日の出前の岬に、“彼”はいなかった。
それはそう。当たり前だ。
いたところでどうするのだ。彼を巻き込むわけにはいかない。
入り江は風が冷たい。
漠然とだが、いつかは幸せになる人生だと思っていた。
両親は忙しかったが、優しい兄がすべて面倒を見てくれ、素敵な人と出会ったなら、兄にヴァージンロードを歩いてもらおうと思っていた。
どこで間違ったのだろう。
涙が溢れてくる。
陽菜は立ち上がった。
岬から海面まで十メートルもないが、やけに高く感じる。
ここから落ちた衝撃ではさすがに死ねないだろうが、三月の水の冷たさと、泳げない陽菜なら、きっと生きては戻れまい。
「お兄ちゃん、ごめんね」
目をつぶり、宙に一歩を踏み出した。
白い波しぶきと、深く青い海面がみるみる近くなる。
身体中が痛い。
苦しい。
息ができない。
ハッハッハッハッハッ
耳に聞こえるのは、海面と海中を往き来する水の音と、自分の苦しい喘ぎ声と、本能的にもがく手足の音、それに朝早くから鳴いているカモメの声。
ハッハッハッハッハッ
それもだんだん聞こえなくなる。
鼻からも口からも海水が入ってくる。
頭が痛い。
感覚が遠退いていく。
そのとき、ぐいと首を捕まれ、何か熱いものに頭が押し付けられた。
気が付くと病院のベッドの上で、兄が、目も眉もハの字に曲げて、見たこともないような情けない顔で泣いていた。
その後ろに、いつもの洒落た服とは反対に、上下スウェット姿の彼が、壁に寄りかかるようにして立っていた。
濡れた髪にタオルをかけて、こちらをただ静かに見ている。
陽菜は力が抜け、また夢の中に落ちていった。
「熱は引いたかい」
躊躇なく頬に触れた手を見ながら、なぜ色白な人間は、関節が赤みを帯びているのだろうと、どうでもいいことを考えた。
陽菜が完全に意識を取り戻してから、二日が経っていた。外傷は、水面に打ち付けられたときか、必死でもがいたときか、はたまた引っ張られながら岸辺にたどり着いたときかはわからないが、右手首を骨折し、左大腿骨にヒビが入っていた。
入院生活を余儀なくされた陽菜を、彼は見下ろした。
「気分はどう?」
「最低な気分です」
「生きてる証拠だね」
微笑しながら脇のパイプ椅子に腰かけると、器用にリンゴを剥き始めた。
「…正義のヒーロー気取りですか?」
「いや、違うよ」
今度ははっきり笑いながら言った。
「仕返しさ」
怪訝な顔をして見上げた陽菜をよそに彼は続けた。
「大学生のとき、ひょんなことから素の自分をさらけ出せる友人が出来た。彼女と話すことで、僕は自分と向き合えたし、だからこそ、この世への期待も未練もないことに気がついた。
もう、それこそいつ死んでもいいと思っていた。だけど、僕の価値観を揺さぶる作品と出会ってしまったんだ」
陽菜はあの頃の彼を思い出していた。キレイな顔、清潔なスーツ、おざなりな言葉、何も映していない瞳。
「教育実習で行った戸塚山中学校で、ある生徒が書いた作品ーーーー」
記憶の片隅に残るものがあった。
「油絵の自画像?」
「そう」
楽しそうに指をならす。
「自分の顔を黒く殴り潰した自画像。
僕は衝撃を受けた。もう少し生きていてもいいなと思えるほどに」
剥いたリンゴを陽菜の口に入れる。
「君が、書いたんだ」
ふっと笑いながら皿とリンゴを置き、視線をはずす。
「おかげでその後も僕は生きるはめになり、あのとき死んでいたら味わうことなくすんだ地獄を体験したよ」
「地獄?」
「初めから手に入らないものは、悲しくない。
手にはいるかもしれないと期待したのにそれが不可能だとわかったときには、地獄の悲しみだよね」
口の中のリンゴを弱く噛み砕きながら、陽菜は目を落とした。
「今は?」
「今?」
「今もその地獄の中にいますか」
「それはどうかな」
