたしは今夜の催しを企画したというわけです。抜かりはありませんね?」
「ええ、それは。フタレヴサさんの綿密な計画に今のところ穴はありませんけど。でも――」
「ならばいいのです」フタレヴサは肯定するように目配せをする。「目的を伝え忘れていたのはわたしの不手際ですが、これでもう混乱もありませんね」
「でも……」
再び扉に耳をあてるフタレヴサの姿を見て、トニアは溜息をついて廊下を戻り、持ち場へと帰る。
催しは館の主、魔法使いオーアが夕食の席に着くと同時に行われた。この館の主はまだ二十に満たない少年だ。年相応の丸みと赤みを帯びた顔に賢慮を滲ませる瞳。明るい茶色の髪は丁寧になでつけられている。身に着けた長衣は少年よりも古びている。
オーアの好きな食事が次々と運び込まれる。ただ豪勢なばかりではなく、オーアの故郷の郷土料理や家庭の味まで料理人に再現させていた。
魔法使いオーアは羽根筆で羊皮紙に書きつけながら豚の燻製にかぶりついている。特に感想などもない。研究から離れられずに過ぎていく、いつもの夕食風景と変わらない。
フタレヴサはいつも通りに給仕や料理人の仕事を取り仕切り、食事の後に必要となる主の就寝の準備や仕事に戻った場合の軽食の準備、あるいは可能な内に明日の、明後日の、日々の計画を適宜修正しつつ今夜の催しも取り仕切る。
フタレヴサはオーアが食事の方に重点を置き始めた時を見計らって声をかける。
「ご主人様。今宵はご主人様の労を癒していただくべく催しをご用意させていただきました」
「そう。……任せるよ」とオーアが呟くとフタレヴサは囁くように呪文で合図を送る。
すると食堂へ数人の男女が登場する。かつて服飾業界を裏から牛耳っていたフタレヴサが用意させた華やかな衣を身に着けた吟誦詩人と色とりどりの宝飾品に身を飾った踊り子、竪琴や太鼓の楽器隊だ。彼ら彼女らもまた芸能界隈へ顔の広いフタレヴサの人脈を駆使して集められた者たちだ。
食堂は時に勇ましい戦場の如く、時に厳めしい神殿の如く、楽の音によって空気の色を変える。吟誦詩人は魔法使いオーアの偉大な研究を称え、周囲を踊り子たちが舞い踊る。続いて役者が入ってくるとオーアの生み出した魔法にまつわる物語が演じられた。若くして優秀な魔法使いであるオーアが飢餓に喘ぐ集落を助け、不治の病に苦しむ子供を救う。
オーアは黙って食事を続け、フタレヴサは舞台裏たる隣の部屋で小声で歓声をあげている。オーアを演じる役者に多少不満はあったが、これ以上の舞台は誰にも用意できないだろうとフタレヴサは自負している。
主が食堂からいなくなっていることにフタレヴサが気づいたのは催しが終わった後だ。いついなくなったのかは分からなかった。
自室の寝台に座り込み、顔を覆うフタレヴサの隣でトニアは上司の背中を撫でていた。
「やろうとしたこと自体は悪くないと思いますよ、私も」とトニアは声をかけるがフタレヴサは唸るばかりだ。「ご主人様が働き過ぎなのは間違いないですし、時には休息も大事ですから。ただ……」
「ただ、何です? わたしは首になるかもしれない、ですか?」フタレヴサは涙声で訴える。
「いえいえ、そんなことありっこないですよ。フタレヴサさんの優秀さは私たちも、もちろんご主人様もご存じのはずですから。この館はフタレヴサさんのお陰で回っているといっても過言ではありませんもの。でも……」
「でも、何です? わたしはご主人様に失望された、ですか?」
トニアは賢明に明るい声で語り掛ける。「そう不安に感じることはないですって。特に何とも思っていないと思いますよ。何せ魔法一筋の方ですから。ですが今回の催しは、ご主人様に響かなかったようですが」
「一体なぜですか? とても楽しい催しになったはずです。ご主人様の偉大さをご主人様ご自身に確認いただければ働き過ぎにも気づいてもらえる、はずだったのですが」
トニアはフタレヴサの横顔を見つめながら言葉を選ぶ。「いやあ、あれはちょっと趣味が――」
