時間の感覚はない。
「もしもーし」
しかし再び少女の声が降ってきたので、少なくとも前回から24時間が経過したことは分かった。
「―――君の言葉について、考えていた」
「私の言葉?」
少女は少し驚いたような掠れた声を出した。
「君は俺を助けるかどうかは、俺の正体によると言った。しかしそれは、俺を警察につき出せば、どのみちわかることだろう。
もし俺が何か犯罪を起こしていれば、俺はそのまま逮捕されるのだろうし、然るべき罰を受けるはずだ。
そうすれば俺の正体の解明、さらには処罰が同時にできるのだから、その方が手っ取り早―――」
「それは違います」
言い終わる前に否定の言葉が降ってきた。
「例えばですが、あなたを警察につき出したとして、あなたのやってきたことが公になったとして、あなたがその罪で裁かれたとして」
抑揚のない言い方に、恐怖を覚え、俺は黙った。
「極端な言い方をすれば、もしあなたの正体が殺人犯で、あなたの罪が公になって、あなたに17年の懲役が科せられたとして、
私がそれを後悔しないという確証が欲しいのです」
「後悔……?」
ゴクンと飲み込んだ唾が嚥下しきらずに喉奥に残っているような不快感を覚えながら、俺は漆黒の天井を見上げた。
「後悔したくないんです。『やっぱりあの時、見殺しにしておけばよかった』と」
「―――――」
「正直に言います。私は、父を殺した人間を探しています」
―――やはり。
「そしてそれは、あなたではないかと疑っています」
俺はすっかり頭の形に凹んだ枕に、さらに後頭部を押し付けた。
絶望を感じた。なぜならーーー
彼女の父親であり、ヘラの夫を殺したのは、
きっと、俺だからだ。
隠していても何もならないので、俺は、暗闇の中目を瞑り、懺悔を始めた。
「俺が君に伝えられることは二つ。一つは、ヘラが俺に対して口を滑らせたこと。そしてもう一つは繰り返し見る記憶の断片と思われる夢だ」
「―――ヘラ?」
ヴィーナスの声が低くなる。
「ああ、ええと。ここの女主人だ。勝手に俺はこう呼んでいる。君の義理母だろ。合ってるか?」
言うと彼女はフンと鼻を鳴らした。
それを肯定と取り、話を進める。
「彼女は俺に言った。『とても辛いことがあったの。あなたにとって。だからあなたはそれを忘れなければいけない』」
「忘れなければいけない?」
「『忘れて、隠れて生きていかなければならない』
「―――――」
その言葉を聞いた彼女は考えているらしく、換気口の向こうは静まり返った。
彼女の後ろ、つまりは家の前をトラックが移動するような音が聞こえる。
久しぶりに外の音を聞いた気がする。
俺はその音に耳を澄ませた。
ボオオオオオン
ブボオオオオン
ブボオオオオオン
「ふっ」
俺は笑った。
「どうしたんですか?」
ヴィーナスが聞く。
「いや、あれ。マフラーに笛つけてるなって思って」
「……マフラーに笛?」
「マフラーに装着型の笛を付けてるんだよ。だからあんな派手な音がする」
「――――」
言うと彼女はまた黙り込んでしまった。
「どうか、したか?」
言うと彼女は小さく咳払いをした。
「いえ。それではあなたの繰り返し見るという夢について、教えてくれますか?」
「ああ。一つはどこかの工場。男が倒れていて、ポニーテールの女が抱きしめている。俺の後ろから『お前が殺したんだ』という声がする。
もう一つははおそらくその男の葬式。続きの和室に人がごった返している。
響く御経。喪服の女性がいる。黒髪で、顔まではわからない。しかし彼女は振り向き、俺を睨む。
そして『あなたが殺したのよ……!』と叫ぶ。
遺影を見ると――――」
「……見ると?」
「これは今となってはひどく曖昧なんだが、その遺影の顔は、俺と似ている気がする……」
「あなたと?」
彼女は訝し気に聞き返した。
「あなた、自分の顔を覚えているんですか?」
「いや。前に、ヘラの瞳を通して見ただけで……」
「―――あの、話を中断して悪いんですけど。なんであの女のことをヘラって呼んでるんですか?」
当然の質問が返ってきた。
俺は馬鹿々々しいのは百も承知で、自分でも笑いながらそのわけを話した。
「―――だから、君のことは、ヴィーナスと呼ぶことに決めたんだ」
「――――」
呆れてものも言えないのか、彼女は黙った。
「できれば救済してほしい。でもおそらくそれは無理かもしれない」
「―――なぜですか?」
「ヘラの発言、そして記憶の断片と思われる夢。おそらく俺は誰かを殺している」
俺は一瞬躊躇した。
しかし結果が変わらないなら、過程を選ぶ価値などない。
「そして君のお父さん、つまりヘラの夫は、何者かに殺されている。ヘラは俺を監禁。これをイコールで考えない方が不自然だ」
「……………」
彼女はため息をついた。
「申し訳ないことに俺は、なぜ君のお父さんを殺したのか、どうやって殺したのか、さっぱり思い出せない。それだけが心残りだ。だけど、結論が出た以上、君はもう――――」
「話を勝手に進めないでもらっていいですか?」
彼女は低い声で俺の言葉を遮った。
「まず。あなたの一つ目の夢についてですが。父が死んだのはどこかの工場ではありません。
