テラーノベル
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ユリの訃報を聞いてからの記憶は、冬の霧のように白く濁っていた。
気がついたときには合宿は終わっており、手元には無機質な運転免許証だけが残った。
夏休みが明け、大学の講義が再開されても、火野の心はあの教習所の部屋に置き去りにされたままだった。
サークルには一度も顔を出さず、退部届すら出さずに幽霊部員となった。
ただ大学へ行き、機械的にノートを取り、深夜までバイトをして、泥のように眠る。
ギターのケースは、一度も開けられることなくクローゼットの奥へと押し込まれた。
ー音楽なんて、最初から知らなければよかったー
そう呟くことすら、今の彼女には重すぎた。
やがて大学を卒業し、地元の小さな会社に事務職として就職した。
そこでも火野は、周囲を拒絶するような冷淡な表情を崩さなかった。
同僚の女性たちが給湯室で笑い合っていても、彼女だけは視線をパソコンの画面に固定し、淡々と書類を処理し続けた。
「火野さん、たまには一緒にランチでもどう?」
「……いえ、結構です」
そんなやり取りが数ヶ月続き、彼女は社内で「気味の悪い氷の女」として孤立していった。
だが、その孤独を切り裂いたのは、上司の「善意」だった。
「火野、お前もたまには羽を伸ばせ。今日は新人の歓迎会だ、全員参加だぞ!」
断る間もなく連れて行かれたのは、騒がしい居酒屋、そして二次会のカラオケだった。
タバコの煙と酒の匂いが充満する部屋で、上司がマイクを握り、音痴な歌を響かせる。
火野は部屋の隅で、ただ時計の針が進むのを待っていた。
「おい火野! お前も何か歌えよ。若いんだから、流行りの曲くらい知ってるだろ?」
「……興味ありません」
「冷たいこと言うなよ! ほら、音楽は心を豊かにするって言うじゃないか。お前も歌えば、少しはマシな顔になるぞ」
その「音楽」という言葉が、火野の脳裏でユリの事故の音と重なった。
ぐちゃぐちゃになった鉄屑、聞き慣れたはずの旋律、そして、冷たくなった友人の笑顔。
「……やめて」
「なんだ? 声が小さいぞ、ほらマイクを……」
「やめろつってんだろ!!」
怒号と共に火野は差し出されたマイクを跳ね除け、テーブルの上のグラスをなぎ倒した。
割れるグラスの音。静まり返る室内。
「音楽なんて……クソ食らえよ……!」
彼女の瞳からは、自分でも驚くほどの涙が溢れていた。
翌日、彼女は「職場の調和を乱した」という理由で、事実上のクビを言い渡された。
「……それで、全部。笑えるでしょ」
喫茶店のモーニングは、いつの間にか冷めきっていた。
回想を終えた火野は、震える指先でタバコを口に運ぶ。
アホライダーは、相変わらず表情のない銀色の仮面で、じっと彼女を見つめていた。
「……お前は、死んだ友人を守るために、自分も死んだふりをしているのか」
アホライダーの言葉は、あまりにも容赦なく彼女の核心を突いた。
火野は椅子を蹴るようにして立ち上がり、アホライダーの胸ぐらを掴んだ。
「あんたに何がわかるのよ! 心臓も動いてないくせに!ただの化け物のくせに! 痛くも痒くもないくせに!偉そうなこと言わないで!」
だが、アホライダーは微動だにしなかった。
彼は怒ることも、悲しむこともせず、ただ真っ直ぐに、吸い込まれるような赤い複眼で彼女の瞳の奥を覗き込んでいた。
その静かすぎる視線に、火野は毒気を抜かれたように力を失い、再び席へ沈み込んだ。
「……コンビニなら、名前も知らない客にマニュアル通りの言葉を吐いてれば済む。私は、ただの『機械』になりたかっただけ。なのに……」
「……なら、その『死んだふり』、いつまで続けるつもりだ」
アホライダーは、使い古されたライターを弄びながら続けた。
「このまま錆びて壊れるのを待つのもいいが、それこそ時間の無駄……面倒くさいことだと、私は思うがな」
「……勝手なこと言わないでよ」
二人は喫茶店を出た。
街はすっかり明るくなり、朝の喧騒が始まっている。
火野はアホライダーの数歩後ろを歩きながら、ふと自分の左手を見た。
クローゼットの奥で眠るギターの重みが、なぜか今、この手にあるような気がした。
「……ねえ、」
「なんだ」
「あんた、いつか私の音、聴きたいなんて言わないわよね」
「……興味がないと言えば嘘になるが。今は、次のタバコが吸える場所を探す方が先だ。あと私の心臓は動いているし、痛みも感じる。」
アホライダーのズレた答えに、火野は少しだけ、本当に少しだけ、口元を緩めた。
朝日の光が、二人の影をアスファルトの上に長く引きずっていた。
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