テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「いやあ、すっごい雨だった。
急に強く降るんだもんな。」
傘で防ぎきれなかった雨が、若井の肩を濡らして、彼は顔をしかめていた。
ドアを開けたら、ちゃんとそこに居たことに、僕は思わず安堵した。
「大変だったね、
ありがとう。来てくれて。」
⋯一体、いつからだろう?
こんな感情を覚えたのは。
気づけばずっと一緒にいて、
それから、
⋯それから。
僕はこの感情を逸らしたくなって、
若井にタオルを渡した。
「着替え借りる?濡れたでしょ?」
「いや、タオルでいいよ、すぐ乾くし。」
僕からタオルを受け取った若井は、髪や衣服を簡単に拭いて、部屋に入ってくる。
「コーヒーあるけど」
「じゃあ、俺いれるよ。」
若井はキッチンに行って慣れた手つきでコーヒーを淹れ始める。
すると香ばしい、鼻をくすぐる芳醇な香りがキッチンから漂う。
さっきまで冷えていた心がほぐれるような、温かい香りだ。
彼は自然に僕の分も淹れてくれた。
「ありがとう。」
それを受け取り、僕はリビングにあるソファーに座る。
一人で作業してる時とは違う、2人で他愛のない話を交わしながら飲むコーヒーが僕は好きだった。
コーヒーを口にした若井は、
「何してたの?」
と僕の傍らに腰掛ける。
「⋯ちょっとギター弾いてた。デモもある程度出来たしね。」
「そっか。⋯夜のLINE、あれから大丈夫だった?」
「ああ⋯、ごめん。ありがと。」
若井の心配そうな顔を見て、僕ははにかんだ。
昔のそれとずっと変わらない、温かくて優しい瞳に、 切なくなる。
僕はにっと広角を上げておどけてみせた。
「あ、そういえば持って来てくれたんですか?僕に渡すものがあるとか。」
「あ、そうそう。
⋯じゃあ、せっかくだから、
元貴、ちょっと目を瞑っててよ。」
いたずらに笑う若井から促された僕は
「なに、なんなの?」
と言われたままに恐る恐る目を閉じる。
彼は自分のバックを置いたところまで行って、僕の側に戻ってくる足音がした。
単なる仕事に関するものとばかり思っていたのに、なんだか違う雰囲気を感じて僕は訝しんだ。
「え、なに?なんのいたずらだよ、
怖いじゃん。」
若井は笑いながら
「まあまあ、いいから。じゃあ⋯」
その時、僕の座っている側からシュッと軽い音が聞こえたかと思うと、辺りには甘い香りが空間に拡がった。
まるでヴァニラのような、けれど花の香りもする優しくて甘い香りに包まれる。
僕は目を開けて若井を見つめた。
「え、これ⋯香水?」
彼は僕の傍らに座って微笑んだ。
「そう。ちょうど元貴好きそうかなって思って、いつか渡せたらなって前に買ってたんだ。どんな感じ?」
すると彼は、すっとあたかもそれがごく自然のことであるように、僕の肩を自らの方に寄せて、僕の首元に鼻先を近づける。
その近さに一瞬、息が止まった。
「え、ちょっ⋯、」
「うん、甘くていい香り。 良かった。
俺、元貴のこういう香り好きなんだよね。⋯ 似合ってる。 」
「⋯⋯っ、」
やさしく、甘い響きの若井の言葉に、 体中の血流が一気に熱く激ったような感覚に襲われた。
彼の体温と吐息を感じてしまった自分を、心底恨む。
「び⋯っくりするじゃん。 」
言葉がうまく紡げない。
今、僕はどんな顔をしているのか、すごく怖かった。
どうかこの心臓の音が、聞こえませんように。
「いや、これは元貴だから渡したかったんだ。」
若井はその香水をそっと、やさしく僕の手のひらにのせた。
そこに収まっている小さな香水瓶は、切子のようにガラス細工が繊細に施されている。
天井の灯りに翳してみると、キラキラと反射し、輝いて美しかった。
僕は思わず目を細める。
「⋯⋯きれいだ。」
彼は微笑んで
「ちょっとでも元貴が元気出るようにと思ってさ。前に新しい香水欲しそうにしてたから。
⋯どうしたの元貴、」
「⋯⋯⋯。」
きれいだな。ほんとうに。
⋯ああ。
きっとここで、いつものようにふざけてしまえるといいんだろうな。
けれど、僕の心が堰き止めているものが、もう溢れてしまいそうで。
「ーー⋯若井、」
本当は、吐き出してしまいたい。
ねぇ、若井。
“オレノソバニイテ、ズット。”
ふれてほしい。体温を感じていたい。
⋯どうしようもなくさみしくなって
おまえの温もりが欲しくて
しょうがなくなるんだ。
⋯なんて。
一番言いたいことが、言えない。
怖くて、言えない。
僕は、この感情が何かを知っているのに。
「⋯⋯ううん。
ありがとう。うれしいよ。」
僕は、香水瓶をぎゅっと握った。
「そっか。良かった。
元貴は俺の特別だから。
これからも一緒にいような」
そして、君は明るい陽の光のような
それでいて世界で一番残酷な笑みを浮かべて、 僕を奈落の底へと落とすんだ。
「⋯うん」
⋯大丈夫。
きっと今、うまく笑っていられてる。
僕は僕でいられている。
ゆっくりと、目を閉じた。
だから、どうか
僕だけを見て。
僕だけを。
この雨音と、甘く甘美な香り包まれて
僕は一瞬、目眩がした。
それは紛れもなく、君が僕に染み込ませた香りそのものだ。