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見慣れない天井が目に入る。

意識が夢と現実を交差する。


……あれは―――竿…天井……?


『竿縁(さおぶち)天井だ、馬鹿!』


「!!!」

篠崎の声が聞こえたような気がして、由樹は飛び起きた。

「……な、なんだ、ここ。展示場か……」

見慣れた違い棚に壺やら手彫りの熊やらが飾られている。

由樹はそばに篠崎の姿がないとわかると、安堵の息を吐きながら自分を見下ろした。

緑色のチェック柄のシャツを着ている。

下はベージュのチノパンに、買った覚えのない派手なベルトを締めていた。

「……え?」

思わず胸元を引っ張りその匂いを嗅ぐ。

何の香りもしない。


「……起きた?」

その声に飛び上がると、渡辺が和室の掘りごたつに座って、見上げていた。

わざわざパソコンを持ち込み、由樹の様子を見ながら、仕事をしていたらしい。

「あ、は、はい…」

改めて和室を見つめる。

展示場にはわざと時計が置いていない。客が帰ろうとしないためだ。

由樹は自分の腕時計を見た。午後4時。

(あれ。俺、なんでこんなところに寝てるんだっけ?)

思い出せずに頭を掻くと、

「これ、篠崎さんからね。責任もって払えだって」

責任をもって払う?

渡されたレシートを見ると、そこには“カモちゃんクリーニング”と印字され、“作業着上下800円”と書かれていた。

それを見て由樹は眉間に皺を寄せた。

「……え、何すか?」

そのままクンクンと鼻の穴を動かす。

「うん。酒臭さは消えたね」

(酒?!)

胡坐をかいてキョトンと見つめる由樹に、渡辺はノートパソコンを閉じながら言った。

「覚えてない?君、酔っ払ってダウンしてさ。紫雨さんにゲロ吐いた後、駆けつけた篠崎さんに助けられて、ここに戻ってきたの。ちなみにその服は展示場のクローゼットに入ってた展示品だから、汚さないでね」

そうだ。今日は地盤調査に参加したのだ。

方角のこと、土地のこと、地盤調査のことを紫雨は丁寧に教えてくれた。

それで……、

(なんで?酒なんて飲んでないぞ)

由樹は眉間に皺を寄せた。

(俺が飲んだのは……)

ジュース。そうだ。オレンジジュース。

紫雨が渡してくれた酸味の強い……。

「大丈夫。俺も篠崎さんも、新谷君が業務中に酒を持ち込んでたなんて思ってないから」

渡辺は微笑んだ。


「ときに新谷君?昔話は好きかい?

「昔話?ですか?」

大柄な体つきに似合わず神妙そうな顔をした渡辺がらこちらを向かずに頷く。

「でも、もし新谷君が気分悪くなったりしたら、さ。遠慮なく言ってもらっていいから。無理しないでね」

(気分悪くなるかもしれない、無理をしなければいけない話……?)

ますますわからず、由樹は眉間に皺を寄せたまま曖昧に頷いた。




「ちょうど俺がさ、君くらいの時の話なんだけど。新卒でさ。それはもう、期待に胸を膨らませて入社したんだよね、Dカップくらい!」

「……はは」

由樹は弱く笑った。

口ではおどけて見せながらも、渡辺の顔は悲しそうなままだった。

渡辺は和室の窓から遊歩道を眺めた。

「その頃、天賀谷展示場には、年老いた課長と、紫雨リーダーがいたんだよ。まあ、そのころは主任だったけど」

(紫雨リーダー…)

その名前を聞くと、頭の芯がジンと痛むような気がした。

(あれ?俺、なんか、紫雨リーダーとあったっけ……?)