「趣味が? 悪いとでも?」
「悪いというか、ご主人様の趣味ではありませんよ。そもそも、ああも褒め称えなくともご主人様は自信家でいらっしゃるじゃないですか?」
フタレヴサははっと顔をあげる。少し昔、魔法使いオーアに発見され、仕事を与えられた日のことを思い出す。自身に満ちた微笑み、口調は脳裏に刻まれている。それは自身の存在そのものを不安視していたフタレヴサにとっての救いの日だった。
「もっとご主人様のご性格にあった催しをすべきだった、ということですね」
「まあ、そうですね。というかほとんどフタレヴサさんの趣味でしたよね?」
「分かりました!」と宣言してフタレヴサは勢いよく立ち上がる。「ご主人様のお気持ちになって最高に癒され、かつ休息できる催しを開きましょう」
そしてにんまりとした笑みをトニアに向ける。
「ちょっと嫌な予感がしますね」とトニアは呟く。
それから三か月の後、季節は秋へと移り変わり、書斎と工房を行き来するばかりの生活を送るオーアをフタレヴサは連れ出す。
「珍しいね。君が僕の仕事を邪魔するなんて」とオーアは廊下をフタレヴサの後をついていきながら呟く。
「申し訳ございません。しかし長期的な観点からより効率の良い結果になると存じます」
「休息ならしているよ。君が心配症なだけだと思うけどね。……ん?」オーアは耳を澄ませる。「随分沢山の人がいるようだ。吟誦詩人と踊り子と役者にしては多すぎないかい?」
「見てのお楽しみです」とフタレヴサは期待を持たせる。「あ、その前にこれをどうぞ」
フタレヴサはオーアに仮面を渡す。長い赤い髪の悪鬼のような顔の仮面だ。何が何だか分かっていないオーアだがフタレヴサに従う。
オーアは館で最も広い広間へと連れて来られた。ここは元は古い血筋を誇る貴族の館で、晩餐会や舞踏会が開かれた部屋だがオーアはほとんど持て余していた。
そこには仮面で顔を隠した沢山の人々が詰めかけていた。広間はいくつかに区切られ、何やら薬品を混ぜたり、木彫りの像を掘る作業をしている者たちや羊皮紙と睨めっこしつつ話し合いをしている者たちもいる。
「おいおい。これは一体何をしてるんだ? 彼らは、魔法使いか?」
「はい。ご主人様が、最も楽しめる催しを考えました。各地の魔法使いたちに講座を、出張教室を開いてもらっています。ご主人様にもどちらの立場でも参加できるように致しました」
オーアは遥か高い山から見られる幾重にも重なった丘陵の輝きと影のような、あるいは誰も知らない孤島から見られる海と波の騒めきと珊瑚の彩りのような信じがたい光景に見惚れている。
「嘘だろ? 魔法使いの術や業っていうのは秘匿するものだぞ。労苦を積み重ねて得た秘儀をそう易々と他人に明かすだなんて」
「そう難しい話ではありませんよ。秘密を暴きたいのはそこに価値があるからです。ならば秘密を対価に秘密を得ればいいのです」
個人主義的な魔法使いたちを取り仕切るのも過去に例がなかったわけではない。これだけの数をまとめるのはフタレヴサにも経験のないことだったが。
オーアは喜び勇んで、フタレヴサの催しに乗り込んだ。騒々しいばかりの数多くの見知らぬ魔法使いたちから多くを学び、教えもした。集まってきている魔法使いたちも知識に飢えている。誰もが喜んで秘密を交換する。雲を使役する術。水平線の向こうを見通す業。猫の足音を聞き取る手立て。この催しがなければ何十年、何百年と隠し通されていたかもしれない秘密の魔法が暴かれた。
知識と技術の交換会は一晩限りの予定だったが、予定したよりもさらに長く、数日に渡って行われることになった。幾人もの客を泊めるためにフタレヴサは奔走し、きちんと対価も得た。
「ありがとう、フタレヴサ。とても楽しめたし、まだまだ楽しめるよ」
三日三夜を経てとうとう床に就くことにしたオーアが重くのしかかる眠気に抗いながら告げた。
「全ては、いつかわたしに休息を与えてくださるとお約束なさったオーア様のためです。お休みなさいませ」