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何事にもタイミングって大事だと思う。
例えば十亀の前で他の奴を褒めたら「俺といるのに何で他の男のことばかり話すのお?」と拗ねられたり、蘇枋がいる時に皆の前で笑ったら「桜くんの笑顔は安売りしちゃだめだよ」と窘められたり、黙ってクラスメイトと2人で遊びに行ったら何故か必ず楡井と遭遇したりする。
何事にもタイミングって大事。
「(だけど前世の記憶を思い出すきっかけが、虐待する母親をぶん殴った時の拳の痛みだなんて流石におかしいよな??)」
さくらはるか、小学生。
今世の人生は難易度ハードモードの予感。
今世の母親は最悪だった。父親は生きているのかも不明。数日おきに帰ってきては鬱憤を晴らすように桜に暴力を振るい、最後にはブランドバッグを片手にご機嫌で出ていく。部屋はゴミ屋敷のような有り様で、数日前の洗い物や洗濯物の山があるのは日常茶飯事。狭くて古いアパートの一室が桜の世界の全てだった。
その砂のお城もさっき呆気なく崩壊したわけだが。
母親の暴力に耐えかねて初めてぶん殴り返し、呆然とする女を置いて家を飛び出した。そこで初めて「あれ、何か俺のパンチ弱くね??」と前世の記憶を思い出したのである。
死ぬ直前、桜は棪堂に敗北した。
大勢の想いを背負ってここまで来たのに、あと一歩届かなかった。
周囲には椿野達が倒れ伏している。お前のせいだ、と悪魔が囁いた。お前が着いて来ないから皆傷ついた。お前が関わる奴らは全員不幸になる。
「桜、俺と一緒に来い。そうすれば、二度と風鈴に手は出さねぇ」
目の前に差し出された悪魔の手を、桜には握る選択肢しか残されてなかった。
そうして風鈴の周囲一帯を巻き込んだ戦いは終わった。棪堂の隣に並ぶ桜を見て、ボロボロの蘇枋達が何やら叫んでいたが聞こえないフリをした。彼らの顔を見たら心が揺らいでしまいそうだったから。
「いい子だな」と頭を撫でる棪堂の手を目を瞑って享受する。桜の体はもう桜のものではない。
「待って、桜くん!」
「桜さん!」
「桜!」
だからどうか、追いかけてくれるな。もうお前らが俺のせいで傷つく姿を見たくないんだ。
「もう二度と、俺に関わるな」
ヒュウと棪堂が口笛を吹く。もう背後から縋る声は聞こえなかった。
負けたのは自分だ。先に彼らの期待を裏切ったのは自分だ。だから自分が傷つくのはお門違いだ。これでいいんだと必死に自分に言い聞かせた。俯いていたから、反応が遅れた。
「っ、桜くん!」
「……え」
目の前に迫る車のヘッドライト。運転席で笑う男と目が合った。車は一切減速しないまま桜の体を弾き飛ばした。
暗転。
目立つ頭を帽子で隠して歩く。
家出した小学生の行き場なんて、せいぜい近所の公園か商店街ぐらいしかなかった。
公園は既に他の小学生が遊んでいたので、記憶を取り戻す前に何度か母親に連れてこられた商店街に足を運び、呆然と立ち尽くした。
「東風、しょうてんがい……?」
かつての賑わいが嘘のように商店街はすっかり様変わりしていた。人通りは途絶え、多くの店はシャッターを下ろしている。辛うじて営業している店も看板は傾き、ガラス窓は粉々に割られていた。
「どこだよ……ここ」
不意に耳を劈く悲鳴が静けさを破った。桜はすぐに怒鳴り声の聞こえる方へ駆け出していく。
パン屋の主人が不良に絡まれていた。男は主人の胸ぐらを掴んでレジを指し「金を出せ!早く!」と喚いている。
いつもならすぐに駆けつけてくるはずのボウフウリンの気配は無く、桜は慌ててその場に飛び込んだ。
「なにしてんだよ!」
「うおっなんだこのちびっ子」
不良の足をボコボコと殴りつけ噛み付くも、全く効き目がない。苛立った不良が足を振り払うと、桜は簡単に吹き飛ばされて、パン棚に頭を強く打ち付けた。こんな雑魚にやられるなんて。
「あ?何だよその目は」
怯むことなく睨み返す桜に、目の色を変えた男が近づく。万事休すか、と思った瞬間、男が吹き飛んだ。
「大丈夫か」
ツンツンした髪の毛に目つきの鋭い男。その見た目に反して優しく面倒見がいいことを、桜は知っていた。
「ひいらぎ……」
「ん?俺のこと知ってんのか?」
「あ、いや、その…有名人だから」
「有名、な」
柊が苦々しげに笑う。
「今や悪い意味で有名人になっちまったけどな。…悪いな店長。これで勘弁してくれ」
「ヒッ、そんな、札束なんて!お、恐れ多いです!」
「迷惑料だよ。元風鈴の縄張りってだけで標的にされてるんだからな。これぐらいはさせてくれ」
黒いスーツの胸ポケットから取り出した札束を店主に押し付けて、柊はそのままどこかに電話をかけ始めた。
「俺だ。…ああ、商店街のC区だ。店がやられた。恐らく奴らの差し金だろうな。回収は頼んだ。…分かった」
そのまま乗ってきた黒塗りの車に向かおうとする柊を桜は慌てて呼び止めた。
「ま、まって」
「ん?」
「ふうりんは…ボウフウリンは今、どうなってるんだ」
「ボウフウリン」
柊は聞き慣れない言葉を聞いたかのように反芻した。
「懐かしい響きだな。…ボウフウリンは数年前に解散した。元風鈴メンバーのほとんどは卒業後、関東最大の暴力団組織「風鈴組」に所属している」
「ぼうりょくだん…」
あの優しい彼らが。街を守るために戦っていた彼らが街を壊しているなんて。
「うめみや……さんたちは、なにも言わないのか!?このまちを見て、なにも思わないのかよ!?」
「思わないワケないだろ」
「っ、だったらなんで…!」
「風鈴は、大きくなり過ぎた。この街ひとつに構ってられねぇ。それに今は抗争の真っ只中だ。ここを守れば守るほど、弱みだって言ってるようなもんだろ」
「そんな…」
「……それに、あいつの命日も近いしな。梅宮達も殺気立ってる」
「それって、」
外からバイクのエンジン音が聞こえた。それも1台や2台じゃない。数十台のバイクの群れだ。バットやナイフを持ったチンピラ紛いの男達が店の前を囲んでいる。
「まさかこーんな所に護衛も付けずにほっつき歩いているなんてなァ、風鈴組四大幹部の柊登馬さんよォ」
「…チッ、お仲間を呼んできやがったか」
柊は敵に注意を払いながら、こちらをちらりと見た。
「悪いな、巻き込んじまって。なるべく店に損害は出さねぇようにするから我慢してくれ。裏口に車を回してるから乗って逃げろ」
「でも、」
「いいから早く行け!」
後ろ髪を引かれる思いだったが、小さい自分がいても足手まといなだけだろう。震える店主の腕を引っ掴んで車に向かって走った。
「いたぞ、追え!」
「ちょっと捕まっててくださいね」
アクセルが一気に踏まれ、体が前方に反り返る。桜の帽子が床に滑り落ち、店主はヘッドレストに顔を強く打ち付けて、鼻を押さえた。
運転手は巧みなハンドルさばきでバイクの追跡を振り切り、その後しばらく車を走らせたが、最終的にコンビニの前で車を止めた。
「ここまで来たら大丈夫でしょう。騒ぎが収まり次第、店主には連絡させて頂きます。店の被害については、後日うちの組から口座に振り込ませて頂きますので」
「そ、そこまでして頂かなくても!」
「柊の意向ですので」
言いつけられているのか、運転手は梃子でも譲らないようだった。柊は変わってしまったように見えたが、真面目な所は変わっていないのかもしれない。
「君も、迷惑をかけてすまない」
「いや…むしろおれが、あしをひっぱっちまった」
「君が責任を感じる必要は無い。君はただ、巻き込まれただけの被害者だ」
責任を感じる必要は無い。
……本当に?
人気がなくなった夜の公園のブランコをゆらゆらと漕ぎながら、ぼんやり思考を巡らせる。
『……それにあいつの命日も近いしな。梅宮達も殺気立ってる』
自惚れかもしれないが、もうすぐ桜遥の命日だ。桜が棪堂に負けた日。桜が車で轢き殺された日。
やはり棪堂の言葉は正しかった。賑わっていた街、優しかった東風商店街の人達、街を守るために団結していたはずのボウフウリン。
自分に関わった者は皆、不幸になるのだ。
「……あいたいなんて、おもっちゃいけない」
会って話す権利も、一発ぶん殴る権利もない桜は黙って星空を見上げた。
……本当に、何やってんだよ。お前ら。
Side : 柊登馬
どうしてこうなってしまったのか。
いつからおかしくなったんだろう。
だけど一つだけ断言できる。
全ての歯車が狂い始めたのは、桜遥が死んだ日からだった。
「桜くん!?」
「桜!」
「桜さん、目を覚ましてください!桜さん…!」
目の前で力なく横たわる桜に駆け寄って声をかけるが、返事がない。犯人は車で逃走してしまって、棪堂達はいつの間にか引き上げていた。周囲には桜を呼ぶ声だけが響いている。やがて駆けつけてきた救急隊員が桜の状態を確認し、首を横に振った。
「ふざけんな!まだ間に合う!」
いつもの口調も忘れた十亀が掴みかかる。
「生きてる!さっきまで喋ってた!戦ってたんだよ!あんなに強い桜が、桜が、あっさり死ぬわけ、」
「十亀」
「黙れよぉ!」
吠えた十亀が桜の体に縋り付く。埒が明かないと背後から近づいた兎耳山が意識を絞め落とした。
「ごめんね、でも…俺も、信じたくないから」
桜遥の葬式に彼らは来なかったが、薄情な奴らだとは思わなかった。
柊だって本当は参加したくなかった。
葬式を進めてしまったら、今度こそ、桜遥の死を完全に認めざるを得ない気がしたからだ。
壊れた蛇口のように泣きじゃくる楡井と、静かに涙を流す梅宮達の横で、蘇枋だけは泣かずに、黙って遥の遺影を見つめていたのが印象的だった。
荒れていく街に、離れていく人達に心が動かなくなって行った。仲間たちも皆同じだったからそれが普通になるまで時間はかからなかった。
暴力に熱中した。喧嘩だけが全てを忘れさせてくれた。その時だけ現れる幻が二色の瞳を輝かせて舞うように戦っていたから。
一人分空いた杉下の背中は、誰かを探すように彷徨う桐生の瞳は、虚空に話しかける楡井の姿は日常風景だった。狂っていやがる、と誰かが言った。
確かにそうかもしれない。
でも狂わずにはいられなかった。そうせずには生きられなかった。
蘇枋だけは、以前と変わらず笑っていた。喧嘩中にがら空きの杉下の背中をさり気なく庇い、迷子のような表情でぼんやりする桐生に声をかけ、楡井の独り言に相槌を打っていた。
だから誰も、蘇枋を気にかけなかった。
蘇枋が捕まったのは数ヶ月後の出来事だった。容疑は殺人。死因は撲殺。
腕は反対方向にひしゃげて無数の打撲痕があり、針が打ち込まれ、両目は抉り出されて見るも無惨な様子だったという。
桜を殺した犯人なのだと、面会室で聞いた。
「棪堂に心酔してたらしいよ。見る目がなかったって自分はあっさり捨てられたのに、桜くんに固執しているのが許せなかったんだって」
蘇枋は人を殺した後だというのに淡々としていて、声はやけに凪いでいた。
( それなら仕方ないな )と柊は思った。殺されても仕方がない。むしろ犯人が既に亡くなっているのが悔しかった。自分の手で始末したかった。
凄惨な事件ではあったが、蘇枋がまだ未成年だったこと、さらに被害者が自ら薬物を使用して錯乱状態にあったため、腕が折れたり目を抉り出したのは被害者自身によるものであるという状況証拠が完璧に残っていたことから、懲役数年の実刑判決が下された。
それを伝えた蘇枋は一言、「桜くんに会えるのはしばらく先かな」とだけ呟いた。てっきり蘇枋が拷問の証拠を隠滅したんだと思っていたが、ひょっとしたら死刑になりたかったのかもしれない。蘇枋の考えていることはよく分からない。
その後、桜遥、蘇枋隼飛を失った風鈴は皮肉にも強くなり続け、気がつけば関東で最大規模の反社会組織にまでなっていた。
襲撃者全員を倒して迎えを待つ間、煙草に火をつける。胃薬が効かなくなってから代わりに煙草を吸うようになった。別に長生きする予定もない。脳を麻痺させて体の痛みを誤魔化し続けている。
「柊さん、お疲れ様です」
「おー」
ボウフウリンに憧れて柊についてきたというのに、今や反社の幹部の運転手だなんて、佐狐には悪いことをしたもんだ。
そう言っても優しい佐狐は否定するのが目に見えてるので、柊は黙って後部座席に乗り込んだ。
「…?」
床に何か落ちている。拾ってみると、帽子のようだった。さっきの子供が落としたのか。ほんの少しだけ懐かしく思いながら、何気なく裏を返して、息を飲んだ。
『さくら はるか』
Side : 桜遥
幸いなことに母親は不在だった。従順だった桜が殴り返したから驚いて逃げ出したのかもしれない。
記憶を取り戻した途端にゴミだらけの部屋が気になって、桜は家の掃除に取り掛かった。
とは言え体は小学生。すぐに疲れしまい、知らぬ間に居眠りしてしまっていたようだ。
ドンドンドン!と激しい音で目が覚めた。
「いるんだよねぇ?おーい」
続けて何度も叩かれるドア。
「ほらぁ、さっさと開けてよ」
ダァン!と強くドアが蹴飛ばされて、桜は咄嗟にトイレに身を隠した。
「あーもう…面倒くさいなぁ…なんでわざわざ下っ端の仕事を」
音が止んだ。ようやく諦めたのかと桜が肩の力を抜いた瞬間。
金属の擦れ合う音と共に扉が開いた。
「おじゃましまーす……あれ、子どもの靴?子どもいたんだぁ」
借りた金も返さないくせに、と愚痴る男の足音が近づく。
男は「獅子頭連」と呼ばれる組織に所属していた。
仕事内容は誘拐、恐喝、強盗などの犯罪から薬や女の斡旋、果ては闇金まで。
闇金の仕事は簡単だった。
パチンコとか通信代とか、ほんの少し金に困った浅はかな人間に金を貸し、法外な利息を請求する。もちろん相手は返済に行き詰まって泣きついてくるから、そうすりゃまた貸して付けてやれば永久機関の完成だ。
女は風呂に沈めて、男は漁船か中身をバラして売ればそこそこの値がつく。見目がいい子供は大当たりだった。金持ちのジジイや有名人にだって、やべぇ性癖のヤツらは少なくない。売った後のことは関係ないし。
倫理観は、とうの昔にぶっ壊れた。
“力の絶対信仰”を掲げて弱い仲間を殴る自分を、「何やってんだよ!」と止めてくれたあの子はもういない。
カッコつける必要もない。誰に何と思われてもどうでもいい。
男は鼻歌を歌いながらリビングに入る。女物の派手なコート、ワンピース、化粧品。ブランドバッグは回収するとして、部屋の隅済まで他にめぼしい物がないか探していく。
「んー…何もないなぁ」
男は洋服箪笥の中身を荒々しくぶちまけ、片付けたばかりの部屋を再び散らかしていく。
あと確認していないのは、1番奥のトイレだけだ。
足音が近づく。
「っ、」
桜はトイレの中で息を潜めた。
男がドアの前で足を止める。唐突にスマホが鳴った。
「はい、もしもし?……え、出所したぁ?うん、あー……」
男は慌ただしく部屋を出ていき、トイレの中にいた桜は無意識に止めていた息をゆっくり吐いた。
「…そっかぁ。蘇枋隼飛が出てきたなら、風鈴も焚石んとこも、このまま終わらないよねぇ」
商店街は柊と遭遇したし、家には取り立て屋が来る。
居場所のない桜はあてもなく歩き続け、ふと気づくと繁華街にたどり着いていた。
ネオンがチカチカと目に眩しいが、客引きの姿はまばらで、道路には人がちらほらと歩いているだけだった。
六法一座が守っていたケイセイ街にどこか似ているが、あの街はこんなに寂れてはいないはずだ。
フードを目深に被って歩いていると、不意に向こうから雄叫びのような声が聞こえてきた。大勢の人々がこちらに向かって進んでくる。手にした武器はそれぞれ異なるが、全員が腕にスカーフを巻いているのが目に入った。
周りの人たちが悲鳴を上げながら素早く店や自分の家に駆け込んでいく。桜も逃げようとしたが、反対側からやってくる男たちの白いジャケットに青い竜骨のマークが描かれているのを見て、思わずその場に立ち止まった。
「GRAVELとKEEL…!?」
どちらもかつて倒した相手だった。
両側から押し寄せた集団はすぐに乱闘を始め、桜は小さな体で必死に逃げ回りながら、どうにかして脱出しようと試みる。
「っ、こっち!」
不意に店のドアが開いて、桜は首根っこを掴まれて中に引きずり込まれた。ドアが素早く閉められてガチャリと鍵をかけられる。
「あんた、あんな場所で何やってんのよ!死にたいの!?」
膝を着いて目線を合わせながら、ものすごい剣幕で怒る彼女は。
「……つばきの、」
「あら、私のこと知ってるの?」
「……ぁ、」
無造作に伸ばされた腕が、ひょいとフードを払い除けた。
アイシャドウで彩られた瞳が、みるみるうちに丸くなる。
「……………………………さく、ら?」
「…ちが、」
慌てて背を向けて店の外に出ようとしたが、背後からものすごい力で抱きしめられた。
「さくらぁぁぁぁぁぁぁぁあああ!」
「ぐふぉっ」
「さくら、桜、桜!何でここにいるの!?何でちっちゃくなってるの!?本当に桜よね!?さくら、さくら、私たちの桜……っ!」
「ちょ、ぐるじ…っ」
ぺちぺちと小さい手で腕を叩いて抗議するも空しく、桜はそのまま意識を手放した。
「……………………さくらッ!?」
桜遥が死んだ、ということを椿野は最初受け入れられなかった。
何故なら椿野は棪堂と戦った後、気絶していたからだ。病室で目覚めた時には、全てが終わっていた。
「桜が、死んだ……?」
嘘、絶対嘘。だって桜は強いじゃない。どんな強敵相手でも最後は必ず勝っていた。喧嘩だけじゃない、その強い心を見込んだからこそ、椿野は棪堂を桜に任せたのだ。
「何つまんない死に方してんのよ、バカ」
葬式の日、遺影に向かって呟く。
散々泣き腫らした目は赤くなっていて、きっと今までで1番可愛くない。
ねぇ桜、何ムスッとしてんのよ。こんなに大勢の人に愛されてるんだから、いつもみたいに真っ赤になって照れなさいよ。
楡井は会話の途中、視線が横へと流れ、不自然に言葉が途切れることが多くなった。
梅宮は大好きな植物のお世話をやめて、食事の量が著しく減った。
柊は胃薬の量が増えて、杉下は喧嘩の際に見えない誰かと競うかのように無茶をするようになった。梶はいつもの爆音の代わりに、ずっと誰かの声を聞いている。
唯一蘇枋だけはあまり変わっていないように見えるけど、少し口数が減って、冗談も言わなくなった。
「あのバカ、本当にバカ。任せたって言ったのに、何いなくなってんのよ」
「桜くんは、」
いつの間に隣にいた蘇枋が呟くように言った。
「棪堂に勝ちましたよ。ちゃんと倒して、棪堂の誘いを断って、俺らとずっと一緒にいると言っていました」
「当たり前じゃない」
「はい。桜くんが……、俺たちの桜くんが、俺たちを捨ててどこかに行くわけがない」
一瞬、蘇枋の瞳が底なし沼のように見えて、ぞっとした。
「……蘇枋?」
「はい」
次の瞬間にはいつもの蘇枋に戻っていて、ただの目の錯覚かとほっと息をつく。
「無理だけはしないでよね」
「大丈夫です」
「本当に?だってあんた……」
あの決戦の前の晩、桜と約束してたじゃない。
「終わったら話があるんだ」って少し緊張した面持ちで話しているのを、偶然聞いちゃったの。
桜に特別な想いを抱いてるのは他の奴らだってそう。でも蘇枋は伝えるつもりだったんじゃないの?
「……なんでもないわ。大丈夫ならいいけど、溜め込みすぎないようにね」
蘇枋はきょとんとしながら頷いた。この中では一番、蘇枋が元気そうに見えた。
だけど椿野は、他の見るからに落ち込んでどうしようもないメンバーよりも、一番蘇枋のことを気にかけていた。
無自覚なのか、意図的に抑え込んでいるのか分からないけれど、冷静で行動力もある分、一番目を離したらいけないと思った。
しかし、桜が抜けた穴は大きくて、風鈴高校の統制は揺らぎ始めていたし、あれ以来獅子頭連とは交友関係が断絶していて、学年も違う蘇芳のことばかりを見ているわけにもいられなかった。
だから数ヶ月後、蘇枋隼飛が人を殺した、と聞いた時「やっぱり」と心のどこかで納得してしまったのだ。
「さくらぁぁぁぁぁぁぁぁあああ!」
「ぐふぉっ」
「さくら、桜、桜!何でここにいるの!?何でちっちゃくなってるの!?本当に桜よね!?さくら、さくら、私たちの桜……っ!」
思わず強く抱き締めすぎてしまって、絞め落としちゃったのはご愛嬌。
「桜、どうしてここにいるの!?しかも何で子どもになってんの!?」
「しらねー。きづいたら子どもになってた」
「手、ちっちゃい!可愛い!」
「やめろよ」と逃れようとする体をぎゅっと抱きしめて頬ずりする。頬っぺ、ぷにぷに。あ、赤くなった。
「〜っ、やめろって!」
ぽこぽこと腹を殴られても痛くも痒くもないんだけど。とうとう諦めたのか、桜は抱っこされたまま尋ねた。
「……おまえこそなにしてんだよ」
「ああ、ここは私の店なのよ。私、オーナーになってるわけ」
「お、オーナー!?」
「そう。ここでお酒を提供したりミュージシャンを呼んだり、たまに自分でもポールダンスをしてるってわけ」
「へーすごいな!」
キラキラとこちらを見上げる瞳が眩しくて、コホンと咳払いをする。
「それで、桜こそ何でここに……」
言葉を遮るように、階下でガシャンと派手な音がした。
「チッ…大事な話の途中でしょうが」
「だいじょうぶか?」
「多分窓が割られたわね。最近はよくあることだから気にしなくていいわ」
「よくあること…さっきのやつらは一体なにものなんだ?あのふくとスカーフはまるで」
「桜の推察通り。再結成したGRAVELとKEELよ。…と言っても今や別物。以前とは桁違いに危険な犯罪者集団だけどね」
「なんだよそれ…」
「色々あったのよ」
そう、色々あった。
桜が死んで、皆が少しずつおかしくなって、喧嘩に依存するようになって。ボウフウリンが解散するまで大して時間はかからなかった。
どうしてもあの頃の風鈴を忘れられなかった椿野は彼らと別れて、この街に流れ着いた。
本当は大好きな東風商店街を守りたかったが、四天王として名が知れてしまった椿野が街に留まると、かえって危険に巻き込む可能性があるので諦めた。
元風鈴高校のメンバーは反社会組織「風鈴組」を設立したが、それに対抗する形で棪堂達も別の組織を設立し争いは激化している。桜の存在が知られたらまずいのは火を見るより明らかだ。
「今の風鈴は危険よ。絶対に近づいちゃいけない。特に桜、あんたはね。見つかったら何されるか分からないわ」
誘拐、監禁、陵辱。彼らの桜に対する執着を思い浮かべる椿野に対し、桜はそんなに恨まれていたのかと顔を青ざめさせる。
「なぁに、安心して。あんたは絶対に私が守るから。頼りになる先輩に任せなさい」
桜。私たちの桜。
一度は失ったはずの太陽が今腕の中にある奇跡に胸がいっぱいになる。
「大好きよ、桜」
柔らかな頬に唇を寄せると、真っ赤になった桜は幼子がむずかるように身を捩った。
桜の「もう二度と関わらない」メンバーに自分まで含まれており、この後逃げようとされてブチギレることを、椿野はまだ知らない。
・桜遥(こどものすがた)
145話で絶望し、棪堂に着いていこうとしたら殺された。
記憶を取り戻すまで母親に虐待されており、体には火傷や傷跡が無数にある。
・棪堂哉真斗
ようやく手に入れたものを目の前で奪われた。手に入らなかったものほど欲しくなる。桜に異常に執着している。
とある組織を設立し風鈴組と対立している。
・十亀条
桜が死んだ日から風鈴との交友関係を断絶し、反社会組織「獅子頭連」を設立した。
悪いことをしてしまうのは誰かに止めて欲しいからかもしれないが、その子はもういない。
・柊登馬
胃薬はとうの昔に効かなくなった。
間違った道を歩んでいることに気づきながらも、前に進み続けることしか出来ない自分が歯痒い。
『さくらはるか』の帽子を拾った。
・蘇枋隼飛
壊れていく皆を支えながら、誰よりも平気そうに見えて静かに狂っていった人。計画を誰にも悟られずに復讐を果たした。
死ぬ前、桜と何か約束をしていたらしい。
俺の桜くんは絶対に負けないし俺を捨ててどこかに行かない。
Side : 梶蓮
人が人を忘れる順番は最初に声、次に顔、最後に思い出を忘れるらしい。
だから俺は、何度も何度も、あいつの『声』を聞き続ける。
あいつがいなくなっても、時間は止まることなく過ぎていく。
自分のことで精一杯だった。誰かを気にかけている余裕なんてなかった。
あいつだけが居ない空間が余計に際立つように感じられて、自然と屋上から足が遠のいた。だから気づくのが遅れた。
最初に壊れたのはきっと、楡井だった。
久しぶりに皆で集まって食事をしながら話していると、楡井が「……そうですよね!桜さん」と振り返った。
一瞬、時が止まった。
楡井は何事も無かったかのようにニコニコして続けた。
「…ですよね。分かります!」
「……おい「梶」
遮るように柊がそっと肩に手を置く。周りは見て見ぬふりをしていて、この光景が日常の一部なのだと理解した。
「へぇ。俺はこっちが好きかも」
「やっぱり!蘇枋さんはそう言うと思いました!……え、そうですか?」
「桜くん、何て?」
「蘇枋さんはこれも似合いそうですって」
さも当然のように蘇枋が交ざる。その笑顔は何を考えているのかまるで読めない。
不自然に間が空く二人の会話に耐えかねて、ヘッドフォンで音を遮断した。
『桜くん桜くん、はい、チーズ』
『えっ、ちょ』
『………なーんてね。動画だよ』
『蘇枋、お前なぁ!』
その明るい声が好きだった。嘘のない真っ直ぐな言葉が好きだった。
もうその声で、自分の名前が呼ばれることはない。
***
「梶。ちょっと今時間あるか?」
組の会合が終わると同時に、柊に呼び止められた。部屋を指し示されどうやら内密の話があるようだ。椅子に座るなり世間話もそこそこに柊が尋ねる。
「東風商店街の辺りの住民データって持ってるか?」
「…確かあの辺は楡井の管轄ですね」
「よりにもよって楡井か……」
「東風商店街が何か?」
随分と懐かしい名前だ。風鈴組の規模が拡大して以降はすっかり足が遠のいていたので何か問題が起きたのかと思ったが、どうやら違うらしい。
「いや、その」
「…」
「あー…」
しばし言い淀んだ後、柊は躊躇いがちに言った。
「……お前にだけ、伝えておくが」
その直後、信じがたいことを告げた。
「桜遥の、弟らしき人物を見つけた」
「………………………は?」
曰く、商店街で不良に立ち向かっていた小さな子どもが「さくらはるか」と書かれた帽子を被っていたらしい。
「同姓同名の別人の可能性は?」
「そうそうある名前じゃないだろ。それにここ数年の商店街の様子は知らないのに、俺や梅宮、もう何年も前に解散したボウフウリンのことは知っていた。小学生のガキが俺の顔を見て一瞬でボウフウリンと結びつけるのは、誰かに話を聞いていたと考えるのが妥当だ」
「桜の身内か、少なくとも関係者」
「そういうことだ」
桜に弟がいたなんて話は聞いたことがない。二人きりで話す機会は少なかったし、一年も満たない間にいなくなってしまったから。
そう、一年もない。たったそれだけの短い時間だったのに、桜は一生忘れられない大切な思い出と、どんなに時間が経っても癒えない心の傷を残して消えた。
眠る度に夢を見た。ありふれた幸せな日常の夢はいつも桜が死んで目が覚めた。
夜が来るのが怖くなって、一人の時は一睡もできなくなった。気がつけば周りは敵だらけで信頼できるのは風鈴のメンバーだけだったから、梶が風鈴組に入ったのは必然だった。
「念の為調べますか」
「頼んでもいいか?」
「分かりました」
「助かる。…くれぐれも、」
「内密ですね」
「ああ。特に楡井には気取られるなよ」
「了解です」
なぁ、桜。
どうせいなくなるなら、こんな気持ち知りたくなかった。
鈍色の刃が煌めき、悲鳴が上がる。頭のバンダナが揺れて、眼帯に覆われていない方の瞳には、冷ややかな光が宿っている。
「がん゙わ゙い゙い゙いいいいいいいい!!」
「〜〜〜〜ッ、うるせぇ!」
もういいだろ!と桜が投げ捨てたのは海賊の衣装。下にはもこもこくまさんやうずまき忍者、復活マフィアの衣装が無造作に積み重なっている。そもそも何でバーに子どものコスプレ衣装があるんだよ。
「ふつうのふくはねぇのかよ」
「あるわ」
「あるのかよ!さいしょからそっちよこせよ!」
「途中まで桜もノリノリだったじゃない」
「うぐっ」
蘇枋がいつも眼帯を付けてるから、一度自分も付けてみたかったなんて言えない。
「あーもうちっちゃい桜、本当に可愛すぎ。ぎゅーっ」
「やめろ、ばか!頭なでんな!だきつくな!」
「私の数年分の愛をとくと思い知りなさい!」
「ぎゃぁぁぁぁぁあああああああ!」
椿野は小さな桜を抱きしめる度にその体温にホッとして、どうしようもなく泣きたくなるのだ。
「いいか?ぜったいにみるなよ?ぷらいばしーだからな」
「はいはい。小さくても男の子だもんね」
「ガキあつかいすんじゃねーっ!」
見た目は子どもと言えど、中身が高校生の桜は着替えるところを見られたくないのだろう、と椿野は微笑ましく思うが実際は違った。
「(こんなからだ、みせられねーし)」
全身に打撲の跡。切り傷。根性焼き。記憶を取り戻すまで母親に虐待されていた桜の体は酷いものだった。かつては皆と肩を並べて戦っていた自分が、実の母親に傷だらけにされているなんて情けなくて言えなかった。
「桜、着替えたら下に来てね」
「おー」
まだ店はオープン前だったらしく他の客の姿はない。桜は湯気の立つオムライスを受け取ると、ケチャップで描かれた大きなハートを即座にぐちゃぐちゃにした。
「そう言えば、桜こそ何でこんな街にいたのよ。今は小学生ぐらいよね?学校は?」
「今日はきゅうじつだからな。さんぽしてたらここについた」
「こんな治安悪いとこ来ないで、子どもらしく友達と遊びなさいよ」
「ともだち…」
桜は人と異なる髪色と瞳のせいで周囲から疎まれ、拒絶されてきた。今世でもその状況は変わらず、学校では浮いた存在として周囲から距離を置かれている。
だが正直なところ、精神年齢がかけ離れている同級生たちとは話が噛み合わないので避けられるくらいがちょうどいい。それに。
「ともだちなんていらねぇ。俺のなかまはあいつらだけだ」
「桜……」
「そんなかおすんなよ。もうかかわらねぇってきめてるから」
自分と関わる者はみんな不幸になるのだ。
それにあの日棪堂が言ったように、奴に敗北し、託された思いを無駄にしてしまった自分はもうみんなと顔を合わせる資格はない。
「はーもう辛気臭い話はやめやめ!あんたはいつもみたいに前だけ見てなさい!」
「だからガキあつかいすんなって!」
だけど、今だけは笑っても許されるだろうか。こんな俺が、喜んでしまってもいいんだろうか。
椿野に会えて、良かったって。
***
中身はともあれ、桜遥はれっきとした小学生である。つまり義務教育が課せられている。
「がっこう、めんどくせぇ……」
「なぁに言ってんの。子どものうちにいっぱい勉強も運動もして、基礎づくりをしておくのも大事よ」
「だってさんすうとか、かんじドリルとかさすがになめてんだろ…」
バックミラー越しに見える不機嫌な桜の表情に、椿野は苦笑いを浮かべた。
ここ最近の治安の悪さもあり、再会してからは桜が何を言おうが、近所のコンビニまで送り迎えをするようにしている。
本当は家の前まで迎えに行きたかったが、親に心配をかけるかもしれないと断られた。不服だったが、今世の彼が両親に恵まれているのならとやかく言う必要はないだろう。
「悪いけど、今日は用事があって帰りは迎えに来れないの。だから寄り道せずに真っ直ぐ帰って、家に着いたら電話すること」
「わかってるって」
そんな会話をしたのが今朝の出来事。
桜は自身の巻き込まれ体質を甘く見ていた。
校門を出て百メートルほど歩いた時、ふと目に入ったのは歩道の先に停まった車だ。少しだけ嫌な予感がしたがわざわざ引き返すほどでもないと思って、その車の横を通り過ぎようとした瞬間。
「桜くん、だよね?」
突然、車のドアが開きハンカチのようなものが口元に押し付けられた。桜は反射的に抵抗しようとしたが、小学生の体では大人の力に勝てるはずもなく、すぐに意識が薄れていった。引きずられるように車の中に押し込められ、勢いよくドアが閉まった。
***
今日はお得意様との会談が長引いてしまった。本当は桜を迎えに行きたかったが、どうしてもオーナーの椿野が対応しなければならない相手だったので断念した。ようやく仕事が終わり、桜の自宅に電話をかける。1コール目、2コール目、3コール目。
『ただいま、留守にしております。発信音の後でお話ください……』
無機質な機械音が鳴り響く。
もしかしたらトイレにいて出られないのかもしれないし、ただ昼寝をしているだけかもしれないし、どこかに寄り道している可能性もある。
「さくら…………?」
しかし、いくつもの可能性が頭を過ぎる中で嫌な予感が胸中に広がった。
***
硬い感触で目が覚めた。どうやら床に転がされていたらしい。子どもだからと侮られているのか、拘束はされていなかった。窓には頑丈な鉄格子がはめられており、薄暗い室内に微かな光が差し込んでいる。
一つだけあるドアに近づくと外で誰かが話しているのが聞こえた。
「はい、だから女のガキを捕まえたんですって。……はい。まぁバラすのもありですけど、なかなかにジジイ受けそうな面してんすよね。何せ、珍しい色の髪と目で……はい、待ってます。………………だーっクソが!下手に出てりゃあいい気になりやがって!死ね!死ね!死ね!」
頭を激しく掻きむしり、何かを叩くような音やガラスが割れる音、意味をなさない呻き声が聞こえて咄嗟に身を引く。
「あれ、起きてんじゃーん」
しばらくしてドアが開くと、入ってきたのは奇妙なほど上機嫌な男だった。傷んだ金髪に煌めく派手なピアス、そして頬には大きなガーゼが貼られている。「前」も含めて見覚えがない。
「…だれだ」
「そんな怖い顔すんなよ、桜くん?せっかくのかわいい顔が台無しだぜ」
「なんで俺をゆうかいした」
「イキがるねぇ。恨むんならお前の母ちゃんを恨めよ?散々借金作りまくって、返せなくなったらガキを捨ててトンズラだもんなー?」
「…そういうことかよ」
「あれ、泣かねーの?…つまんねェなァ!」
今さらだった。もはや驚きすらしない。
当てが外れた男は苛立ちを隠さずに部屋の壁を乱暴に蹴りつけた。突然の大きな音に桜はビクリと肩を震わせる。
「ん〜まぁ、別にいっか。お前の臓器をバラして売っちゃえば母ちゃんの借金なんてスパーンと消えるしぃ、むしろお釣りがドバドバ来るレベル♡それに、これから来る十亀さんも、ぜったい喜ぶだろうしさァ!」
「……とがめってまさか、」
「あれ、ガキでも知ってんの?そうそう俺たち、あのコワ〜い獅子頭連の一員だぜ?」
風鈴の四大幹部が襲われたんだから、報復するのは当たり前だった。仲間のためなんて綺麗な理由じゃなくて、組のメンツのため。この世界は舐められたら終わりだ。やられた分はやり返す。今の自分たちをあの人が見たらどんな顔をするんだろう、だなんて。
“あの人”の目の前でこんなことするつもりはないけれど。
「もしもし」と運転しながらかけた電話はワンコールで繋がった。
「現在、十亀さんの車を追跡してます。信号を右に曲がりました。やはり組のアジトには向かってなさそうですね」
【了解。車の走行ルートから過去の行動パターンを解析すると、よく顔を出しているフロント企業や彼らのシマの風俗街があるけれど……本命は最近クスリの取引場所に使われている倉庫かな】
「分かりました。先回りして倉庫に向かいます」
【了解。他のメンバーも回しておくね。くれぐれも気をつけて、にれくん】
「分かりました。……蘇枋さん」
電話を切って右折する。やはり彼の判断は的確だ。蘇枋が出所してからと言うもの、ここ最近押され気味だった風鈴組は一気に戦況をひっくり返した。
梅宮達も張り切っている。毎年今の時期は特にそうだった。
「……、」
胸元の銃の感触を確かめる。金属の冷たさが心地よく、手のひらにしっかりと馴染む。
善悪の区別なんてとうの昔につかなくなっていた。目的はない。信念もない。麻痺した体を突き動かすのは、棪堂達を徹底的に叩き潰すという誓いだけだ。
その過程で障害となるなら、かつては友好関係にあった獅子頭連でも容赦しない。
風鈴組、国崩組、そして獅子頭連。
桜が死んだあの日をきっかけに彼らは決別した。 風鈴は桜が死ぬ原因になった棪堂達を許せなかった。やるせない思いの矛先を復讐に向けなければ生きていけなかった。
棪堂は焚石の消えた灯火をつけるためなら何でもやった。それが口実に過ぎないことに、本人も気づかなかった。
獅子頭連は繰り返した。またあの時みたいに桜が止めに来てくれるんじゃないかと夢想した。
女、薬、誘拐、恐喝、強盗、さらには殺人と、あらゆる犯罪に手を染めた史上最悪の犯罪者集団。それが今の彼らだった。
「…」
「あっれれ~?桜くん、もしかして怖くなっちゃったァ?」
やっぱり信じられなかった。喧嘩をしていたとしても、そこには揺るぎない信念が存在していた。傷つけるためではなく守るために戦っていた彼らが、強盗や殺人を平然と行っているなんて信じたくなかった。
「…べつに」
「あぁん!?何だよその態度!」
「ッ、かはっ」
突然激昂した男に腹部を殴られ、桜は体をくの字に折り曲げた。
衝撃で男のポケットから小瓶が転がり、中から大量のカラフルな錠剤が出てきた。違法薬物。情緒不安定の理由はこれか。
「どいつもこいつも俺を見くびりやがって!テメェのクソババアが逃げたせいで、俺は上の奴らにボコボコにされて、他のゴミ共に失敗したってバカにされたんだよクソが!」
唾を飛ばしながら男が怒鳴る。よく見れば男は頬だけじゃなく、手足にも包帯を巻いていた。
「全部全部、テメェのせいだ……全部テメェが悪いんだ……俺は何も悪くねぇよな!そうだよなァ!?」
イカれた目をこちらに向けて男が叫び散らす。口から漏れる荒い息と震える指先が、男がまともな状態ではないことを物語っていた。
「っ、」
「逃げんじゃねぇ!!」
咄嗟に逃げようとした桜の腕を、男の手がしっかりと掴んだ。力任せに地面に押し付けられ、男の拳が容赦なく腹に振り下ろされる。
鈍い音が響き、痛みと共に息が止まりそうになる。殴られる度に視界がぼやけ、強烈な痛みが身体を駆け巡る。こちらを見下ろす男の目は完全に理性を失っていた。
このままだと殺される、そう思った。
「〜〜〜ッ、はな、せ!!」
無我夢中で振り回した桜の指先が、ぐにゃりと何かを刺した。男は火傷したかのように飛び退き、片目を押さえて悶絶している。その隙に桜は開いたままのドアから飛び出した。外に出るとそこは倉庫のような場所で、大量の木箱や袋が積まれていた。
「待てやゴラァ!!!!」
血走った目の男が追いかけてきた。桜は咄嗟に近くにあった木箱の影に身を潜める。
「クソガキ…………やがって……たいに許さねぇ……」
男の声が近づく。
「……すぐ……十亀さん…来る……捕まえないと、」
目の前で、音が止まった。
木箱がゆっくりと動かされ、眩しい光が差し込んでくる。
男が木箱の隙間からこちらを覗き込み、ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべていた。
「見つけた」
その声を発したのは、目の前の男じゃなかった。
「もうどこに行ってたんですか桜さん。ずっと探してたんですからね。すぐに戻ってくるって言ってたじゃないですか。え、俺ですか?いやまさか、疑ってたわけじゃないですけど。だって桜さんは最終的には俺の所に戻ってきてくれる。ねぇそうでしょう?桜さん。
だけど今は少しだけ、目を瞑っててくださいね。
桜さんには汚いものは見せたくないんです。」
「はー……自分よりおかしい奴見ると、さすがに正気に戻るねぇ」
銃をこちらに向けたまま、虚空に話しかける楡井に両手を挙げた十亀が呟く。
「おかしいなんて、絶体絶命のこの状況でよくそんなことが言えますね」
楡井は眉をひそめた。
倉庫の周囲は風鈴組に完全に囲まれており、まさに袋の鼠だ。逃げ場がなく絶体絶命の状況のはずなのに、何故か十亀は余裕を崩さない。
「おかしいよぉ、誰が見ても。もしかして皆に気ぃ遣われてて、言われたことない?」
「は?」
「”それ”やってて空しくならないのぉ?って」
「……何の話です?」
「ずーっと何もない所に話しかけてるけど、空しくならないのって話だよぉ」
「……」
「だって桜は」
突然天井の電球が破裂し、周囲の袋が次々と爆発し始めた。ハッと我に返って前を見れば、十亀の姿は既に消え失せていた。どこかで発煙筒が作動したのか、煙が辺り一帯を覆い隠していく。どうやら倉庫には非常時のための罠が仕掛けられていたようだ。
「くっ、」
応援を多く呼んだのがかえって裏目に出た。煙と人の混乱に紛れて逃げられてしまうかもしれない。でたらめに銃を乱射するわけにもいかず楡井は声を張り上げた。
「絶対に奴を取り逃がさないでください!」
扉越しに遠くで爆発音が響き渡り、バタバタとした足音が徐々に遠ざかっていく。ここは倉庫から少し離れた廃工場で、朽ち果てた機械や散乱した資材が放置されている。
床の一角には、桜を攫った男が気絶した状態で縛られ転がされていた。
「もうだいじょうぶだって」
「…」
「きいてるか?おーい」
「…」
「かじ!」
「…………………………ッ、聞いてる」
ああ、やっと、名前を呼んでくれた。
桜だ。桜遥だ。
弟なんかじゃないと梶は直感的に分かった。
ゆっくり近づいて、抱きしめようと腕を伸ばしたところで躊躇した。これがまた夢だったら?抱きしめた瞬間に血だらけの遺体に変わっていたら?
