日に日に、太陽の力強さが増していくようだ。
大きく中天に輝く太陽は、アスファルトを焦がし、人々を茹(う)だらせる。
夕方になると、太陽は赤く輝く。夏の太陽は、地平線の向こうに沈む最後の一瞬まで、その力を使い地表を温める。
鮮烈で強烈な夕日が、図書室を赤く染め上げた。
慧は眉(み)間(けん)に皺を寄せながら、数学の問題を解いていた。
期末試験まで、一週間と少し。塾のない日、慧は毎日閉校時間ギリギリまで勉強をしていた。自宅に帰っても勉強は出来るが、自宅では気の緩みが生じてしまい、勉強に集中できない。だから、こうして図書室で勉強をしているのだ。
慧の他にも、沢山の生徒が図書室に集まり、思い思いの場所で勉強をしている。
慧は、いつも通りの窓際の席に陣取って勉強をしていた。
カツカツと、シャーペンの硬い芯がノートを叩く音が断続的に聞こえてくる。
「……チッ」
難しい問題だった。数学を得意とする慧でも、少し手こずる問題だった。塾で予習も復習もした、解き方はどうだったか。
数式を見つめながら、慧はペン先で机を叩く。
「あ、あの……」
不意に声を掛けられた慧は、ハッと我に返った。
「あっ、すいません」
五(う)月(る)蠅(さ)かったか。慧は、声を掛けてきた女性に頭を下げた。
「あっ、あの……、いえ、そうではなく……」
女性を見上げた慧は、「上倉さん?」と、声を掛けた。
「あ、はい、上倉です」
上倉と呼ばれた女性は、嬉しそうにはにかんだ。
「良かった、覚えてくれていたんだ」
「そりゃ、去年同じクラスだからね」
上(かみ)倉(くら)栞(しおり)。一年生の時、同じクラスだった。あまり話したことはないが、落ち着きがあり、勉強も常に学年上位だ。
縁なし眼鏡に、少しふっくらした唇。少し大きく結ってあるお下げは、首の後ろで二つに分かれている。綺麗というよりも、可愛い、清楚、そした言葉がよく似合う女性だった。思わず、慧の視線が栞の胸元に注がれる。
そうなのだ。慧が栞の事を知っているのは、クラスメイトだったという事ともう一つ、胸が大きいからだった。一年生の時から、男子生徒の中で栞の胸の大きさは有名だった。制服の上からでも分かるほど、大きな胸。正直言って、この至近距離だと目のやり場に困る。
気を取り直すように咳払いをした後、慧は平静を装って尋ねる。
「どうかしたの?」
確か、栞は図書委員をしている。慧が本を借りるとき、いつも受付で対応してくれるから知っていた。
「あの、その……」
栞の顔が赤く染まっているは、陽光を受けているからだけではないようだ。
「ん?」
慧は首を傾げる。もともと、彼女が引っ込み思案な一面があることは、去年同じクラスだったから知っている。
「良かったら、飴、舐めませんか?」
栞は、手にした飴を机に置いた。個別包装された、グレープ味の飴だった。
「え? だけど、図書室で飲食は禁止なんじゃ?」
図書委員である栞は、当然その事も熟知しているはずだ。彼女の性格からすると、些(さ)細(さい)な飲食でさえ、許せないと思うのだが。
「あ、飴くらいなら、大丈夫かな、って……。私たち、図書委員もガムや飴を食べる時があるし……。本当は、ダメなんだけどね……」
そう言って、栞は指先で飴を慧の手元に押しやる。
「佐藤君、ずいぶんと煮詰まっているみたいだし、リラックスすることも重要だよ?」
「ありがとう、上倉さん」
慧は礼を述べると、飴を口に入れた。甘酸っぱいブドウの味と香りが、瞬間的に口の中に広がる。
「おいしいよ」
「そう、良かった」
栞は微笑むと、スッと顔を近づけてきた。少しだけ感じる甘い香り。それは、美緒とは違う感じだった。栞が甘い匂いだとすると、美緒は柑橘系の爽やかな香りだった。
思わず、慧は体を引いてしまった。
「この問題はね……」
栞は慧のシャーペンを手に取ると、綺麗な文字で数式を書き記した。
「この公式を使うと解けるよ」
「え? あ、ありがとう。本当だ、この公式か……すっかり忘れていたよ」
