テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
その翌日のことだった。ソ連はいつも通りの茶色のコートを着込みながら、自分の後ろでバルトの三つ子をあやしていた長男に向かって言った。「ロシア。俺は今日街まで出かけるから、多分日没までに帰って来れない。すまないがベラとカザフと一緒に、弟たちのことを頼んだぞ」
「はーい」
ロシアは返事をしつつ、にっこりと笑ってソ連の顔を見上げた。
「……いつもすまないな。お前たち……特にお前にばかり、負担をかけさせてしまって」
ソ連は眉尻を下げながらそう言った。それをみたロシアは慌ててブンブンと首を横に振った。
「大丈夫だよ。兄弟と遊ぶのは楽しいし、それに、俺だけじゃなくてベラもカザフもいるし。負担になんて思ってないよ」
「そうか……」
ソ連がかがみ込んだので、ロシアは抱き抱えていたラトビアごと彼のもとに歩み寄った。父親は、目の前まで来たロシアにしっかりと目線を合わせると静かな声で言った。
「ありがとう、ロシア。……じゃあ俺は出かけるから、……ロシア」
ソ連の声が真剣味を帯びたのを、ロシアは聞き逃さなかった。
父親の声が一段と低くなる。
「………いつものあの約束、忘れるなよ」
その声を聞いたロシアの肩が、痙攣するかのようにピクッと揺れた。消え入るような声でかすかに頷く。
「……はい」
「……内容は覚えているな?」
「うん……」
「言ってもらおうか」
「……えと、……『森には、入らない』……」
「それで?」
「『入ったとしても、森を越えてその先に行ってはならない』……」
ソ連の目が鋭く光る。氷よりも冷たい声で問われ続ける。
「…………何故、森を抜けてはならないか分かるな?ロシア」
ロシアはコクンと生唾を飲み込んだ。父親のこの刺すような声と冷たい視線が、彼はこの上なく苦手だった。声が力なく震えだし、途切れ途切れになる。
「……も、森を抜けた、ところには、……」
「……所には?」
「っ、……ま、『魔女の城』、が、あるから………」
「……だから?」
凍てつくような声で畳み掛けられるように問われる。ロシアは掠れた声で答えることしかできない。
「……魔女の、城は……っ、ひ、ヒトを殺す、毒を、撒き散らしているから……危険、だから、……っち、近づか……ない」
「……その通りだ。……良い子だな、ロシアは」
ソ連の声が和らぐ。震え声で答えた息子を前に初めて、彼は微笑みを見せた。大きな手でロシアの頭を愛しそうに撫でる。
「約束を破るんじゃないぞ。……ベラたちを、お願いな」
「…………はい」
その時だった。
「……んー」
ロシアの腕の中で、幼いラトビアが声を上げてソ連の方に精一杯手を伸ばした。抱っこをせがまれていると悟ったソ連は「珍しいな」と口のうちに呟きながら苦笑して、その小さな頭を撫でてやった。それから立ち上がり、
「じゃあ、行ってくるな」
いつも通りの静かな声でそう言うと、身を翻してドアノブに手をかけた。
「……行ってらっしゃい」
ロシアと寂しそうに声を上げ続けるラトビアとに見送られ、ソ連は家を出て行った。後に取り残されたのは、幼い兄弟たちがはしゃぐ、温かい声に包まれた大きな家と、少しばかり血の気の引いた顔をして立っているロシアと彼に抱かれたラトビアだけだった。
彼らの目の前、軋んだ古い音を立てて扉が閉まる。微動だにしないロシアに抱かれ、ラトビアだけが無垢な声をあげつづけていた。
ソ連が出かけたのは昼前だった。だから長男の自分が動かなければ兄弟たちに満足に飯も食わせてやれない。気合いで気を取り直したロシアは、すぐに昼食の用意に取り掛かった。自室で他の兄弟と絵本を読んでいたベラルーシと、これまた自室で何やら工作して遊んでいたカザフスタンを呼んで支度を済ませると、全兄弟を呼んでの昼食と相なった。父親がいないと難しいと思われたランチタイムも、幼い長男長女ら三人の手にかかって恙なく終えることができた。