「〜〜〜〜ッ、あーもう!」
桜は焦れた様子で顔を赤くし、チッと舌打ちしてから両腕を広げた。
「ほらよ」
「………………………………………さくら、」
抱きしめた体は記憶よりずっと小さく、柔らかい。おずおずと壊れ物を扱うように腕を回す梶に、桜は仕方なさそうに背中に小さな手を置いてぎゅうぎゅうっと強く抱きついてきた。
「なんで、小さくなってんだよ、」
「きづいたらこうなってた」
「なんで、いなくなったんだよ…っ」
「くるまにはかてねぇ」
「なんで、」
この言葉を言ったら、桜が傷つくのは分かっていながら口にした。
「なんで今さら、俺たちの目の前に現れたんだよ……ッ」
激化する国崩組との抗争に没頭することで、あの日の記憶を無理矢理押し込め、どうにか前に進もうとしていた。痛みに叫ぶ心を押し殺し、自分を誤魔化しながら、何とか毎日をやり過ごしていたんだ。
蘇枋も釈放され、ようやく皆が新たな一歩を踏み出そうとしたところだったのに。
なぁ桜。ありもしない再会を夢見てたのは俺たちだけかよ。ずっと囚われてるのは俺たちだけかよ。生まれ変わっていたならもっと早く会いに来いよ。何で今になって、このタイミングで。
「…っ」
桜の顔が悲痛に歪む。
「…………わるい。もうにどとかかわ…」
「絶対に許さねぇ」
そう簡単に許してやるものか。桜をさらに強く抱き締めた。とくんとくんと鳴る小さな心臓の音に耳を澄ませながら、耳元に口を寄せて呪いの言葉を吹き込む。
「お前がいなくなったせいで、みんなおかしくなった。柊さんは生き急いでるし、蘇枋は取り返しのつかないことをやっちまって、楡井はとっくに狂ってる。…俺も、一人の時は一睡もできねぇ体になっちまった」
ぷっくりとした頬を両手でそっと挟む。傷ついたように揺れる瞳と見つめ合った。
「だから、もう二度と……ッッ、俺の目の前から、いなくなるな……!」
途中で涙がボロボロと溢れてきて、声がみっともなく震えた。くっそ、締まらねぇ。
そんな俺に桜は「なきむしだな」と軽口を叩いていたが、瞳は潤み、顔は真っ赤に染まっていた。存分に照れてろ、先輩不孝者。
今度こそいなくなったら死ぬかも、と半分本気で言うと冗談だと思ったのか呆れた顔をする桜にムカついたので、小さな唇にぶちゅっとキスをすればギャーッと可愛くない反応が返ってくる。
「お、おれの、ふぁーすときす……っ」
「ファーストキスとか知ってたんだな」
泣きべそをかく桜に上機嫌になる。脳裏を過ぎるのは食えない元副級長の黒い笑顔だ。
前世では何かと牽制されて、予定を数ヶ月先まで埋められて、二人きりの時間も散々邪魔されたからな。まだ告白すらしてない癖に、お前は桜の何なんだと何度言いかけたことか。
これぐらいの意趣返しは許して欲しい。
「桜」
「ん?」
「桜」
「どうした」
「桜」
「だからなんなんだよ!」
「呼んだだけだ」
そう言って笑えば、桜がムッと唇を尖らせて。
「かじ」
「…」
「かじ」
「……、」
「かじ」
「………なんだよ」
人が人を忘れる順番は最初に声、次に顔、最後に思い出を忘れるらしい。
再会した桜の声は記憶よりもちょっと高かったけれど、その声が前と同じ高さになって、嗄れたお爺さんになるまで一緒にいればいいだけの話だ。
「よんだだけだ!」
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
毎年この時期になると、何故か周囲はピリピリしていて、風鈴組の空気は張り詰めている。
俺も例外ではなく、朝から頭痛が酷くて耳鳴りが止まらない。医務室のベッドに横になっていると桜さんが心配そうにこちらを見ていた。
桜さん。大丈夫ですから、そんな顔しないでください。
桜さんは滅多に怒ることはなくて、とにかく俺を甘やかすからいけない。甘やかしたいのは俺の方ですって抗議するけれど、返ってくるのはいつもきょとんとした顔だけだった。
「……はい。そうですね、ちょっと、ねむいです」
金属を爪で引っ掻くような耳鳴りに混じって、車のクラクションと誰かの叫び声がずっと頭の中に響いてることに、気づいてはいけない。
気づきたく、ない。
まどろみから目を覚ますと、桜さんは変わらず隣で俺を見守るようにベッドの横に立っていた。一緒に眠ってくれても良かったのにと思うけれど、添い寝なんてしようものならドキドキしすぎて眠気が吹っ飛んじゃうから多分これが正解だ。
医務室を出ると、廊下の向こうから見覚えのある人物が歩いてくるのが目に入った。
「蘇枋さん」
声をかけたが返事がない。少し疲れているのかもしれない。
蘇枋さんは国崩組壊滅に向けて、最近は特に精力的に動いている。情報撹乱や薬の密売ルートの封鎖、傘下のアジトへの襲撃。
作戦立案は蘇枋さんの十八番だ。俺はそれを全力でサポートする。高校生の時のように三人でなら何でもできる気がした。たとえ目の前に広がる道が地獄に通じていても、三人でならどこまでも進んでいける。
そうですよね、桜さん。
「……あ、にれくん」
「蘇枋さん…?」
「うん」
「何かいいことありました?」
「……あれ、バレちゃった?」
蘇枋さんはいつもにこにこしているけれど、今日はその比じゃないほど幸せそうに、ふわっと花が綻ぶように微笑んだ。
「すっごく、いいことがあったんだ」
まるで恋する乙女のように、その瞳はとろりと蜜を溶かしたような甘さで満ちていた。
「そうなんですか」
「うん」
蘇枋さんが嬉しそうなのは、俺も、嬉しい。
・さくらはるか(こどものすがた)
ご存知みんなの太陽。梶の心を救ったがそもそもの元凶はこいつである。
・梶蓮
この後小さい桜くんをぎゅうぎゅう抱きしめて久々にスヤァした。
救われたけどまだ不安定なのでちょっぴりヤンデレの素質がある。この後全力で桜くんを囲いこもうとしてくる。超絶過保護レベルMAXな保護者兼彼氏面(ショタコン疑惑)。
・楡井秋彦
地獄の底でイマジナリー桜くんといっしょ。
・十亀条
ずっとニアミスしてる。
楡井が分かりやすくやべぇだけでこいつも十分やべぇメンタル。
・蘇枋隼飛
もういいかい。まぁだだよ。
廃工場から梶のセーフハウスに連れてこられた桜は、両手でオレンジジュースを持って、ストローでちゅうちゅうと吸い込んだ。大きなソファにちょこんと座り、足がぷらぷらと揺れている。
じっと穴が開きそうなぐらい見つめていると、「なんだよ」と記憶よりも高い声とジト目が向けられる。
「なんかいいたいことあんならいえよ」
「本物の桜だよな?」
「あ?…………いや、ひとちがいだな。やっぱかえるわ。…おい、なんでなかからあかねぇんだよ!」
「本物だな」
こんなガラの悪い子どもがいてたまるか。
ちなみに入った時に鍵はちゃんと閉めておいた。ここのセキュリティは万全で、有事の際には立て篭れるようになっている。
内側からのロックを解除できるのは梶のみ。食事も贅沢をしなければ2週間は余裕だ。
「ほら、手当てしてやるからこっち来い」
「…っ、いい」
「は?」
「だいじょうぶだから、てあてはいらねぇ」
自分を守るようにクッションを抱きしめて後ずさる桜に唖然としていた梶は、たちまち凄みのある表情に変わった。
「桜……テメェ」
「っ、」
「手当させろやクソガキ!!!!!」
「ぴぎゃっ」
逃げようとした桜がカーペットの端に足を取られて、すっ転ぶ。暴れる桜の足を押さえつけ、殴られた腹を確認しようとTシャツを捲った。
「……………………………………は?」
先ほど殴られたばかりの箇所は痛々しく腫れ上がっていて、やはりあの男は始末すべきだったと後悔する。桜に止められなければ間違いなくやってた。だが、問題はそこではない。
「……これ、なんだよ」
無数の切り傷や火傷の跡。煙草を押し付けた根性焼きのような跡まで残っている。古いものから新しいものまで。おそらく昨日今日ついたものではない。
桜が気まずそうに目を逸らす。
「そ、それは」
「………………どういうことか、説明してくれるよな?」
無表情でこちらを見下ろす梶は、ぶっちゃけ本気で怒った梅宮よりも怖くて、幼い桜は危うくチビりそうになった。
***
桜遥が死んでから、梶は目に見えて憔悴していた。それを意外に思う者もいたようだが、柊はすぐに納得した。
梶は級長として、後輩の桜を特別気にかけていたからだ。もしかしたら昔の自分を重ねていたのかもしれない。
たまに屋上で、特に会話をすることもなく、各々別のことをしながら、肩が触れるか触れないかの距離で並んでいる姿を見ることがあった。──すぐに他の奴らがやって来るので、二人きりの時間はそう長くは続かなかったが。
廊下でクラスメイトと話している時も、ご飯を食べている時も。ふと気がつくと、梶の視線の先にはいつも桜がいた。
「なぁ梶、」
柊がこの疑問を口にしようと思ったのは、可愛い後輩の手助けをしてやりたい気持ちと、ほんの少しの好奇心が交じっていたからだった。
「お前、桜のこと…」
「…?はい」
「桜のこと、どう思う。…級長として」
言葉が勢いを失った。
「そうですね」
梶は戸惑ったようにして、ふと教室の窓から外を見た。陽気な昼下がりの校庭で、桜、楡井、蘇枋の三人が話している様子が目に入る。
梶は普段から多くを語らない。余計なことを聞かないように、話さないようにして生きてきた。しかし代わりにその瞳が、雄弁に語っていた。
「…あいつはきっと、いい級長になりますよ」
思わず、息を呑む。
どうしようもなく愛おしくて仕方がないと言わんばかりの、大切な人を見つめるような眼差し。口元が微かに綻んで、目尻が優しく下がり、まるで春の陽射しのように柔らかい表情だった。
「……お前、そんな顔できたんだな」
「え?」
「いや、何でもない」
怪訝そうな顔をする当の本人は、ひょっとしたらまだ自覚していないのかもしれない。だけどこの芽生えた感情が美しい花を咲かせることを、柊は願わずにはいられなかった。
「……、」
やけに生温い視線に耐えきれなくなった梶は、誤魔化すように飴を口に放り込んだ。
ゆっくり舌の上で転がして、眉根を寄せる。やっぱり自分には甘すぎる。
「(……後でアイツに押し付けるか)」
窓の外では、蘇枋が何かを耳打ちしていて桜が顔を真っ赤にして怒っている。あたふたする楡井は二人の間で板挟みになっているようだ。仲がいいのがひと目でわかる。
むしろ、良すぎるぐらいで。胸の奥が、ジリジリと焦げ付くような感覚が広がった。
あいつがあと一年生まれてくるのが早かったらどうなっていたんだろうか、と考えかけて、やめた。
梶は梶で、蘇枋にはなれない。
桜が亡くなってから、梶は心を閉ざすようになった。目を閉じて、ヘッドフォンから聞こえる音にだけ耳を澄ます姿は、まるで現実から目を背けているようにも見えた。
一人で眠れなくなった梶が、誰かの動画──正確には、誰かの”声”を繰り返し聞いていることに気づいた時、もう戻らないのだと理解した。
あの時、桜を見つめていた時のような顔をする梶は、戻ってこないのだと。
「『さくらはるか』を捕獲しました」
柊は連絡を受けてすぐ、梶のセーフハウスに向かった。外から守るように張り巡らされた要塞のようなセキュリティが解除されるまでの時間がもどかしく感じられる。廊下を駆け抜け、寝室のドアを勢いよく開け放った。
「桜……!」
「手当すっから、さっさと下もっ、脱ぎやがれ!」
「〜〜〜〜〜ッ、やめろって、この、へんたい!!」
パタンと扉を閉める。
元気は取り戻して欲しかったが、子どもの服を嬉々として剥ぐショタコンみたいな後輩は見たくなかった。
「ひいらぎ!たすけろ!」
「うぉっ」
勢いよくドアが開いて、半裸の体にシーツを巻き付けた桜がコアラの赤ちゃんのように足にしがみつく。それを見た梶は般若の形相だ。
「……は?やっぱり俺より柊さんがいいのかよ。そうやって他の人間に尻尾振ってまた俺の前からいなくなるんだな。なぁ桜、お前がいないともう息の仕方も思い出せねぇんだ。お前がいない世界なんて生きる意味がねぇ。お前がいなくなったら俺はもう、」
「落ち着け」
とりあえず手刀で無理やり意識を落とした。
「わるい、たすかっ…「説明」
「え?」
「お前が何でこんな姿になってるのかも、何でここにいるのかも、何であの時俺から逃げたのかも、」
上半身を隠すシーツをバッと剥ぎ取れば、桜の顔色は青を通り越して土気色になった。
「その体の傷も全部説明しろ」
「……こ、こどもだからむずかしいことわかんねぇ」
「ぶん殴るぞクソガキ」
「つまりお前は、親ガチャ失敗してクソみてぇな母親にネグレクトされながら生きてきたが我慢の限界を迎え、ぶん殴り返した瞬間にようやく以前の記憶を思い出して、商店街で俺の乱闘に巻き込まれ、椿野と出会い世話になってたら獅子頭連の闇金に誘拐されたと」
「おう」
「こっっっっっの、おバカ!!!!!!」
椿野が叫ぶ。
ところ変わって、まとめて説明した方が楽だろうと柊たちは椿野のバーに集まっていた。
連絡を取るのは実に数年ぶりだったが、椿野は快く場所を提供してくれた。腹が減っては冷静な話し合いも出来ないだろうと、残り物で作られたチャーハンは絶品だった。世話焼きな性分は相変わらずらしい。決別してからは巻き込まないように関わりを絶っていたが、元気にやっているようでほっとした。
…とは言え、桜と二番目に再会した癖に一番頼りにされているのは少し、いやものすごく気に食わないが。
「何で俺と商店街で会った時に相談してくれなかったんだ」
「…それ、は」
「どうせ新しい人生歩んでる俺たちに迷惑かけたくないとか、巻き込みたくないとかしょうもねぇ理由だろ」
気絶状態から目が覚めた梶が口を挟む。幾分か冷静さを取り戻したようだ。
「俺たちの前からいなくなるなんて、もう二度と許さねぇけどな」
いや、瞳孔がかっぴらいてる。やっぱりまだ駄目だった。
とは言え、柊も当然怒っているのだ。
「桜。何でもかんでも抱え込むのが級長じゃねぇ。みんなを頼れって周りにも散々言われなかったか」
純粋に悔しかった。頼って欲しかった。
梶に頼んで桜のことを調べていなかったら獅子頭連の下っ端に誘拐されていることに気づかず、危うく十亀や楡井達と鉢合わせするところだった。その先の展開は想像もしたくない。
「………………わるかった。こんどからは、きをつける」
「そうしてくれ」
もちろんどんなに嫌だと喚いても巻き込まれに行ってやるし、どこまで逃げても地の果てまで追いかけるつもりだが。手始めに桜の靴にGPSを仕込んでおこうと頭の片隅にメモをした。
「ちょっと柊!」「待て、その程度で許されると…」
納得がいかず言い募ろうとした椿野と梶は、眉を八の字にしてしょんもりする桜にうっと喉を詰まらせる。ぺしょ…と垂れる猫耳が見える。二人は、と言うより風鈴のメンバーは昔からこの顔に弱かった。
「チッ」
「あー…もう!」
簡単に絆されそうになる自分に感じる苛立ちを誤魔化すように、桜の髪をくしゃくしゃに撫で回す。ぐずるように頭を振る仕草も、むむっと尖る唇も「前」と変わらなくて、どうしようもなく胸の内側が震えた。
「…だから、その顔やめろ」
「まったく、そういうとこほんとにずるいのよね。桜は」
「…?」
ふくふくした頬っぺたをつついて苦笑する。反社の幹部ともあろう者が揃いも揃って幼子相手にこのザマだ。
いつか蘇枋が言っていたように、誰も桜には敵わないのだ。
***
「椿野、オムライス一つ」
「ここはそもそも、お酒を飲む場所なんだけど?」
オムライスは桜専用よ、とぶつくさ言いながらも作ってくれる椿野は優しい。
柊は暇さえあれば店に入り浸るようになった。この店は温かくてホッとする。店の客はほぼ常連客ばかりで、中にはあの頃のボウフウリンに助けられた人間もいた。
「貴方に不良から守ってもらったのよ」
「俺は飼い猫の捜索を手伝ってもらったな」
久しぶりに向けられる純粋な好意はむず痒い。握手を求められて、そう言えばこの笑顔を守るために、あの頃喧嘩していたことを思い出した。いつの間にか目的と手段を取り違えて、暴力が現実逃避の手段になっていた。どうして忘れていたんだろうか。支えてくれる人たちも、守るべき人たちもすぐ傍にいたのに。
戻れるだろうか。あの頃のように。泣く子も黙る犯罪者集団じゃなくて、街を守る自警団のような存在に。
とりとめなく思いを巡らせながら、客の口から語られる思い出話に耳を傾ける。まだ胸の痛みは消えないけれど、笑って相槌を打てる自分に安堵した。
「ご馳走様」
食事を終えて、無意識につけた煙草の火に気づいてもみ消す。桜と再会してから禁煙しようと心に決めた。彼の隣でもっと色々な景色を見てみたくなったのだ。
カウンターにお皿を下げて、そのまま奥の扉を通り抜ける。階段を昇った先の部屋に入ると、シングルベッドの上に丸くなる二つの物体。
「…むにゃ」
「すー……」
桜と梶だ。ちんまい体をぎゅっと縮こまらせた桜を、梶が親猫のように大切に腕に囲っている。暑苦しいのか桜が身を捩る度、梶はさらにぎゅっと抱き寄せて、満足気な顔をした。「んん゛ー…」と唸る桜の声が静かに響く。
柊は音を立てないようにそっとドアを閉めた。
階下に降りると「あら、もういいの?」と椿野が顔を出す。
「寝てたからな。起こすのも悪いだろ」
「なるほどね」
店のトイレが混んでいたので自宅側の洗面所を借りると、歯ブラシが三本並んでいるのが目に入る。部屋にはパジャマも置いていたし、もはや居候レベルだ。
若干呆れつつも、あんな風に心底安心しきったような表情で、寄り添う二人を久しぶりに見たから。まァいいか、と思う。
コンテナの陰に隠れながら何人もの追っ手をやり過ごし、ようやく車に乗り込んだ十亀はやっと一息ついた。
「はー…流石に死んだかと思ったぁ」
【あはっ、亀ちゃんでも焦ったんだ?】
「当たり前だよぉ。殺意マシマシのそばかす君もいたしさぁ」
【えーっ何それ、俺も戦いたかった!】
電話越しの兎耳山の声は楽しげに弾んでいる。桜がいなくなってからおかしくなったのは風鈴だけじゃない。兎耳山も以前の彼に逆戻りした。
いや、以前より酷いかもしれない。今の彼は自分が間違っていると自覚しているからだ。
暴力が全て、力こそが正義。力の絶対信仰を掲げる反社会組織「獅子頭連」は酒、ドラッグ、強盗、レイプ、ありとあらゆる犯罪に手を染めた。下級組織を倒して吸収し、てっぺんを目指し続けた。そうすれば、あの時みたいに力に溺れる馬鹿な俺たちを”あの子”がぶん殴りに来てくれる気がしたから、なんて。
あの子はもう、いないのに。
「困るんだよねぇ。借りたものはちゃあんと返して、責任とってくれないとさぁ」
「ヒッ、ご、ごめんなさい…か、彼も、きっと、もうすぐ帰ってくるので……!」
「彼、ねぇ。…連帯保証人だっけ?君もただちょーっとおばかだっただけでこんな巨額の借金背負っちゃって、可哀想にねぇ」
明らかに可哀想なんて思っちゃいない声で、十亀はへらりと笑う。
突然の来訪者にガタガタと震える女は、若く美しい容姿をしていた。自慢の優しい彼氏もいて、輝かしい未来が約束されていたはずだった。
今もなお、突然連絡が途絶えた彼氏を信じ続けているのだろう、その顔には純粋な心配の色だけが浮かんでいて。
「(…………心底、吐き気がする)」
盲目的に信じ込んで待つばかりでは、失うだけだというのに。
大切なものには名前を書いて、鍵をかけて、大切にしまっておかないと、ある日突然あっさり奪われてしまうのだから。
十亀は内心の苛立ちを押し隠してにっこりしながら、ヒラヒラと絶望を突きつけた。
「でも彼、奥さんいるよぉ?」
「…………ぇ、」
「ほら、証拠の写真。何なら、小学生の子供もいるみたいだねぇ」
「……うそ、嘘嘘嘘嘘」
呟きが声にならない叫びへと変わり、髪を振り乱して獣のように絶叫する女を見ても、心が痛まなくなったのはいつからだろう。
人間の欲望は果てしない。職業柄、金が人を狂わせる場面は何度も見てきた。
しかし、他人を地獄に落とした分だけ増えていく預金口座の数字を見ても、心が満たされることはなかった。十亀が本当に欲しいものは、もうお金では手に入らない。
「…まぁどうでもいいけどぉ。あとでお店紹介してあげるから、利息つきでちゃんと返してねぇ。返してくれなかったら、今度は君の親兄弟、親戚にもお願いしないといけなくなるからさぁ」
その前に当然、件の不倫男からも搾り取るつもりだが。
絶望して床にへたり込む女に背を向けて、十亀はひらりと片手を挙げてその場を後にした。
「例えば君が事故で死んじゃって、死亡保険金でも下りたらすぐに返せそうだけどねぇ」
他人を地獄に突き落とし続ける自分は、果たしてどこに辿り着くのだろうか。
どこだって構わない。
あの子がいないなら、現世もあの世も等しく地獄だ。
十亀は苛立っていた。
風鈴に嵌められ、大事な取引場所を手放さざるを得なかった上に、その後処理に追われていた。
その上、さらに苛立ちに拍車をかける出来事が起きた。
「…………子どもに逃げられたぁ?」
「あ、ああ…聞いてくれ十亀サン、俺は本当に悪くねぇんだ!!俺は風鈴組と内通なんてしちゃいねぇ!!」
「数日間ずーっとコソコソ逃げ回ってた癖に、今さら弁解するつもり?大体、その証拠がどこにあるの?」
「ヒッ……そ、それは……しゅ、粛清が怖くてッ、で、でも殴られた跡があるだろう!?急に風鈴組の幹部補佐の、金髪野郎がやって来て、ぶん殴られて、倉庫に引きずられたんだよォ!!!」
殴られた跡なんていくらでも偽装できるが、それよりも男の言葉が引っかかった。
「金髪野郎…って、」
「あ、ああ、あの男……そう、風鈴の梶蓮だ!何か、子どもが知り合い?ぽくて、大事そーに抱えて居なくなったんだよ!!」
幼子に窘められながらも、「…テメェ、この事を他の奴に言ったら殺すからな」と殺気を飛ばされたことは忘れた振りをする。男は、今この瞬間を生き延びるのに必死だった。
「子ども、ねぇ」
胡散臭い話だ。梶の姿は見かけなかったし、そもそも本当にあの場に子どもがいたのかも怪しい。最初から風鈴組とグルだったのではないか。胡乱げに目を細める十亀に、慌てた男が言い募る。
「あ、ああ……本当に子どもがいたんだよ!白と黒の…色違いの変わった髪と目の色で!ラリってつい殴っちまったけど、ジジイ受けしそうな割とカワイイ面の…………
確か……そう、さくら、っつったか、」
脳が揺れた。悲鳴を上げる間もなかった。息が詰まる。頭を鷲掴みにされて、コンクリートの壁に叩きつけられたのだと、一泊遅れて気づいた。
激痛で視界が眩む。たらりと頬に血が流れる。
「……い゛、あ゛ッ…………が……な゛、に゛」
「今、何て言った?」
ぶわりと一気に怒気が膨らんだ。かつてないほど、十亀が怒っている。
「……ぃ……ぁ………あぁ、」
答えなければ、答えなければと思うほど、恐怖で呂律が回らない。
何故こんなにも怒っているのか。俺は一体、何を間違えた。嫌だ、嫌だ、嫌だ、助けてくれ、俺はまだ死にたくない……!!!!