それに死んだ父は、誰かに抱きしめられるような状態じゃありませんでした。
だからその死んでいた人と父は同一人物ではありません」
「―――――」
「さらにあなたの理屈で言うと、私の義理母、まあ、ヘラと呼びましょうか。ヘラはあなたが自分の夫を殺したと知っていながら、あなたと身体を重ねていることになる。
そんなおかしな話がありますか?自分の夫を殺した殺人犯とセックスをするなんて」
「―――確かに」
「父を恨んでいたならまだしも、彼女は義理娘の私が見ても気持ち悪いくらい父を愛していました。だからもしあなたが本当に父を殺していたなら、すぐにでもあなたを殺しているはずです」
「――――なる、ほど……」
「あなたを飼っている意味がわからない……」
ヴィーナスはため息をついた。
「君たちのことについて、訊ねてもいいか?」
言うと彼女は少しムッとしたように聞き返した。
「私たちのこと、ですか?」
「君は父親の連れ子と言うことだよね?」
「―――そうです」
「君のお父さんとヘラが結婚したのは何年前?」
「―――2年前、ですけど?」
2年前。
「君とお義母さんの関係はあまり良好じゃない?」
「――――何が言いたいんですか?」
ヴィーナスの声に怒気が混じる。
「ごめん。怒らせるつもりはないんだ。じゃあ話題を変えよう。俺の世話をしてくれたアテナについて」
「―――――」
「彼女は生きているのか?」
「私は知りません。気づけば屋敷にいて、気づけば姿を見なくなった、というだけで」
「―――そうか」
できれば生きているという言葉が欲しかった。
もしかしたら自分が殺しているかもしれないと思うと、ゾッとする。
しかし俺だって必死だった。
俺だって命が掛かっていたのだ。
「この屋敷には、君とヘラとアテナと、他に住んでいる人はいるのか?」
聞くと彼女はまた機嫌悪く答えた。
「いませんけど?」
「―――――」
――待てよ。それはおかしい。
ではあの日、
アテナと俺がセックスをした日―――。
夕方まで帰らないはずのヘラに、帰宅を促した人物は誰だ?
しばし沈黙が続く。
「先ほどの話ですが―――」
口を開いたのはヴィーナスだった。
「工場で倒れていたという人物に心当たりがあります。その件でもう少し探らせてください」
「あ、ああ。頼む」
「それともう一つの夢ですが、遺影の人物は、おそらく父です」
「やはりお父さんか。娘の目から見て、俺とお父さんは似ているか?」
「――――」
沈黙が続く。
「悪い。辛いなら思い出さなくても―――」
「似てません」
「―――そうか」
「似ているなんてレベルではありません」
「――――?」
少女の言葉に、暗闇で俺は目を開けた。
「あなたの顔は整形されています。若いころの父とそっくりに」
「――――!!」
「つまり義理母は―――いえ、ヘラは、あなたを生きてここから出すつもりは、初めからないということです」
「とにかく工場の線から探ってみます。もっと他に思い出せることはないですか?」
捻りだすように頭の中にある記憶に集中する。
「工場にはシャッターがたくさんあった。並んだ蛇口。それぞれに鏡がついていた。抱きかかえているポニーテールの女性は金髪に近い茶髪で、つなぎの作業着を着ていた」
「あとは?」
「これは記憶なのか想像なのかはわからないが、男の首には赤く絞められたような痕があった」
「―――首に、痕……?」
「あとは―――」
俺は息を吐いた。
男の顔も名前もわからないのに、言葉に出すのが辛い。
しかし言わなければ。
あの夢の謎がわからなければ、前進もない。前進がなければ、俺は、殺されるだけだ。
「男が俺に『雇わなければよかった』と言った」
「………………」
ザリザリと小石を踏む音がする。
「―――もうすでに私の中では確信に近いですが、でもより確証を得るために、今日学校が終わってからその工場に行ってみます」
「その工場って……君は知ってるのか?」
「はい、おそらく当たっていると思います」
彼女の声には迷いがなかった。
「その工場で今現在行方不明になっている人物がきっと、あなたです」
「――――!」
「明日のこの時間、またお会いしましょう。きっとあなたの本名をお伝えできるはずです」
「あ、ああ……」
「それまで生きていてくださいね。――パリス?」
小さな笑い声と共に足音が遠ざかっていく。
「―――――」
俺は長い息を吐いた。
これでやっと、自分の正体がわかる。
そして、その瞬間、ヴィーナスの審判が下される。
「―――審判を下すのはパリスじゃなかったのか……?」
パリスであるはずの俺は、自嘲気味に笑った。
彼女は、
真実を知ったヴィーナスは………
もしかしたらもう、戻ってこないかもしれない。
◆◆◆◆◆
それからの時間は嫌に長く感じた。
空腹と渇きが限界を超え、常に耳鳴りと頭痛が襲った。
ヴィーナスは、タイムリミットは2週間と言ったが、とてもそれまでもちそうにない。
繋がれた手は、とうに感覚をなくしてしまった。
眼球が乾き、瞼を開けることもままならなくなっていった。
ヴィーナスは―――
俺の夢に出てきた工場に、心当たりがあると言い、明日には俺の名前を教えることができると意気込んでいた彼女は、
――戻ってこなかった。