午後からは、ソ連という親が出かけている子どもたちにとって、『親』という縛りのない、真の意味での自由時間だった。早々に自室に引き上げていくもの、兄弟数人で連れ立って外に駆け出してゆくもの、リビングに本を持ち込んだはいいもののそのままソファで寝落ちするもの様々だった。
例にも漏れず、ベラルーシは一番年下の三子をあやしに行った。洗い物を済ませたロシアとカザフスタンが庭に出たのは、たっぷり一時間ほど経ってからだった。
「やっと洗い物終わった〜……もう四月なのに、まだこんなに水が冷たいなんて……かじかんじゃったよ、もぉ……」
カザフスタンがそうぼやきながらロシアの隣を歩く。ロシアはそれを聞いた途端、「貸してみ」とカザフスタンの手を取った。弟のよりかはちょっとだけ大きな手で、その水色の両手を握り込んでやる。
「どう?あったかい?」
「……うん、あったかいや。へへ」
兄に顔を覗き込まれ、カザフスタンははにかむように笑った。ロシアもつられたように笑う。
「あ」
玄関から壁に沿って歩いて庭に回った二人だったが、何気なく窓を覗き込んだロシアは、急に素っ頓狂な声をあげて今来た道を戻り出した。びっくりしたカザフスタンが兄同様窓を覗き込むと、そこはリビングに通じた窓だったらしく、日のあたるソファの上で弟の一人がヘソ天して寝こけているのが目についた。
「あ、お兄ちゃん」
すぐに部屋に抜き足差し足で入ってきたロシアに気がついたカザフスタンは思わず声をあげかけたが、慌てて口元を押さえた。ロシアが薄いタオルケットを持っていたことに気づいたからだ。
「ジア……寝るならタオルかけろよ、風邪引くぞ」
ロシアがぶつぶつ言いながら、幼い彼をソファごと包み込むようにタオルケットをかける。その言い方と仕草があまりにソ連に似ていたためカザフスタンは吹き出しそうになった。そんなカザフスタンの様子に気付いたロシアは、ムッとした顔で室内から窓辺に駆け寄り、不機嫌そうな声をあげた。
「……カザフ今俺のこと笑っただろ」
「い、いやー?別にっ」
「いーや笑ってたね!どうせ俺のこと父さんに似てるとか思ってたんだろ!」
「お、お兄ちゃんごめいとうっ!」
「認めやがったな!待ちやがれこいつ!」
「やだ!あははははっ!」
言いながら、身軽にも窓枠から外に飛び出してきたものだからたまらない。カザフスタンは笑いながら逃げ出した。ロシアがそれに続く。
ただの、のどかな昼下がりだった。何の変哲もない、素晴らしく心地の良い風の吹く、ただの昼下がり。この、大勢いる子どもたちが遊ぶためだけに作られたかのような、一軒家の広すぎるほどの庭で。彼らは平和とその全てを、享受しすぎるくらいに享受していた。だからかもしれない。
吐き気がするほどの変わらない平和な日常に、非日常をひきこもうとする、もしくは非日常の世界に自ら足を踏み入れようとする者が出てくるのは。
「カザフっ!さっきのもういっぺん言ってみろ!誰が父さんに似てる……って………」
カザフスタンを追いかけて家の裏に回り込み裏庭に駆け込んだロシアだったが、少し先のところにカザフスタンが背を向けて無言で立ち尽くしているのが見え、その歩みを止めた。
裏庭は、家正面の庭に負けず劣らず広かった。いや、広くあらざるを得なかったと言ったほうが適切かもしれない。なぜなら彼らの家の裏に立つ家屋は一軒として無く、ただただ、深い森が鎮座しているのみだったからだ。
いわば、家の外壁から少し離れた森のとば口まで、彼らの庭であるようなものだったのである。