涙と鼻水と血でぐちゃぐちゃになった見るに堪えない顔を、十亀が見下ろす。
もはや怒りを通り越して、能面のような無表情だった。
「もしかして、その子の名前………さくらはるか、だったりする?」
確信に近い声音は、男にとって死刑宣告に等しかった。
「蘇枋と楡井にだけは会うな」というのが全員一致の見解だった。
「なんでそのふたりだよ。うらまれてはいねぇ、とおもうけど」
「馬鹿ね、好かれてるからこそじゃない」
「?」
桜がきょとんとする。
あんなにアプローチしていたのに、さすがに蘇枋が可哀想だと思う反面、自分が代わりに気持ちを伝えるのは躊躇われた。
「…もう会えないと思っていた大切な人に再会できたら、もう二度と離したくない!って思うでしょ。だからこそよ」
「たいせつな、ひと」
ぶわわわっと桜の頬が赤くなる。きょろきょろと視線があちこちに泳ぐ姿を見て、今度はムスッと不機嫌になる梶を小突いた。
多分あれ、恋愛的な意味だって伝わってないから安心しなさいよ。
「…な、ならにれいはどうなんだよ」
「楡井、は……「とっくの昔に狂ってる」おい、」
躊躇う柊の言葉の先を、梶が継いだ。おそらく桜に気を遣ってのことだろうが、今更隠す必要もないと思った。
むしろ、罪悪感に囚われてしまえ。雁字搦めになって、逃げる気も失せてしまえばいい。
梶たちにとって、自分がどれほど大きい存在なのか、桜は思い知るべきだから。
「楡井は、数年前からずっと桜の幻覚を見ている。俺や他の奴等なら監き………ンンッ、保護に向かうだろうが、あいつは違ぇ。今の、子どもの姿になったお前を認識した時、あいつは何をしでかすか、全く予想がつかねぇ」
***
昼下がりのカフェは休日ということもあって、学生や会社員、家族連れが多く賑やかな雰囲気に包まれている。
周囲では笑い声や楽しそうな会話が交わされ、心地よいコーヒーの香りが漂ってくる。ふと視線を横に逸らせば、窓の外に穏やかな陽射しが注ぐ通りを行き交う人々の姿がよく見えた。実に平和な光景だ……テーブルの向かいに座る男の存在を除いて。
「桜さん、先ほどからケーキが進んでいないようですが、口に合わなかったですか?」
「…いや、だいじょうぶだ」
「体調が悪いのでしたら、無理はしないでくださいね」
そう言って、目の前の男……楡井秋彦は心配そうに眉を下げた。
──どうしてこうなった。
休日。梶と桜はショッピングモールを訪れていた。
柊は四大幹部で多忙な上に、梶と同時に休むと怪しまれるため泣く泣く出勤した。反社は働き方もブラック。
初めに向かった先は携帯ショップだった。今までずっと、桜との連絡手段が固定電話しかなかったため不便だったのだ。
桜は何度も断ったが「柊さんから金は出すから、遠慮なくいいやつを買えって言われてんだよ」と選ばれたのは最新モデル。ちょっぴり細工をするとのことで、購入したスマホは一旦梶が預かることになった。
今度渡された時に、その中身がどうなってるか考えるのはやめておく。
次に向かったのは家具屋さんだ。梶があまりにも入り浸るもんだから、今よりもでかいベッドを買うことになったのだ。
本当は空き部屋に梶専用のベッドを置くことも考えたのだが、「……は?お前が一緒じゃねぇと意味がねぇ」と目の据わった梶に根負けした。
桜は自分のせいで眠れなくなったと言われると、負い目を感じざるを得なかった。
「マグカップもあるぞ」
「やすいし、セットのやつかおうぜ」
ついでに色違いの歯ブラシや箸も、ぽいぽいカゴに放り込んでいく。梶と目が合う。心做しか顔が赤い。
「…何つーか、あれだな」
「お、おう」
なんだか照れ臭くてソワソワしながら鼻を擦る。このやり取り、まるで。
「新こ…「だちんちにとまるみてぇ…」
……。
「ん?なにかいったか?」
「何も」
梶は間髪入れずに答えた。何も言ってないったらない。新婚生活なんて思ってない。
いずれ始まるめくるめく結婚ライフで、間違えたフリをして桜のマグカップを使って「……ったく、まーたまちがえたのかよ。ほんとうにかじは、しかたねぇな」と仕方なさそうに笑う桜が、梶専用のマグカップで慣れたように飲むところを見たいなんて、これっぽっちも思ってない。
梶がサッと目を逸らし、逃げるようにレジに並ぶ。
行列が出来ていたので少し離れた場所で待っていると、不意に声をかけられた。
「…………あれ、桜さん?」
その声に、心臓が跳ねた。
少し低く、落ち着いた声音になっているけれど、聞き間違えるはずがなかった。
まさか、と信じられない気持ちで振り返る。
ふわふわと風に揺れる金髪。鼻に浮いたそばかす。一見、大人しくて気弱そうに見えて、実は誰よりも頑固で、自分の足で真っ直ぐ立つ、強い男。
「…………に、れい」
呆然とする桜をよそに、買い物帰りなのか片手にレジ袋を提げた楡井は、まるで昨日会った友人のように、ことりと小首を傾げた。
「今、お帰りですか?良かったら、そこのカフェでお茶しませんか?」
は。
「いや、おれは…」
「向こうにオススメのカフェがあるんです」
拒否する間もなかった。
さも着いてくるのが当然と言わんばかりに歩き出す楡井を、無視する選択肢はなかった。桜は前世同様、びっくりするぐらい押しに弱かった。他者からの悪意には敏感だが、向けられる好意には律儀に返そうとしてしまう。それが知人なら尚のこと。
あれよあれよという間にカフェに入店して、戸惑う桜の前で、楡井はあの頃と変わらず、楽しそうに思い出話に花を咲かせていた。
「そう言えばあの時、ほら、獅子頭連と戦うために乗り込んだ時も…」
向かいに座って楽しそうに話す楡井。悪意も感じられなければ、特に動揺している様子もない。
小さくなった桜に「幼い桜さんも素敵ですね」と言っただけで、以前と全く変わらない態度だった。
──まるで、桜が死んだことが、なかったことかのように。
「なぁ」
「何ですか、桜さん。ジュースはおかわりしますか?」
楡井が微笑む。椿野達と違って桜が死ぬ前と変わらない、硝子玉のように透き通った綺麗な瞳だった。桜は震える声で問いかけた。
「おまえ……、俺がしんだの、わかってるよな?」
「桜さん、何を言ってるんですか。ジュースはおかわりしますか?」
機械のように繰り返す楡井の声は、驚くほど穏やかでぞっとした。
「まて、はなしをきけ。おれはいちどしんで、こどもになったんだ」
「桜さん、疲れているんじゃないですか?少し休んだ方がいいですよ」
「ちがう、おかしいとおもわないのか。おれが、こどもになってるんだぞ!」
「だって桜さんですから」
取り付く島もない。
事実、楡井の目の前に現れる桜は色々な姿かたちをしていた。小学生の時もあれば、大人の姿もあった。
一緒に時を歩みたかった願望が見せた幻覚であることを、当然桜は知らない。
「にれい!」
「はい」
「だから、おれはいちど、しんでて!」
「はい」
変わらず穏やかに笑う楡井は狂っている。柊の言葉が脳裏を過った。何を言っても言葉が届かない。このままじゃ駄目だ。本能的に思った。
「…っ、こい!」
「桜さんの行くところなら、どこへでも」
楡井は数歩後ろをニコニコしながら着いてきた。
ちょうどいいタイミングで来たバスに乗り込み、二人は窓際の席に腰を落ち着ける。
数分揺られるだけで、賑やかだった街並みはどんどん後ろへと流れていき、人通りも少なくなっていく。景色が変わるにつれて周囲に広がる緑の木々が目につくようになった。
場所は、以前地図で見て覚えていた。
桜の分までサッと運賃を支払った楡井に抗議しつつ、バスを降りる。子どもには急に感じる坂道をえっちらおっちら登る桜に「大丈夫ですか?」と楡井は心配そうな顔をするが、手を貸そうとはしなかった。
「……さくらさん」
「こっちだ」
「桜さん」
楡井が立ち止まった。口元は笑っているが目は一切笑っていない。
「こんな所に来て、一体どういうおつもりですか」
黒い石がずらりと並び、その表面には風化せずに名前が刻まれている。無数の線香が立てられ、細い煙が空へと消えていく。足元には苔が広がり、枯れた花束が無造作に置かれていた。静寂の中を、ただ風だけが草木を揺らしている。
梶たちから聞いていた。この辺りには絶対に近づくなと。時々みんなが訪れてお供え物をしてることも聞いていた。楡井だけ、一度も来ていないことも。
戸惑う楡井を無視して、桜は墓地の中を歩き続ける。
少し遅れて、不安げな足音が後ろに着いてくる。
桜はふと立ち止まった。
「ここだ」
「……ここ、って」
「にれい」
振り返ると、楡井の視線が特定の墓石に釘付けになっているのがわかった。
──桜遥。
息を吸う。冷えた空気が肺に満ち、心臓の鼓動が耳に響く。周囲の静寂が一層際立ち、まるで時間が止まったかのように感じられた。
その場の静寂を破るように、口を開く。
「おれはもう、しんでる」
「……あ、ははは…な、何の冗談ですか…?桜さんも、そんな冗談、言うんですね…?」
「じょうだんじゃねぇよ」
「笑えませんよ。……笑えませんって」
楡井の笑顔が引きつって、声が震えた。指先が微かに震えて、体が後ずさりする。
「おれはほんきだ」
「そんな真面目な顔でおっしゃって、十亀さんも似たようなこと言ってましたし、もしかしてみんなで、俺を担いでます?」
「にれい、おれはもう」
「死んでない!!!」
楡井が絶叫した。
その声は、墓地の静寂を引き裂いた。
顔は紅潮して手は震え、必死に笑おうとして失敗したような下手くそな笑顔だった。
「死んでません!桜さんは死んでない!今日も昨日もずっと俺の傍にいる!会話だってできます!桜さんは生きて……「いいかげんにしろ!」ぁ、」
桜が、楡井の頬をぶん殴った。
所詮は小学生のパンチだ。大して痛みはないはずだが、楡井はハッと目を見開いて、大袈裟に数歩、よろめいた。
「……桜さんに、さわれ、た…?」
「いいかげんにしろ!」
桜に怒鳴られて思わず正座する。懐かしい感覚だ。あの頃桜を揶揄っていた蘇枋がたまにやらされていた。いや、懐かしいって何だ。だって彼は、ずっと生きていて。
「おれをみろよ!!」
「…っ、」
「おまえがいったんだろうが!!」
桜は泣いていた。ボロボロと大粒の涙を零しながら、子どもの癇癪のように、鼻をズビズビ鳴らしながら喚いた。
「おれのみためなんかどうでもいいって!おれはおれだって、おまえがいったんだろうが!ここに今、おれがいるだろ!なんでわかんねぇんだよ!げんかくなんかじゃなくて、うまれかわって、今をいきてるおれをみろよ!」
「さくら、さん」
桜にぎゅ、と握られた手が胸元に導かれた。とくん、とくんと小さな心臓が確かに動いているのにぎょっとして、火傷したように手を引っこめた。
そのまま呆然として掌を見つめる。生きてる。桜さんが、生きてる。
大好きだった──違う、今もずっと変わらず大好きなあの人が、ちゃんと生きて、喋ってる。俺を見てる。血で汚れきった俺を。
ハッとした。冷や水を浴びせられたような心地だった。
自分でも何が言いたいのか分からないまま、口を開いた。
「おれ、おれは……「桜くん?」
その声はやけに大きく響いた。
時が止まったようだった。
間を風が通り抜けて、しゃらっ、とタッセルピアスが揺れる。
「す、おう」
通路を挟んだ向かい側に、花を持った蘇枋隼飛が、目を見開いて立っていた。
「やっぱり、桜くんだ」
蘇枋の瞳がふっと弓なりにしなる。脳内で警報音が鳴り響く。心臓が早鐘のように打つ。本能が今すぐ逃げろと叫んでいる。咄嗟に踵を返したのは、反射的な行動だった。
「何で逃げるの?」
「……ッ、ち、ちがっ、おれはっ」
「逃げないで」
舌がもつれて言葉がうまく出てこない。
取り落とした花を踏みつけたことさえ気にも留めずに、蘇枋が足早に近寄ってくる。
楡井が蘇枋の足に抱きついた。
「と、止まってください、蘇枋さん!」
「桜くん。お願いだから、待って」
蘇枋は楡井をズルズルと引きずりながらも、信じられない速さでぐんぐん近づいてくる。異様だった。蘇枋の目には桜しか映っていないのだ。
所詮大人と子供。コンパスの差は歴然で、みるみるうちに距離が縮まる。
「桜くん」
手が伸びてくる。
「…っ、」
突如、何かが桜の頭上を横切り、爆音と共に破裂した。真っ白な煙が瞬時に立ち込める。
「桜ちゃん、こっち!」
誰かにひょいと抱き上げられた。ハァハァと荒い呼吸が耳元にかかる。煙を抜けて視界が晴れると、自分を運ぶ相手の顔が見え、思わず目を見開いた。
「おまっ…きりゅう…っ!?」
「話は後で!」
車に乗り込んで発進させようとしたその瞬間、鋭い銃声が響き渡った。立て続けに数発。焦った桐生が何度もアクセルを踏み込む。動かない。視線の先で、銃を構えたままの蘇枋がうっそりと微笑んだ。──逃がさない。
「くっ…」
とにかく今は、蘇枋から離れなくては。
動かなくなった車から飛び出し、必死に周囲を見渡すと、不意にバイクのエンジン音が耳に飛び込んできた。
「「「桜!」」」
恐らく柊、梶、椿野。その先頭を走る男の顔は、ヘルメットに隠れてよく見えない。
謎の男が桜の体を抱き上げて、そのまま一気に駆け抜ける。しかしその直後、背後から銃声が轟いた。男は桜を強く抱き締めると、体を低くしてハンドルを思い切り切った。車体をかすめた銃弾が地面に穴を穿ち、土煙が舞い上がった。
なんてことはない。全て男の計算通りだった。
運転中の男に当たって桜に何かあったら困るため、蘇枋が狙ってくるであろう箇所は限られている。それに冷静さに欠いた弾を避けることぐらい、男にとっては造作もない。
事前に示し合わせた通り、柊たちは桐生を回収していった。一瞬の出来事だった。
桜を乗せたバイクは、急激な方向転換を何度も繰り返しながら、街中を猛然と駆け抜けていく。
「おい、おいって」
体をぽこぽこ叩くが返事はない。
後ろを走っていた柊たちの姿がついぞ見えなくなった頃、男がとある家の前でバイクを停めて、ヘルメットを脱いだ。
身長はますます高くなっていて、体つきも一段と逞しくなっている。髪は出会った頃よりも伸びていて、綺麗に編み込まれていた。
だけど、桜と目が合った瞬間に甘く蕩ける瞳と、ふにゃっとした笑顔は、変わらず昔のままだった。
「おかえりぃ、桜」
・さくらはるか(こどものすがた)
私の〜〜お墓の〜〜ま〜えで〜〜泣くんじゃねえぞお前の隣に俺はいねぇからこっち見ろ!!!!!(正論パンチ)(物理)
荒療治にも程がある。
・柊&梶&椿野
アイツらどこ行きやがった…!?
・十亀条
大切な物は名前を書いて、箱に閉まっておきたいタイプ。
・モブ
最初から最後まで間違えた
・楡井秋彦
皆、徐々におかしくなっていった。
梶は自分の世界に引きこもって、面倒見のいい柊が止めなくなったから、梅宮は暴力に溺れて歯止めが効かなくなった。まるであの時の兎耳山みたいだった。
そうして誰もがそっと目を逸らして、見えないふりをしていた。
見て見ぬふりをしていた。
聞こえないふりをしていた。
まともなのは、蘇枋だけだった。
──だって桜さんは、俺の隣にいるのに。
まだ楡井が高校生だったあの日、蘇枋から電話がかかってきた。
【情報通のにれくんに聞きたいんだけど。長時間借りられて、人目につかない場所って知らないかな?空き家みたいな】
「何に使うんですか?」
【んー、拷問?】
「…それなら、南区の…」
場所を伝えて楡井も向かう。
古びた家だ。窓は板が打ち付けられ、ドアは錆びついている。周囲には草が生い茂り、時間が止まったかのような静寂が漂っている。
周囲を見渡して誰も見ていないことを確認してから、そっとツタをかき分けると、出てくるのは裏口だ。ぎしりと軋んだ音を立てて、中に体を滑り込ませる。
木の床はきしみ、崩れた壁紙が所々で剥がれ落ちている。暗い室内は埃にまみれ、かすかなカビの臭いと、それから。
「にれくんも来たんだ」
鼻をつく、強烈な鉄錆の匂い。
振り返った蘇枋が、ふわりと微笑む。頬には大量の返り血が飛び散っている。
「〜〜〜〜〜〜ッ、〜〜〜〜〜ッ!!!!」
その足元で、蠢くグロテスクな何か。
人、だった。
言葉にならない叫び声を上げて、痛みにのたうち回っている男を、蘇枋が冷めた目で見下ろしている。
不意に焦点の定まらない瞳が、楡井を捉えて焦点を結んだ。
「あ゙あ゙、だずげッ、」
両足を縛られた男が、必死に這いつくばってこちらに近づいてきてぎょっとする。
伸ばされた手は両の爪が剥がされていて、どす黒く変色している。周囲には大量の注射器が転がっている。
血と汗と涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった汚い顔は見覚えがあって…………あぁ、なんだ。
「汚い手で”二人”に近づかないでくれる?」
躊躇いなく手の骨を踏み砕かれた男が、絶叫した。指が通常ではありえない方向に折れ曲がっている。
その様子を、楡井はぼんやり眺めている。
この男はきっともう助からないんだろうな、と他人事のように考える。
「にれくんもやる?」
今日の夜ご飯の献立を尋ねるような気軽さで、蘇枋がことりと首を傾げる。
ほら、やっぱり。
──蘇枋さんだけは、まともだ。
やっぱり皆さん、おかしいんです。
桜さんもそう思いますよね?
だってあんな事をした男を、野放しにしていたんですから。ええ、もちろん許せるわけないじゃないですか。
ずっとずっと、まともなのは蘇枋さん一人だけでした。
俺の隣にいる桜さんを無視しないのも、蘇枋さんだけ。
あっいえ、別に、悪気があるわけじゃないと思いますよ?ただちょっと、皆さんおかしくなってるだけなんです。だから大目に見てあげて、怒らないでくださいね、桜さん。
これからもずっと、あの頃みたいに、三人で一緒にいればいいんですから。
─────『俺をみろよ!!!!!』
小さな子どもの叫び声が、耳をつんざいた。
殴られて痛む頬を抑えて、呆然とした。
桜さんに、触れられた。
あの日以来ずっと、手を伸ばすのを躊躇っていた桜さんは、温かくて、柔らかくて。
怒鳴り声と銃声の嵐が過ぎ去った後、気がつけば、ぽつんと一人、墓場に取り残されていた。
まるでこの場所だけが空間から切り離されたみたいに、静寂だけが広がっていた。
「い……一体何だったんですかね、桜さん」
いつものように、横を向く。
誰も、いない。
Side : 十亀条
男って基本馬鹿だから、好きな子の前ではカッコつけちゃうんだよねぇ。
デート(なんて桜はこれっぽっちも意識していないだろうけど)の日は心の中で何度もリハーサルしちゃって、会ったら何を話そうとか、笑わせられるかなとか、勝手に想像しすぎて、逆に緊張しちゃったりして。
心が狭いなんて思われたくないから、やたらと出てくる眼帯くんの話もニコニコしながら相槌を打っちゃうし(それにしても仲良すぎじゃない?)、桜がピンチのときは誰よりも早く駆けつけたいって思う。
「なに見てるのぉ」って背中にぴったりくっつくようにしてスマホを覗き込むと、桜はその距離に驚いて、大袈裟にビクッて反応する。
その仕草が猫みたいで思わず笑うと、ムッとした桜がふいっと顔を背けちゃうからちょっぴり焦るけど、その耳はじわじわと赤く染まっていて。きゅ、って胸が締め付けられる。
「(…かぁわいい)」
でもね、この距離に心臓がバクバクしてるのは、本当は俺の方なんて、桜はこれっぽっちも気づいてない。
周囲はみんな知ってて、目ざとい副級長くん達なんてあからさまに牽制してくるのにね。ほんと、笑っちゃう。結局さ、俺もみんなも、かっこつけてる暇があれば、素直に想いを告げた方がいいのに。
──そう気づいた時には、何もかもが遅かった。
「……さくら、さくら…起きてよぉ」
無我夢中で、桜の肩を揺さぶりながら呼びかける。
泥だらけの地面に座り込んで泣きつく俺の顔は、きっと涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。絞り出した声は、自分でも情けないほど震えてた。
「さくらぁ、目を覚ましてよ、さくらぁ」
いつもみたいに傷だらけになりながら立ち上がってよ。
だって桜が、負けるはずがない。
こんなにあっさり、死ぬはずがない。
俺と喧嘩した時だって、どんなに力でねじ伏せようとしても、どんなに傷だらけになっても、何度だって立ち向かってくるのが桜だったでしょ。
だから、さくら、早く目を覚ましてよさくら。
こんな笑えない冗談も、今なら笑って許してあげるから。
──みっともなく泣き喚いて、どんなに縋りついても、桜遥は目覚めない。
その後はもう、底なしの暗闇へ真っ逆さま。堕ちるところまで堕ちていくだけだった。
税金対策で購入した無駄に広い部屋の窓の外は、灰色の雲がどんよりと立ち込めている。あの後どさくさに紛れて拝借した風鈴高校の制服を抱きしめて、深く息を吸い込んだ。本当は洗いたくなかったのに、血の汚れがどうしようもなくて、仕方なく洗濯したそれ。時を経て、微かに残っていた桜の匂いもすっかり消えてしまったのに、それでも手放せずに握りしめている自分がいる。
「……さくら、だいすきだよぉ」
ぽつりと呟く。
言葉なんて、相手に届かなければ意味がないのに。
***
「あー……本物の桜だぁ…」
「はなせ、ばかっ」
力強く抱き締められた腕の中で桜はじたばたともがきつつ、眉をキッと吊り上げた。
「だいたいおれは、おこってるんだからな!」
「うん」
「やみきんだか何だかしらねぇけど、わるいことして、人にいっぱいめいわくかけて!」
「うんうん」
「しょうてんがいでひいらぎのことおそったり、おれをゆうかいしたり、今だってあいつらをおいてったりして………とがめ、」
「うん」
「……なくなよ」
「………………………………むりだよぉ」
大粒の涙がぼたぼたと上から落ちて、困った顔で見上げる桜の頬を濡らしていく。
ずっとずっと、会いたかったよぉ。甘ったるい声で囁かれるそれは、場所がベッドの上なのも相まって、まるで恋人同士の語らいみたいだ。
助けてくれたはいいものの、何故か柊たちを撒いた十亀に連れてこられたのはとある家だった。到着するや否や、桜は抱っこされて、問答無用で寝室まで運ばれた。
十亀はぎゅうぎゅうと桜を抱きしめては、顔やほっぺを何度も確かめるようにぺたぺたと触っている。顔、ちっちゃい。ほっぺ、ぷにぷに。
「なんでそんなに、小さくなってるのぉ…」
「むしろおれがしりたい」
「ふふっ」
納得いかんとばかりに憮然とする桜に、何でもいっかぁと思った。桜が帰ってきたならそれでいい。ちっちゃくても桜は桜だ。
話したいことはいっぱいあった。言いたいこともいっぱいあった。でもまず一番伝えたいのは。
「さくら、大好きだよぉ」
「…」
「あ、赤くなった。かわいいねぇ」
「わざわざいうな!!」
甘えるように桜のお腹に顔を埋めようとすると、ぐいぐいとちっちゃなおててが頭を押し返してくるけど、抵抗なんてあってないようなものだ。構わずに頭をうりうり押し付けてると、流石に様子が変だと思ったのか、戸惑った桜の小さくてふくふくした手が、頭を慎重に撫でた。
ふにゃっと顔がだらしなく緩む。何これ、しあわせ。好き。
桜がすき。だいすき。めっちゃすき。どうしようもないぐらいすき。
カッコつけるのはもうやめて、桜がいないと死んじゃう情けない男の傍になら桜はずっといてくれる?