渡辺は炬燵に肘をつき、思い出すように天井を見上げた。

「当時の紫雨さん、ものすごくかっこよくてさ。爽やかで、物腰も柔らかくてさ。人が嫌がることも率先してやってたし、各種セミナーや研修会も自分から積極的に出席したりして。それにあの通りイケメンでオシャレじゃん?まあ、はっきり言って憧れたんだよね、俺」

紫雨が。

でも今日一日、地盤調査に同行して、その話はあながち信じられないわけでもなかった。

土地についての知識や、顧客に対しての物腰の柔らかさは、もともと持っていたものじゃなくて、努力の賜物なのだろう。

だから新人教育もうまい。そういう点では篠崎と通じるものがあった。

「どこに行くにもついて回ってさ。ほんと、あんときは、“ナベは紫雨の番犬みたいだな”なんて課長から笑われて」

なんとなく想像ができた。

華奢な紫雨に、大柄の渡辺が付いて回る関係は、はたから見ていれば、少し滑稽で微笑ましかったに違いない。

「でも、俺、さ。あの人がゲイだとか、知らなくて」

(………え)

思わず口が開いてしまう。

この会社ではカミングアウトすることが普通なのだろうか。自分の知ってる世界では自分がゲイであるなんて、トップシークレットだったが。


「ある日、いつもみたいに飲みに行く紫雨さんにくっついていったら、さ。そういう店だったんだよね」

「そういう店ってなんですか?」

「その、ゲイが集まる、みたいなところ?」

「…………」

長年ゲイだと自覚している由樹でさえ、そう言う界隈の店には足を踏み入れたことがなかった。

「笑っちゃうんだけど、その時さ。紫雨さんがゲイだってわかった瞬間、ちょっとだけ、嬉しかったんだよ。俺、そんくらいあの人にのめりこんでたんだな。じゃあ、俺のことも抱きしめてくれたりしないかなって期待してさ」

切ない顔で微笑む渡辺が言わんことがわかり、由樹は膝の上で握った拳に力を込めた。

「紫雨さんが誘うままに、というより半ば俺の方が強引に、あの人の家についていってさ……」

(やっぱり…)

由樹はリアクションに困りながら思わず手を口に当てた。

「まあ、それで、初めて男を知ったっていうわけなんですけど」

渡辺は頭を掻いた。

「やっぱり理想と現実は違うわって思って。俺、実際にそう言うことになったらさ。ものすごく、嫌、でさ。やっぱり紫雨さんに抱いてたのは憧れだって分かった」

渡辺は抱えるように頭を垂れて言うが、由樹から言わせると“あるある”だった。

特に篠崎や紫雨のように、男から見てもカッコいい人間や、由樹のようにどこか中性的な華奢な男性に対して起こりやすい。

ノンケのドストレートの男性が、「こいつならいけるかも」とチャレンジしてみたものの、なんか違う。やっぱり無理。男より簡単な女がいい。凸より凹がいいと気づいて去っていく。

それが渡辺と紫雨にも起こったということだろう。


(でも、それ。ちょっと紫雨リーダー、可哀そうだな)

同志としての同情心が湧く。

「それから、さ。頻繁に紫雨さんに呼び出されるようになって」

「……紫雨さん、渡辺さんのことが好きだったってことですか?」

「いや、そうでもなく。ただのはけ口?的な?」

渡辺が自嘲気味に笑う。

(前言撤回。やっぱあの人、最低野郎だわ)

「その関係が一年弱続いた時、当時、時庭展示場でリーダーをしてた篠崎さんがさ、お客様との打ち合わせで天賀谷展示場に来たんだよね。打ち合わせが終わってみんな帰ってさ。その展示場で、さ。その、結構、無理矢理……」

(あの男………)

展示場内で少なくとも3人の男に手を出している紫雨に、呆れると共に妙に感心してしまう。

「そうしたらさ。帰ったと思ってた篠崎さんが、外壁サンプルをとりに子供部屋にいたんだよな。それで、俺の嫌がる声を聞きつけて寝室まで来て」

「篠崎さんが?」

「うん。俺たちの、それを見ちゃってさ。俺が泣いてたもんだから、篠崎さん逆上しちゃって、物凄い剣幕て怒鳴って、しまいには紫雨さんのこと殴ったりしてさ。大変だったんだよ」

「…………」

(篠崎さんが………)

