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年月が過ぎ、井戸の縁は丸くなった。
乾いた夏、給水のために石組みを直すことになり、職人が目地を叩いた。石灰の列の中に、一段だけ硬さの違う白がある。鑿の先で探り、木槌で一度、二度、三度——音が変わる。石が呼吸して、箱の角が顔を出した。
引き上げられたのは滑石の箱。
鉄の留め具は黒く、蓋は手の跡に沿って滑る。中は乾いていた。
麻糸で綴じられた束が三つ、糸の結び目は三つ。
紙は煤の匂いをわずかに持ち、しかし読める。読めるためにここにある。
ひとつ目は、僧侶の字だった。
日付、鐘の回数、症状の変化。畑の名、井戸の名、家ごとの水汲みの時刻。欄外には小さな地図があり、水脈が青黒い線で、井戸の印には三角が三つ刻まれている。
文末に短い一文——「これは告発ではない。再発防止のための記録である」。
字は少し右に傾き、最後の頁でわずかに浅くなる。書き切ろうとする力が、紙の端に残っていた。
ふたつ目は、魔法使いの注解だ。
〔恩寵の偽装機構〕と題された欄に、こうある。
——浄化は“恩寵”として評価され、回路は自動的に閉じる。
——加護水は味では識別困難。鐘三つの合図の直後、儀礼が開く。
〔合図〕の項には、「上を向け」とだけ書かれている。横に、杯の断面図。縁の厚さ、角度、喉の伸展。注解は無感情に見えて、行間が熱い。止め方がまだ書けないことが、最も強い情報だった。
みっつ目は、剣士の手になる寓話。
固有名はない。四つの剣は、権威・信仰・復讐・虚無という顔を持つと語られ、歌は武器になり、水は祝詞になり、合図は礼儀として流通する。結末の一行だけが事実に戻る。
——「鐘が三つ鳴ったら、上を向けと言われた。」
その後に余白があり、紙はそこから白いままだ。白は読者の席で、墨はまだ来ていない。
箱の周りに集まったのは、井戸の職人と徒弟、通りがかりの商人、そして、たまたま読み書きのできる誰か。
紙は回され、手の温度でわずかにたわむ。
誰も叫ばない。誰も燃やさない。
ただ、読む。
そして、余白に小さな字が生まれ始める。
日付が書かれ、場所が記され、ひとつの声がもうひとつの声に続いて——物語は箱の外へ出る。