「桜」
「ん?」
ガチャリ、と小さな金属音が響く。
桜の両手首に嵌めた手錠の反対側はベッドの柵に固定する。これでよし、と。
自分だけの最愛を取り戻した高揚感に包まれながら、十亀はうっとりと微笑んだ。
「これからはずっと一緒だよぉ」
「ん????????????」
窓の外から、チュンチュンと雀の鳴く声が聞こえる。ゆっくり開けられたカーテンの隙間から、光が室内に差し込んだ。
「さくらぁ、起きて」
「んん……」
優しく肩を揺すぶられる。まぁるくて、やわらかい声は耳心地が良くて、意識が水中のようにふわふわと揺蕩う。
「さくらぁ、起きて」
「うー…」
「起きないと、いたずらするよぉ」
「ん…」
すやすや眠る桜も百点満点の可愛さだけど、十亀の大好きな色違いの瞳が自分を映さないのは面白くない。寝言を都合よく同意と受け取った十亀は、そっと顔を近づけて、ちゅ、と啄むようなキスをする。
「んぅ……」
寝惚けたまま、や、と言わんばかりに顔を反対側にこてんと背ける桜に、ムッとした。
反対側に回り込み、今度は後頭部に手を添えて、ゆっくり押し付けるようなキスをする。桜が目覚める気配はない。食むようにふにふにと唇の柔らかさを味わってから、小さな口内に、肉厚な舌をにゅるりと忍び込ませた。
「……っ、〜〜〜〜ッ!?」
ばちんっと勢いよく桜の目が開いた。
混乱する桜は状況を理解しようと必死だったが、十亀は一切の躊躇を見せず、そのままキスを深めていく。肉厚な舌が歯列をなぞり、ちっちゃな口内を蹂躙する。
「〜〜〜っ、んッ」
どうにか逃れようとする舌を追いかけて、執拗に絡める。上顎を舌で擽ると、びくりと体が震えた。
「かーわいいねぇ、さくらぁ」
「……ん、や゛ッ、……ぁ」
大きな瞳がとろん…♡と潤む。所々漏れる声は、子供特有のそれで、高くて、甘ったるい。
とろとろと唾液を流し込めば、素直にごくんと喉を鳴らす姿を見て、ゾクゾクと背筋に興奮が走った。
自分のものが今、桜の体内を犯してる。あの桜を。長いキスを終えて、そっと唇を離せば、飲み込みきれなかった唾液が、桜の唇の端からつーっと垂れていった。
「…んッ、…あ、ぇ………?♡」
ふにゃふにゃに蕩けた表情でこちらを見あげる桜。
あ。まずい。
我に返って、バッと体を離す。
「(…勃っちゃった)」
で、でも、桜が可愛すぎるのがいけないし。こんなに可愛い桜を前にして、勃たない奴がいたらそいつの方がおかしい。たぶん不能だ。勃ったら殺すけど。
脳内で必死に言い訳をしながら、唾液でテラテラと光る唇をそっと指先で拭う。うん、大丈夫。
邪な感情なんて微塵も抱いてないですよ、と言わんばかりの晴れやかな顔で、十亀はにっこり笑いかけた。
「おはよぉ、桜」
ぼー…っとしてた桜の顔が、みるみる首まで真っ赤になって。
「……なにもなかったことにすんな!!ばか!!!!!!」
ぼふんっと顔面に投げられる枕も、今は甘んじて受け止めよう。
*
めいっぱい謝り倒してようやく桜の機嫌が治った頃、戻ってきた十亀の手にはお盆が湯気を立てていた。ふわとろオムライスだ。そわ…っと目を輝かせる桜を、十亀が愛おしくて仕方がないと言わんばかりの甘い瞳で見つめている。
「どぉ?美味しい?」
「ん」
小さな頬っぺたをオムライスでいっぱいにしている様子は、まるでリスみたいで可愛い。
思わず頬袋を指先でつんつんすると、鬱陶しげにぺちっと叩かれたけど、ちっとも痛くなくて、むしろ。あー……小学生男子が好きな子にちょっかいかけたくなっちゃう気持ち、少し分かったかも。
だって怒った顔も泣いた顔も見たいから。桜の表情は全部独り占めしたいし、桜の感情を動かすのは自分だけであって欲しい。
「おまえはたべねぇのかよ」
「うん、俺は見てるだけでお腹いっぱいだからねぇ。後で食べるよぉ」
十亀は、かわいい桜がかわいくオムライスを食べる世界一かわいい瞬間を、目に焼き付けるのに忙しいので。自分の分なんて後回しで良かったのだが、桜は違ったようだ。
「いっしょにたべるほうがいいだろ」
「えぇ〜」
桜のおねだりならいくらでも聞いちゃうけど、わざと勿体ぶってみせる。だって、自分と食べたがる桜がかわいいから。
「いっしょにたべねぇの」
「うーん…どうしよっかなぁ」
「あとでたべるならいまでもいいだろ」
「え〜でもなぁ…」
「なんでわざわざバラバラでたべるんだよ。それにごはんは、みんなでたべるほうが」
おいしい。
と続くはずだった言葉は、皿の割れる音にかき消された。
「みんなって、誰?」
十亀の腕にサッと赤い筋が走る。
真っ赤な血が溢れ出し、床に滴り落ちた。
「ねぇそれ、誰の言葉?」
ぽた、ぽた。
滴る血液が、真っ青な顔でガタガタと震える桜の頬を伝い落ちていく。
骨ばった大きな手が、強引に顎を掴み上げて、無理やり視線を合わせた。
「もしかして、思い出した?今”みんな”のこと、考えた?」
「ち、ちがっ……おれは、ただ、」
「嘘つくなよ!!!!!!!!!!!!!!」
「っ、」
ビリビリと窓ガラスが揺れるほどの怒鳴り声に、桜はビクリと体を強ばらせ、思わず身を竦ませた。
瞳孔が大きく開き、まるで底知れぬ闇を抱え込んだような深淵が、こちらを覗き込んでいる。
「ねぇどうして俺以外の人のこと考えるの?俺だけじゃ駄目なの?俺はこんなに桜のことが好きなのに?俺には桜さえいれば、他に何もいらないのに?桜はそうじゃないのぉ?」
「ぁ、ご、ごめ…「なんで謝るの?もしかして図星なの?やっぱりあいつらの元に帰りたいって思ってるの?俺一人じゃ満足できない?何が足りないの?どうすればずっと一緒にいてくれるの?さくら教えてよねぇさくらぁ」
矢継ぎ早に語られるそれは見えない鎖のように、体の自由を奪って、雁字搦めにしていく。
息をすることさえ躊躇うほどの重圧が押し寄せ、凍りついたように動けない桜の前に、袖を捲り上げた腕が無言で差し出され、思わず息を呑んだ。
「…ぁ、」
傷だらけだ。治りかけた箇所を、幾重にも刃物で斬りつけたような跡が無数に刻まれている。先ほど皿の破片で付けたばかりの新しい傷が、赤くじわりと滲んでいる。
へら、と十亀が笑った。
「俺、桜がいなくなったら、死んじゃうかもぉ」
「っ、」
だって桜がいない世界なんて、生きる意味がないから。
そう言って懐から取り出したナイフを躊躇いなく自分の手首に当てる十亀に、桜は必死に縋り付いた。
「やめろ!ばか!いなくならねぇ!ずっといっしょにいるから!!」
「ならいいやぁ」
あっさりナイフをしまう十亀に、桜はホッと息をつく。
いつもの穏やかな表情に戻った十亀が「ごめんねぇ、オムライス、台無しにしちゃった」と床に落ちてぐちゃぐちゃになったオムライスを見て、へにょりと眉を下げた。
しょも…としおらしく肩を落としてそーっとこちらの機嫌を伺うような眼差しはまるで、そう。
「(わるいことした、こどもみてぇ)」
なんとなく怒る気が削がれてしまうやつ。いい歳した大人の癖に、そんな顔をされると、突っぱねられなくなってしまう。
桜は視線を泳がせながら、口元をもにょりとまごつかせた。
「……べつに、いい。きにすんな」
「許してくれるのぉ?」
ぱぁぁあっと顔が明るくなる。顔を背けている桜は、そのあまりにも急激な表情の変化の違和感に、気が付かない。
「ん」
「じゃあ、」
ひょいと膝の上に抱えあげられる。こつん、と額同士がぶつかって、至近距離で視線が交わった。
「仲直りのちゅー、しよっか」
悪いことをしたのは十亀の方だろう、と突っ込む者はこの場にはいない。これぐらいの触れ合いならもはや抵抗はなかった。
桜の方からちゅ、と軽く口付けて。いつもの言葉を口にするだけだ。
「すきだ」
「俺も、大好きだよぉ」
桜は噓をつくのが苦手だ。薄っぺらい愛を積み重ねる度、罪悪感に蝕まれた精神が少しずつ歪んでいることには気付かない。褒めるように頭を撫でられて、無意識に頬を擦り寄せる仕草も、以前なら考えられなかった反応だ。
最初の頃は、何度も逃げ出そうとした。
その度に十亀は、自殺を仄めかして桜を縛り付けた。桜は自分が傷つくこと以上に周りの人間が傷つくことを嫌う。風鈴の仲間を人質にするという考えも一瞬脳裏を過ったがやめた。桜に嫌われたくないので。
効果は絶大だった。たちまち逃げようとする意志を失って、必死に自分を引き止めようとする姿を見て脳が歓喜に打ち震えた。桜の恐怖と不安と心配の眼差しを一身に受けるのは心地がよかった。今この瞬間、桜の瞳には自分だけが映っている。自分の生死が、こんなにも桜の心を揺さぶっている。
桜がいなくなってから生きる意味を失っていた自分の人生が、桜の瞳を通じてようやく価値を取り戻したようだった。
「とがめ……うで、いたいか?」
「んー、大丈夫だよぉ」
喉元を優しく擽ると、気持ちよさそうに目を細めるその姿は、まるで陽だまりでくつろぐ猫のようで愛くるしい。猫は気まぐれで懐かないって言われるけど、桜は普段同じ部屋にいる時、ぴと…ってくっついてくるのが可愛くてたまらない。
多分、寂しいんだろう。この部屋には娯楽はもちろん、時計もテレビもカレンダーさえもないから。あるのは部屋の真ん中にある大きなベッド一つだけ。
最近はめっきりなくなったけど、ふとした瞬間に桜が「昔」のことを思い出した時は、お仕置きとして桜を置いて部屋を出た。
モニターには、ベッドで膝を抱え小さく丸まっている桜が映ってる。眠りに落ちても悪夢を見るのか、何度も魘されては飛び起きていた。何も無い部屋でただ待っているのは苦痛だろう。時間感覚も失われているので、永遠に感じるかもしれない。飲まず食わずで飢えと孤独に苛まれた桜が縋る先は、この状況を生み出した元凶である十亀しかいないのだということを、何度も体に教え込ませて。
「むかしのはなし、しちゃって、ごめんなさい」
「うん」
「とがめ、すきだ」
「…仕方ないなぁ」
仲直りのキスを交わす度、まるで自らの意志を手放すように光を失っていく桜の瞳から、目を背け続ける。だって、怖いのだ。手を離した途端に風に攫われて、またどこか遠くに消えてしまうのではないかと。
もう離れるなんて、耐えられない。
腕の中で徐々に冷たくなっていく桜の体、そして誰かの慟哭が耳にこびりついて離れない。
眠る桜を抱きしめる腕に力を込めると、顔を押し付けた肩口がじんわりと湿っていく。俺の桜。俺だけの桜。これからは生きるのも、死ぬのもずぅっと一緒。
もうこの温もりを、二度と手放すことはない。
カーテンの隙間から窓の外を覗く。スーツの男達が必死な顔で辺りを駆けずり回っている。自分達の命が懸かっているんだから当たり前だ。裏切り者には死を。それが裏社会の掟だ。
柊はそっと窓から離れた。錆びついた釘が見え隠れする床板は、踏む度に悲鳴のような音をあげる。天井の梁には煤がこびりつき、壁にかけられた古時計は止まったまま動かない。
「シャワーが壊れてたので、風呂を溜めて入りました。冷めないうちにどうぞ」
「分かった」
浴室から梶が出てきた。路地裏に面した宿だ。名前や身分証明書の確認も不要で、金さえ積めば当日でも宿泊可能の安宿。これ以上の待遇は望むまい。
先日、柊と梶は風鈴組を脱退した。
理由は簡単、蘇枋達に桜の存在がバレたからだ。
セーフハウスを突き止められる前に、財布と着替えと必要最低限の荷物を持って、この身一つで家を出た。大量の着信履歴が残っていた仕事用のスマホは、初期化して、念の為海に投げ捨てた。今は予備の端末を使用している。組の追手から逃げて逃げて、逃げ回って、辿り着いたのが今の古宿だった。
「巻き込んでしまって、すみません」
「何よそれ。桜みたいなこと言わないでよ」
室内でストレッチをして体を伸ばしていた椿野が、紅をさした唇を歪めてニッとする。
「私が桜のピンチより、自分の身の安全を優先するような薄情者に見える?」
「見えない、です」
「でしょ。これはあんた達だけの問題じゃない……”私たち”の問題よ」
今は追われる身で潜伏するしかなくても、いつでもすぐ動けるように体を鍛えておく。十亀に誘拐された桜のことが心配で気が気じゃなくても、しっかりとご飯を食べて休養をとり、エネルギーを蓄えておく。
椿野の強さに嘆息する。桜が亡くなった時に思う存分泣いて、誰よりも早く立ち直ったのは彼女かもしれない。
「そんな表情しないの。桜はきっと大丈夫よ。そもそも、桜に惚れてるあいつが桜に酷いことするわけないじゃない」
「それはそう、ですけど……」
梶の言わんとしていることは分かる。
十亀は桜に友情以上の感情を抱いていた。毎日桜のペースに合わせてLINEをして、風鈴に通い詰めてはちょっとずつ距離を詰めて、遊ぶ約束を取り付けて。桜の言葉一つで一喜一憂していた十亀の、あまりにも真っ直ぐで純粋な気持ちの中に必死さが滲む、異常な執着に気づいていなかったのは当の本人だけ。
桜に特別な想いを寄せる梶は尚のこと、居ても立っても居られない気持ちだろう。
勢いよく浴室の扉が開いた。
「……」
黙ったままの柊が、濡れた髪をかきあげる。水滴が指先からぽつりと床に落ち、部屋にかすかな音が響いた。
備え付けの冷蔵庫はない。机の上に置かれていた生温いペットボトルを開けて水を一口、二口。強い意志の篭った瞳がこちらを射抜いた。
「あいつは絶対に帰って来る」
「…柊、さん」
「もう二度と、俺たちの前から居なくならないって約束したんだろ?あいつを信じろ。俺たちは今の自分たちにできることをするだけだ」
桜は約束を破らない。その約束が、前世で果たされなかったものなら尚更。
自分たちは桜を信じて、堂々とした態度で迎えに行ってやればいいだけだ。
迷いのない顔つきになった梶に頷いて、柊がおもむろにスマホを操作し、とある地図の画面を表示する。そこに示された一点を見て、「……それって、」と椿野が息を呑んだ。
「……め、とがめ、きいてんのか」
「うん、聞いてる聞いてる」
ちゃぷん、と乳白色のお湯が揺れて股の間に座る桜が振り返り、抗議するような眼差しを向ける。
最初は目の前で裸になることに抵抗を示していた桜だったが、「裸の付き合いって言葉知ってる?友達はお泊まりの時に一緒に風呂入るもんなんだよぉ」と言うと「そ、それぐらいしってるし!」と即座に言い返してガバッと服を脱いだ。ちょろすぎて心配になる。
脱いだ桜の体は酷い状態で、初めて見た時は怒りを越えて思わず真顔になったが、桜がビクリと震えたのを見て必死に心を鎮めた。桜を怖がらせたいわけじゃない。
「(とりあえず、あの母親は後で絶対に殺すけど)」
湯船の中で後ろから抱きしめて、痛々しい痣をそっと撫でる。
「痛い?」
「いまはもうなんともねーよ」
「そっかぁ」
ちゅ、と傷跡に口付けられる度に最初は驚いて抵抗していた桜も、いつの間にか慣れてしまった。
「(でけぇいぬみてぇ)」
あれだ、マーキングとかいうやつ。人懐っこい大型犬を想像して笑いを噛み殺していると、背後から「桜ぁ、なーんか失礼なこと考えてない?」と大きな手が子どもらしくぽっこりしたお腹に回される。前世でせっかく鍛えた腹筋なんて見る影もなかった。
「ふにふにだねぇ」
「うるせぇな、こどもだからしかたねぇだろ」
「小さいなぁ」
「すぐまえみてぇにでかくなるし」
「……さすがに入らないかなぁ」
「?」
さわさわとお腹の辺りを撫でられて、桜は擽ったさに思わず身を捩った。
風呂上がりは、コーヒーとホットミルクを入れるのが最近の日課だった。桜の分は鍋で温めてから蜂蜜を溶かす。
マグカップを持ってリビングに戻ると、ソファで小さな頭がこっくりこっくり揺れていた。精神が体に引っ張られているのか、桜はたまに言動が幼くなる。
長い睫毛がふるりと揺れて、桜が「んぅ…」とあえかな吐息を漏らした。
「ごめんねぇ、起こした?ホットミルク飲めそう?」
「のむ……」
「ふーふーしてから飲んでねぇ」
眠い目を擦りながら、桜は素直にホットミルクに息を吹きかけてごくりと一口。
「ん、うま………」
「良かったぁ」
ふにゃっと頬を緩める桜の両手に、もう手枷はない。
必要が無いからだ。物理的に縛らなくても、桜はもう十亀から逃げようとしない。
「おやすみ、桜ぁ。大好きだよぉ」
「ん。おれも、すき」
ちゅ、とおでこにキスをする。
例えその言葉が本心からじゃないとしても、ビー玉のような綺麗な瞳がかつての光を失って暗く澱んでいようとも、十亀にとっては、この上ない幸せで。
幸せの、はずで。
十亀はキッチンのシンクに向かい、朝食の片づけをしていた。ふと濡れた手を拭こうとして布巾がないことに気づき、だらりと両手を下げたまま後ろを振り向いた。
「さくらー」
「ん?」
「物置部屋の右の箪笥の、上から二段目に青いタオルが入ってるから、取ってきて貰えない?」
「分かった」
暇を持て余していた桜がソファからぴょんと飛び上がった。どこだっけ、物置部屋。十亀の家は無駄に広いから困る。桜の居場所は十亀の隣に決まってるから、どんなに部屋があったって意味ないのに。
横並びのそっくりな扉の前で立ち止まり、数秒迷って、ええいままよと片方の扉を開けた。
まず最初に目に飛び込んできたのは、机の上に無造作に置かれた拳銃だった。見慣れないそれにどきりとする。なるべく見ないようにしつつ、周囲を見渡す。デスクトップパソコンと本棚。よく分からない専門書。意外と片付いている、というよりやけに物が少ない。
不意に、クローゼットの扉が少し開いていることに気が付いた。中から何かがはみ出している。少し直すぐらいならいいだろう、と思って扉に近づいた。
「…ッ、」
息を呑む。
扉にかけた手が、震える。
──風鈴高校の、制服だった。
冷や水を浴びせられたようだった。霞がかっていた思考が一気に澄み渡り、頭の中がクリアになる。
かつての自分の大切な居場所と、かけがえのない仲間たちの存在。転生後の再会を心から喜び、涙を流していた彼らは、きっと今もいなくなった桜を血眼になって探し回っているはずだ。
「桜ぁ?こんな所で何して……」
入口に立つ十亀と、目が合った。
先に動いたのは桜だった。机の上の銃に飛びつくと、すぐさま銃口を向けた。
「うごくな!!!!!!!!!!!」
それに構わず十亀が近づく。
「うごくな」
十亀がぴたりと動きを止める。桜が銃口を向けた先は、他でもない桜自身の側頭部だった。
「な、にしてんの」
「うごくとうつぞ。りょうてをあげて、うしろにさがれ」
「桜、」
「おれはほんきだ」
ゴリ、と自分の頭に銃を押し当てる。引き金に添えた指に力がこもるのを感じた瞬間、十亀が真っ青な顔で後ずさった。
「分かった、分かったから、桜が怪我しちゃうから、とりあえずそんな物騒な物は捨てて…」
「そのままうしろむきに、ゆっくりさがれ」
一定の距離感を保ったまま、じりじりと玄関に近づく。十亀に鍵を開けさせて、次はどうする?そのまま跨いではいサヨナラと逃げられるわけもないし、銃を構えたまま外に出たら一般人を巻き込む危険もある。
一瞬の躊躇い。それを十亀が見逃すはずがなかった。
「…ッ」
瞬間、十亀の体がブレて視界から消える。動きに反応する間もなく手首に鋭い痛みが走った。吹き飛ばされた拳銃が数メートル先の廊下に転がった。
「あ゛ッ…」
「痛くしちゃってごめんねぇ、でも、あんな危ないもの持ってちゃダメだよぉ」
細い両手首を頭上でひとまとめにされて、冷たいフローリングの床に押し倒される。意思に反して体が凍り付いたように動かない。
こちらを見下ろす十亀の顔は、逆光になっていて、見えない。
「何で逃げようとするの。俺は桜がいないと生きていけないのに、桜は俺が死んじゃってもいいの?…やっぱりまだ、教え足りなかったかなぁ」
桜の頬を撫でる手は、ゾッとするほど優しくて。
必死にもがいていた両手は力を失い、静かに床に落ちた。瞳がみるみるうちに光を失っていく。数日間かけて刷り込まれた恐怖と押し潰すような重い愛情が、桜の反抗心を根こそぎ奪っていく。
思考力を失った頭で理解できるのは、この優しい声の主を怒らせてはいけないということ、それだけ。
十亀は桜がいないと生きていけなくて、桜は十亀がいないと生きていけない。脳裏にフラッシュバックするのは、公園に打ち捨てられた帽子と眼鏡。離れていく子供たちの笑い声。
──ひとりぼっちは、いやだ。謝って、仲直りをしなくちゃ。
「……ごめん、なさい」
潤んだ瞳で見上げれば、鋭い眼差しがわずかに和らいでホッとした。全て忘れてしまえばいいと甘美な声が耳元で囁く。何もかも手放して、十亀に全部委ねてしまえばきっと、楽になれる。
「──…」
ふと視界の隅に、落とした拳銃が映り込んだ。
──『……だから、もう二度と……ッッ、俺の目の前から、いなくなるな……!』
ハッと目を見開く。十亀がキスをしようと顔を近づけて、体を押さえつける力が緩んだ瞬間、その懐に手を滑り込ませた。
「っ、」
十亀がすぐさま身を引く。その手にはしっかりとナイフが握られている。奪えるはずがない。力では到底敵わない。だから桜は、躊躇いなく刃の切っ先に手を伸ばした。
「……………………………ぇ、」
鮮血が、迸った。
予想はしていたが、思わず叫び出したくなる程の、激痛。
「い゛ッ………あ゛、」
唇をきつく噛み締めて、必死に耐える。ぼた、ぼた。手から流れ出る血液が床にシミを作っていく。
「桜ッ!?!?」
十亀が悲鳴をあげた。真っ青な顔で慌てて止血を試みるが、止まらない。みるみるうちに包帯が赤く染まっていく。
「びょ……病院!」
十亀は素早く桜を横抱きにして、家の外に飛び出した。桜は思わず目を細めた。久しぶりの外の世界だ。曇り空がやけに眩しく感じる。後部座席に寝かせられるなり、車は即座に発進した。
「もしもし、急患一名……はぁ?桜の方が優先に決まってる!……うん、裏から入るね」
十亀が向かう先は獅子頭連と繋がりのある闇医者だった。借りを作るのは癪だが、桜が助かるなら後でいくら吹っかけられても構わない。
踏切がやけに長く感じる。指先でハンドルをコツコツ叩く。後ろを向くと、桜と視線が交わる。その顔は痛みに歪みながらも、どこか申し訳なさそうな表情をしていて、
──ガチャリ、と。
車のドアが開いた。
「…………ぇ、」
咄嗟に伸ばした手が空を掴む。
バタン、と扉が閉じる。
背後からクラクションが鳴る。反射でアクセルを踏んだ。その背中が、みるみるうちに小さくなっていく。
「待って、桜……!!!!」
「…はぁ、はぁ、はぁ…っ」
肩で息をしながら、一心不乱に走り続ける。息が詰まるほどに肺が軋み、脚は鉛のように重く感じるが、それでも立ち止まるわけにはいかない。十亀も気が動転していたんだろう。チャイルドロックがかかっていなかった。逃げるなら今しかないと思った。
「(くっそ……おもったより、ふかく、きりすぎた……)」
手の出血が止まらない。包帯から染み出た血液が跡を残さないように、服の袖で拭う。
周囲を見渡す。ここはどこだろう。閑静な田舎の住宅街といった雰囲気だ。人の気配は全然ない。せめてコンビニかスーパーがあれば、電話を借りられるのに。生憎、椿野の電話番号は覚えていなかった。頼るなら警察だ。流石に血だらけの子供が駆け込んできたら、無下にはしないだろうし。
「はぁ、はぁ…ッ、はァ……ッ!」
遠くにぼんやりと人影が見えた。もう誰でもいい。助けを求めなければ。走りながら思い切り息を吸い込み、声を出そうと口を開いた。
刹那、暗がりから突如として現れた腕に物陰へと引きずり込まれる。次の瞬間、首に鋭い圧迫感が走り、気道を塞がれるように締め上げられた。
「あ゛ッ………が、……はッ」
「だめだよぉ、桜。俺以外の人を頼ろうとするなんて」
十亀がいた。
「い゛っ゛…………ぁ゛、」
「桜が泣いちゃう原因も俺、桜が頼っていいのも俺。桜は俺がいないと、生きていけないでしょぉ?」
「あ゛あ゛あ゛………あ゛な゛、せ゛ッ」
必死に蹴り上げようともがくが、短い足は全く届かない。
「ごめんね桜、俺のせいだよねぇ。中途半端に覚えてるから、苦しんじゃうんだもんねぇ。もう大丈夫だよぉ。桜が寝てる間に、痛いのも、苦しいのも、全部終わらせてあげるからねぇ。だから……今は、おやすみ」
優しく微笑む十亀の顔が、涙に滲んでぐにゃりと歪む。目尻の涙が、一粒、ポロリと地面に落ちた。
──「何でもかんでも一人で抱え込むな。あいつらを信じろ」
「………………………………た゛す、け゛」
「呼ぶのが遅せぇよ」
目の前で鈍色の閃光が走った。突然、首を絞めていた手から解放された桜は地面にぐしゃりと崩れ落ちた。十亀の頬に赤い線が浮かび上がる。地面に突き刺さる刃物を見て、眉を顰めた。
「ちょっとぉ、桜に当たったらどうすんのぉ」
「俺がアイツに当てるわけねぇだろ」
「…めんどくさ」
さも当然のように言い放つ梶。十亀の額に青筋が浮かぶ。お互い一瞬で理解した。こいつとは絶対に相容れないと。
「…ッ、」
梶が足を踏み出すと同時に十亀の拳が鋭く突き出され、ギリギリ躱した拳の風圧で、髪が舞い上がる。とんでもないスピードと威力だ。
「(口調の割にクッソ速ぇ…ッ!)」
あれを喰らったらひとたまりもない。高校生の桜はこんな化け物みたいな奴とよくタイマンで勝ったものだ。ひりつくような緊張感。梶は荒い息を吐き出しながら、鋭い眼光で睨みつける。
「おっかない顔。そんな顔見られたら、桜に嫌われちゃうよぉ」
「お前が桜を語るんじゃねぇ。今さらこの程度で、あいつが俺たちから離れるかよ!」
瞬間、身を低くして一歩踏み出した梶が、壁を蹴って高く跳躍した。だが十亀はその動きを見越したかのように、腕を曲げて力強い蹴りを受け止める。
「さっきから桜のこと知ったような口聞いて、本当にイライラさせるのが上手いねぇ、君」
「っ、」
躱そうとしたが遅かった。梶はコンクリートの壁に背中を強かに打ちつけ、息が詰まる。凍てつくような無表情でこちらを見下ろす十亀を見上げて、片頬を無理やり引き上げた。
「…お前こそなかなかいい表情するじゃねぇか」
飛んできた蹴りを前方に転がって避ける。「お前は、」土煙が舞い上がる中敵の懐へと潜り込む。「あいつの、何を見てきた……ッ!」
梶が打ち込んだ拳は難なく躱されて、次の瞬間、腹部に強烈な衝撃が襲いかかる。
「ッ、がはッ…」
呻き声と共に唾液が飛び散って、視界が揺らぐ。一瞬で意識を持っていかれそうになったが、歯を食いしばって耐える。
「(この程度の痛み、どうってことねぇ)」
──桜遥を、もう一度失う恐怖に比べたら。
勝利を確信した十亀の顔が緩む。その瞬間を、待っていた。伸ばされたままの十亀の腕を力いっぱい引き寄せて、重心を崩した。至近距離で視線が絡んで、十亀が怯む。
「お前はあいつの…ッ、」
「っ、」
「桜遥の、どこに惚れたって聞いてんだよ!!」
渾身の拳がついに捉えた。強烈な一撃を喰らった十亀の身体が後ろに吹き飛ぶ。
その瞬間、梶も力尽きて地面に倒れ込んだ。桜の叫び声を最後に、辺りが静寂に包まれる。
いや、まだ終わっていない。ふらりと立ち上がったのは十亀だった。彼の真骨頂は底知れぬタフネスだ。
梶は仰向けに倒れたまま、一歩も動けない。トドメを刺そうと十亀が近づく。だが。
「時間切れだな。ざまぁみろ」
梶が満足げに、笑った。刹那。
「あーしの大事な後輩達に、何やってんの?」
「梶、よく頑張ったな。あとは任せろ」
間に割り込む影。
ハッとした十亀が慌てて振り返れば、桐生が桜を抱き上げている様子が目に入った。
「まって、さくら!!」
「行かせるわけねぇ、だろ!」
伸ばそうとした手を柊が容赦なく捻りあげる。痛みに顔を歪めた十亀は、わざと身体の重心を崩すと柊を巻き込むように勢いよく倒れ込んだ。不意を突かれた柊は体勢を崩してバランスを失う。十亀はその一瞬の隙を逃さず、捻られた腕を強引に引き戻しながら、自由な手で柊の肩を押し込んで距離を取った。
十亀は獣のように息を荒げながらも、すかさず桜の元へ一心不乱に走ろうとする、が。
「舐めてもらっちゃ、困るのよね!」
「…く゛ぁッ、」
「二度も目の前で攫われるなんて、冗談じゃないわよ!」
桜に気を取られていた十亀が反応する余裕もなく、鋭い一撃が横から腹部に突き刺さる。鈍い痛みが体の奥まで響き、一瞬で息が詰まった。思わず身をかがめて倒れそうになる。霞んでいく視界の中で、桐生に抱き上げられた桜の姿が遠ざかっていく。どこか痛ましげな表情の桜と、視線が絡む。
「……ぁ、ま゛って……まっ゛てよ゛……っ、さく゛ら……ッ!」
「誰の許可得て桜に話しかけてんの?」
「や゛だ、…や゛だよ゛……!?ま゛ってよ、さくらぁ゛!おねがい、行かないで……ッ!」
「ちょ、おいっ、」
二人がかりで羽交い絞めにされた十亀が、なりふり構わず暴れながら悲痛な叫び声を上げる。
「俺、桜がいないと、生きていけないよ!?桜がいない世界なんて、生きてる意味がない!!俺の隣で、ずっと、一緒に生きてくれるって、約束したよね!?!?!?ねぇ桜、さくら、さくら、さくら、さくら、」
声が勢いを失った。
「…………だいすき、だよぉ」
ぽつり、呟く。
「前」に言わなかったことを何度も後悔して、何度も何度も口に出したって、言葉なんて、本当の意味で相手に届かなければ、意味がないのに。
「とがめ」
桜が桐生に何やら耳打ちして、桐生は渋っていたが桜を地面にそっと下ろした。ぎょっとした柊達が慌てて制止するが、桜は気にも留めずにとててっと駆け寄ってきた。拘束する腕の力が強まり、指一品動かせない十亀の前で桜が立ち止まる。
「おまえは、マイペースでたまにひとのはなしをきかねぇ」
「え゛」
突然の悪口に目を点にする十亀を他所に、桜は次々と欠点をあげつらう。
「ひっつきむしでちょっとあつくるしい」「たまにおこるとめんどくせぇ」「じぶんをだいじにしない」「すぐすねるし、かんちがいしてぼうそうする」「たべてるとき、がんみしてくるからたべにくい」「なんかいつもおなじふくきてる」
いやスーツと作務衣は同じの何着も持ってるから、ちゃんと毎日洗濯してるしぃ……とべしょべしょ顔の情けない声で抗議する十亀を、桜の力強い瞳が射抜いた。
「おれは、だせぇやつはきらいだ」
「ッ、」
傷ついたように瞳を揺らす十亀に、桜が「……だけど、」と表情を柔らかくした。
「……おれだってださくてかっこわりぃときは、ある」
級長として完全無欠だったとは思っていない。
てっぺんを目指す道半ばで死んでしまったし、己が信じた道を歩む途中で、無様に地べたに這いつくばることもある。
それでも何度も拳を握りしめて立ち上がるのは、己を貫くためだった。
そうして一人で歩んできたはずが、気が付けば、傍らには共に歩む仲間がいた。
「”たよって、たよられて、ゆるして、ゆるされながらいっしょにいる”」
──なぁ、そうだろ。梅宮。
今どこで何をしているかも分からない、てっぺんにいた男の広い背中を思い浮かべながら胸元をきつく握りしめる。勝手に拒絶されると思い込んで、一人でビビッていた桜の背中を押した彼の言葉は、今でも胸の内で静かに燃え続けている。
「かっけぇやつになれってやくそくしただろ。じこうなんていわせねぇ。いつまで、なんていってねぇ。だから、かっけぇやつになれ。もうにどとじぶんをまげんな。ひとりじゃいきられねぇなら、ずっととなりにいればいいだろ。ひとりでいきられねぇことが、だせぇことなんて、おもわねぇ」
風鈴高校で過ごす中で、初めて人の温もりに触れた。
ただ勝つために戦うのではなく、誰かを守るために拳を振るう意味を学んだ。
てっぺんは自分だけで背負うものではないと知った。
誰かを頼ることは弱さではないと気づかされた。
一人で立ち向かうことが力の証明だと思い込んでいたが、信じられる仲間と共に歩むこともまた、強さの一つだと実感するようになったから。
小さなふくふくとした手を、差し出す。
「だから、とがめ。おれといっしょに……、”おれたち”といっしょに、こい」
限界だった。
涙腺が決壊して、涙がボロボロと溢れ出た。
「…………ッ、そこは……、言い直さないで…っ、欲しかったなぁ…ッ」
ぐす、鼻を鳴らす。
あーもう、好きな子の前なのに本当にカッコ悪くて嫌になる。
「おまえっていがいとなきむしだよな」
「……っ、さ、さくら゛がぁ゛、な゛か゛せに゛、くる゛んだよ゛ぉ」
桜がこの世界からいなくなった時だって、ちっちゃくなって再会した時だって、今だって。
十亀の心をこんなにもかき乱すのは、きっと、後にも先にも桜遥一人だけだから。
差し伸べられた、びっくりするぐらいちっちゃくて、気を抜いたら握りつぶしちゃいそうな柔らかい手を、そっと握って。
「、わっ」
そのまま引いて前に雪崩込んだ桜を、ぎゅっと腕の中に閉じ込める。本音を言えば、このまま二人きりの世界で生きていきたい気持ちはあるけれど。
──「桜遥の、どこに惚れたって聞いてんだよ!!」
十亀条は、桜遥が大好きだ。
いつも強くてカッコいいのに、ちょっとしたことで照れちゃう桜が好きで。
仲間たちから頼りにされて、愛されている桜が好きで。
どんな時も自分の道を歩み、己を曲げない桜が好きで。
雲間から差し込む光を浴びて、凛と立つその姿が、大好きだから。
「………………………みんなのところに、帰ろっかぁ」
「……っ、おう!」
ずるいなぁ、と思う。
そんなに嬉しそうな表情かおされたら、何も言えない。
「それにしてもさっきの言葉、なんだかプロポーズみたいだねぇ」
「ぷろぽ……ッ!?は、はぁ!?」
「ずっと隣にいろって言われちゃったしねぇ」
「ばッ……ち、ちげぇよ、あれは、なんつーか、ことばのあやっつーか!」
「えっ………一緒にいてくれないのぉ…?」
「ぐ、ぐぅ……ンなすてられたいぬみてぇなかお、」
「オイコラ騙されてんじゃねーぞ確信犯だぞコイツ!」
「チッ」
「!?」
心の底から笑えたのはいつぶりだろうか、とぼんやり思う。
こちらを見上げるビー玉みたいな瞳が、太陽の光を受けてキラキラと輝いていた。まるで小さな星が宿っているようで、十亀は眩しさに思わず目を細めた。
ふと上を見やれば、雲一つない澄んだ青空がどこまでも広がっている。穏やかな風が吹き、心地よいさざめきと共に周囲の空気を柔らかく包み込む。──嗚呼、
空って、こんなに、青かったっけ。
・さくらはるか(こどものすがた)
ヤンデレ監禁エンド回避成功。
ストックホルム症候群一歩手前で実はかなり危うい精神状態だった。風鈴の皆と再会する前に先に十亀と出会っていたら、間違いなく十亀√一直線。
・梶蓮(ヤンデレのすがた)
十亀とはかなり相性が悪い。恋敵なので。
先輩だし、素直になり切れない所があるため、桜に全力で甘えるし甘やかすことができる十亀を少し羨ましく思ってる。十亀がちょっと味見してたことを知ったら多分ぶちギレる。
・十亀条(メンヘラのすがた)
彼にとっての桜遥は広い大空そのものだから、無理やり閉じ込めて手に入れた瞬間、きっとそれは意味を失ってしまう。皆に再会して本来の輝きを取り戻した桜を見て、改めてそのことを突きつけられた。
何だかんだ桜の気持ちを優先してしまうタイプ。闇堕ちフラグは折れた。桜にとっては十亀√が一番幸せかもしれない。
***
十亀が電話を終えてリビングに戻ると、小さな桜は疲れてソファで眠ってしまっていたようだった。無理もない。ずっと監禁されていたり、怪我をした状態で走り回ったりして、とにかく目まぐるしい一日だったのだ。
あの後知り合いの闇医者にも診てもらったけれど、大事がないようでホッとした。
ゆっくり休んで、少しでも早く回復してほしいなぁと思いながら、かわいい寝顔を眺めていると、桜を背後から抱っこしていた邪魔な椅子が喋りだした。
「どうだった」
「…何が」
「あの女のこと、調べてたんだろ」
「あー、ね」
桜が家に戻ってきたのは良かったけれど、元風鈴の連中までオマケでついてきたのは最悪だった。
特にこの男、梶蓮。
桜との距離が異様に近いし、事あるごとに桜の同校の先輩マウントをとってくるしで、とことん馬が合わない。向こうも同じようなことを考えているのは容易に察せられるが、風鈴組という強大な敵と対峙する今だけは、一時的な休戦に応じるほかなかった。桜のためだ。
十亀は苦虫を嚙み潰したような表情のまま、電話越しに聞いた内容をそのまま伝える。
「桜の母親は巷では有名な夜の嬢らしいよぉ。外見は桜にそっくりで、ミステリアスだって人気が高いけど、あちこちにお金を借りたりしてて、浪費癖が激しいので有名。何より“男運が絶望的に悪い”。息子がいることも隠してたみたいだけど、まともに育児もしてなかったから、周囲は誰も気づかなかったって」
「チッ…クソが。俺の桜に傷つけやがって…」
「俺たちの桜、ね」
一瞬の沈黙。
「連れてきたら、まず俺に会わせろ。桜にした仕打ちをその身をもって思い知らせてやる。…なるべく殺さないように、善処はする」
「あー…そのことなんだけどぉ」
「?」
ここからが本題だと前置きした十亀が続けた言葉に、心臓が嫌な音を立てた。
「桜の母親は、数日前から行方不明になっていて消息が掴めないんだよねぇ。最後の目撃情報はB市……国崩組のテリトリーだよ」
***
酒を煽る。煽る。煽る。
豪快な飲みっぷりに周囲の嬢たちがきゃあっと色めき立つ。
男は顔がずば抜けて整っていた。金も腐るほどある。地位もある。何と言ってもあの国崩組のNo.2だ。
危険な香りが漂う男ほど女性を惹きつけるものらしく、彼の恋人になりたがる女性は後を絶たなかったが、どんな美女があの手この手で迫っても、男は一切靡かなかった。時々白髪に染めた若いボーイの背を目で追っているから、終いには男が好きなのではないかと噂が立つ始末。
それでも男は噂など意にも介さず、堂々と支配下のキャバクラに顔を出すもんだから、嬢達はあの噂は嘘だと都合よく解釈し、変わらずアプローチをかけていた。
「…ん」
男のしなやかな指がメニューを指さし、運ばれてきた高級な酒が湯水のように消費されていく。
酒を煽る。煽る。煽る。
喉が渇いて堪らない。酒では酔えない頭が無意識にあの後ろ姿を探し求めている。
棪堂はずっと飢えていた。金も酒も女も喧嘩も何もかもが思い通りになるのに、いつも何かが満たされなかった。
その飢餓感を埋める”何か”を、求め続けていた。
特徴的な髪色。
特徴的な瞳。
“あいつ”とよく似た、でも全く与える印象の異なる女が、棪堂に妖艶な笑みを向ける。
「初めましてぇ、サクラです」
喉の渇きが、治まる。
「あれが欲しい」と本能が叫んでいた。
今まで焚石にしか感じたことのない、強烈な歓喜が全身を駆け巡る。この男が欲しくて堪らない。
「俺と一緒に来い、桜」
手に入れるための手段は選ばない。目の前で仲間を痛めつけて、お前のせいだと囁いた。お前が俺に着いてこないからこうなる。お前が皆を不幸にするんだ。
優しく花を手折るように、丹念に、じっくりと。
棪堂の呪詛に雁字搦めになった哀れな子どもは、差し述べられた手を握った。
……堕ちた。
あぁ、思わず笑い出してしまいそうだ。必死に追い縋って拒絶される馬鹿共の顔が滑稽で堪らない。従順な桜に頭を撫でてやれば、目を瞑って耐えるような表情にぞくりとした。
ざまぁみろ。お前らは間に合わなかったのだ。もう既にこいつは俺のものだ。俺の桜────、
「桜くん!」
突如目の前に迫る車のヘッドライト。運転席で男が笑っている。車は一切減速しないまま、桜の体を弾き飛ばした。
「…………………………………………は?」
桜遥が、死んだ。
すぐに警察と救急車が駆けつけて、喧嘩どころじゃなくなった。下の騒ぎを意にも介さず、梅宮との喧嘩を続行しようとする焚石を無理やり引っ張って(数発重めのを腹に食らった)、風鈴から引き上げた。
焚石の中で、不完全燃焼に終わった火種が燻っている様子が見て取れたから、話を持ち掛けた。
「本気の梅宮と、戦いたくねぇ?」
「…」
「今の風鈴は、桜が亡くなってから空っぽの抜け殻みたいになっている。そんな状態で叩きのめしても、つまらないだろ?だから、もっと面白くしてやる。組織を設立するんだ。無理やりにでも立ち直らせて、強くならざるを得ない状況に追い込んで──そして、一気に叩き潰す」
棪堂はますます焚石に執着した。あの燃え盛る炎を取り戻すために、全力を注ぎ込んだ。
そうでもしなければ、思い出す度、胸を掻き毟りたくなるような激情に脳を焼き尽くされそうだったから。
桜遥。
退屈しのぎの人生において、焚石以外で初めて心を奪われて、喉から手が出るほど欲した存在。
手に入るはずだった──確かにその手に触れた感触があったはずなのに、横から掠め取られて、幻のように消えてしまった泡沫の夢。
それとよく似た髪色、色違いの瞳。
だけど与える印象が全く異なる女が、艶やかな笑みを浮かべた。
「初めましてぇ、サクラです」
──見つけた。
棪堂は人の心を掴み、巧みに操るのが得意だ。相手の言動や表情から思考を読み取って、その場に合わせた最適解を導き出す。
テキトーに愛想笑いを浮かべて、テキトーに話を聞いてやって、テキトーに相手が求める言葉をかけてやれば、ほらこの通り。
「ちょっと散らかってるかもしれないけど。気にせず楽に過ごして」
まさにこの女を体現しているような家だった。
外面は綺麗に整えられているが、ひとたび皮を剥ぐと醜悪な本性が露になる。
リビングのテーブルには、カップ麺の空き容器が無造作に積み重なり、周囲には服が脱ぎ捨てられている。洗濯物は生乾きで、湿気を含んだ臭いが鼻をついた。
お気に入りらしいバッグと化粧品が飾られた一角だけが整然としていて、生活力のない、大人の一人暮らしそのものと言わんばかりの部屋だ。
──そこに事前に調査していた通り、子供用の靴下が落ちてさえいなければ。
「ねぇ、棪堂…」
素早く周囲に視線を走らせていると、背中に柔らかい感触が当たった。振り返る前に、女の腕がそっと腰に回る。
「私の家に来たいって…そういうコト、でしょ?」
甘い声と共に、しなやかな指がシャツ越しにゆっくりと撫で回す。やがてシャツの裾からそっと手を忍ばせると、鍛え上げられた腹筋を指先でつつつ、となぞった。
──顔色一つ変えないこの男も、本当は必死に我慢してるだけ。がっつくのはダサいから我慢してるけど、きっと心の中では今すぐ私を押し倒したいと思ってるはず。
だって、この顔、この声、この仕草──たまらないでしょう?