「それが支部長の耳に入って、俺は時庭展示場に異動になったんだ」

言いながら渡辺は自嘲気味に笑った。


「だから、篠崎さんは、紫雨リーダーが嫌いなの。ゲイに反感があるの。まあ、一番初めに見たのがレイプまがいだったっつうのもあると思うんだけど」

渡辺は由樹を覗き込んだ。

「ところで、君もそうなんだって?」

「え、何がですか?」

「元々は、そっちの人間なんだって?」

「え」

途端に顔が赤くなる。

「君のこともね、実は前から篠崎さんに聞いてて。“昔はそうだったらしいけど、今はヤキモチまで焼いてくれる可愛い彼女がいるから、心配ない”って」

ホッとした瞬間、何か違和感が襲ってきた。

(あれ?……なんだ?この感覚。)

「?どうかした新谷君?」

「あ、いえ………」

なんかとんでもなく重要なことを忘れているような)


女と違う肌の硬さ。

男の匂い。

合わさる唇の温度……。


戸惑った息遣い。

存在感のある舌に、

突き飛ばす強い力………。


堅いベルトの感触に、

みぞおちを襲った激痛…………。



『……くそっ。やめろ!』



「あああああああああああ!!」


突然叫びながら立ち上がった由樹に、渡辺は思わず後ろに仰け反った。

「俺!!俺!!なんつーことを!!!」

「ええ?新谷君?!どうしたの?」

顔を覆う。

(俺、篠崎さんに、なんてことを!!)

篠崎の驚いた顏、戸惑った声、手加減のなかった拳が蘇る。


ヤバい。

ヤバいヤバいヤバいヤバイ!!!


(俺、取り返しのつかないことをした……!!)


床の間にかかっている『日日是好日』の字を眺めながら呆然と立ち尽くしている由樹を見上げて渡辺は瞬きを繰り返した。

「新谷君?どうかした?」

「……ちなみに、篠崎マネージャーは、今どちらに?」

「篠崎さん?ああ、解体工事の見積もりに行ったよ。県南まで。今日は帰ってこないんじゃないかな…」

(まずい。謝るタイミングが……。でもなんで俺、あんなこと!あんな……)

「もしかして、酔っ払って篠崎さんを怒らせるようなこと言った?」

空気を読んだ渡辺が面白そうに覗き込む。

「……そもそも酒なんて飲んでないんですけど!」

「ああ、たぶん、それね。紫雨さんが何か飲ませたんだと思う。酒みたいなジュースとか…」

(あのオレンジジュースか。あの男、どこまでゲスな……。いや、今はそんなことどうでもいい!)


「あの、篠崎さん、何か、言ってましたか?」

「何かって?新谷君のこと?」

ぶんぶんと頷く由樹を渡辺は微笑んで見下ろした。

「別に?俺が聞いたのは、“紫雨のアホが性懲りもなく今度は新谷を襲いやがった”ってだけだけど」

「それだけ、ですか?」

「うん。それだけ」

「…………」

篠崎は、由樹の奇行を渡辺に言わなかった。これをどう捉えればいいのだろう。


「篠崎さんと、何かあった?」

男との嫌な経験がある渡辺には、言えない。とても……。

項垂れた由樹を見て、渡辺はポンポンと肩を叩いた。

「何があったのかは分かんないけどさ。篠崎さんはその話、俺にしなかったよ。篠崎さんがなかったことにしてくれようとしているなら、そのままにしてたほうがいいんじゃないの?」


“なかったことにしてくれてる”


この上なくありがたい話であるはずなのに、

由樹の胸にはチクリと刺さるものがあった。


「ねえ、新谷君?この禅語の意味、分かる?」

「禅語、ですか?」

由樹は床の間に飾られた掛け軸を見上げた。


「日日是好日(にちにちこれこうにち)”。月日というものに良し悪しはない。それは自身の心であって“今”が“あなた自身”であるから“今”こそ全てであり、大切なんだって」

日日是好日……。

「大丈夫だよ、きっと」

渡辺は微笑むと、いつの間にかテーブルに置きっぱなしにしてしまったレシートを再度、由樹の手に握らせた。


そこには、“作業着上下 800円“と印字された上に、

篠崎の達筆な字で「明日必ず!」と書いてあった。

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