その森は先が見通せないほど深く、暗かった。裏庭を縦に突っ切って少し歩けば、そこはすぐ森の入り口だった。平和な裏庭に突如として出現したようなその森に違和感と恐怖を覚えるのは、ソ連の子供達にとって至極真っ当な感覚であった。
カザフスタンの背中に生えた金色の翼が裏庭に差し込む微量な太陽光のもと、微かに輝いていた。前庭と比べて暗く、どこか異様な雰囲気のするその場所で、光を受けて時折眩く光るカザフスタンのその翼があまりにも不気味で美しく、ロシアはその光景に見入っていたのだが───
次の瞬間だった。いきなり突風が吹き付け前の森の木々をこれでもかとざわめかせた。ロシアはハッとし、ビクンと身を震わせた。えもいわれぬ不安が胸をよぎって行く。
「……っカザフ」「お兄ちゃんっ……」
二人同時に言って、カザフスタンが振り向く。その顔が不安げに影っていたものだから、ロシアはたまらず弟のもとに駆け寄った。カザフスタンは震える腕を伸ばし、ロシアに腕を回してきつく抱きついた。ロシアは戸惑った。
「カザフ?カザフ大丈夫?何か……」
「……怖い」
「………ぇ?」
「怖い」
カザフスタンの声が震える。ロシアの首元に顔を埋めた彼の全身が、微かに震えていた。ロシアはカザフスタンの体を抱きしめ返してやった。
「……何か、怖いもの、見ちゃったのか」
「………」
カザフスタンは頷いたが、直後に首を振った。それから微かな声で答えた。
「……もり」
「え?」
「もりが、怖……かった」
「森、って、」
ロシアは顔を上げた。目の前、数十メートル先から樹々が聳え立つ深い森が、否応なしに目に飛び込んでくる。カザフスタンがぎゅっとロシアの服を握り込んだ。
「森がね、なんか……すごく、怖かったの」
「森が、って、お前……」
「ううん、ちがうの。ちがう。森自体が怖いんじゃなくて、」
幼い声が揺らいだ。
「……あそこには何かが隠れてるような気がして。それが、悪いものが良いものなのかはわからない。でも、」
……なんか“それ”に、見られてる気がして、すごく、怖かった。
カザフスタンの声はか弱く、すぐにでも消えてしまいそうなほど小さい声だったけれど、その声を聞いたロシアはぞくりと背中を震わせた。
「……そっ、か……」
「うん」
頷きながらちょっとばかり潤んだ目で弟が見上げてくる。ロシアは少し背伸びして、肩でカザフスタンの視界を覆った。
「……森には、何も怖いものなんてないよ」
優しくそう言ってやったが、カザフスタンは首を微かに横に振る。
「……でも、おとうさんは、森には入っちゃいけないって」
「あぁ……『魔女の城』があるから?」
「そう。僕らを殺す、ドクを撒いてるんだって」
ドクだよ、死んじゃうんだよ、と言いながらカザフスタンはまたちょっと震えた。ロシアは笑った。
「カザフ、大丈夫だよ。そんなのメーシンだよ」
「……?めーしん?」
「ただのうわさ話、ってこと。大体カザフ、魔女の城があるのは森を抜けたところなんだよ?森の中には無いんだよ」
「……でも」
カザフスタンが俯く。
「でも、……ちょっとまだ、森は、怖い……」
「……そっか。そうだよな、ちょっとの間でも、カザフは森が怖かったんだもんな」
ロシアは優しく頭を撫でてやった。それから、ゆっくりとカザフを家の方に向かせる。
「ほら、前庭に戻ろ。ここじゃ暗いし、ちょっと寒いよ。それにほら、もうすぐおやつの時間だろ。みんなに知らせなきゃ」
「おやつ?食べたい……!」
「だろ?」
ロシアは白い歯を見せて笑った。
「だったら早く家ん中入って準備しなきゃ!ほら行こ、カザフ!」
言うなりロシアはカザフスタンを横抱きに抱え上げた。いわゆるお姫様抱っこというやつだ。
「えっ、いゃ、あっ、まってお兄ちゃん!待って!あははははっ!」
「ちゃんと掴まっとけよカザフ!」