女は、昔から男には不自由しなかった。ワルい男にばかり惹かれてしまうせいでトラブルは尽きなかったけれど、お金に困ることだけはなかった。他の男がせっせと貢いでくれるので。
唯一の失敗と言えるのは、避妊に失敗して厄介なガキをこさえてしまったことぐらいだ。
そういえば久しぶりに帰宅したけど、アイツはどこにいるんだろう……と考えかけた瞬間、棪堂の顔がぐっと近づいてきて、唇が触れる寸前でぴたりと止まった。
彼の息遣いを肌で感じる。胸が激しく高鳴った。
やっぱりこの男、とんでもなく顔がいい。
「お前、俺のこと好きだろ?」
「当たり前じゃない。好きなんて言葉じゃ言い表せない……愛してるわ、棪堂」
「俺のためなら、何でもしてくれる?」
「もちろんよ。貴方のためなら何でもするし、どこまでも許しちゃうもの」
だからいい加減に焦らさないでよ、と抗議の意味を込めて可愛らしく拗ねて見せる。
それを聞いた棪堂がふっと目元を緩めて、耳元に息を吹き込んだ。
「じゃあ、俺のために死んでくれるか?」
「──え?」
電話一本で呼びつけられた男は、麻袋の中身が何なのか尋ねることなく、車のトランクに担ぎ入れた。
棪堂は後部座席に乗り込むと、顔認証でロックを解除した女のスマホを弄る。酒だのメシだの服だのバッグだの、ロクな写真がなくてウンザリした。
今度は勝手に拝借した幼稚園の卒業アルバムをパラパラと捲る。そこには、幼い桜の不自然でヘッタクソな作り笑顔が並んでいる。どの写真に映る桜の表情にも影が差していて、その顔をさせたのが自分じゃないことに、苛立ちがこみ上げてくる。
あんなクソ女におとなしく虐待されやがって。
桜遥は、孤高であるべきだ。
くだらない母親にも、仲良しこよしの風鈴連中にも縛られず、自分のためだけに喧嘩するからこそ、桜は最も美しく、力強く輝くのだから。
いらないモノは、全て排除してしまえばいい。
まだ、間に合う。
俺がそうさせてやる。
──だってお前は、俺のモンだろ?
「桜ぁ、あーんして」
甘ったるい微笑みとともに差し出されるスプーン。こうなった十亀は梃子でも引かないことを学習した桜は、恥じらいながら口を開ける。
「おいしい?」
口いっぱいに広がるバニラアイスの甘味。こくんと頷くと、反対隣から今度はフォークに刺さったケーキが唇に押し付けられる。
「んッ」
「口開けろ」
「…ん゛っ…むぐ」
「美味いか」
おいしいけど、口の周りに生クリームがべっとりだ。小さい舌でぺろぺろ舐めながら恨めしげに見上げると、何故か梶の顔がぶわわっと赤くなった。
「はいはい、桜でやらしい妄想してる変態は放っておいていいからねぇ、あーん」
「ちょっとま……ん゛む゛ッ」
「テメェも人のこと言えねぇだろ。友達同士なら当たり前だって嘘ついて、一緒に風呂入ってたってネタは上がってんだぞ。…ん」
「いい歳して、怖い夢見るから一人で寝れなぁい〜とか言って、桜の弱みに漬け込んでる方がダサいでしょ。小学生以下じゃん」
「「……あ?」」
「ん゛ッ、んん゛〜〜〜ッ!!」
自身を挟んで火花を散らす二人に、頬袋の中身をごっくんと飲み込んだ桜が「おまえらいいかげんにしろ!!」と怒った。
風鈴組を脱退した梶達が、十亀と休戦協定を結んで約一週間。
一時的に獅子頭連の本拠地に身を寄せることになったが、この二人、途方もなく相性が悪かった。
お互いがお互いを牽制して煽りまくるせいで、桜の身が持たない。
「桜にひっつくな舐めるな噛むな跡つけんなほっぺにキスするな!お前らの気持ちは百歩!いや一万歩譲って理解できるが!桜はまだ小学生なんだぞ!俺の目が黒いうちは桜に手は……おいそこ、説教中に桜を膝の上に乗せようとするな!」と反社を正座させて道徳を説く柊を見ながら、桜は二人共に口にちゅーされたことは黙っていようとこっそり決意した。
「目下の課題は」
椿野が咳払いをする。
「墓参りの件で、桜が生まれ変わっていることがバレたことね」
しかも、蘇枋と楡井……一番厄介な二人に。
幼い桜が親族以外で頼る相手など限られている。少し調べれば、元風鈴の仲間に辿り着くのは容易いだろう。
椿野はすぐさま身を隠し、柊と梶も組を脱退した。
おかげで今や立派なお尋ね者だ。ロクに外も出歩けやしない。
「みせのほうはどうすんだよ」
「帰れるわけないじゃない。ほとぼりが冷めるまでは、しばらくお休みね」
SNSは便利だ。人の数だけ監視カメラがあるも同然。
数日間CLOSEが続く店の様子に寂しがる常連客や、付近をうろつく怪しげな男たちを見て心配する投稿を確認し、桜がきゅっと唇を噛み締める。
間違いなく自分のせいだった。
柊達が風鈴を裏切る羽目になったのも、裏社会から離れて一人真っ当に生きていたはずの椿野が追われる身になってしまったのも。
全部、自分が巻き込んでしまったから。
敵も味方も関係なく、もう誰も、傷ついて欲しくないのに。
俯く桜の髪を、わしゃわしゃっと大きな手のひらが乱暴にかき混ぜた。
「っ、わっ」
「余計なこと考えんなよ」
「そうだよぉ、桜。いずれ風鈴とは決着をつけなきゃいけなかったんだから」
とは言え、あの場にいたのが自分だとバレているのかは微妙なところだし、このまま風鈴組と国崩組で潰し合ってくれるといいんだけど……と思案を巡らす十亀に、桜が小さく頷いた。
だがその瞳に、静かに、しかし揺るぎない決意が宿っていることに、彼らは気づかない。
──お前があいつらを不幸にするんだ。
──お前が、あいつらの手を離さないせいで。
死ぬ間際に浴びせられた言葉は、今も尚、桜の心を静かに蝕み続けている。
──ぽつ、ぽつ、と。
最初は気のせいかと思っていた雨粒は次第に勢いを増して、じわじわと服を染め上げていく。濡れた白髪が視界を遮って、鬱陶しさに前髪を掻きあげる。
どうせすぐに止むだろうと高を括って、降車時に部下が差し出した傘を断ったことを今さら後悔した。
後悔ばかりの人生だ。
間に合わない。何もかもが。
いつだって大事なものほど、この手から零れ落ちていく。
あの頃──ボウフウリンの総代を務めていた頃の自分が聞いたら耳を疑うような言葉だな、と思って、梅宮一は自嘲した。
無言で墓石の前に立って、抱えていた花束をそっと供える。
花の鮮やかな色が、灰色の世界で浮いて見える。湿気った空気の中で線香を灯すのは、思ったより手間がかかることを実感したのは初めてだった。
「……桜、」
久しぶり。元気にしてたか?
こっちは相変わらずだよ。蘇枋も楡井も元気そうだ。
そう言えば、まこち町に美味しいアイスクリーム屋さんが出来たんだってな。半年前の話だけど。俺?まだ行けてないな。最近は組の仕事が忙しくてさ。柊達が──
言葉が喉に引っかかった。一呼吸おいて、続ける。
「柊達が、突然組を抜けちまって。理由を聞こうにも、連絡手段を全部置いてっちまったから、聞けずじまいだ。まぁその辺りは、何か知ってるっぽい蘇枋に一任してるんだけどさ」
その蘇枋も、この間──桜の墓参りに行ってから少し様子がおかしい気がするけれど。お互い仕事で目が回るほど忙しい最中、深く突っ込むのは躊躇われた。
「(だって自分は、総代だから)」
トップに君臨し続ける、絶対的な存在でなければならないから。
周囲に”狂信者”と揶揄される部下たちを従え、博愛主義者を謳う梅宮一は、元ボウフウリンの仲間だけを特別扱いする訳にはいかなくて。
彼らが裏切り者扱いされていることにも、裏切り者の末路にも──何より置いていかれたことに傷つく心に気づかないフリをして、愚直に、誇り高く、前を向き続けなければならない。
「最近はずーっと執務室にこもりっきりだ。なぁ桜、知ってたか?ヤクザのトップの仕事って、殴り込みの先陣を切ることじゃなくて、お偉いさんと飯食って話をするか、一人で安全な部屋に籠って書類にサインをすることなんだ」
武器の調達。麻薬取引。怪我。入院。死亡届。差し出される紙切れ一枚、判子一つで、他人の人生を無造作に踏み荒らし、仲間の死を消費し続けている。
「………先日、やっと準備が整ったんだ」
梅宮が、恋人に囁くように言った。
雨粒が墓石を伝い、まるで涙のように滴り落ちていく。
「後は国崩組に宣戦布告するだけだ。これでようやく、あの日の決着をつけることができる」
目を瞑れば、今でも昨日のことのように思い出せる。
向かい合う焚石の、荒れ狂う炎のように揺らめく長い髪。加速していく二人きりの世界。それを切り裂く、悲鳴。轟音。宙を舞う、桜の体。集中力が途切れる。体に激痛が走る。
──こちらを見下ろす焚石の、つまらなさげな表情。
「っ、」
唐突に、電子音が思考を中断した。
部下からの着信だ。出るのを躊躇っているうちに、音は鳴り止んだ。
かれこれ数年変えていない待ち受け画面では、桜が楽しそうに猫と戯れている。この後すぐに写真を撮っているのがバレて怒られたんだっけ。目の前で消した振りをして、後でこっそりホームに設定した。
「……さくら、」
ただの後輩相手にこんなことしないって、鈍感な桜は気づきやしないんだろう。
大切だった。
特別に、想っていた。
それはきっと、蘇枋もそうだった。
あの晩、いつもなら無視する非通知の電話に出たのは、どこかで何かを予感していたのかもしれない。
【人を、殺しました】
開口一番、蘇枋はそう言った。
【桜くんを殺した男を、殺しました】
「っ、」
【暴れたから薬を打ちました。泣き叫んでいました。命乞いをしていました。眼球を抉って、何度も殴りました】
温度のない声が淡々と言葉を紡ぐ。
目の前にその光景が鮮明に映し出されるかのようだった。桜を殺した男がみっともなく泣き喚いている。助けを求める声を踏み躙って、何度も何度も殴って、ついには死んだ方がマシだと男が縋り付く。嗚呼、なんて。
【……梅宮さん?】
──どうしようもなく、甘美な妄想だろう。
知らずに、梅宮の口角は上がっていた。何かに取り憑かれたような表情だった。
幸か不幸か、あの日以来初めて生気を取り戻した瞳も、どこか弾むような声音も、聞く相手はこの場には蘇枋しかいなかった。
「悪い、何でもない」
【そうですか】
しばらく沈黙が続いた後、蘇枋がぽつりと零した。
【俺はこれから警察に自首します】
「逃げないのか?」
【はい。元々そのつもりでしたから】
「そっか」
何を言うべきか迷って、寂しくなるな、と付け足した。
蘇枋の存在は風鈴には大きすぎた。
彼は楡井の妄言に相槌を打っていた。ぼんやりする桐生を思い出の場所に連れて行った。まるで桜の動きをなぞらえるように喧嘩して、がら空きの杉下の背中を守った。
だけどそれらは全部、一時しのぎに過ぎなかった。
傷口を手当するのではなく、その傷跡ごと大切に鍵をかけて守るような蘇枋の行動は、かえって桜遥の死を強調しているようだったなと考えかけて、やめた。
梅宮に蘇枋を責める権利は無いからだ。
【棪堂哉真斗と焚石矢はきっと満足していません。このまま烽をまとめ上げて組織を立ち上げるでしょう】
「…」
【桜くんを殺した男は棪堂哉真斗に心酔していました。自分は見向きもされなかったのに、桜くんに執着しているのが許せなかったのだと。……桜くんを奪った彼らを、このまま野放しにするつもりですか?】
蘇枋の穏やかな声が、まるで甘い毒のようにじわじわと意識の奥まで染み込んでいく。内側から侵食し始めて、思考を塗り替えていく。
そうだ。全部あの二人が悪いのだ。
桜が自分の身を差し出そうとしたのも、桜が傷ついたのも、桜が、死んだ、のも。
言葉が思考の隙間を縫うように入り込み、意識に絡みついていく。自分の思考と混じり合い、どこまでが自分の考えなのか、分からなくなるって。
──ザァザァ、ザァザァ。
雨はすでに本降りだった。墓石を叩く雨音は激しさを増し、地面には小さな水たまりがいくつも広がっている。
傘も刺さずに立ち尽くす梅宮の背中を雨水が伝う。寒くて寒くて、堪らなかった。身体的なものではなく、心の隙間を通り抜けていくような寒々しさだ。
「ずっと、復讐するために生きてきた。それだけが、生きる意味だった。……これで、やっと、全部終わらせることができる、のに」
何故だろう。ずっと胸の辺りが苦しくて、仕方がないんだ。復讐に生きると誓ってから、情なんて余計なものはとうの昔に捨て去ったはずなのに。
抗争をすれば大勢の人間が傷つくだろう。死人も出るかもしれない。 今度一枚の紙切れに変わるのは、見知った誰かの名前かもしれない。
その時も自分は、以前と変わらず淡々と処理するんだろうか。
分からない。
分かりたく、ない。
「………おれ、は、どうすれば、いいんだろうな」
墓石は冷たく、沈黙したまま。
ただ雨音だけが、パラパラと石を打つ音を響かせている。
それぞれの組が準備を整え緊張感が張り詰める中、風鈴組と縁の深い組から申し出があり、会談が行われることとなった。会場は格式高い料亭の奥座敷だ。
比較的気心の知れた間柄であったため、こちら側からは総代の梅宮と蘇枋、そして護衛を兼ねた数名の部下のみが参加した。
普段通り、互いの縄張りの線引きや、取引内容について擦り合わせを行っていく。会談は終始和やかな空気で、スムーズに進んだ。
「やはり風鈴組とは腹を割って話ができる。ありがたいことですな。昔と違って、やれマル暴だの暴対法だの、外からの風当たりがこれほど厳しくなっては、組を守るのも一筋縄ではいきませんし。外敵から組を守るためには、信頼できる相手と手を取り合うことが大切です」
「ごもっとも」と梅宮が頷く。
「風鈴組とはこれまでも良好な関係を築いてきましたし、今回の合意で、我々の関係はさらに盤石なものとなるでしょう」
どちらともなく笑みを交わし合い、空気が緩む。
相手方の組長の合図に、傍に控えていた男が書類を取りだして、テーブルの上に置いた。
「それでは、契約は下記の通りでいいですか?」
書類に目をやる梅宮だったが、字が細かすぎて読みづらい。
眉間に皺を寄せながら、無意識に身を乗り出した、その瞬間。
「梅宮さん!!!!!」
突然、勢いよく身体を突き飛ばされ、梅宮は横に倒れ込んだ。
何が起こったのか理解する間もなく、蘇枋が梅宮の目の前に立ち塞がる。
「…ッ」
その顔が、小さく歪む。
次の瞬間、座敷の襖が激しい音を立てて開かれた。
武装した男たちが怒涛のように流れ込む。鋭利な刃物が一斉にこちらを向いた時、梅宮は見た。
入り口付近に倒れる部下の姿と、周辺に広がる血だまりを。
「…ッ」
蘇枋は既に動いていた。
テーブルを蹴り上げて敵の視界を遮ると、体を沈めて一気に接近する。鋭い一撃を腹部に叩き込んだ。
「くそっ……!」
今度は、襲いかかってきた別の敵に足払いをかけて体勢を崩す。男の体が宙に浮き、地面に激しく叩きつけられる。その衝撃で男は気絶したが、蘇枋はそれを許さない。
一切躊躇せずに男の体を掴むと、思い切り投げ飛ばした。
梅宮を後ろから狙っていた男が、咄嗟に避けようとするが遅い。男の手にあった刃物が、投げ飛ばされた男の背中に深々と突き刺さった。同士討ちだ。痛みで目覚めた男が絶叫した。
他の敵が親の仇を見るような目を向けてきて、こちらに向かって突進してくる。
「……梅宮さん!」
「っ、ああ」
長い付き合いがあったから、なんて情けは無用だ。殺らなければ、殺られる。
梅宮も参戦し、気がつけば立っているのは相手方の組長ただ一人だけだった。壁際に追い込まれ、生まれたての小鹿のように震えながら、ワナワナと震える指先をこちらに向けた。
「な、なんでだよ……はなしが、話が違うじゃな……「先に裏切ったのはそっちでしょう?」
長い足でガッ!!と壁を蹴りつけた蘇枋が、優雅に微笑んで小首を傾げる。
「俺たちはあなた方と仲良くしたかったのに……残念です」
「あ、あ、あ……ああああああああああああ!!」
突如、男が意味不明な音を喚き散らしながら、手近に落ちていた壺の破片を引っ掴み、ヤケクソ気味に振り回した。
「っ、」
蘇枋はすぐに反応した。だがほんの少し、動きがわずかに遅れた。
鋭い切っ先が皮膚を裂く。頬を赤い筋が走った。
「蘇枋!」
梅宮の動きに迷いはなかった。
床を蹴って一瞬で敵との距離を詰めると、強烈な一撃を叩き込む。
気絶したのを確認するなり、梅宮はすぐさま蘇枋に駆け寄った。弱々しい抵抗を無視して服を捲れば、やはり。
「最初に俺を庇った時に怪我をしていたのか」
「大丈夫です。これぐらい…どうってこと…っ、」
言いかけた言葉は、呻き声にとって代わる。普段必要とあれば表情一つ変えない男が、取り繕う余裕がないという事実が、傷の深さを物語っていた。
「今すぐ車を回して……「無事ですか!お二人共!」
勢いよく襖が開く。
連絡を受けて楡井が駆けつけてきたのだ。途端に香る濃厚な血の匂いに顔を顰めつつも、部屋の惨状を見て、連れてきた部下にテキパキと指示を出す。
「車と病院の手配をしました。店の方にも弁償諸々の話は通しておきます」
「ありがとな、楡井」
「当然のことです。蘇枋さんも無理せずにちゃんと、病院に行ってくださいね」
「うん、ありがとう。──だって、」
ふっと視線が外れた。
隻眼が虚空を見つめて、甘やかに微笑む。
「────桜くんにも、心配かけちゃうもんね?」
ひやりと、心臓を撫でられたような心地がした。
息を吸う。
バレないように、ゆっくり吐き出す。
チラリと”何も無い空間”に視線を流して、楡井は答えた。
「はい。桜さんも、心配してます」
きっと。
前までの自分なら、そう答えていただろうから。
ポケットに手を突っ込んだ楡井が、スマホがないことに気が付いたのは、それから数分後の出来事だった。
どこかで落としたとすれば、きっと先ほどの部屋だろう。
蘇枋とは先ほどのやり取りもあるし、あれから特に言及はされていないものの、墓場での一件がある。正直あまり気は進まなかったが、スマホがないことによる不便さと天秤にかけた結果、先ほどの部屋に引き返すことにした。
近づいて、ふと襖が少し開いていることに気づく。
蘇枋と梅宮が何か話をしているようだ。
声をかけようとして、聞こえてきた内容に息を呑んだ。
「今回の件で理解したでしょう?国崩組は本気です。殺られる前に、殺らなければならない」
「……まだ、国崩組と繋がっていたと決まったわけじゃ」
「これが動かぬ証拠です」
しばしの沈黙。
蘇枋が何かを見せているようだが、楡井の場所からは見えない。
「納得していただけましたか?国崩組と繋がっていなければ、こんなものを持っているはずがない。そしておそらく彼らは、奴らに唆されて、風鈴組を、裏切った」
「……」
「何を躊躇っているんですか?梅宮さんだって、付き合いの深かった彼らに手を上げるのは本望じゃなかったはずです。国崩組さえなければ、こんなことにはならなかった。大事な部下が、殺されることもなかった」
「……っ、」
「あの二人さえいなければ、こんな苦しい想いをする必要はなかった。あの二人さえいなければ、大勢の仲間たちの命を奪われることもなかった。あの二人さえいなければ──、桜くんを、失うことにはならなかった」
かヒュ、と呼吸に失敗したように、梅宮の喉が音を立てた。どろりと濁った瞳が、まるで深淵に引きずり込むかのように、梅宮を捕えて離さない。甘い毒がゆっくりと脳裏に染み込み、思考をじわじわと犯していく。
霞がかったように揺らぐ意識の中で、ただ「復讐」の二文字だけが、梅宮の頭を支配する。
──あの二人さえ、いなければ。
「6月21日──桜くんの命日に、決着をつけましょう」
蘇枋が囁いた。
「風鈴高校に招待するんです。準備は既に整っています。焚石矢もきっと再戦を望んでいるから、食いつくはずです。あの日を再現しましょう。俺たちの手で、全て終わらせる」
「すべて、おわらせる……」
「ええ。例え刺し違えてでも、彼らを」
ころす。
自身の唾液を飲み込む音が思いの外大きく聞こえた気がして、ふっと蘇枋の視線がこちらに流れかけた瞬間、楡井は火傷したかのように扉から離れた。
全身が心臓になったかのようだった。
スマホを取りに戻っていたことなんて、既に頭から吹っ飛んでいた。しばらく歩いて、後ろを振り返って誰も追ってきていないことを確認した楡井は、廊下の壁に背を預けてズルズルとその場にへたり込んだ。
「っ、はぁー……」
楡井とて、復讐に全てを注いで生きてきた。
それは今も同様で、もしこの瞬間目の前に棪堂達が現れたら、何もしないなんて口が裂けても言えない。彼らのことは憎い。はっきり言って、殺したいぐらい憎い。だけど。
だけど。
「(……そう言えば、)」
やけに蘇枋の手際が良かったことを思い出す。
彼から応援要請の連絡がきたのは、ちょうど楡井が近くに来ていて、偶然キリよく仕事が終わったタイミングで、しかもこの忙しい時期に運よく、車や人員も満足に動かせる時だった。
まるで、襲撃されることを最初から知っていたかのように。
知った上で適当な証拠をでっちあげて、国崩組への憎悪を募らせるのが目的だったかのように。
「(……まさか、)」
それは雲をつかむようにぼんやりしていて、おそらく調べても証拠なんて何一つ残っていなくて、だけど一度気づいてしまったら、確かな違和感となって全身を駆け巡る。
ぞわぞわと背筋を這う悪寒に、楡井は小さく身震いした。
そもそも、最初から間違いだった。
不要なモノだったのだ。
気づくのが遅れたせいで、堕ろすのが間に合わなかったから仕方なく産む羽目になった。
次第に大きくなるお腹を誤魔化しきれなくなって、五人目の親戚を殺して、塞ぎ込んでることにした。
多くの客から心配するLINEが届いていた。お金を送金してくれた太客にだけ、絵文字付きで丁寧に返信した。あとはクソ客。店外なんて以ての外。死ね。
出産時の付き添いはいなかった。妊娠を報告した際に、両親には勘当されて、元彼には逃げられたから。
もはや意地だった。こなくそと思いながら出産した。腹を痛めながら必死に産んだ我が子の顔を覗き込んで、思わず言葉が口をついて出た。
「……猿じゃん。」
看護婦が慌てて入れるフォローを、甲高い泣き声が遮った。まじまじと見つめ直す。真っ赤でしわくちゃの顔。薄い髪の毛。
これっぽっちも、可愛くない。
だから、初めから愛情なんてなかった。
夜泣きする度に起こされた。オムツの替え方も、離乳食の作り方も、ましてや熱を出した時の看病の仕方なんて分かるわけない。だって学校で教えてくれなかったし。急に何もかも押し付けないでよ。
根元が浮いたネイルを気にしながらスマホを弄っていると、ガシャーン、と派手な音を立てて、子どもがまた皿の中身を床にぶちまけた。頭に血が上った。
「……ああッ、もう!!」
気がつけば手を上げるようになっていた。怒鳴り散らして、火のついた煙草を押し付けて、暗い部屋に閉じ込めて、無理やり風呂に沈めて。
次第に私を見る度に怯えたような表情をするようになって、それにまたイライラして。
お前が私を不幸にした癖に!私から奪うだけの癖に!
「で、同じ目にあった今のご感想をドーゾ」
「……っ、ぁ、がッ………ゲホッ、………ぉ゙え゙……っ」
必死に水を吐き出しながら、肺いっぱいに酸素を取り込む。
鷲掴みにされた髪から垂れた水が頬を伝う。酸欠と、目の前の水槽にまたいつ顔を突っ込まれるか分からない恐怖で、引き攣る喉から音は出ない。
「喋る気ねぇなら、酸素なんていらねぇよな」
「……〜〜ッ、!?」
悲鳴にも似た声が漏れた瞬間、後頭部を抑えつける手に力が込められる。
次の瞬間、また冷たい水が視界を覆った。視界は歪み、冷たさが皮膚を突き刺した。外の音は遠く、口から漏れる泡の音と、心臓の鼓動だけが煩いぐらいに頭の中で響いている。
嫌だ、苦しい、こわい、死にたくない──!
何より恐ろしいのは、棪堂が平然としていることだった。こんな非人道的な行いをしてるのに、彼からは怒気も激情も感じない。
まるで消し忘れたテレビを眺めながら片手間に作業をしているような、気だるげで退屈そうな態度。
「俺のモンに手ェ出したから」と彼は言った。
意味は全く分からない。ただ苦しくて、怖くてたまらない。霞む思考の中であの子もこんな気持ちだったのかな、とぼんやり思う。
懺悔とも、後悔とも少し違う。
ただ、自分が今までしてきたことの意味を、理解した。
「明後日、場所を移す」
「……ッ、ゲホッ、ゲホッ……ぁ゛…、……?」
「これから、桜遥に連絡をとる。アイツ自身と引き換えに、お前を解放してやるよ」
一拍置いて、意味を理解した瞬間、血の気が引いた。
要するに人質交換のようなものだと、彼は言っているのだ。
「……ぁ゛、ゲホッ……あの゛こは……こな゛、い」
来るはずがない。きっと私の顔も見たくないだろう。
この男とどんな関係があるのか知らないけれど、今まで散々虐待してきた母親を助けるために、こんなイカれた男の元に乗り込んでくるなんて。どう考えたってありえない。
「来るんだよ」
「っ、」
かっ開いた瞳孔が、眼前にあった。
棪堂はまるで敬虔な信者のように、あるいは妄想に取り憑かれた狂人のように、「アイツは来る」と繰り返した。
「絶対に来るんだよ。例え子どもになっていようと、相手がお前だろうと、見捨てることが出来ねぇ。それが桜遥だ。……アイツのそういうところが、本当に、……」
その先はよく聞こえなかった。
「……なに、それ。……しったようなくちきいて、きもちわる、」
勢いよく水の中に顔を突っ込まれた。
冷たい水が口に、鼻に、そして肺に流れ込んでいく。視界はぼんやりと歪み、息ができずに遠のく意識の中で、ふと、自分はあの子のことを何も知らないな、と思った。
好きな色も、好きな学校の教科も、好きな食べ物でさえ。
*
備えあれば憂いなし、という言葉があるように棪堂は下準備に余念がない。
それは遥か昔わざわざKEELに潜入したり、六方一座に手を出して風鈴とのカードを手に入れたりして、手間暇をかけて万全の状態で国崩大火を始めたことからも分かるように。元々自由奔放な焚石に着いていくために、常に動ける状態にしておくのが棪堂のポリシーだ。
しかしそれでも、予想外の事態というのは起こるもので。
「明日、風鈴と抗争する」
「………………………………ア?」
口から食べかけのオムレツが零れ落ちた。焚石が残念なものを見るような目を向けてくる。
二人で昼食をとっていたタイミングの出来事だった。
実際のところ、金は腐るほどある。事務所にケータリングを頼むことも、一流シェフを呼ぶことだって出来るが、棪堂は焚石の口にどこぞの馬の骨がつくった得体の知れないモンを食わせるわけにはいかないと、二人分の料理を自ら振舞うのが常だった。
棪堂はゆっくりナイフとフォークを置くと、まじまじと向かいに座る焚石を見つめ、聞き直した。
「なんて?」
察しが悪すぎるとテーブルの下で蹴られた。食べてる時じゃなくて良かった。
涙目で痛む脛を抑えながら、棪堂はご自慢の頭脳を目まぐるしく回転させる。今聞き間違いじゃなければ、明日風鈴と抗争すると言ったか。棪堂は、今度は間抜け面じゃなく真剣な面持ちで、再度問いかけた。
「何かあったのか」
パシリと何かが顔面を打つ。一瞬叩かれたのかと思ったが、よく見ると手紙のようだった。慎重に開く。最初に目に飛び込んできたのは果たし状、の文字。
「来たる6月21日午前0時 風鈴高校にて再戦を望む。我々は、国崩組の殲滅及び消滅を目的とした戦闘を決行する──」
長々と続くそれを読み終えたのを確認して、焚石が席を立つ。話はこれで終わりだ、ということなのだろう。
手紙を持つ手が震えた。
「(……やってくれるじゃねぇか)」
直接焚石とコンタクトをとるなんて、こりゃアイツの入れ知恵だろうなと、いつもにこやかに微笑む眼帯を思い浮かべた。本当に嫌なとこばかりついてくる。自分とはさぞ気が合いそうだ。死ね。
こんなものを渡されて、元々梅宮との再戦を待ち望んでいた焚石が、この申し出を拒否するはずがない。
そして棪堂が、焚石の意志に従わないはずがないのだ。
元々準備は整ってたけど、それにしても急すぎんだろ。と脳内で毒づきながら、スマホを取り出し各所に連絡を入れる。
桜の件は後回しだ。メインディッシュは全て片付けた後で、ゆっくり味わって食べる方が美味しいというもの。
あるいは風鈴の奴らを捕らえて、目の前で甚振るのもまた一興。
あの力強く凛とした顔が、耐えきれない羞恥と快楽に歪む瞬間を想像するだけで、背筋をゾクゾクと快感が走り抜けた。
役者は揃った。
手持ちのカードを弄ぶ指先は、最後の一手を待ちわびている。
棪堂哉真斗は、欲しいものを手に入れるためなら、手段は選ばない。
***
そのメールが届いたのは、桜達が、獅子頭連の本拠地に身を寄せていた時だった。
用を足して手を洗っていると、ポケットのスマホがピコンと音を立てた。
生前からあまり携帯電話を携帯する習慣がなかった桜だが、ここのところ誘拐騒動ばかりで周囲に強く頼まれたため、今では肌身離さず持ち歩くようになった。
嫌な予感がした。
そもそも今世の桜の連絡先を知っている人間は限られているし、同じ場所で暮らしているのにわざわざメールなんて面倒くさい方法を使う必要がない。それにスマホを購入した時に、迷惑メール対策も梶たちがやってくれていた気がする。
十亀達のところに戻る前に、洗い場でスマホを確認する。
新着メールが一通。
差出人の名前は、
棪堂、哉真斗。
胸の鼓動が早くなる。嫌な予感が頭を過ぎる。
震える手でメールをタップし、内容を確認する。動画ファイルが添付されている。
鼓動が耳鳴りのように響く中、桜は迷わず、再生する。
「──ッ!」
画面に映し出されたのは、薄暗い部屋の中、椅子に縛られた母親の姿だった。顔は殴られた跡で腫れ、目には苦痛と恐怖の色が浮かんでいる。はくはく、と青い唇が震える。
「…………だ、ずげ、」
本文はたった一言。
「一人で来い」
その下にはどこかの住所らしき文字の羅列と、日時が記載されている。
──6月21日午前0時
この時間帯に、指定した場所に来い、という意図なのだろう。
太腿の火傷がジクジクと熱を持ち、皿で殴られた背中の切り傷がズキズキと痛む気がした。
目を瞑って思い出す母親の顔はいつも怒っていた。世界に対して、常に喧嘩を売ってるような人だった。
彼女のことは何も分からないし、許すつもりもない。
──だけど。
「…あら、桜?どうしたの、こんな所で立ち止まって……」
「わり、なんでもねぇ」
トイレに椿野が入って来て、咄嗟にスマホをポケットに隠す。
見捨てる選択肢は、なかった。
あの日、あの時、あの瞬間。
止まっていた時計の針が、動き出す。
各々の思惑が交差して、
重なる。
──6月21日午前0時
空調の音だけが響く監視室。男は椅子に深くもたれかかり、だらしなく脚を投げ出して、小さく毒づいた。
「チッ……こんな仕事、誰が楽しいってンだ」
こんなことをするために国崩組に入ったわけじゃなかった。もっと刺激的で、血が沸き立つような毎日を期待していたのに。
きっと今頃、構成員のほとんどは旧風鈴高校で抗争の真っ最中だろう。俺だけこんな地味な役回り、完全に貧乏くじを引いたってワケ。つまんねぇの。
椅子に縛り付けられる女。人気のない深夜の廊下。映像に相変わらず変化はなく、たまに小さな虫がカメラの前を横切るくらいだ。
少しだけうとうとと目を閉じかけたその時、背後で控えめにドアがノックされて、交代らしい見張りが顔を出した。
「お疲れ様です」
黒髪に眼鏡をかけた、生真面目そうな男だ。時計を見ると交代の時間には少し早いが、今の自分にはありがたい。
軽く挨拶を交わして休憩室に入ると、自動販売機の前で飲み物を補充している作業員らしき男の姿が目に入った。
雑用は下っ端の仕事だ。こんな夜中にまで働かされるなんて可哀想に。
あるいは、片目を怪我しているせいで抗争に呼ばれなかったのかもしれないが。そこまで考えて、自分だって似たような状況なのだから笑えねェな、と思い直した。
男の足元には段ボール箱が置かれている。やけに大きいな、と一瞬気になったが、深く考えることはなく、隣の自動販売機でお茶を購入した。
次の見張りの時間まで休憩を取ろうと、仮眠室に向かいかけたその時だった。ふと視界の端に映りこんだ、動くもの。
子どもだ。
「「……」」
理解が追いつかず、無言で見つめ合うこと、数秒。
子どもが踵を返して駆け出した。
「待てっ!」
男もすぐさま追いかけた。狭い廊下を子供は驚くほど軽快に走り抜けていく。小柄な体は曲がり角や備品の間を巧みにすり抜け、男に追いつく隙を与えない。
それでも男は執念深くその背中を追い続けた。
廊下の角を曲がったところで、見覚えのある姿に気づいた。
「ちょうどいい、手を貸せ!」
先ほど交代したばかりの見張りが廊下の向こうからゆっくり歩いてくる。男は駆け寄りながら子供の方を指差し、状況を説明しようとした。
だが、途中で言葉が詰まる。ふと気づいたのだ。
──なぜこの男が、ここにいる?
