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隙間さん
俺がないくんと出会ったのは、高校一年の春だった。
転校生としてやってきた彼は、最初こそ珍しさもありクラスの中心にいたけれど、すぐにその輪から弾かれていった。
運動も、勉強も、できないわけじゃないけれど、目立つほどじゃない。
口数が少なくて、ちょっとどんくさい。
次第に彼の席の周りだけ空気が冷たくなっていくのを、俺は見て見ぬふりをしていた。
でもある日、本屋で偶然会ったんだ。
棚の前で立ち尽くすようにして本を眺めていた彼に、気づけば俺は声をかけていた。
「……ないこさん、本、好きなの?」
その一言が、俺たちの距離を変えた。
ないくんと仲良くなってから、うちにしょっちゅう遊びに来るようになった。
うちは父さんと兄の仏と俺の三人家族。母さんは俺が幼いころに亡くなっている。
ほとけはないくんのことをやたら気にかけていた。
「ないちゃん、たくさん食べてね~!」
「ないちゃん一緒に風呂入ろ~♪」
そんな感じで、まるで弟か、あるいは……それ以上に思ってるんじゃないかってほど。
俺には分からなかった。
なんで、ここまで。なんで、ほとけも父さんも、ないくんにこんなに優しいんだろう。
その理由を知ったのは、高二の夏だった。
その日、学校を休んだないくんにプリントを届けに行った。
インターホンは壊れていて、ノックしてもなかなか出てこなかった。
やっと出てきた彼のシャツは少し乱れていて、中の様子を一瞬だけ覗いた俺の目に、壁に立てかけられた写真立てが映った。
耳にピアスをじゃらじゃらとつけ、高く盛った髪、濃い化粧の女性——たぶん、彼の母親だった。
「プリント、届けてくれてありがと、♪」
軽く言って、ドアを閉めようとするないくんに何も言えなかった。
モヤモヤしたまま、その晩、思いきってほとけに聞いたんだ。
「なんで、あんなにないくんのこと気にするの?」
しばらく黙ったあと、ほとけはぽつりと話し始めた。
「……あそこの家庭、複雑でさ。母親は水商売で、父親はずっと家にいる。ないちゃん、細いし、教科書とか持ってこない日あるでしょ?……育児放棄されてると思うんだ。……見てらんないんだよ。あんな、いい子なのにさ……」
そう言って、涙を浮かべるほとけを見て、俺もなんとなく理解した。
それからは、ないくんと接するとき、デリケートな話題には触れないよう気をつけた。
二週間ほど経った頃。
放課後、駅前の小さなビルとビルの隙間で、立ち止まっているないくんを見つけた。
何かに向かって、ぶつぶつと喋っている。
「……ううん、行かないよ。ごめんね」
俺は不安になって、声をかけた。
「……ないくん?どうしたの?」
彼はびくりと肩を震わせて、顔を真っ青にして走り出した。
慌てて追いかけて、なんとか追いついたところで、もう一度聞いた。
「……っはぁ、ッねぇ、どうしたのっ、?」
しばらく黙っていたないくんが、小さな声で言った。
「……変だと思わないでほしいんだけどさ、俺、ああいうビルの隙間に、人が見えるんだ」
「……え?」
「ごめん、わかんないよね、w……俺は「隙間さん」って呼んでる。たまにこっち見て、「辛くなったらおいで、こっちは楽しいよ」って呼んでくるの。……でも俺、りうらと一緒の時間が楽しいから、行かないって、毎回断ってる。」
「……その隙間さんってのは、いつから見えてるの?」
「…お兄ちゃんがいなくなってから、かな」
「え、ないくん、兄弟いたの?」
「うん……いや、わかんない。記憶はあるんだよ。青髪で、背が高くて……たぶん血は繋がってなかった。でも、母さんに聞いたら、『そんな子いない』って言うし……俺以外、みんな、お兄ちゃんのこと忘れちゃったみたいでさ、w」
「……ねぇ、、その隙間さんって人、無視しよ?ないくんがいなくなったら俺、やだよ、、」
「……うん、そうする。ありがとね、w」
その日の夜、俺は布団の中でずっと天井を見つめていた。
隙間さん。
それは幻覚なのか、妄想なのか、それとも——。
高校三年の冬。
一緒に風呂に入っていたとき、ないくんの背中に火傷の痕のような跡を見つけた。
「……父さんに、タバコ、押し付けられて……」
ぽつりと呟いて、ないくんは顔を伏せた。
俺はたまらなくなって、風呂から上がった後、ほとけに言った。
「ねぇ、どうにかできないの、?」
でも、その時ないくんが、震える声で言った。
「……このこと、秘密にして」
「は?なんで……っ」
「りうちゃん、ストップ」