ロシアは軽々と走り出した。最初こそ抵抗したものの、カザフスタンはきゃあきゃあ笑いながら兄に抱えられて勢いよく運ばれていった。歩かなくて良かったから、カザフスタンはロシアの腕の中で目を瞑った。おかげであの忌まわしい森を目に入れなくて済んだ。
「どこ行ってたのよ、お兄ちゃん」
子供達が走り回る食堂で、ロシアは自分のすぐ下の妹、ベラルーシに詰められていた。
幼い弟らを踏みつけないようまごつきながら、カザフスタンがクッキーを全員分配っている。席に行儀よくついている子もいるにはいるのだが、父の監視の目がない今、多くの子(特に男児)が走り回っていた。無論、包丁などの凶器は弟らが決して手の届かぬようなところに保管されてあったので怪我をされる心配はあまり無かったが。
そんな台所の隅で、ベラルーシは兄・ロシアを問い詰めていた。
「全くもう、ベラがエスティたちのこと見てる間に、お兄ちゃんもカザフもどっか行っちゃうんだから。おかげでこっちは大変だったのよ?」
「っ、ご、ごめん……」
「お姉ちゃん、ラトのお洋服洗えたー」
その時、そう叫びながら一人台所に駆け込んできた。妹のモルドバだった。途端にベラルーシの顔が緩む。
「モルダ〜!本当に良い子!ありがとう、お姉ちゃん助かったよ!」
「これ干してくるね!」
「うん!お願い」
小さいモルドバを抱きしめ、頬ずりせんばかりのベラルーシだった。今この場にいる十四人兄弟の中でも、数少ない姉妹のうちの一人だから、さぞ愛しいのだろう(ちなみに今いる姉妹としてはベラルーシ、モルドバ、リトアニア、エストニアの四人のみである)。
モルドバが台所を出て行ったのを見計らってから、ロシアはベラルーシに恐る恐る聞いた。
「えと、その〜……俺が庭に出てから、何か……」
「何かあったなんてもんじゃないわよっ」
ベラルーシに睨みつけられ、ロシアは縮こまった。
「ラトビアがさっきミルク吐いちゃったの。多分カゼが治ってなかったのね。でもミルクいっぱい飲んじゃって、気持ち悪くなっちゃったんだと思う。全く、ベラがいなかったら大変だったんだから!」
ロシアは叱られた猫さながらに顔をペショッとさせた。
「う……ほんとにごめん……ベラありがとう」
「まーいいけど!」
「うーん、父さんが家出て行く時はラトビア元気だったんだけどなぁ……」
「ラトビア、父さんに甘えようとしてなかった?」
ベラルーシにそう聞かれ、ロシアはハッとしたように妹の顔を見た。
「甘えようとしてた……そうだ、すっかり気付けなかったなぁ……」
「そうだよ、ラトビア、父さんのこと嫌いだもの。それでも甘える時っていうのは、大体具合が悪い時なのよ」
「ラトビア……っていうかエスティもリトアニアもだよな。父さんのこと嫌いなの」
「そうそう。でも具合悪い時と眠い時だけ甘えるの」
顔を見合わせたロシアとベラルーシは、一拍開けてから吹き出した。
「あははっ、父さんかわいそう」
「ね、父さんはあんなにエスティたちにデレデレなのに!」
ベラルーシのその言い方があまりにもおかしくて、しばらくバカ笑いを止められない二人だった。
あまりにも、平和なひとときだった。
それなのに。
数十分後───ロシアは再び裏庭の、あの森の前に、一人で立っていた。
「………」
風がロシアのウシャンカを揺らして行く。森がざわめき、梢が不気味な音を立てて揺れる。
ほおを撫でていったその風に、どこか生温かさのような、気味の悪い不快さを感じたのは、おそらくロシアの気のせいだ。いや、そういうことにしておいた。
ロシアは森の暗がりを睨みつけた。それから決心したように、森に一歩、踏み込んだ。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!