見張りが監視室を離れる理由がないはずだ。しかも、こんなタイミングでここに現れるなんておかしい。
「おまえ、どうし…………ッ、」
鳩尾に、強い衝撃。
ガクリと体から力が抜けて、男はその場に崩れ落ちる。
せめて棪堂に連絡を入れようとスマホを取り出した手を、背後から伸びた足が躊躇いなく踏みつけた。
「させるわけねーだろ」
「はーい、没収させてもらうねぇ」
「監視カメラを確認したけど桜のお母さんが閉じ込められている部屋は、このフロアではなさそうね」
見張りだと思っていた男が眼鏡とウイッグを脱ぎ捨てると、色素の薄い髪がはらりとこぼれ落ちる。
「……風鈴組の、かじ、れん、」
隣に立つのは同じ風鈴の柊登馬と、それから敵対しているはずの十亀条だ。
しかも、あの女みてぇなナリで野太い声の輩は、風鈴高校伝説の元四天王、椿野佑ではないか。
何でこんな化け物どもが、こんな所に、集まって。
「桜、怪我はない?」
「一人で突っ走んな、バーカ」
「……っ、だから、なんでおまえらまでついてくんだよ!おれひとりでこいってしじだっただろ!」
「俺たちの目を盗んで、深夜に抜け出せると思ったか?スマホの中身なんて見てるに決まってんだろ。メールと地図の検索履歴なんて見れば、お前の考えなんてお見通しなんだよ」
「はいはぁい、そこのナチュラルストーカーは置いておいて。わざわざ素直に一人で行ってあげなくても、五人で棪堂をボコボコにすればいいよねぇ」
「いや、さすがにごたいいちはひきょうだろ…」
段々霞んでいく男の視界に映ったのは、四人の怪物にもみくちゃにされて、呆れた顔をする子供の姿だった。
「で、コイツで全部ですか」
【ああ】
一蹴りで組員の意識を的確に刈り取った梶が、電話越しに柊に確認する。
監視カメラは諸刃の剣だ。
侵入者を迅速に発見できる一方で、監視室さえ制圧してしまえば、敵の位置も容易に把握できてしまう。
椅子に縛り付けられた女が映るのは、3階の奥の部屋だった。
十亀と梶が睨み合って埒が明かないので、桜を抱っこした椿野(そもそも一人で歩けるという桜の抗議は黙殺された。また一人でどこかにフラフラしかねないので)を守るように、2人が両サイドに立つ。
どちらともなく、視線を交わす。
深く息を吸い込んだ十亀が、意を決してノブを回した。
軋むような音を立てて、扉がゆっくりと開く。
中は、もぬけの殻だった。
「──いない?」
呟いた声が、静まり返った空間に吸い込まれていく。誰もがその言葉の意味をすぐには理解できなかった。
慌てて部屋の中に足を踏み入れ、辺りを見渡す。
【どうした?何があった!?】
「…誰もいないねぇ」
【え?そんなはずは……、だって、監視カメラの映像にはちゃんと桜の母親の姿が映って、】
──ザザ……ッ!
突然、モニターが砂嵐に覆われた。歪なノイズが画面を横切り、耳障りな音が室内に響き渡る。
「柊さん!?」
声を荒らげる梶に答えず、必死にキーボードを叩いて操作する。砂嵐がふっと消えたかと思うと、映像が早送りで流れ始めた。
違う……これは、巻き戻しされている。
大きな段ボールを台車に載せて、部屋から出ていった男。
作業服を着ている。女が抵抗している。女を気絶させる。大きな箱の中に女を詰め込んでいる。
監視カメラを見上げる。
眼帯で覆われていない方の瞳と、まるで目が合ったような錯覚がして、心臓がドクリと飛び跳ねた。
その口元が、動く。
【ひいらぎ!どうした!?】
柊は慌てて動画を止めた。
「アイツに──蘇枋に、先回りされていた」
電話の向こう側が、水を打ったように静まり返る。
簡潔に説明しながら、柊は音量をスライダーを押し上げると再生ボタンを押した。スマホ越しに音を拾わせるため限界まで近づける。
「────。」
蘇枋の言葉の意味を図りかねて、十亀たちが皆一様に怪訝そうな表情をする。
ただ一人、思い当たる節のある椿野だけが、ハッと短く息を呑んで、桜を見つめた。
──”約束の場所で、待ってるね。”
*
国崩大火の直前、自身の持ち場に向かおうとした桜は、背後から名前を呼ばれて足を止めた。
「桜くん」
振り返ると、蘇枋が立っていた。
何かあったのかと視線で問いかけるが、蘇枋は普段の余裕はどこへやら、口を小さく開けては閉じて、なかなか用件を言おうとしない。
焦れた桜が「どうしたんだよ」と先を促そうとした瞬間、今にも消え入りそうな声が耳朶を打った。「これが、終わったら」
「教室に、来てくれるかな。…話があるんだ」
言葉を口にする度に、喉がごくりと動くのが見える。
肩には力が入り、握りしめられた拳は白く、血管が浮き出ていた。
「…今じゃだめなのか?」
桜が首を傾げると、蘇枋は「だめだよ」と食い気味に答えた。
その勢いに、桜は思わずたじろぐ。
「いや、違うんだ、そういうのじゃ、なくて……」
言葉を探すように、蘇枋の視線が地面に落ちる。
息を整えるように小さく深呼吸をすると、眉尻を下げて、微笑んだ。
「……大事なはなし、だから。ちゃんとした場所で、話したいんだ」
声は頼りなさげに震えていて、笑顔は不自然に強ばっていて。それでも視線だけは一瞬の迷いもなく、真っ直ぐに桜を見据えていた。
「……わ、かった」
ぶわわわっと桜の頬が赤く染まるのを、椿野は見た。
*
「やくそく、」
呟いた声はあの時よりも数倍高く、顔つきはずっと幼い。
だけど色違いの瞳に宿る意志の強さは変わらないまま、一人一人、皆の顔を見回していく。
果たされなかった、約束の場所。
どこか、なんて考えるまでもなかった。
──風鈴高校。
*
薄暗い廊下を作業員らしき男が、ゆったりとした歩調で歩いている。台車のキャスターが床を滑る音だけが小さく反響している。
男はセキュリティドアの前で足を止めると、ポケットからカードキーを取り出した。一瞬、赤いランプが点滅して不快な音が鳴る。
男──蘇枋は眉一つ動かさず、カードキーに付着した血液を、作業服の袖で拭い取ると、再度カードリーダーに翳した。ピッという電子音が響き、今度こそ重い扉がゆっくりと開く。
霧が薄く立ち込める駐車場には、無骨なバンが1台だけ停まっている。その近くに台車を押していくと、運転席から楡井が降りてきた。
二人で重たい段ボールを運び込み、蘇枋が助手席に乗り込む。
「わざわざ蘇枋さんが直接出向く必要もなかったんじゃ」
「んー…大事なことだったから、人に任せるのは、ちょっとね。でも抗争にはちょっと遅れちゃいそうかな」
「なるべく飛ばしますね」
「ありがとう、にれくん」
桜にメールを送ったのは蘇枋だ。
果たし状を渡して棪堂達を風鈴高校に誘き寄せると同時に、手薄になった施設に侵入し、監視カメラに細工をして先回りして母親を誘拐した。
カメラの映像に映ったのはわざとだ。
己の本気を見せたかった。ああすれば、周りの制止を振り切ってでも桜は絶対に追って来ると確信があった。
攫われた母親を助けるために。
そして、蘇枋との約束を果たすために。
甲高いブレーキ音を響かせて、車が校舎の前で止まる。
蘇枋はひらりと降り立ち、古びた校舎を一瞥した。ほとんどの窓には頑丈な板が打ち付けられ、壁には無数の落書きが刻まれている。
胸の奥がざわついた。
決して色褪せない思い出と、消えない痛みと、ほんの少しの甘酸っぱさが入り混じり、体中に熱が巡るような感覚。
しかし、そんな感傷を吹き飛ばすように、目の前では怒声が飛び交い、乱闘が繰り広げられている。
蘇枋は口角を少し上げると、軽い足取りで混乱の中心へ向かって歩き出した。
***
焚石にとって、他人は2種類だけだった。
自分の邪魔をするヤツか、自分の好きなものをくれるヤツか。それ以外は視界にすら入らない。だから他人に興味が沸いたことはなく、顔も名前も覚えたことも、一度もなかった。
だけど、何度排除しても常に道を塞いでくる変なヤツがいた。
初めて人間を、煩わしいと思った。
初めて人間が、”面白い”と思った。
だけどそいつは、ナカマが死んであっさりと戦意を喪失した。心底ツマラナイと思った。
要するに焚石は風鈴を去ってから、退屈していたのだ。
あの日、あの夜、屋上で感じたあの熱狂──全身が震えるようなあの感覚を、ずっと渇望していた。
待ち望んでいたそれが今、目の前にあった。
まさに鬼神と呼ぶに相応しい。
血走った目は怒りに燃えて、額には青筋が浮かび上がり、全身から吹き出す怒気がこの場を支配している。
「…ッ!」
焚石が鋭い拳を放つ。反射的に受け止めた梅宮の腕が衝撃で痺れたが、その程度では怯まない。
今日この日をどれほど待ち望んでいたか。
梅宮の瞳には喜色に似た狂気すら宿っている。研ぎ澄まされた殺意を宿した一撃が、空気を裂いて焚石に迫った。
「っ、」
躱しきれずに、背中を強かに地面に打ち付けて、呼吸が乱れる。
それでも、胸の奥で高鳴る鼓動が抑えられない。焚石は知らずに笑みを浮かべていた。
楽しい。楽しい。楽しい……!!
高ぶる鼓動、揺れる視界。 全身が熱くなるこの感覚だけが、今の焚石を満たしている。
もっと戦っていたい。
永遠に喧嘩していたい。
この人間のことを、知りたい!
「っ、」
目の前に梅宮の足裏が迫る。焚石は反射的に横に転がり、ギリギリでそれを避けた。直後、真横の地面に衝撃が走り、砂埃が舞い上がる。
本気の目だった。
マトモに喰らってたら、間違いなく鼻の骨が折れていただろう。
「チッ」
「……何故そんなに怒っている」
「お前には一生分からねぇよ」
梅宮はピシャリと跳ね除けた。
梅宮にとって、喧嘩はただの暴力だ。それ以上でも以下でもない。 対話なんて、求めるだけ無意味だ。
そんな生温いことをしている間に、桜はあっさりと奪われてしまったのだから。
視線は正面に向けたまま、梅宮の指先が自然にジャケットの下へ滑り込む。
「──…っ」
金属の冷たい感触を確認して、ほんのわずかに、息を整えた。
***
「ふうりんで、えんどうたちとうめみやたちがこうそうしてる!?なんではやくいわねぇんだよ!」
「言ったら止めに行くだろ」
「…ぐぅ」
チャイルドシート代わりの梶がむにゅっと頬っぺを抓る。助手席から十亀がジト目を送ってきた。
当然、風鈴高校に向かうまでは一悶着あった。自分たちの大切な桜をみすみす危険に晒す訳にはいかないからだ。
だけど桜が全力で駄々を捏ねて、途中で「とめるなら、したをかみきってしぬぞ!」とどこぞのメンヘラ監禁犯のように自分を盾にして脅し(後に柊に「桜の教育に悪い!」と怒られぺしょぺしょしていたが、桜に慰められコロリと態度を変えていた。恐らく確信犯である)、「おまえらのこと、き、きらいになるからな!」と皆の心にダイレクトアタックをぶちかまし、最終的には「あぶねぇって……おまえらがいるからだいじょうぶだろ?」とたらしこんだ。
「なるべく他の喧嘩に巻き込まれないようにしつつ、蘇枋に接触するのが先決だな。接触しないで、母親を奪還できるならそれが一番だが」
「やばいのはアイツだけじゃない。梅宮も、だ」
「梅?」
「そうか、風鈴を離れていた椿野は知らないんだよな。……梅宮はもう何年も前からずっと、復讐に取り憑かれている。復讐することだけを拠り所に生きてきたんだ」
重い空気が車内を満たす。
止めたかったが、止められなかった。
だって柊は、梅宮が苦しんでいた姿をずっと見ていたのだ。
後輩たちの前では堂々と立ち振る舞い明るく笑う梅宮が、一人の時はいつも、桜の写真をぼんやり眺めていることを知っていた。
放課後、屋上のヘリに立って、桜が最期に喧嘩していた場所を、焦がれるような眼差しで見つめていた横顔を、知っていたから。
復讐するな、なんて言えるはずがなかった。
それを否定してしまったら、梅宮が生きることを、やめてしまいそうな気がして。
「きっと、あいつは、焚石のことを──、」
急ブレーキを踏んで車が激しく揺れた。タイヤが甲高い音を立てて路面を滑る感覚が伝わってきた。
「急に飛び出してきて、危ないだ……」
「お、思ってた奴とは違ったけど、大当たり♡」
黒い影が飛来する。
ガシャァァン!と派手な音を立ててフロントガラスに穴が開く直前、梶がすぐさま守るように桜を抱えて車の外に飛び出した。
背中を冷や汗が伝う。
戦闘を避けるために、校舎の裏手に回ったはずだった。それなのに、まさか現場を仕切っているはずの副指揮官が、たった一人で待ち構えているなんて、誰が予想できただろう。
「……えんどう」
「久しぶりだな、さくらぁ♡」
棪堂が動いた。刹那、風を切るような音とともに、一瞬で間合いを詰めてくる。
「──っ!」
桜を庇うように、十亀が反射的に前へ飛び出した。両腕をクロスして鋭い一撃を受け止め、鈍い衝撃音が響く。十亀は歯を食いしばりながらも倒れることなく踏みとどまった。
「こッの、」
背後から柊が怒りを込めた拳を繰り出す。しかし棪堂は軽やかにいなし、すぐさま反撃の構えをとる。
「させない!」
椿野が渾身の蹴りを放つが、棪堂は軽く躱すとひょいと足を引っ掛ける。体勢を崩す椿野。棪堂が間髪入れずに蹴りを放とうと身を沈める──が、突然横に飛び退く。
十亀の拳が、空を切った。
「三対一って卑怯じゃねぇ?寄って集ってイジメられてカワイソすぎんだろ、俺」
「アンタは大人しくイジメられるようなタマじゃないでしょうが」
シクシクと泣き真似をする棪堂。
数の上では有利なはずなのに、何故かこちらが追い詰められている気分になって、じわりと焦燥感が募る。
だってそうだろう。
桜を抱く梶を除いた、柊、椿野、十亀の3人を同時に相手取って息も切らさないなんて、常人なら有り得ないのだから。
これが、風鈴の伝説。
「俺だって別に、無駄に争って血を流したいわけじゃねぇんだぜ?ただ、桜を置いてってさえくれれば──「死んでもコイツは渡さねぇ」
「あっそ」
桜を抱いたまま睨みつける梶に、棪堂が肩をすくめて吐き捨てた。
「なら死ね」
次の瞬間、鋭い刃が閃き、音もなく梶の喉を掠める。ほんの数ミリの差。もし反応が遅れていれば命を落としていただろう。
「っ…!」
「ありゃ、惜しいな」
棪堂が何食わぬ顔でナイフを弄ぶ。
腕の中で声にならない悲鳴を上げる桜に、梶が大丈夫だ、と答えるが、その額にはじっとりと汗が滲んでいた。
一切の躊躇を感じなかった。棪堂は梶達を本気で殺す気だ。本気で桜を、奪いにきている。
「……、」
息を吸って、小さく吐き出す。
不安げにこちらを見上げる桜と視線が絡む。
今この場において、桜の存在は正直に言うと、弱味にしかならない。いつ他の連中がやって来るかも分からないし、喧嘩中も梶達はどうしたって、幼い桜のことを気にかけてしまう。絶対に桜を、喧嘩に巻き込むわけにはいかない。
そして梅宮は今現在も、恐らく焚石を殺そうとしている。
──今の梅宮を止められるのはきっと、桜だけだ。
桜と再会した時、もう二度と目を離さないと心に誓ったはずだった。
腕の中に取り戻した最愛を抱き締めて、固く決意したはずだった。
たとえ世界を敵に回しても、どんな犠牲を払っても、この温もりだけは絶対に守り抜く。誰の手にも渡しはしない、と。
「おい」
「ん?」
桜を抱える梶を守るように立ちはだかる、十亀の無駄にでかい背中に手をかけて、
「……ッ、桜を…………頼む」
「え」
桜を慎重に抱き直し、そっと十亀の両腕に押し付けた。
慌てる桜にも困惑する十亀に目もくれず、梶はスタスタと前に進み出る。
梶は、桜のことが好きだ。
その想いの大きさはきっと、誰にも負けないと自負している。
梶は、桜を好きな十亀のことが、大嫌いだ。
閉じ込めて二人きりで過ごしていた事実はもちろん、自分と違って、桜に対して何の憂いもなく好きだと伝えられることが正直に言って妬ましい。
だけど、大嫌いな恋敵だからこそ、コイツが桜のことをどれほど大切に想っているか痛いほど分かるから。
その覚悟の重さを、認めてしまう自分がいるから。
気に食わない。心底気に食わないが。
──桜遥を託すなら、コイツしかいない。
「テメェの始末はテメェでつける」
梶の意図を組んで、椿野と柊がずらりと横に立ち並ぶ。ここから先は、死んでも通さない。
咄嗟に何か言いかけた十亀を、凛とした声が遮った。
「部外者は引っ込んでろ。──これは、俺たち風鈴の戦いだ」
飴をガリッと噛み砕く。
ブルーグレーの瞳は、真っ直ぐ宿敵だけを見据えていた。
驚きに目を丸くしていた十亀だったが、すぐに表情を引き締めて静かに頷く。
「分かった」
「死んでも桜を守れ。だけど死ぬな。桜を置いて勝手に死んだら、地獄の果てまで追いかけ回して殺しに行くからな」
「……それはちょっと横暴なんじゃあ」
「グダグダしてねぇでさっさと行け!」
やけに気の抜ける二人のやり取りに柊が怒鳴る。呆然として成り行きを見守っていた桜が、ハッと我に返って声を上げた。
「まて、おれだって…!」
「桜は梅を頼むわ」
振り返った椿野がぱちんとウィンクをした。
「これはきっと桜にしかできない役目よ。さっさと迎えに行って、ぶん殴ってあげて。……いい加減、目を覚ましなさいよってね!」
自分だって、梅宮のことが気になって仕方がないくせに。
椿野にそんなこと言われてしまったら。ここにいても何の力にもなれない桜が、戦いを最後まで見守りたいなんて言えるはずもなくて。
「…っ、ああ!」
自分を抱き上げる十亀と顔を見合せて、頷く。
目の前の校舎に向かって、勢いよく足を踏み出した。
梅宮は精彩を欠いていた。
長時間の戦闘による疲労と、いざ仇を目の前にして迸る激情。
だが一番の原因である、胸ポケットの硬い感触が、梅宮の心に残る僅かな良心を蝕んで、動きを鈍くしていた。
「どうした、そんなものか」
腹部に深く食い込んだ一撃。
肺の空気が押し出され、呼吸が一瞬止まる。
「っ、がはッ……」
──負ける。
梅宮の脳裏を敗北の二文字が過ぎった瞬間、焚石が無表情の中にどこか残念そうな色を滲ませた。
「……っ!」
その顔があの日と重なって、カッと頭に血が昇った。
馬鹿にするな、馬鹿にするな、馬鹿にするな、馬鹿にするな、馬鹿にするな馬鹿にするな馬鹿にするな馬鹿にするな馬鹿にするな馬鹿にするな馬鹿にするな馬鹿にするなバカにするな、俺たちの積年の復讐心を、俺たちの桜への想いを──!
迷いは完全に消えていた。
焚石が一歩踏み込んだ瞬間、梅宮は懐に隠し持っていたナイフを、勢いよく突き出した。
「……ッ、」
焚石の瞳が大きく見開かれる。
鈍色に輝くナイフの切っ先が、心臓を切り裂こうとしたその瞬間。
ナイフが真横から蹴り飛ばされた。
「……まに、あったぁ……」
ここにいるはずのない存在。夢かと思った。
蹴り飛ばした体勢のままの、獅子頭連の十亀条なんて目に入らない。その両腕にぬいぐるみのように抱えられた、
「………………………………さく、ら?」
弟でも、親戚でも、ましてや当然子どもでもなく、間違いなく桜本人だと、直感的に、理解した。
混乱したままの梅宮に、十亀の腕からぴょこんと飛び出した桜が勢いよく飛びつくと、頬に小さな手が添えられる。
「「え」」
焦る十亀と声が重なった。ぐっと顔が近づいて。
「めぇさませ、ばかやろう!」
「!?」
ガンッ!!!と頭がぶつかり合って、目の前で星が飛んだ。
「〜〜〜〜ッ、〜〜〜ッ!?」
涙目で悶絶しながらも、必死に桜を落とさないように踏ん張る梅宮の腕の中で、桜がちょっぴり赤くなったおでこを擦る。十亀はウワァ石頭、とちょっぴり引いた。
梅宮は目を白黒させる。なんで…どうして……。なんで小さくなってるか、理屈は全く分かんないけど、ここは感動の再会シーンじゃねぇの……?
くぅぅううんとないはずの耳を垂らしてぺしょぺしょする大男に、桜が静かに言った。
「ししとうれんとであったときのこと、おぼえてるか」
「獅子頭、連…?」
「だいいちいんしょうは、くず」
中学生を追いかけ回して、仲間にさえも手を上げるだせぇ奴ら。
突然の流れ弾に、自身の黒歴史を思い出した十亀が「うっ」と胸を抑えよろめいたが、桜は一切気にせず続けた。
「ぜったいにわかりあえっこないとおもってた。だけど、けんかして、こぶしをまじえて。おれはとがめと、おまえはとみやまと、たいわした」
一切反撃をしない梅宮に、最初は勝つ気がないのかと焦った。
だけど違った。梅宮はただ、”対話”していただけだった。
「すずりたちとも、けんかした。こくほうたいかのとき、かけつけてくれた」
前なら信じられなかった事だ。
桜にとって、自身を証明するための手段でしかなかった喧嘩が、多くの人達と繋がるきっかけになった。
かけがえのない、居場所ができた。
「おれがみとめた、てっぺんだったおとこがいうにはな。こぶしはときにことばより、あいてをしるげんごになる。けんかは、たいわだ」
「…それって、」
他でもない梅宮の言葉だ。
「だから、」と続けた桜が先ほど蹴り飛ばしたナイフをキッと睨みつける。
抱っこするように飛びついた姿勢のまま、くわっと顔を近づけた。
「おまえがたいわを、あきらめんな!あいつともういちど、“はなして”こい!まさか、まけるなんていわねぇよな!?どんなこんなんにも、りふじんにも、ふじょうりにだって、おまえはまけないんだろ!?」
「…っ、」
伝われ。伝われ。伝われ!
激情に任せて、梅宮の胸をぽこりと殴る。
子どものパンチなんて、これっぽっちも痛くないのに、熱がじわじわと体全体に広がった。
「……ッ、」
いや何で小さくなってんの?とか、いつからそんなことになってたんだよ、とか、十亀は知ってるっぽいのに、もしかして俺だけ仲間外れ?とか、正直喧嘩どころじゃないんだけど、とか、言いたいことはいっぱいあった。
「話は終わったか」
「……あぁ」
ゆっくりと桜を地面に下ろす。
全身は既に傷だらけで、服は破れ、血がじわりと滲んでいる。呼吸は荒く、たらりと汗が頬を伝う。まさに満身創痍だ。
だけど、と梅宮は血に濡れた前髪を掻きあげて、闘志に燃える瞳で焚石を見据えた。
「負けるわけには行かねぇよな……好きなコの前だから」
「………………………………ん?」
一瞬、何か変な言葉が聞こえた気がしたが、最後まで聞く前に、十亀が変なモノを聞いちゃいけません!とばかりに耳を塞いだ。
焚石にとって、最初から勝ち負けなんてどうでもよかった。ただ目の前の喧嘩が全てだった。
一度負かしたと思った相手は、先程以上に強くなって戻って来た。
拳と拳、蹴りと蹴りが交錯する。
激しい応酬が続くたび、焚石の身体は熱く、心は高揚していく。
次はどんな攻撃が飛んでくる?
今、相手は何を考えている?