「似たような問題が多いから、これ、引っかけだよ?」
眼鏡の奥にある、透き通った眼差し。夕日を受けて輝く瞳は、魔女の瞳のように怪しく輝いていた。それは、慧の知っている栞とは、かけ離れた雰囲気を秘めたものだった。
身を屈めたまま、栞は動かない。ゆっくりと、栞が口を開いた。漂う、飴の甘い香り。
「ねえ、佐藤君。佐藤君は、鹿島さんと付き合っているんだよね?」
想像していなかった質問が飛んできた。
「え?」と、慧は甲高い素っ頓狂な声を出した。
「美緒さんが、どうかした?」
「それは……」
栞は言葉に詰まる。
「どうかしたの? 美緒さんが、どうかした?」
美緒の良くない噂は知っている。彼女も、その噂を信じている一人なのだろうか。
「私……、実はね……」
赤い陽光が、禍々しく栞の顔を照らし出す。
彼女の口から何が語られるのか。
嫌な予感しかしない。
「あの時、佐藤君が告白されたとき、図書室にいたの……」
「そ、そう……。あの時、いたんだ……」
慧は顔を伏せた。栞に、恥ずかしいところを見られてしまったようだ。慧の目には美緒しか映っておらず、周りのことは気にしていなかった。
「それで、その後のことなんだけど……」
栞の表情が暗く沈む。どうやら、それは栞の表情や心情の変化だけではないようだ。太陽が沈み、夕日が図書室に届かなくなったのだ。
先ほどまではあれほど明るかったというのに、ほんの数秒で図書室は海に沈んだように薄暗く、重苦しくなった。
「あの後、何かあったの?」
気がつくと、呼吸が止まっていた。慧は、意識して肺を膨らませる。
告白の後、慧はすぐに塾へと向かってしまい、美緒を図書室に置き去りにしてしまった。あの後、何かがあったというのだろうか。美緒からは何も聞いていない。言わなくても良い内容なのか、それとも、言ってはいけない内容なのか。
「上倉さん、どうかしたの? あの後、何かあったの?」
「あの……それは……」
栞が眉を顰める。苦しそうに目が細められ、薄い唇がキュッと真一文字に閉じられる。
栞は言わない。いや、言えないのかも知れない。それほどの、重い内容なのだろうか。
「慧君?」
その時、栞の背後から場違いな声が響いた。美緒が図書室に来たのだ。
眼鏡の奥にある栞の目が開かれた。時間が無い。栞は大きく息を吸って、囁くように言った。
「鹿島さんは、嘘ばかり。信じないで……、彼女は、佐藤君を……」
「あ、いたいた!」
美緒の気配が近づき、栞は口をつぐんだ。近づけていた顔を離すと、気が抜けたように肩を落とした。
「あれ? お話中?」
「こんにちわ、鹿島さん。少し、世間話をしていただけ」
栞は振り返ると、満面の笑みを浮かべる。
「上倉じゃない。慧君と知り合いなの?」
「ええ、一年の時同じクラスで。勉強を頑張っていたから、少し応援をしていたんです。鹿島さんも、これから勉強ですか?」
「そう、慧君に教えて貰うの。少し遅くなっちゃったけどね」
そう言うと、美緒は慧の横に腰を下ろした。
「じゃあ、私は委員会の仕事に戻るから。勉強頑張ってね」
先ほどの深刻そうな表情から一転し、栞は笑みを浮かべてカウンターの中へと戻っていった。
「よし! 慧君、勉強を始めようよ。期待してるんだからね、佐藤先生!」
「……うん」
美緒は嘘をついている。信じてはいけない。
あの僅かな間で話された内容に、慧は動揺していた。だが、美緒の横顔を見て、すぐに慧は自分の中に生じた疑念を無理矢理押さえつける。
(美緒さんが嘘をつくなんて、そんな事あり得ない。みんな、本当の美緒さんを知らないだけなんだ……)
深呼吸をして、美緒に対する疑念を吐き出した慧は、シャーペンをくるりと手の中で回すと、美緒に勉強を教え始めた。
照明が点灯し、図書室が白い光に包まれた。見ると、入り口付近のスイッチを、栞が入れたようだ。彼女はこちらを見ると、少し寂しそうな表情を浮かべ、小さく手を振った。
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