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精神病棟にはテレビも新聞もネット環境もない。
あるのはワタナベさんの叫び声と、誰かの泣き声と、職員の牽制と、たまに聞こえる悲鳴のような笑い声だけだ。
食事も食堂で摂れるし、10時と15時のレクリエーションでのゲームも勧められるのだが、どうしても怖くて参加できない。
陽菜がベッドの上でため息をつくと、ドアが開いて看護師が顔を出した。
「陽菜さん、面会なんだけど大丈夫?」
面会?精神病棟に入ってから初めてだ。やっと兄が入ることを許されたのだろうか。
「何なの!!おい。こら!!」
開けたドアからワタナベさんの声が聞こえて来たと同時に看護師の後ろからついてきた人物に掴みかかる。
次の瞬間、小さい影は、ピンク色の両腕を掴かみ、ピンと人差し指を立てると、ぐるんと左右に円を描きながら手首を返した。
ワタナベさんはまるで見えない綱に縛り付けられるように、腕をまっすぐに硬直しながら返され、痛さか苦しみのために呻き声をあげた。
「あ、ごめんなさい、つい反射的に。
怪我はしてないと思いますけど」
人物がつぶやくと、他の職員が駆け寄り、戦意を失いすっかり大人しくなったワタナベさんを抱えていった。
取り直すように一呼吸おいて入ってきた人物は、意外なほど小柄な女の子だった。
「初めまして。二階堂陽菜さん。松が岬署の木下と言います」
瞬時に兄に何かがあったのはわかった。
塩野に、いや岡崎組に殺されてしまったのだろうか。
不安で涙が溢れてくる。
木下と名乗った女の子は、慌ててハンカチを取り出し、陽菜の目にあてがった。
「陽菜さん、突然警察が来たら不安ですよね。大丈夫。大丈夫ですから」
「兄は?兄はーーーー」
「お兄さんは元気です」
じゃあなんで兄は来ないのか、聞こうとしたら間髪入れずに、
「塩野芳樹は、逮捕され留置所にいます。安心してください。
お兄さんから頼まれて、それだけお伝えに来ました」
陽菜は現実感のない話に、ただただ口を開けた。
夢じゃないだろうか。兄は生きてて元気で、塩野が逮捕された。
「お兄さんはその件で、当分松が岬署を出られないので、お土産を預かってきました」
差し出されたのは、ホワイトクラウドの塩シュークリームだった。
間違いない。兄のチョイスだ。
陽菜は気の抜けたように笑った。
「普通のシュークリームの方が好きなのに」
それを聞いた木下も笑った。
「同感です」
その笑顔とシュークリームを交互に見ながら、彼のことを思った。
彼に会いたい。
ここを出て、彼に会いに行かねば。
沸々とやる気が込み上げてきた。
異常なほど続いた長雨も抜け、病室の小さな窓から春の陽が差していた。