──もっと面白い人間を、探してみたい。
気がつけば、焚石は、荒い息を吐きながら地面に仰向けに倒れ込んでいた。傷だらけの体は言うことを聞かず、腕を持ち上げる力すら残っていない。それでも口元には微かな笑みが浮かんでいた。
目の前で、立ったままの梅宮がニカッと笑う。
「世の中には、おもしれー奴がいっぱいいる。自分の形を変えちまう程のスゲー奴と関わりてぇなら、名前を呼べよ。お前を見てるぞっていう、意思表示だからな!」
「…………梅宮一」
おう、と梅宮がニカッと笑う。
今まで焚石の世界には、焚石しか存在しなかった。存在しないと、思っていた。
正確には、見ていなかっただけだった。
正面には、梅宮が立ち塞がっていた。
隣には、棪堂がいた。
喧嘩には負けたが、満身創痍の体を満たすのは、全力を尽くして戦った後の心地良い疲労感だけだ。
ふと視線を横にずらすと、図体のデカい男に大事そうに抱えられた、小さな子供が目に入った。
そう言えば、と思う。
何に怒っていたのか知らないが、怒りに我を忘れて集中力を欠いていた梅宮が、焚石が風鈴を去る前以上の戦いを見せるようになったのは、あの子どもと話してからだ。
「……おまえ、名前は」
きょとんと大きな瞳がまぁるくなる。
知らず知らずのうちに、その美しい瞳に魅入られながら、焚石は、黙って返答を待った。
「…さくら、はるかだ」
他者に一切興味はなくとも、どこかで聞き覚えのある名前に優秀な頭脳が引っ掛かりを覚える。
しばらく思考を巡らせて、ああ、と思い当たった。
数年前、風鈴高校で戦ったあの夜、苛立った様子の棪堂が、何度も何度も、口にしていた名前だ。
焚石以外の名前が出るのが珍しかったから、無意識に記憶していたのだろう。俺の桜を、奪われた──と。
梅宮と棪堂が執心し、変わるきっかけになった人間、か。
それにしては、年齢が合わないような気もするが。
まぁ、些細なことはどうでもいい。これからいっぱい対話をして、知っていけばいい話だ。
面白い人間探しは、まだ始まったばかりなのだから。
「さくらはるか……覚えておく」
あの後すぐに焚石が意識を失った。
かろうじて立っていた梅宮も緊張の糸が切れのか、微かに口元に笑みを浮かべた瞬間、力尽きたようにその場に崩れ落ちる。
慌てて駆け寄った十亀が、すぐさま応急処置をした。二人とも怪我の状態は酷いが、幸いなことに命に別状はなさそうだ。
もしもあの時──追い詰められた梅宮が焚石を殺そうとしたあの瞬間、間に合っていなかったらと思うとゾッとする。
「さっきはいそがせてわるかった。…ありがとな」
「桜の頼みだからねぇ」
トップ同士の決着が着いたのだ。
本来なら争いが終わりそうなものだが、二人共気を失ってしまったせいで勝敗を伝える者がいない。ましてや元風鈴で顔の割れてる桜や獅子頭連の十亀が勝敗を宣言するわけにもいかず、寝込みを襲われても大変なので、どちらかが目覚めるまでしばらく待つことにした。
見晴らしのいい屋上からは、辺り一帯を見渡すことができる。
街は混乱の渦に飲み込まれ、瓦礫と煙が立ち込めている。怒声と悲鳴が入り混じり、至るところで男たちが取っ組み合い、血に塗れた体が転がっている。
校舎内にも組員が侵入し、絶えず鳴り響くのは叫び声と衝突音。
まるで地獄絵図だ。
──これが本当に、お前のつくりたかった景色かよ。なぁ、蘇枋。
お前は今、何を考えてるんだ。
「どうしたのぉ、眉間にぎゅーって皺寄せて」
「……べつに」
精一杯の強がりだった。
不意に冷たい夜風が頬を撫でて、くしっとくしゃみが出た。十亀は深く追求せずに「そっかぁ」と呟くとその場に座り込み、ひょいと桜を膝の上に乗せて後ろから抱き込んだ。
「ちょ、おい!きゅうになにすんだ!おれはべつに、さむくなんか」
「んー……やだ」
「やだって、おまえなぁ」
「俺が寒いから、あっためて?」
ぐずっていた背後の大男が甘えるような声を出すから、桜は観念したように力を抜き、体を預けた。
全く、どちらが子どもなんだか。
「……ふふ…あったかぁ……さくらは子ども体温だねぇ」
「…るせ」
十亀のおかげで背中がぬくいけど、吐息が首筋に当たって少しこそばゆい。
しばらく無言のまま、街の景色を見下ろしていると、不意に十亀がぽつりと呟いた。
「だいじょうぶだよぉ」
「…」
「だいじょうぶだからねぇ」
「…なに、が」
「桜の言葉、俺には届いたからねぇ。皆もそうだったでしょ?だから、大丈夫。そのまま素直な気持ちでぶつかれば、きっと伝わるよぉ」
だから、そんな不安な顔しなくても大丈夫だよぉ。
そう言って穏やかに微笑む十亀に、自分の内に潜む不安を見透かされたみたいで、桜の顔がカァァアアッと熱くなった。
「そ、それぐらいわかってるからな!べつに、アイツとあうのが、こわいとか、そんなのまったくおもってねぇし!!」
「うんうん」
「てきとうにながすな!あたまなでんな!こどもあつかいすんじゃねーっ!」
ムキーッと威嚇する桜に、「適当じゃないってばぁ」と十亀が情けない声を上げる。
頭を撫でる手を止めないまま、今まで見たことがないぐらい柔らかい表情で、ふわりと微笑んだ。
「桜は真っ直ぐで、どんな相手にだって、それが仲間であってもひるまずに、自分の言葉を曲げずにぶつかることぐらい、知ってるよぉ。
桜の、そういうところに惚れたんだから 」
「…………は?」
「ん?」
一瞬、世界から音が消えた。
「…………………………………ぇ、」
次の瞬間、何を口走ったか理解した十亀がみるみる赤くなる。
その反応が決定打だった。
釣られるようにして、桜の顔がぼぼぼぼぼっと林檎のように真っ赤に熟れる。
プチパニックになった十亀がえ、あ、いや、と意味不明な音を漏らしながら、膝の上に桜がいることも忘れて、勢いよく立ち上がろうとして、バランスを崩した。
「あ、」
「ちょっ、まっ」
十亀は反射的に桜を庇おうと引っ張ったが体勢を立て直せず、そのままもつれ合うようにして倒れ込む。
まるで桜が十亀の上に乗って、押し倒しているような体勢だ。
これ以上赤くならないと思っていた桜が首まで真っ赤になる。顔から火が出そうだった。
「わ、わるい……!!いますぐよけ……」
咄嗟に上から避けようとした桜の肩を、十亀がやけに強い力で、掴んだ。
「お、おい、とがめ……?」
驚いた桜が慌てて体を離そうとするが、ビクともしない。
黙ったまま、真顔でじぃとこちらを見つめる十亀に、桜はますます混乱し、羞恥の波が押し寄せる。変な態勢と近すぎる距離感に、もはや半泣き状態だった。
どうすればいいか分からなくて、潤んだ瞳で、縋り付くように見つめれば。
十亀が、空いている方の手をゆっくりと伸ばした。
桜の頬を優しく撫でて、困ったように言う。
「そんなかわいい顔、しないでよぉ」
愛情と切なさが入り混じった表情が、くしゃっと歪んだ。
「…………俺にもチャンスがあるかもって、思っちゃう」
いつの間にか静かに積もり重なっていった恋心は、やがてコップに張り詰めた水のようになっていた。
ぽたり。
微かな振動が引き金となって、張り詰めていた均衡は破れ、抑え込んでいた想いが堰を切ったように溢れ出す。
「桜のことがすき」
絞り出すような声だった。
まるで、犯してしまった大罪を告白するような、どうしようもないほど情けなくて、縋り付くような響きで。
「俺じゃ、だめ?」
何でお前が、泣きそうな表情してんだよ、十亀。
「俺じゃ、だめ?」
混乱した。意味が分からなかった。
真下の十亀から送られる熱を孕んだ視線に、釘付けにされたように動けない。顔が熱い。内側から燃えているみたいだ。
だって、十亀は友達、で。
好きだけど、そういう好きかどうかなんて分からなくて、付き合うとか、そんなの、一度も考えたことがなくて。
ゆっくりと、十亀の顔が近づく。
目の前で揺れる黒髪が視界を埋め尽くし、呼吸が頬を掠める。桜は、動けない。
けれど。
唇が重なる寸前で、動きがピタリと止まった。
触れるはずの温もりは訪れず、代わりに微かに笑う声が耳に届いた。
「──なぁんて、ね」
「…………へ、」
「そんな表情しないでよぉ。もしかして、本気にしちゃったぁ?」
パッと体を離した十亀がへらりと笑う。
揶揄われた、と悟った桜の顔が羞恥に染まると同時に、十亀ほお腹をぽかりと殴った。
「な………お、おまっ…ふざけんなッッ!!」
が、鍛えられた腹筋のせいで、かえって桜のやわっこい手の方がダメージを受けて、ますますムカついた。ごめんってぇ、と十亀が眉尻を下げて情けなく笑う。
転生してから桜の恋愛センサーは役立たずのぽんこつと化していたが、特に十亀を相手にする時は常時発動しっぱなしだから、普通に騙された。ぐぬぬ。
「冗談だってばぁ」
「おまえさぁ……ほんとうに、こんないそがしいときに、ふざけてるやつあるか!!」
「そうだねぇ」
「そうだねって……おま…ッ!」
ふふ、と柔らかく吐息を漏らす。大きな手のひらが、乱れた桜の髪の毛を優しく梳いて整える。
「……冗談、だよ」
冗談だから、そんな表情、しないで欲しい。
十亀は別に、桜を困らせたいわけじゃないから。
「いつも通りの桜なら大丈夫だよぉ。今までだって、風鈴の皆にちゃんと届いたでしょ。怖がってるのは、真正面からぶつかろうとしてるから。自分の気持ちを伝えようとして、いっぱい悩んで、一歩踏み出そうとしてるんだから、怖くないわけないよぉ。でもそれでいいんだよ。だからちゃんと……つたえて、おいで」
「…っ、」
元仲間と対面することを、怖がっている臆病者だと謗られるかと思っていた。桜を尊敬していると常々公言して憚らない十亀に失望されるのが怖かった。
だけど、恐る恐る柔らかいところをさらけ出した桜を、十亀はあっさりと受け入れた。
例え恋愛感情じゃないとしても、桜は信頼だの友情だの、真っ直ぐな好意を向けられることに弱い。思わず口元を隠して、モゴモゴと尋ねた。
「……なんで、言い切れるんだよ」
「分かるよぉ。…だって桜は、」
十亀が言いかけて、口を噤んだ。
逡巡した後に、愛おしさに満ちた瞳でふわりと微笑む。
「だって桜は、友達だからねぇ」
今この瞬間も、桜の恋愛センサーは、壊れたままだ。
雨がぽつぽつと降り始めたので、屋上から空き教室へと避難することにした。先に怪我の酷い焚石を運び、再び戻って今度は梅宮を背負って教室に向かう。
「やっぱり、全然起きないねぇ」
「そうだな…くっそ……!せっかくけりがついたっていうのに…!」
「うーん…一刻を争う事態だし、無理やり叩き起こ……う、嘘だってばぁ。そんな目で見ないでよ桜ぁ……無理やり起こすわけないよぉ。二人ともかなりの重症だしねぇ」
十亀が片手を教室のドアにかける。
「どうにかして、…っ」
その瞬間、ドアが内側から勢いよく弾け飛んだ。
不意を突かれた十亀の巨体が衝撃をまともに受け、梅宮ごと吹っ飛ぶ。廊下に積まれた椅子や机を派手になぎ倒し、ガシャァァァアアアン!と轟音が廊下に響き渡った。粉塵が舞う。
「とがめ…!うめみや!!」
返事はない。
散乱した椅子や机を掻き分けて、咄嗟に駆け寄ろうとした桜の足が、次の瞬間、ピタリと止まった。
「──おいおい、一発 K.O.ってそりゃあないぜ。ちょっとは楽しませてくれると思ったのに」
にんまりと口元を歪める棪堂。
その手の中で遊ぶナイフの刃先に、鮮やかな赤がこびりついているのを見た瞬間、脳内で何かが弾けた。
「棪堂……かじたちを、どうした……ッ!!」
「んんー?殺したけど。普通に」
「てめ゛え゛え゛え゛え゛え゛……ッ!」
咆哮。
次の瞬間、天井と床がぐるりと入れ替わり、激しい衝撃が背中を貫いた。肺から一気に空気が押し出され、息が詰まる。
「……か、はッ………」
何が起きたのか、思考が追いつかない。ぼんやりする思考の中で、遅れて悟った。自分は怒りに任せて棪堂に飛びかかり、一瞬で蹴り飛ばされたのだ、と。
体を起こそうとするが、全身に走る激痛がそれを許さない。
惨めに這いつくばったまま呻くしかない桜の胸ぐらを、棪堂が掴み上げて壁に押し付けた。
「い゛ッ……」
「はいはい、いい子はおねんねしようなー♡♡」
喉を掴む太い腕に容赦なく力が込められ、気管を押し潰さんばかりに締め上げてくる。
「…ぁ゛、が……」
このまま意識を絞め落とす気か。必死に腕を引き剥がそうとするが、微動だにしない。
力の差は歴然だった。
「……ッ、ぐぅ」
酸素を求めて小さな体が痙攣する。
息ができない。
目の前がぼやける。
それでも、視線だけは逸らさなかった。酸欠で赤く染まり、苦痛に歪む顔の中で、潤んだ大きな瞳だけが爛々と輝き、こちらを真っ直ぐ睨みつけている。
──ぞくり、と。
棪堂の背中を快感が走る。衝動に突き動かされるままに、顔を近づけた。
「っ……!?」
桜の瞳が驚愕に見開かれ、喉からくぐもった悲鳴ごと飲み込まれていく。
混乱した。ワケが分からなかった。
──キス、されてる。
咄嗟に押し返そうと伸ばした両手は、空いてる方の手でひとまとめにされて頭上に押し付けられる。
骨ばった指が喉をさらに締め付け、酸素を求めて薄く開いた唇の隙間から、舌がにゅるりと入り込んだ。
「…ッ、!」
長い舌が別の生き物のように動き回り、逃げ惑う小さな舌を絡めとる。くちゅくちゅと唾液を絡めて、卑猥な水音が聞こえる度に耳が熱くなる。
「……んっ……ぁ……♡♡」
荒々しく蹂躙するような動きにも関わらず、的確に咥内の性感帯を刺激されて、甘い快楽の電流がビリビリと走る。
ようやく解放された頃には、桜は酸欠で頭がぼぅ…とした状態で、ぼんやりと棪堂を見上げていた。
棪堂が唾液で濡れた唇をぺろりと舐める。色気が匂い立つような仕草にくらくらと目眩がした。
「キスだけでトロ顔晒してやんの。…ここも、こぉんなに反応しちゃって、ちっちゃいくせにやらしいなぁ♡♡」
ぐりぐりと下半身を足で刺激される。含み笑いで囁かれて、桜の全身が羞恥でカッと熱くなり、火がついたように暴れ出した。
「…くっ…そ、はな……せ!!やめ……ひっ……♡」
変な声が出てしまって、慌てて唇を噛み締める。
だって、こんなの知らない。
喧嘩の痛みにならいくらでも耐えられるけれど、こんな、じわじわと責め立てられるような、恥ずかしくて、いやでいやで堪らないのに、頭の中がドロドロに蕩けていくような、自分が自分じゃなくなるみたいな感覚。
「んッ……や゛っ…ふっ……ちゅ…♡♡ぁ゛…………ッ、」
キスしながら気道を圧迫されて、それが堪らなく苦しくて、瞳が零れ落ちんばかりに見開いて喘げば、棪堂がうっとりと微笑んで囁いた。
「きもちいいなぁ、さくら♡」
「あ゛……………ッ、………♡」
「ふわふわして、なぁんにも考えれなくなるだろ?」
もう無理だ、という寸前で喉を解放されて、ハッ、ハッと犬のように荒い呼吸をして、また首を締め上げられて。
ぼやけていく思考の中で「きもちいいなぁ」と甘ったるく蕩けるような言葉だけがぐるぐると巡る。
「(………きもち、いい)」
ふわふわとした酩酊感に恐ろしくなって、この状況が誰のせいかも忘れて、頬を撫でる優しい手つきに思わず擦り寄れば、目の前の男がますます笑みを深めて囁いた。
「新しい家はもう買ってんだ」
「……、……?」
「俺たちの住む家だよ。焚石もいるから3人暮らしだけどな。部屋は広いしセキュリティもバッチリ。風呂も3人で入れるぜ。ベッドはもちろんキングサイズだ。お前に似合いそうな首輪と手錠も買ってきたんだよ。首の部分のモチーフがさぁ、俺たちの刺青とお揃いで……」
ペラペラと喋る声が近いのに、遠い。ガラス一枚隔てた世界のように感じる。
言ってる内容はよく理解できなかった。ただ棪堂が楽しそうなことだけは伝わった。
「これからずぅっと一緒にいて、いーっぱい気持ちイイことできるな♡♡」
──ずっと、一緒。
桜はちゅ、ちゅ、甘いキスの雨を受け入れる。ゆるりと口を開いて、嬉しそうに頬を緩めた棪堂の舌を招き入れる。
ザラりとした舌を絡めて、勢いよく歯を立てた。
「ッ、!?」
棪堂が熱された鉄に触れたように飛び退く。
口の中に広がる鉄の味を吐き出す。老朽化した床に赤黒い飛沫が散った。
「だれ、が……だれが、おまえなんかといっしょにいくか!!」
きょとんとしていた棪堂が、へらりと笑った。
「あまーいキスの最中に舌噛むなんて、無粋じゃねぇか♡」
直後、頬に焼けるような痛みが走り、視界が白く弾けた。
衝撃に負けてふらつき、そのままストンと尻餅を着く。熱を持った頬がドクドクと脈打つ。
信じられない気持ちで見上げる。
棪堂は先ほどと変わらず、まるで恋人を見つめるような甘ったるい笑顔を浮かべている。
ぞっとした。肌が粟立つ。
逃げようとしたが、無造作に髪を鷲掴みにされて激痛に顔が引き攣った。ブチブチと髪の毛が抜けるが、目の前の男は気にする様子がない。
「なぁ桜ぁ」
「い゛ッ…………ぅ、」
「お前が死んだ後のこと、知ってるか?」
棪堂が顔を近づけて囁いた。
「………………は?」
「まさかお前のだぁい好きなアイツらが裏で何してたか全く知ろうともせずに、死体の山の上で、のうのうと守られて生きてたわけじゃないよなァ」
「…っ、」
「その顔、少しは理解してるみたいだな。そうだよ。アイツらは、お前が死んでからみーんな、狂っちまったんだ」
かつての賑わいが嘘のように、荒廃した商店街。
街中で始まるチーム同士の喧嘩に、周りの人達は怯えて逃げ惑うばかり。「変わっちゃったのよ」と記憶の中の椿野が言う。
「街を守っていた正義のヒーローなんて見る影もねぇ。片っ端からチームを倒しては吸収し、暴力に溺れていった」
一人で眠れなくなった梶。まるで生き急ぐように働き詰めていた柊。ずっと幻覚に話しかけていた楡井。復讐に囚われていた梅宮。
「挙句の果てには、蘇枋隼飛は人殺しだ。”お前のために”人を殺した」
「ぁ……」
そうして、精神的支柱になっていた蘇枋が逮捕されて、ボウフウリンは呆気なく瓦解した。
「反社なんて立ち上げてさ、大勢の罪のない人間を殺しまくってんだぜ?あーんなに優しかった風鈴のお仲間がよぉ、お前が死んだせいで、あぁなっちまったんだ。それもこれも全部、お前と関わっちまったから」
「ぁ、あ……あ゛………」
棪堂の言葉が甘い毒となって、するすると絡みついていく。もはや体は解放されていたが、抵抗する気力はなかった。
「全部ぜーんぶ、お前のせいだ」
「やめろ!!!!!」
桜が耳を塞いで絶叫した。
その場に蹲りガタガタと震える桜の傍に棪堂が屈み込む。優しく、だが有無を言わせない力強さで耳を覆う手を外させた。低くて艶のある声が容赦なく耳朶を打つ。
「さっきのアイツらの顔、見せてやりたかったなァ……最期までお前を守るために戦ってるんだって、満足そうに死んじまった。結局、こうなってるから無駄死にだったけどな。お前が俺に着いてこないから。そこでぶっ倒れてる梅宮も、他の風鈴の奴らも。桜のせいで、みんなみーんな、死んじまうんだ」
「ちがう、ちがう、やめろ、やめろ…!!そんなことしたら!!!!!おれがぜったいにゆるさな……「桜に許して貰えなかったらどうなるんだ?」
「っ、」
棪堂が首を傾げた。心底不思議そうな顔だった。
「今のお前に何ができる?喧嘩もできない、誰も救えないお前に何ができるんだ?精々俺のご機嫌とりをして、そこの伸びてる馬鹿が目を覚ますまでの時間を稼ぐぐらいだろ?」
「…ツ!」
何も、言い返せなかった。
こんな体じゃ何もできない。いや、こんな体になる前から桜は何もできなかった。
棪堂に勝てなかった。
諦めてその身を差し出した。それすらも失敗して、遺恨を残して死んだから、こんな事態を招いてしまった。
全て、自分のせいだった。
「そんなことより、さっさと邪魔な奴ら全員消しにいきてぇんだけど。まだ終わりじゃないだろ?」
「ま…まて、」
か細い声で、咄嗟に裾を引く。
振り返った棪堂が、はぁー…と長いため息をついてしゃがみこむと、目線を合わせた。
「小学校からやり直して、人にお願いする時の態度って習わなかったか?」
「…っ、」
息を吸って、吐く。
拳をぎゅっと握り締める。
大好きだった仲間たちの顔を思い浮かべた。
「……………い、します」
消え入りそうな声だった。
「ん?」
「おねがい、だから……なんでも、するから……いっしょにいくから、もうあいつらをきずつけるのは、やめてください。おねがい、します」
我慢しきれずに、飴玉のような瞳からポロポロと零れ落ちた涙を、棪堂はそっと指先で掬ってやる。
舐めてぇな、と不意に思った。二色のそれを口の中で転がしたら、一体どんな味がするのだろう。
桜の全てを知りたい。
体の隅々まで貪って、味わい尽くしたい。
自分一人では生きていけないぐらいドロドロに甘やかしてやりたい欲望と、やわい心をぐちゃぐちゃに踏み躙りたいという相反する衝動が、自身の中でせめぎ合っている。
床に惨めに這いつくばったままの桜の前髪をそっと掻き分けて、濡れた瞳と視線を合わせる。
棪堂がもう一度、優しい声で尋ねた。
「じゃあ”お前の意思で”、俺と一緒に、着いてくるんだよな?」
「…………ああ、おまえと、
「桜さん!!!!」
不意に叫び声が、霞みがかった意識を切り裂いた。
どうして、ここに。
聞こえるはずのない声に、桜は呆然と目を見開く。教室の入り口に、肩で息をしながら楡井が立っていた。
「に、れい……」
「見てます」
「…………………ぇ」
呆然とする桜に、楡井が凛とした声で言った。
「ちゃんと、見てますから!!!!」
思い起こされるのは墓場での会話だ。
転生した今の桜を全く見ようとせず、脳内に存在するイマジナリー桜に話しかけ続ける彼に、桜は。
──おれをみろよ!!!!!げんかくなんかじゃなくて、いまをいきてる、おれをみろよ!!!!!!!
思いきり、ぶん殴ったのだ。
周りには届かないと散々忠告されてきた。楡井はもう手遅れだと。
だけど楡井は、桜を捕まえようとした蘇枋を体を張って引き留めてくれた。そうして今、再びこの場に現れた。
伽藍堂だった硝子玉がキラキラと光を反射し、眩く煌めく。
「ちゃんと見てます、桜さんのこと。だから、桜さんもどうか目を逸らさないで。見てください、今の俺たちを。聞いてください。今を生きている俺たちの言葉を!!!」
楡井の真っ直ぐな言葉が耳に響いた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
静かな水面に石を投げ込まれたように、小さな波紋がじわじわと広がって。皆と再会した時の大切な思い出が、次々と浮かび上がっていく。
『何で俺と商店街であった時に相談してくれなかったんだ』
柊との出会いが全ての始まりだった。
『桜。何でもかんでも抱え込むのが級長じゃねぇ。みんなを頼れって周りにも散々言われなかったか』
『さくら、桜、桜!何でここにいるの!?何でちっちゃくなってるの!?本当に桜よね!?さくら、さくら、私たちの桜……っ!』
ケイセイ街で喧嘩に巻き込まれ、困っていた桜を助けてくれたのは椿野だった。
『大好きよ、桜』
『絶対に許さねぇ」 』
一触即発の楡井と十亀から救ってくれたのは梶だった。目の下に酷いクマを携えて、みっともなくボロボロ泣きながら桜をぎゅっと抱き締めた。
『だから、もう二度と……ッッ、俺の目の前から、いなくなるな……!』
『あー……本物の桜だぁ…』
十亀との始まりは、まぁ…うん、ちょっとおかしかったが。アイツなりに桜を守ろうと努力した結果、監禁なんてとち狂った方向に空回りしたんだろう。多分。
いつも桜の隣にいれて、世界一幸せですって言わんばかりの、小っ恥ずかしい顔をしてた。
『さくら、大好きだよぉ』
そうだ。皆を守るために桜が犠牲になったって、彼らはきっと喜ばない。
一度目で棪堂の誘いに乗ろうとした桜は、その事実に、二週目の人生でようやく気がついた。自分の選択は間違っていたと。
例え風鈴を引き合いに出されようとも、最後まで棪堂と戦う道を選ぶべきだったのだ。
その結末がどうであれ、仮に棪堂に勝つことは出来なくても、負けなければそれで良かったのだ。立ち向かい続ける未来を選ぶべきだった。
何故なら桜は────、
「おれはおまえには、ぜったいについていかねぇ。おれは……、ボウフウリンの、さくらはるかだ!」
──アイツらに、愛されていると、胸を張って言えるから。
その瞳に宿った強い輝きに、棪堂は一瞬、目を奪われた。
それは確かに、数年前の今日、喉から手が出るほど渇望した業火の焔と似て非なるものだった。独りだからこそ鮮烈に輝く焚石とは異なって、まるで周囲の光を反射するほど、美しく輝く、ような──、違う。何を考えているんだ俺は。桜は、一人の方が似合う、はずで。己のためだけに、戦うべきで。
「…………ッ、クソが……いい所だったのによぉ…ッ!”桜はオレと”話してんだよ!!!!!余計なことを──するんじゃねぇ!!!」
瞬間、棪堂が楡井に肉薄する。
空気を切り裂くような速度で接近したその気迫に、楡井はただ目を見開くばかりだった。
反応する間もなく、棪堂の手が伸び――楡井の肩を掴む寸前、横から蹴り飛ばされた。派手に机を巻き込んで倒れる棪堂を、見下ろす三人の影。
「私の大事な後輩に、もう二度と手は出させない」
「…………椿、さん」
楡井がポツリと呟く。その表情はまるで迷子の子供のようで。振り向いた椿野がニッと笑って、自分の胸を叩いてみせた。
「なぁに変な表情してんのよ。アンタも私の後輩に決まってるでしょ?ボウフウリンの楡井秋彦」
「……ッ、」
今にも泣き出しそうに顔をぐしゃぐしゃに歪める楡井の頭を「マ、そういうことだ」と柊がポンポンと撫でた。桜が歓喜の声を上げる。
「おまえら、やられたはずじゃ…!!」
「このままじゃ埒があかねぇからって、国崩側の援軍が来て足止め食らってたんだよ。俺たちがお前を残して死ぬわけねぇ。お前の心を折るための嘘に決まってるだろ。……さっきは取り逃して悪かった。棪堂の相手は俺たちがやる」
「俺もいるんだけどぉ」
「とがめ!!」
いつの間にやら意識を取り戻していた十亀が立ち上がる。ここまで動きっぱなしで体は疲れ切っているはずだが、全く疲れを感じさせない、好戦的な瞳で棪堂を射抜く。
「借りは返させてもらうよぉ」
蘇枋以外のほぼ全員が集結した。四対一。しかも今戦える最高戦力だ。追い詰められた棪堂が舌打ちする。
ピリッと張り詰めた空気を、呑気な声が破った。
「いててて……あー……わりぃ、全身バキバキで動けねぇや。誰か、肩貸してくれねぇ?」
「梅宮!気がついたのか!」
「ああ。…目が覚めたよ。色々と、な。今まで悪かった」
軽い言葉に込められた深すぎる想いに、今までずっと側で支え続けていた柊は思うところがあるのだろう、頬が僅かに緩んでいる。
一番近くにいた十亀が仕方なく肩を支えて、梅宮を立ち上がらせる。
「じゃ、俺は十亀と一緒に終戦宣言をしてくるな!」
「えっ、俺もぉ!?」
「一人じゃ歩けないから、頼む!」
「えぇ……桜の傍から離れたくないんだけどぉ…」
「とがめ。たのむ」
「〜〜っ、もう……桜の!!頼みだからね!」
不承不承といった様子で戦線離脱する十亀の背中を見送って、柊が楡井の肩に手を置いた。
「俺たちは今度こそ棪堂を倒す。級長を頼んだぞ、副級長!」
「………っ、はい!」
楡井はにぱっと笑うと、目尻の涙をそっと拭った。
裏社会に身を置いて数年、こんな血に染まりきった自分でもまだ後輩だと認めてくれる人がいる。温かく迎え入れてくれる大切な仲間達がいる。
ならば、期待に応えるのが楡井秋彦だ。
「案内します、桜さん!蘇枋さんの、ところまで!」
「ま、」
桜は不意に、グイッと腕を引かれた。振り返る。梶が立っていた。
「なんだよ」
「………………え、あ」
この行動に一番驚いているのは、梶自身だった。考える前に体が動いていた。蘇枋の元に行こうとする桜を、咄嗟に引き止めて、思わず口走りそうになっていた。
──行くな。と。
いつから、なんて分からない。
気がつけば梶は、小さくて広いその背中を無意識に目で追うようになっていた。
何もなかったはずの両腕に、抱えきれないほどの大きな責任や期待を背負い込んだ後輩が、もがき苦しみながら成長していく様子をずっと見守っていた。
だからこそ、言えるはずがなかった。
──お前のことが好きだ、なんて。
こんなにも重くてドロドロした感情を、これ以上、この素直で優しい後輩に、背負わせる訳にはいかないから。
「…何でもねぇよ。さっさと行け」
「はぁ?おまえがひきとめたんだろうが」
呆れ顔の桜。こっちの気も知らない癖に。梶は半ば八つ当たりのように考えながらしっしと手を振る。
ムムっと口を尖らせた桜が、楡井に何事か囁かれて顔をスッと引き締めた。誰のことを話しているのかなんて予想すべくもない。
いつだってそうだった。
いつも桜を見ていた梶だからこそ分かる。分かりたくないけど、気づいてしまう。周囲がどんなに必死に桜の気を引こうとしたって、アイツは声掛け一つ、微笑み一つで、あっさりと桜の注意を引きつけるのだから。
会話の最中、ふと逸れた桜の眼差しの先にいるのは、いつだって。
「そう易々と逃がすかよ!!」
血走った目で吠えて、桜の元へ向かおうとする棪堂をすかさず梶が阻んだ。
「行かせねぇよ」
「チッ…どいつもこいつも、俺と桜の邪魔ばかりしやがって…!!」
「かじ……!」
「いいから行け!」
後ろ髪を引かれたように二人に視線を向ける桜に、梶は視線を寄越さないまま叫んだ。
「さっさと行け。もう負けねぇ。もう逃がさねぇ。信じろ、仲間を。こういう時ぐらいカッコつけさせろ。
俺はおまえの、”先輩”だからな」
きっとこの気持ちは、一生、胸の内に秘めたまま。
せめて好きなヤツの目に映る背中が、世界一カッコよく見えていますように。
なるべく足音を立てないようにしながらも全速力で、楡井の後をついて廊下を駆け抜ける。外からはまだ喧騒が聞こえてくる。十亀と梅宮はどうしているのだろうか。一抹の不安が頭を過ぎる。「桜さんは」
前を走りながら、楡井が唐突に尋ねた。
「蘇枋さんのこと、どう思ってるんですか?」
「っ、」
桜が小さく息を呑む。
それを見た楡井の鼓動がドクドクと逸るのは、走っているだけのせいではない。聞きたいけど、聞きたくないような。相反する想いが胸の中で荒れ狂っている。
楡井はただ、三人で一緒にいたいだけだった。
ずっとそうだった。あの頃も、今も。三人並んで他愛のない話をして、笑い合って、ふざけて、そんな日々がいつまでも続くと信じていた。
だから”それ”に気づいたとき、最初のうちは喜んだ。
だけど、いつしか怖くなった。ふとした瞬間の視線、何気ない仕草の一つ一つが、二人きりの世界を築き始めている気がして。
あの頃の自分はまだ青かった。きっとそうはならないと頭では理解していても、いざ行動に移す勇気が出なかった。
でも、そうこうしているうちに桜が亡くなった。
行き場のない想いを抱えきれなくなった蘇枋が、静かに壊れていく様子に本当は気づいていた。
それでいて、気づかない振りをし続けた。だって、三人一緒に堕ちていくなら、地獄の底でも怖くないと思ったから。
だけど蘇枋がまだ暗闇の中で、たった一人で立ち尽くしているのならば。二人で一緒に迎えに行くのが、自分たちの役目で。
足踏みをする大好きな人たちの背中を押してあげるのが、楡井にできる最大限のことだから。
「蘇枋さんのこと、どう思っているんですか?」
再度尋ねる。
いつの間にか、二人は廊下の真ん中で立ち止まっていた。
黙りこくっていた桜が、ゆっくりと顔を上げる。
「おれ、は……」
桜が教室のドアを開けると、懐かしい空気がふわりと胸を満たした。
かつて通っていた1年1組の教室。壊れた蛍光灯がチカチカと瞬き、四方の壁に不規則な影を落とす。
いつも喧嘩が絶えなかったせいで、傷だらけの机と椅子。壁に掻き殴ったいたずら書きもそのまま放置されている。
まるでこの場所が時間に取り残されているかのようだった。
いや、事実取り残されているのだろう。
数年前に──最近前世の記憶を取り戻したばかりの桜にとってはつい昨日のことのように思えるが──、かつて桜が使っていた席に座る、蘇枋は、ずっと、あの日から。
声をかけようと一歩踏み出して、息を飲む。
彼の、足元。
あの頃と何一つ変わらない思い出の場所で、最も異質なもの。
「~~ッ!~~~~~ッ!!!」
両手両足を縛られて、猿轡を噛ませられた女がジタバタと暴れている。何故か髪の毛が少し濡れているように見える。女──もとい、今世の桜の母親は、教室の扉を開けた桜に気づくなり、大きく目を見開いて、必死に首を横に振った。まるで、今すぐ逃げろとでも言うように。
それに気づいて、蘇枋がゆっくりと顔を上げる。
目が合うなり、ふわりと微笑んだ。
「お疲れ様。来てくれるって、信じてたよ」
その声はやけに穏やかで、まるで時間さえも止めてしまいそうなほど静かに教室に響いた。
──ただどうしようもなく、好きだった。
君の何気ない仕草、ふざけ合うクラスメイト見て僅かに緩む横顔。
その一つ一つが自分だけのものだったらと、何度も何度も、夢想した。
誰よりも、君を見ていた。
授業中も、視線は無意識に引き寄せられる。
黒板に集中するふりをして、ちらりとその横顔を盗み見る。真剣な眼差しはもちろん、睡魔と闘うぼんやりとした表情さえ、愛おしくて堪らなくて。
目が合う度に胸が騒いで、平然を装うのがやっとだった。
誰かと笑い合う君を見ていると、つい茶化してしまう。君が真っ赤になって怒るとき、その瞳に自分だけが映っているのを見てほっとしてしまう自分が情けない。
どうか、この気持ちに気づいて欲しい。
気づかないで欲しい。
相反する感情に揺さぶられながら、あと一歩を踏み出すのを躊躇った。
今の居心地のいい関係が壊れてしまうのが、何よりも怖くて堪らなかったから。
そんな矛盾ばかり抱えたまま、何食わぬ表情を取り繕って、隣に立ち続けるのが精一杯だった、あの頃。
「桜くん……これが終わったら、話があるんだ」
頬をじわりと染め上げて、こくり、と君が小さく頷く。
その反応に、思わず期待、してしまいそうになる。
そんな自分を叱咤する。
思い上がるな。勘違いするな。桜くんは人からの好意に反応して赤くなってるだけだ。
そうやって言い訳をしておかないと、この恋心が死んだ時、心が壊れてしまいそうだったから。
ただどうしようもなく、好きで好きで、たまらなかった。
君の何もかもが。
その感情は、愛と呼ぶには青すぎて。
恋と呼ぶには、重すぎた。
Side : 蘇枋隼飛
「~~ッ!!~~~~!!!!」
「蘇枋さん!!!話はちゃんと聞きますから、まずは彼女を解放して……っ!」
「あの日のことは、昨日のことのように思い出せる」
蘇枋が足元で暴れ回る女を眺めながら、静かに口を開いた。
その目は、今目の前の景色ではなく、もっと遠く、そしてもっと深い場所を見つめているようだった。
声は淡々としていて、感情の起伏をほとんど感じさせない。
「迫る車のヘッドライト。誰かの叫び声。衝突音。ブレーキ痕はなかった。君の体が宙を舞って、それきり」
一瞬の間があり、風がカーテンを強く揺らした。
そう言えば、この教室だけ窓が開いてるんだなと桜は現実逃避のように思った。他の教室の窓は板が打ち付けられていたり、ガラスが割れて散乱していた気がする。
蘇枋はふっと短く息を吐くと、静かに言葉を続けた。
「助からないのはひと目でわかった。誰もが桜くんに駆け寄る中で、走り去っていく車のナンバープレートを必死に目に焼き付けたよ。犯人を見つけ出すために。その時は、どうするかなんて考えてなかった。ただ──そうするべきだと、思ったんだ」
*
桜遥の葬式はひっそりと執り行われたが、多くの人が駆けつけた。そのどれもが見知った顔ばかりで、彼が風鈴高校に入学してたった数ヶ月の間に、どれほどの人に愛されてきたかがよく分かる。周囲が哀悼の意を示し涙ぐむ中で、蘇枋だけは泣かなかった。
泣けなかったのだ。
心の中にぽっかりと空いた穴を、冷たい風が容赦なく吹き抜けていく。
周囲が理解不能な生き物のように思えてならなかった。まるでヘタクソな芝居を見ているような気分だ。
泣いてどうなる?桜くんが戻るわけでもないのに。泣いてスッキリして、それで心の整理でもした気になるのか。
そしてそれが終われば桜くんの死を乗り越えて、何事も無かったかのように生きていくとでも言うつもりか。
「お前の分まで、めいいっぱい生きるよ」なんて綺麗事を掲げて励まし合いながら、彼の死を「過去」にして、ありふれた日常に戻っていくとでも言うのか。
人は二度死ぬと、誰かが言った。
一度目は肉体的な死。
二度目は、周囲の記憶から消えたとき。
「(……桜くんを、忘れて生きていくなんて)」
──そんなの絶対に許さない。許して、なるものか。
気落ちする桐生を思い出の場所に連れて行った。
慰めの言葉を口にしながら、彼の記憶に桜の存在をさらに深く刻み込んだ。
楡井の妄言に付き合った。
本来なら彼を現実に引き戻し、病院で適切な処置を受けるよう促すべきだと理解していながら、いもしない桜の存在を肯定し続けた。
桜の動きをなぞるように喧嘩した。がら空きの杉下の背中を守って戦った。周囲の視線が集中するのを背中に感じていた。
合間を縫って、寝る間を惜しんで犯人探しに尽力した。
「分かってたんだ」
蘇枋がぽつりと零した。
「犯人を殺したところで、満たされないことぐらい。どんなに拷問して、惨たらしく殺しても、俺の心は何一つ動かなかった。空っぽのままだったんだ。だってあの男を殺しても、桜くんは戻ってこないから」
本当は始めから、ずっと分かってた。
だからこそ、蘇枋は一人まともな顔をして、彼らを献身的に支え続けた。風鈴が蘇枋無しには成り立たないほど依存したタイミングで、犯人を、殺した。
そうすればこの薄氷の上を踏むような均衡が、呆気なく瓦解すると知った上で。
甘い言葉で梅宮を惑わせて、反社会組織をつくるように促した。焚石達を殺すように唆した。道標を失った彼らに復讐という目標を示唆した。全ては桜遥のためだと嘯いた。
人々の記憶が薄れることが怖かった。穏やかに微笑みながら、化膿した傷口を何度も抉り続けた。
──桜遥を、忘れるな。
──忘れるなんて、許さない。
他人だけじゃなくて、自分さえも。
何度も、何度も、呪い続けて。
まるで、終わりの見えない深い水底へと沈み込むような感覚。呪い呪われ、絡みつく言葉に雁字搦めになりながら、奪われていく呼吸と霞んでいく意識が、奇妙なほど心地よかった。
その息苦しさだけが、彼が存在していた証であり、消えゆく記憶を繋ぎ止める唯一の鎖だったから。
このどうしようもない恋心と共に心中する──そう思っていた。
「……それなのに、ある日突然、柊さんの様子が変わった」
趣味も娯楽もなく、肺を煤で汚しながら生き急ぐように仕事に打ち込んでいた彼が、突然、自身の健康にも気を遣い定時退社をするようになった。目の下の濃いクマはどこへやら、以前の疲れ切った様子とは打って変わり、まるで別人のように元気になっていた。
その数日後には、一人で眠れなかったはずの梶が、事務所のソファでうたた寝している所を目撃した。ヘッドフォンで外界を遮断して、桜の動画を繰り返し再生していた彼が、和やかに柊と談笑する様子を見かけるようになった。
「裏切られたような気分だった。許せなかったんだ。さも桜くんの死を乗り越えたような晴れやかな表情をして、平然と笑う皆が……どうしても、許せなかった」
言葉を絞り出すように吐き出した蘇枋の瞳は、冷え冷えと冴えていた。先ほどまでの穏やかさは消え去り、代わりに抑えきれない感情が露わになっている。
口元が引き攣り、笑うのに失敗したみたいな表情だった。
「何年も囚われてたはずの梅宮さんが、今さら復讐をやめる?桜くんの死の引き金を引いた彼らを、赦す?対話する?……笑わせないで。ふざけないで。にれくんまで、吹っ切れたような顔をしちゃって……!!!そうやって、みんなが君を、忘れるころすんだ……!!!!!」
間近で迸る激情。怯えた母親が身動ぎした拍子に机がぶつかって、ガタリと重い音が教室に響いた。
「……ああ」
蘇枋が足元を見下ろす。いたんだ、と言いたげな表情だった。
転生した幼い桜を嬲り、虐待し続けてきた人間。生まれた時から桜と一緒にいれる栄誉を手にしていた癖に、慈しんで守るべき我が子に手を上げていた愚かな人間。
例えその背景にどんな事情があろうと、最愛に手を出した彼女を、到底許せるはずがない。
「んッ!!ん゛ん゛~~~~~!!!」
濡れた服が冷たく腕に触れる。力はもう残っていないのか、抵抗なんてあってないようなものだった。そっと手を差し込んで、横抱き──いわゆるお姫様抱っこをすると、ゆっくり窓際に向かった。
「っ、ンン゛~~~~~~!!!!!」
「す、蘇枋さん……!?待ってください!!何をするつもりですか!?」
窓の外には夜の闇が広がっている。
今まで数えきれないくらい人を殺してきた。今さら数が一つ増えたところで、何になる。
校舎の向こうには街灯の光が滲み、遠くで怒声と悲鳴が入り混じる。
この光景を望んだのは、自分だ。
桜遥を奪った彼らを、許せなかった。
──間違っても桜くんが棪堂に着いていこうとしていたなんて、認めたくなかったから。
桜遥を忘れようとする彼らを、許せなかった。
──今さら復讐をやめて前を向いて歩こうとするなんて、だって、そんなの、
「んッ!!ん゛ん゛~~~~~!!!」
「蘇枋さん!!!!!!!」
「すおう」
桜が静かに言った。
「おまえ、もしかして……さみしいのか」
「……………………え?」
「みんなにおいてかれるのをいやがるだだっこにしかみえねぇけど」
「駄々っ、子」
シリアスな場面に似合わぬどストレートすぎる言葉に、蘇枋が雷に撃たれたように固まる。
ちっちゃい桜が、腕組みをしてぐいっと片眉を上げる。あどけない容姿に似合わぬ仕草で、まるでおままごとのようだった。
「だってそうだろ。おれをわすれてころすだのころさないだの、よくわかんねぇりくつこねくりまわして、ずっとめのまえのおれからめをそらしてる。けっきょくはひとりになるのがいやなさみしがりやだろ」
「そんな、そんなものじゃ……っ」
「おまえももどってくればいいだろ」
「っ、」
桜があっさり言った。
なんて事ない顔で。まるで今日の昼飯を尋ねるような気軽さで、何年もずっと桜に執着し、殺した犯人を血眼になって探し出して拷問した男に、罪のない人間を大勢殺してきた男に、ひょいと手を差し伸べた。
「いまもむかしもかわんねぇ、ずっとおまえのいばしょだろ。…それとも、こんどはおれが、しょうかいしてやろうか?」
この騒動を引き起こしたさみしがり屋の駄々っ子、レオナルド、なんとかかんとかだって。
まこち町の部外者だった桜がクラスにすぐに馴染めたのは、間違いなく蘇枋のおかげだった。町を守るために喧嘩していたことをクラスの皆に伝えて、受け入れやすい空気を作ってくれた。
他人と一線を引いているかと思いきや、急に距離を詰めてきて。掴みどころがないようでいて、きっと大事なものの明確な線引きをきちんとしている奴なんだろうと思う。
「ん。かえるぞ」
だから、そんな蘇枋の”内側”だと自覚した桜は、数歩、距離を詰めた。
咄嗟に駆け寄ろうとする楡井を目で制して、手を差し出す。
「さくら、くん、」
「ごめんね……もう、耐えられないんだ」
「…………………は?」
次の瞬間、蘇枋が腕に抱えていたものをパッと手を離した。
「────ッ」
悲鳴を撒き散らしながら、女が窓の下へ落ちていく。
蘇枋はそれに見向きもしない。
「……なっ、!?」
慌てて窓際に駆け寄った桜を、蘇枋の腕がギリギリと音を立てそうなぐらい力強く抱きしめた。息が詰まるほどの強い力。桜の脳内で警報が鳴り響く。
「す、お……なに、しやがんだ………はな、せ!!はやくたすけに、たすけにいかないと、!」
「もう間に合わない。手遅れなんだよ、全部全部」
蘇枋が窓の外に背を向けたまま、桜を抱き締めて窓枠に腰掛けた。
桜が爪を立てて引き剥がそうと必死にもがくが、蘇枋の腕は、鋼鉄の枷のように微動だにしない。
「蘇枋さん!」
「これ以上近づいたら桜くんを窓から落とす」
「っ!?」
「俺は本気だよ、にれくん」
蘇枋が桜を傷つけるはずがない。
頭ではそう思うのに、楡井の足は凍りついたように動かない。今の蘇枋なら本気でやりかねない気がした。
「はなせ!はなせよ、すおう!!」
声が掠れるほど叫ぶが、蘇枋は何も答えない。
蘇枋の顔には何かを押し殺すような、苦悩とも狂気とも取れる表情が浮かんでいた。
「ごめんね、桜くん。君の気持ちを知ってるのに、手を離してあげられなくて」
「……は?」
突然の言葉に、暴れる桜の動きがピタリと止まる。
何を、言っているんだこいつは。俺の気持ち?手を離す?