「……うん、ごめん、」
「……これがバレたら、ここにも来れなくなっちゃうかもしれないから……お願い……」
泣きそうな顔で言うないくんを、俺もほとけも、否定できなかった。
その日から、俺は毎日、彼の体に新しい傷がないか確かめるようになった。
それで、守れると思っていた。
新学期が始まって、ないくんは学校に来なくなった。
何度家を訪ねても、玄関には出てこない。
あの時のようには、もう……。
父さんもほとけも、何度も足を運んでくれたけど、結局、ないくんには会えなかった。
それが、最後だった。
それからだ。
俺が「隙間さん」を見るようになったのは——。
ないくんが学校に来なくなってから、どれだけの時間が経ったのか、正確には覚えていない。
あの日を境に、彼はこの世界からふっと消えてしまった。
それでも俺は生きるしかなかった。
時間は流れ、高校を卒業し、大学にも行かず、就職して、社会人になった。
日々は忙しく、味気ない。
何をしてもどこか空虚で、笑っても、胸の奥にはずっとぽっかりと穴が開いたままだった。
そんな俺の部屋に、「彼」は現れる。
隙間に。
カーテンの隙間、家具の隙間、ビルとビルの隙間、電車の座席の隙間——
ふとした瞬間に、笑って、そこにいる。
ないくんだった。
あの、柔らかい目をした、いつも優しくて、少しだけ自分を卑下していた少年。
俺の世界からは消えたはずの彼が、まるで生きているかのように現れて、言葉を交わす。
「りうら、今日のご飯なに?」
「カップラーメン。仕事遅かったから」
「ちゃんと野菜も食べなきゃダメだよ、w」
そんな、他愛もない会話。
けれど、俺はそれに救われていた。
あの時、俺が救えなかった彼に、今度は「居場所」をあげられてるような気がしていた。
…そう思っていたんだ。
ある日、いつも通りテレビを見ながら、ないくんと会話していた時だった。
ニュースが流れてきた。
「連続保険金詐欺、容疑者の女、家族に暴力を繰り返していた過去も——」
何の気なしに画面に目を向けて、息が止まった。
そこに映っていたのは、耳にピアスをじゃらじゃらつけて、髪を高く盛り上げ、濃い化粧をした女。
絶対に忘れない。その顔。
ないくんの、母親——だった女。
保険金目的で、家族を何人も手にかけていたと報道されていた。
理解した瞬間、目の前の世界が音を立てて崩れた。
ないくんは——あの人に——。
あの日、あの時、あの瞬間に、助けていれば。
俺がもっと早く気づいて、叫んでいれば。
ほとけが、父さんが、行政が、社会が、誰かが、本気で踏み込んでいれば——
救えたかもしれなかった命。
いや、「命」という言葉でさえ軽い。
彼の心ごと、人生ごと、誰かが奪っていった。
その日を境に、「隙間さん」となったないくんは、もう現れなくなった。
どこの隙間を覗いてもいない。
一言も、話しかけてこない。
まるで、完全に——成仏してしまったかのように。
俺はもう、生きている理由を見失ってしまった。
世界が空っぽだ。
彼のいない世界なんて、息をする意味がない。
ある夜、俺は決めた。
隙間の向こう側へ行こうと。
カーテンの向こう、窓の隙間、心の奥——
あらゆる「隙間」に問いかける。
「ないくん、そこにいる?」
返事はない。
でも、俺にはわかっていた。
ここにはもう、いないのだと。
でも、それでも行きたいと思った。
最期の記録として、俺はこれを書いている。
もし誰かが、ふとした隙間に笑っている“ナニか”を見たとしても、どうか怯えないでほしい。
それはもしかしたら、俺かもしれないし、ないくんかもしれない。
この世界よりもずっと静かで、優しくて、
苦しみも痛みもない場所で、
あの子とまた、笑っていられるのなら——
それでいい。
きっと、こっちのほうが、幸せだから。
ビルとビルの間にある、誰も通らない細い路地。
そこに、静かに立つふたりの影。
「……りうら、来たんだね」
「……会いたかったよ、ないくん」
彼は、あの頃のままの姿で、俺に微笑んだ。
「やっと、兄ちゃんに会えたよ」
「……うん」
何も言わなくていい。ただ、そこにいるだけでいい。
もう、悲しいことなんて何もない。
ここでは、隙間の中では、すべてが許される。
俺たちは笑いながら、ゆっくりと歩き出す。
この世界の狭間で、
忘れられた者たちの声が、微かに風に溶けていた。
隙間さん
おしまい
コメント
4件
🍣くんが兄(🤪)と会えたならめちゃ良かったです! この感じ🤪さんもじ、さ つとかしてしまったんでしょうか...?
ぴぇ…、 泣くしぬて…感動系書けなーい、