言いながらバックから何かを取り出し、陽菜に差し出す。
「実はこれを渡したくて、岬に通っていたんだ」
両手に収まる箱に、手鞠ほどの大きさのガラス玉が入っている。
開けてみるとそれは、花を閉じ込めたガラスの球体だった。
白く小さな無数の丸い花が、わずかに揺れている。冬の始まりを思わせる、小さくて細かい雪が散っている。
これを投げて割ったら、そこから花と雪の世界が広がっていくのではないだろうか。そう思わせるようなリアルさだった。
こんな世界までをも創造できる人間がいるのだな。
よく見ると箱の奥にはカードが入っていた。
「エリカ?」
「正しくはスズランエリカだけどね。下を向いた花が、まるでスズランのように丸みを帯びているだろう」
彼の手もそこガラス体を包み込んだ。
「花言葉は、“あなたの幸せな愛”」
陽菜が顔をあげる。
「君は意図してなくても僕の命を救った。
君には僕の人生についての責任があるんだ。
勝手に死んでもらうわけにはいかない」
「そんな。どっちが勝手なのーーーー」
「芸術家は総じて勝手なものなのさ」
言うと、男は立ち上がった。
「また来るね」
それから彼はほぼ毎日、病院を訪れるようになった。
同じく毎日来ている兄と鉢合わせないことが不思議だった。
個々のベッド脇に置いてあるサイドテーブルの上にタオルを畳み、占い師の水晶よろしく無造作に置かれたガラス玉を見ても、兄は何も言わなかった。
彼は相変わらずどうでもいい話をぺらぺら一方的に話し、去っていく。
ただそれだけだったが、一人になるといろいろ考え込んでしまう陽菜にとっては、自分とかけ離れたまるでおとぎの国にいるのような彼の話を聞くのは、楽しみでもあった。
自分から話しかけたのは一度だけ。
どうしても、聞きたい質問があった。
「あなたに地獄を見せたのは、いつかあなたが話していた片想いの相手?」
櫻井はいつもの笑顔をほんの少し崩して微笑んだ。
「ーーーいや。違うよ」
「ーーーそ。よかった」
その日、陽菜は久しぶりに塩野を思った。
きっととっくに高跳びしているだろう。
逃げて捕まるリスクより、松が岬に残り、これ以上陽菜に執着するリスクの方が高いはずだ。
退院し、兄のところに戻り、また人生をやり直そう。
それでいい。
面白い友人もできた。
きっとうまくいく。
気が抜けたといえばそれまでだろう。
陽菜は見た。
見てしまった。
窓の外を。
そこには、病室を真っ直ぐに見上げる塩野の姿があった。
今となってはそれが現実だったのか幻だったのかわからない。
だがその日、パニックになり泣き叫んだ陽菜は、筋肉注射を打たれ、気がつくと点滴を打たれながら、鍵つきの精神病棟の天井を見ていた。
私はあの男から逃げられない。
幸せな未来など待っていない。
ならせめて、おとぎの国にいるあの芸術家だけは、
愛する人の幸せを願う彼だけは、巻き込むわけにはいかない。
使用が許されたクレヨンとそばにあったカードを使ってメッセージを書いた。
ガラス玉をカードとともに箱にいれ、次に彼が来たら渡してもらうことにした。
「さくらい先生 幸せな愛を」
さようなら。櫻井先生。
さようなら。幸福な未来。
だが、彼の幸せを願い、希望とともに断腸の思いで手放したエリカは、実にあっけなく陽菜の手に舞い戻ってきた。
彼が受け取りを拒否したと、看護師は言った。
「来てほしくないなら、わかりました。もう来るのはやめにします。でも彼女に伝えてください。僕の“願い”は変わらない」
その後看護師長の判断で、割れば凶器にとなり得るとのことで、球体の中に閉じ込められたエリカは、ナースステーションのキャビネットに保管されることとなった。
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