「見ちゃったんだ。屋上で、十亀さんを押し倒して……キスしてる、とこ」
抱きしめる蘇枋の腕が強くなる。
その言葉の意味を理解しようとする桜の思考は追いつかない。あの場面を、見られた?桜が、十亀の想いに答えた?いや、だって、そもそも、あれは単なるアクシデントで、十亀の冗談であって。桜は十亀に告白なんてされてないし、そもそも桜が、すき、なのは。
混乱と羞恥がぐるぐると頭を巡って、真っ赤になって湯気を出す桜に、勘違いした蘇枋が切なげに微笑んだ。
「我慢できないんだ。桜くんが他の人と一緒になるなんて。他の人に君を奪われるぐらいなら……いっそ、全部、終わりにしよう?」
「な……なにいって、」
悪寒が背筋を這う。嫌な予感がした。
「やめろ……、ばか、やめろって!!!!」
慌てて胸を押すが、蘇枋は微動だにしない。そう言えば一見細いように見えて、案外体をしっかり鍛えているやつだった。
必死に身を捩る桜に、蘇枋は世界一愛おしいものを見る目を向けて、そっと額に口付けた。
「生まれ変わっても、ずっと一緒だよ」
蘇枋の手がふっと窓枠を離した。
浮遊感が一瞬桜を包み込む。
蘇枋が桜を抱きしめたまま、背中から宵闇に吸い込まれるように落ちていく。冷たい風が頬を撫で、体中に鋭い感覚が走る。
「…………………………ッ!!!!!」
桜の、声にならない悲鳴。
心臓が鼓動を速め、身体が硬直する。必死に手を伸ばすが、指先が空を掴み、何も掴めない。何もかもが遅く感じられた。絶望感が一気に胸に広がる。
だが、直後、蘇枋の体が突然ぐっと止まった。
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
自分を抱きしめている蘇枋の体を、何かが支えている。蘇枋のスーツのジャケットが、窓枠の金具部分に引っかかっているのだ。
「……ッ、」
命綱のような形で二人を繋ぎ止める布地に、蘇枋が身を捻ってジャケットを外そうとする。桜の胸が激しく跳ねた。必死に蘇枋の体を引き寄せよせて、叫ぶ。
「やめろ!」
「…」
「まて!やめろ!!やめろって!」
「…」
「やくそく!」
ジャケットを外そうとしていた蘇枋の動きがピタリと止まる。
「わすれたとはいわせねぇ!!おまえはおれに!!はなしがあるんじゃねぇのかよ!!!!」
「……………な、にを、いまさら、」
至近距離で視線が交錯する。
次の瞬間、いつも浮かべている余裕の笑顔が剥がれ落ちて、隠していたものが浮かび上がる。
焦燥、怒り。そして拭いきれない悲しみが一気に堰を切ったように溢れ出し、悲鳴混じりの叫び声となって迸った。
「…そ、んなの!もう!どうだっていいじゃないか……!!」
告白するまでもない。
だって桜くんは十亀さんのことが好きなんだ。今さら想いを告げたところで無駄なのに。
君が他の男のものになるなんて、我慢できないから。
「もう終わった話なんだよ!?何で今さら、こんな瀬戸際になって……ッ!!もう君は、他の人を選んだくせに!!……おねがい、だから……!最期ぐらい……っ、笑った顔、見せてよ……ッ」
息が詰まる。胸が痛い。
声を出す度に喉が焼けるように痛むのに、それでも叫ばずにはいられなかった。
最期に目に焼き付けるのは、桜くんの笑顔がいい。悔しさも悲しさも全部飲み込んで、嘘でもいいから、笑ってくれたら、それだけでいい。
指先が冷たくなって、霞んでいく意識の中でも、最後に思い出すのがその笑顔なら—— 、どんなに体中が痛くても、どんなに胸が苦しくても、復讐に囚われ続けたこの数年間が報われた気がするから。
例え行きつく先が地獄でも、君となら怖くない。だからどうか——、
「だからお願い、おねがい、だから…………さいご、ぐらい……俺だけを、」
見て。
「うるせぇぇぇぇええええええ!!!!!!!!!!!!!」
間違いなく誰よりもうるさい声で、桜ががなった。
壊れたスピーカーのような大音量を間近で浴びた蘇枋の耳がキ──ン……とする。
「おねがいおねがいって!おまえは!かんじんなことをなに一ついわねぇ!」
いつだってそうだ、と桜は思う。
誰かと楽しそうに話しているだけで、どこからともなく現れて間に割り込んでは、わざとらしく肩に触れてきたり、近すぎる距離感で周囲に見せつけるように振る舞ったり。
かと思えば、遠巻きに様子を伺いながら不機嫌になって。
そのくせ、目が合えば嬉しそうに笑うから。
本当に面倒くさくて、だけど実は結構分かりやすくて、そのくせ絶対に自分の本音を明かさない、大嘘つきのホラ吹き野郎。
「おまえのほんねをいえよ!ほんとうのねがいをいえよ!!ほしがれよ!!!!おまえは!」
桜が蘇枋を力強く抱きしめ、その唇を奪った。
「おれが、すきなんだろうが!!!!!!」
「……は、」
蘇枋が呆然と目を見開く。体の抵抗が、止まる。
桜が顔を赤くしながら続けた。
「わ、わからねぇわけねぇ、し。あれだけまいにちみてきて、あからさまな、たいどされて……バレねぇとおもってるほうが、ば、ばか、だろ……………………」
声は次第に小さくなっていき、最後のひと言は、唇の端から零れるようだった。
桜は俯いたまま、拳をぎゅっと握りしめている。微かに肩が震えていて、その震えが、まるで心臓の鼓動にまで伝わっているみたいだった。
「そ…そんなわけないよ。だって、だって、桜くんは十亀さんのことが好きで。まるで、俺のことが好き、みたいな、」
言いかけたその瞬間、桜が小さく息を呑んだのが見えた。
耳の先まで真っ赤に染まっている。瞳は伏せられたまま、それでも、微かに——確かに——こくりと頷いた。
ぶわわわわっと熱が一瞬で伝染したみたいだった。
宙ぶらりんになったまま、林檎のように真っ赤になった恋愛初心者二人は途方に暮れて見つめ合う。沈黙に先に耐えられなくなったのは桜の方だった。
「だ、だからその!こくはく、したら!へんじ!もらうのが!ふつうなんだろ!!きりゅうが、いってた…!」
「え、あ………そう、そう……だよね」
蘇枋がまだ赤い顔のまま、居住まいを正す。
「……桜くん。おれも、」
ビリッ…と嫌な音がした。
宙にぶら下がる二人を支えていた蘇枋のスーツのジャケットが、二人分の自重に耐えかねて、とうとう裂け始めたのだ。むしろ今までよく耐えていたと言う方が正しい。
「……え」
「へ、」
──ビリリリリリッ
二人の告白劇を律儀に見守っていた命綱は、一気にその役目を放棄した。
「っ、」
「うわぁぁああああああああああああ!!!」
引き裂かれる布の音と共に、二人の体が落下する。
蘇枋は咄嗟に桜を守るように抱き寄せる。すれ違っていた二人の心は一つだった。
──死にたくない。
教室の明かりに向かって必死に伸ばした手を──、長い腕が、 ギリギリで掴んだ。
二人分の強い力で体を引っ張り挙げられて、どさり、と勢いよく教室の床に転がり込む。荒い息を吐きながら呆然と顔を見合わせる。
髪は乱れ、ジャケットはもうボロボロだった。
「……っは……」
「生きて、る……?」
「お二人が無事でよかったです」と息を切らした楡井が涙ぐむ。自分一人の力では、到底二人を引き上げるなんて無理だった。助っ人を呼んで良かった。
桜がいなくなって不安定になった梅宮を陰で支え続けた彼。
敬愛する梅宮の傍を離れて、思い出の詰まった大切な校舎で一人戦い抜いた守護神は、長い髪を振り乱し、いつにも増して不機嫌なオーラを放っていた。
「チッ……人騒がせな…こっちの寿命が縮まるかと思っただろうが…」
「…っ、うるせぇ!おれのせいじゃねぇだろ!!こっちもしぬかとおもったわ!」
「ふふっ…あはは……全く、素直じゃないなぁ。杉下くんだって、桜くんがいなくなってから、すっごく落ち込んでたのにね」
明滅する蛍光灯の下でも分かるぐらい顔を赤く染めた杉下が、「…お前に言われたくねぇ」と低く唸った。
***
どこだ、どこだ。どこにいる。
桜は必死に茂みの間を掻き分けながら、自分たちのように窓や木に引っかかっていないかと目を凝らす。
「…っ、」
いい思い出なんて一つもない。
それでも目の前で落ちた時、桜の胸に押し寄せたのは言葉にできないような喪失感だった。
ひょっとしたら、今の体が精神に影響を与えているのかもしれない。あんなどうしようもない人でも、”さくらはるか”にとっては血の繋がった、たった一人の肉親だから。
必死にちんまい足を動かして、階段を駆け降りて、途中から蘇枋に抱えられ喧嘩する男たちの合間をすり抜けて、辿り着いた窓の下。
四人で手分けして必死に探したが、生きている彼女はおろかぐちゃぐちゃになった遺体さえもない。
「そんなはずは……たしか、このあたりに……っ」
「お届け物でーす♡」
この場にそぐわないやけに陽気な声がして、ドサッと何かが目の前に置かれた。地面に二色の髪がふわりと広がる。
母親、だ。
「…っ、」
お礼を言おうと顔を上げて、声の主を確認するなり、ぎょっとした。思わず叫び出さなかったのは奇跡に等しい。
「くろねこやまとくんの宅急便……なぁんてな♡代金は後払いでもいいぜ?」
そのカラダで♡♡と棪堂が卑猥な仕草をして見せながら、にんまりと口元を歪めた。
「え、なっ、えん、どう……っ!?!?!?」
「棪堂…!」
「桜くん、今すぐ彼から離れて」
「あーっとそう警戒すんなって。もう喧嘩を続ける気はねぇよ。焚石が満足しちまって、桜も手に入らねぇって分かっちまえば、こーんな下らない喧嘩もする意味ねぇだろ?……ったくあいつら、過剰戦力で寄ってたかって容赦しねぇの。ただでさえ第2、第3ラウンドで疲労困憊だってのによォ…」
肩をすくめる棪堂は、セリフの割に清々しい表情だった。
コイツの言葉を信じるならば、梶たちは勝利したんだろう。あるいは負けなかった、と言うべきか。少なくとももう風鈴に手出しする意図はなさそうだ。桜たちはホッと息を吐いた。
だがまだ疑問が残る。
「どうしてあなたが、桜さんの母親を助けたんですか?」
「ん〜?窓の外見てたら急に上から降ってきて、なんかちょうどいい感じに引っかかってたから、回収しただけだわ」
何でもない事のように言ってのけるが、そんな都合よく偶然が重なるだろうか。と言うかそもそも聞きたいことはそれじゃない。
だってこいつはそもそも桜の母親を誘拐した上に、痛めつけていたのだ。助ける理由はどこにもない。
「ぐはは、ワケ分かんねぇって面してんの。確かにこんなクソ女、俺にとっちゃ死んだところでどうでもいいし、むしろ死んでスカッとするぐらいだわ。助けたのもなんとなく、気まぐれみてぇなモンだよ。……強いて言うなら、まァ」
棪堂はゆっくりとしゃがみこみ、こちらに顔を近づけてきた。
距離の近さにびくりと肩を揺らす桜に、くすりと笑みを漏らす。その吐息すらもびっくりするほど穏やかで、心臓がドクリと変な音を立てた。
戸惑う桜をじぃと見つめる瞳は、まるで蜂蜜を溶かしたように甘ったるく、視線が全く逸らせない。
「──惚れた弱み、ってやつ?」
桜の恋愛センサーが反応して、体が一気に火照った。顔がみるみる真っ赤に染まり、視線がうろうろと落ち着きなく周辺をさまよう。
蘇枋と楡井がすかさず桜を守るように立ちはだかる。その様子に棪堂がふはっと笑った。
それがいつもの嫌な笑い方じゃなくて、思わず零れてしまったような無邪気で、それでいて心底大切な相手を向けるような、優しい笑顔だったから。
咄嗟に抗議しようとした桜はますます照れてしまって、ぐぬぬと言葉を呑み込んで、それからボソリと呟くように言った。
「おまえがだれにほれてもじゆうだけど、その…………おまえをお義父さんってよぶのは、ちょっと」
「…………………ン?」
間の抜けた沈黙。
ハッと我に返った棪堂が何か言いかけた瞬間、黒板を爪で引っ掻いたような不快な音が辺り一帯に響き渡り、思わず耳を塞いだ。
「──っ」
「何だ、急に……っ」
【あー、あー……あいうえおいうえおあ……久しぶ……から、音が……──ッ】
校内放送だ。
喧嘩していた周囲も思わず手を止めて、皆一様に上を見上げる。
【これ本当にちゃんと使えんのかな…メガホン使った方が良くない?……エッもうマイク入ってんの!?先に言ってくれよもうー……っ痛ぇ!】
まるで入学式の時みたいだ。まだ見ぬ好敵手との出会いに胸を弾ませていた桜の出鼻をくじくような、やけに気の抜けるやり取り。
だけど一瞬で空気を引き締めた──悔しいが認めよう、誰よりも風鈴高校のてっぺんに相応しい男。
「…ははっ」
桜は思わず吹き出した。なんだか無性に面白くて、懐かしくて。
ちなみに初めて見る桜の笑顔に、棪堂が食い入るようにこちらをガン見していたが、桜は全く気づかなかった。
【あー…俺から言うことはただ一つ。……この戦い、俺たちの勝ちだ!】
なっ焚石!十亀!と呼びかけるような声に「…声がうるさい」と何かを殴るような音が続き、「ひでぇ!!」「あっマイクが」とガタガタと雑音が入り混じる。何だこいつら、と思わず半目になる桜。
だけどそれは、まさしく鶴の一声だった。
雄叫び。歓声。悲鳴。
阿鼻叫喚の渦が巻き起こって、肩を組み勝利の喜びを分かち合う者、負けた悔しさを噛み締める者。
誰もが次々に武器を取り落として、トップ同士の決着ならばと、勝敗の結果を受け入れていた。
「あっやべ……最初に言い忘れてた」
トップの言葉を聞き逃さないようにと、その場が一気に静まり返る。
明るく溌剌とした声が響き渡った。
「これじゃどっちか勝ったか分かりにくかったな!ん゛ん゛ッ。俺は風鈴組──いや、
“ボウフウリン”初代総代、梅宮一だ。以上!」
あの日、たった一人その身を差し出し、仲間を守ろうとする大切な人に届かなかった言葉も、
あの日、着かなかった決着も、
あの日、果たされなかった約束も、
あの日、伝えられなかった想いも。
長きに渡る戦いが、幕を閉じる。
──国崩大火、終幕。
柔らかな陽光が病室の白いカーテンを透かし、淡い影を壁に落としていた。ベッドの側に置かれたテーブルには、花瓶に挿された薔薇の花束が飾られていて、窓から風が吹き込む度に花びらが揺れて、甘い香りを運んでくる。
桜は枕に寄りかかりながら、ただ目を細めて窓の外を見つめていた。青々と茂る木々の向こう、どこまでも広がる夏空には、白い雲がふわりと漂っている。
不意に、ガラリと扉が開く音が静寂を破った。
「桜さん!」
「桜ぁ、元気にしてた?」
「怪我は大丈夫?」
「暇を持て余してないか?携帯ゲーム機なら持ってきたけど」
「困ってることがあったらなんでも言えよ!」
見舞いの品を手にした仲間達が我先にと桜に話しかけ、一気に喧しくなる病室。
「お前ら、一気に話しかけんな!桜が困ってるだろ!」
窘める柊の声もどこか弾んでいる。無理もない。もう見られないと思っていた光景。桜を含むボウフウリンの皆が、あの頃のように集まっているのだから。
長きに渡る国崩大火は、ようやく終焉を迎えた。
幸いなことに、敵味方合わせて死者は一人も出なかったらしい。大怪我をしていたはずの梅宮と焚石が、数日後にはピンピンしていたのにはドン引いた。
むしろ一番軽傷だったはずの桜が、幼い体ゆえに疲労が溜まったのか、風邪を拗らせたことの方が重大だった。
思う存分に組の権力を濫用した梅宮によって病室に押し込められた桜はこの程度で大げさだと不満気だったが、連日病室を訪れては、死んだはずの桜との再会に咽び泣くボウフウリンの皆を見て、頬が緩んでいたことは誰も指摘しなかった。
そっと目尻を指先で拭う椿野の背中を、梅宮が励ますように叩いた。直後、散々迷惑をかけたお前が言うなとばかりに、柊にスパーン!と頭を叩かれた梅宮が涙目になる。
「なにやってんだよ、おまえら」
それを見た桜が、思わずふっと微笑んだ。
一瞬で病室が静まり返る。
直後。
「桜さぁぁあああああん!」
「桜ぁ!!!」
「桜かわいいーっ!!」
「うぉっ、ちょ、おまえらきゅうにへぶふふぉっ」
周囲から一斉に抱きつかれて、揉みくちゃにされた桜が目を白黒させる。皆からすれば、ますます愛くるしい姿になって戻ったきた桜の、破壊力抜群の笑顔に堪らなくなっただけなのだが。
ベッドサイドに飾られていた花瓶が倒れそうになって、咄嗟に支えた楡井が「見事なお花ですね。どなたかのお見舞いですか?」と柔らかく微笑んだ。
「それ、さっき棪堂からもらったやつ」
「今すぐ叩き割ってもいいですか?」
「なんでだよ」
楡井の殺意は高い。さもありなん。
聞けば、桜の病室に所狭しと並ぶプレゼントの大半は棪堂から贈られた物らしい。
「これでもはいりきらなくて、いくつかもちかえってもらったんだけど」
「…」
黙々と見舞い品を開封する楡井は、棪堂のタトゥーによく似たアクセサリーや、誰もが聞いたことがあるブランド物の香水、夢の国のペアチケット、焚石とお揃いの耳飾り(これもきっと棪堂チョイスだろう。むしろそうであって欲しい。これ以上厄介な男を誑し込むな)をぽいぽい袋に詰めた。もちろん全て返品だ。
シンプルな無地のTシャツぐらいなら、可哀想だし寝巻き代わりに使ってあげましょうか、と思ってひっくり返すと、タグに記載されていた高級ブランドの文字にドン引きした。
重すぎる。
会った回数は数える程度なのに、何故こうもクソデカ感情を拗らせた面倒な男ばかり引っ掛けてくるのだろうか、と見事に引っ掛けられてきた面倒な男たちは、一様になんとも言えない表情を浮かべた。
「はぁ……」
「桜は相変わらずだねぇ」
「ほーんと、厄介な人間ばかりひっかけるんだから」
「そういう所が、桜の魅力でもあるけどな!
……そうだろ、蘇枋?」
二カッと笑った梅宮が後ろを振り返る。
壁際で一人、輪に入らず成り行きを見守っていた蘇枋の肩が、大袈裟にビクリと跳ねた。
「…そう、ですね」
蘇枋が桜と会話を交わすのは、風鈴高校で再会してから初めてだった。
目覚めてからなんだかんだと言い訳をし続けていたが、梅宮に引きずられるようにしてようやく桜の病室を訪れた蘇枋は、伺うようにこちらを見やる。
桜も思わず黙り込んで、視線が交差する。
「さーてと、それじゃあ私たちは帰りましょっか!」
「学校の復興作業もあるしな」
「構成員の皆の見舞いにも行かねぇとな!!梶達も行こうぜ!」
「……はい」
「……」
梶が続いて、最後に十亀がぽんぽんと頭を軽く撫でて出ていった。
「……」
「……」
まるでお膳立てされたような状況が面映ゆくもあり、何だか居た堪れない。そう思っているのは桜も同様のようで、お互い気まずげに顔を見合わせた。
***
病院の売店で目当てのものを購入し、ビニール袋を提げて歩く。訪れた休憩室は閑散としていたが、先客がいた。
十亀だ。
椅子に座って無駄に長い足をだらしなく伸ばしながら、ペットボトルのラベルの表面をぼんやりとなぞっている。無駄にガタイのいい背中がやけに小さく見えて、梶は内心舌打ちをした。
先ほど買ったばかりの袋の中身をガサガサと漁る。
「なぁ」
「…」
「…おいって」
「……いたっ」
「やる」
「乱暴だなぁ」
十亀は頭を摩りつつも、いつものように言い返すことなく、緩慢な仕草でテーブルに落ちた飴玉を拾う。
梶は何となく向かいの席に座った。十亀はちらりとこちらを見たが、何も言わなかった。
休憩室に包みを剥がすカサカサという音だけが響く。
「…シケた面すんな、鬱陶しい」
「君こそこんな所に来てないで、大好きな桜と一緒にいればいいじゃん」
「…」
「…」
言葉は必要なかった。出来ることならお互いそうしている。今さらだった。
築き上げてきた大事な関係を壊したくなくて、困り顔を見たくなくて、何より好きなコの幸せを優先してしまった大馬鹿者達。惚れた方が負けとはよく言ったものだ。本当に救いようがない。
今頃二人の想い人は、病室で好きな奴と二人きりなわけで。梶がやり切れない思いをコーヒーと共に飲み下せば、苦味が口いっぱいに広がった。間違って無糖を選んでしまったようだ。
「まだ飲んでないし、あげるよぉ」
「…」
「間違えたから」
「ドーモ」
何と間違えたのか、なんて聞くほど野暮じゃない。受け取ったお茶で口直しをして、
「マ、俺は告白したけどねぇ」
「ブフォッ」
勢いよく吹いた。慌ててティッシュでテーブルを吹く梶を、あらら、と十亀が面白そうに見てくる。
「は、おま、……はァ!?」
「俺はヘタレの君とは違うからねぇ」
「いや、今そんな会話の流れじゃなかっただろ!いつ抜け駆けしたんだよ!!!つーかアイツの態度からして、本当に告白したのかよ!?全く意識されてなかっただろ!!」
「うーん、どっちだと思う?」
「…ッ、てっめぇ…」
「まぁどっちにしろ」
十亀は飴の包み紙を指先で軽く丸めると、ひょいとゴミ箱に向かって投げた。狙ったようにすっぽりと収まるのを見届け、飄々と肩をすくめる。
「桜の隣は誰にも譲るつもりはないからねぇ。ずっと一緒にいるって約束したし。それに恋人よりも、一番の友達の方が、何かと相談しやすいこともあるでしょぉ?──もしも桜を泣かせるようなことがあれば、いつでも遠慮なく奪うよ」
なんて事ない風を装いながら、その大きな両腕に抱えきれないぐらいの重い執着を抱き締めて、十亀はにっこり笑った。ひらりと片手を上げて病院の休憩室を出ていく。
先ほどまでとは打って変わり、少し背筋を伸ばしたその後ろ姿がやけにムカついて、梶は心の中で舌打ちをした。
やっぱりアイツ、嫌いだ。
決して手が届かない光だと思っていた。
桜がこの世からいなくなった時、蘇枋は道標を失い暗闇の中を彷徨った。
何も見えない、何も感じない、ただ虚無が広がるだけの無意味な日々。傷つけ、奪い、堕ちるだけ堕ちて、それでも必死に、復讐に縋りついて生きてきた。
どんなに返り血を浴びてで汚れてしまっても、これっぽっちも気にしなかった。暗闇に包まれた世界では、きっと自分の姿なんて見えやしないから。
だけど桜が生まれ変わった。
再会した桜は以前と変わらず眩しくて、カッコよくて、綺麗で、薄汚れた自分は不釣り合いだと思った。
どうせ届かない想いなら、このどうしようもない想いごと抱き締めて、共に心中しようとさえ思ったのに。
そうやって間に作った壁を、桜がぶち壊したから。
みっともないざらりとした内面を、曝け出すしかないのだ。
「あの時の返事……しても、いいかな」
病室には、柔らかな風がそっと吹き込んでいた。
タッセルピアスがしゃらりと音を立てる。
「さくらはるかくん」
声がほんの少しだけ、震えた。
「俺も、君のことが、ずっと前から好きです」
「これからも、何十年先もずっと、死ぬまでずっと……ううん、」
しなやかな指先がそっと、まぁるくて大きな目にかかった前髪を優しく払い除ける。
見ているこっちが恥ずかしくなるような、甘く蕩けるような笑みを浮かべた。
「死んで転生しても、桜くんのことがすき」
「…っ、」
その言葉に込められた思いが、甘くて、切なくて、どうしようもないほどに真っ直ぐで、桜は首まで真っ赤に染め上げる。それを見た蘇枋は、胸がぎゅっと締め付けられる思いがした。
「……待ってても、いいかな」
今にも消え入りそうな声が、静まり返った病室にそっと溶けていく。
しばらく沈黙が続いた後、桜は自分でも気づかないうちに、一歩踏み出し、蘇枋に抱きついていた。
「…あたりまえ、だろっ」
蘇枋は驚いたように息を呑んだが、恐る恐る桜を抱きしめた。桜の背中をそっと撫でながら続ける。
「……ほんとに、いいの?桜くんが大きくなった時には、お爺さんに、なってるかも。それに、君にはまだ、これからの人生があるんだ。もっと素敵な人が現れるかもしれない。俺よりもずっと若くて、これから何十年も君と並んで歩ける人が……。それでも、本当に俺でいいの?」
桜は一瞬驚いたように顔を上げ、少しだけ情けない顔つきの蘇枋に小さく吹き出した。
「そうだな。うまれかわったじんせいで、おれはこれからあたらしいまちで、ふうりんじゃないがっこうで、いろんなひとといっぱいであうだろうな」
「…っ、」
「そして、そのたびにおもうんだ。おまえじゃなきゃだめだって」
「え」
言うなり、桜は勢いよく蘇枋の胸ぐらを掴んだ。蘇枋が目を見開く。桜の小さな手のひらが、そのまま蘇枋のシャツを引き寄せると、顔をぐっと近づけた。
──ちゅ。
桜の唇が、蘇枋の唇スレスレの頬に一瞬触れて、すぐに離れた。
「おれはおまえとずっといっしょにいるってきめたんだから。こんどはおまえが、かくごするばんだろ?」
口元を抑えて呆然とする蘇枋に、桜がしてやったりと言わんばかりの得意げな笑みを浮かべる。
あまりの可愛さに、蘇枋は顔面を覆って天を仰いだ。
「がまん、できるかな…」
完