逃げるように診療所を出た後、千代はずっと部屋の中でうずくまっていた。
自分の身に起きたことが全く理解出来ず、ただただ恐怖と衝撃で泣き続けることしか出来ない。
一度うずくまってから、千代は一度も顔を上げていない。少しでも顔を上げれば、鏡面台が目に入ってしまう。
「うっ……うぅ……」
顔が焼けるように熱い。うずくまったままでいるのは、外気に触れてひりつく痛みに耐えられないからでもあった。
そのまま泣き続けて数分後、とんでもない勢いで襖が開かれる。音に驚いて顔を上げそうになったが、千代はグッとこらえてうずくまり続ける。
「……絶対に近づかないでくれと……言ったのに……君は何故……」
ひどく辛そうな声音が、千代の元へ落ちてくる。声の主が継人だと気づいて、千代は身体を強張らせた。
「ごめんなさいっ……ごめん、なさい……私……」
嗚咽混じりに繰り返す千代に、継人が歩み寄る。足音に気づいた千代は、震えながら頭を振った。
「こ、来ないでくださいっ……!」
「……そうは、いかない。僕の責任だ」
継人がそのまま歩を進めると、千代はうずくまった姿勢のまま後じさる。それでも継人は早足で歩み寄り、千代の目の前で屈む。
「……嫌なのはわかるけど、顔を上げて欲しい」
「い、嫌です……絶対に……!」
こんな顔、見せられない。そう言おうとした千代だったが、既に継人は強引に千代の身体を起こそうとしていた。精一杯抵抗する千代だったが、男の腕力にはかなわない。抱き上げられるような形で、千代はその顔を顕にした。
「ッ……!」
千代の顔を見た瞬間、継人は今にも泣き出しそうな表情を見せる。
「……見ないで……ください……」
千代の顔は、醜く焼け爛れていた。
少し釣り気味だった大きな瞳も、色白の柔肌も、整っていた千代の顔が全て焼け爛れている。最早、顔だけでは彼女が千代だと判別することは難しい程だった。
「私……この家を……出ます……」
継人から目を背けながら、千代は震える声で言葉を紡ぐ。ひりひりとした痛みが顔中にまとわりついて、自分が今どんな顔になっているのかを思い知らせてくる。
もう心の中はぐちゃぐちゃで、何をどう考えれば良いのかもわからない。ただとにかく、今の自分の顔を継人にだけは見られたくなかった。
「……こんな顔で……あなたに嫁入りなんて……出来ませんから……」
気持ちは自暴自棄になるばかりで、いっそのこともう死んでしまいたかった。
慕っていた義父は亡くなり、継人の元に来ても肝心の継人からは必要とされていない。その上こんな姿に成り果ててしまったのなら、もう自分には何一つ価値がないような気さえしてくる。
「……ごめんなさい……迷惑ばかりかけてしまって……。でも、良いですよね……? 旦那様は私に……帰って欲しかったのでしょう……?」
自分でそう口にして、千代は嫌悪感を抱く。こんな状況で、こんな風に卑屈なことを言って、継人にどうして欲しいのだろう。これではまるで「そんなことはない、この家にいてくれ」だなんて都合の良い言葉を求めているかのようだ。
そういう思いが心のどこかにあって、それがわかっているからこそ、余計に厭になる。もっと必要として欲しかった。忙しいから手伝って欲しいだとか、その程度でも構わなかった。求められればきっと身体だって許したし、ほんの少しで良いから何かを求めて欲しかった。
両親が死んで、義父が死んで、天海家では疎まれて、もうどこにも居場所がなくて。
千代は、継人に必要として欲しかった。その傍に、ほんの少しで良いからスペースを作って、座らせて欲しかった。きっとそれは、継人でなくても良かったのかも知れない。
「……少しだけ待ってくれ」
しかし継人は、千代の言葉にはきちんと答えない。千代をそっとその場に寝かせると、すぐに千代の部屋を後にする。
それから数秒後、バタバタと駆けてくる音がして、部屋に継人が戻ってくる。そして継人が持ってきたものを見て、千代は絶句した。
「えっ……?」
それは、千代が継人の部屋で見た日本刀だった。鞘には古びた御札が何枚か貼り付けられており、異様な雰囲気を醸し出している。
ああそうか、一思いに殺してくれるのか。そんなことを考えて、千代は息をつく。
これ以上もう、生きていてもどうしようもない。どこにも居られないまま、この顔で人に怖がられて生きていくくらいなら死んでしまった方が楽だろう。
きっとこれが、継人なりの優しさなのだ。
「……自分で、出来ます」
しかしだからと言って継人の手を煩わせるわけにはいかない。そう思って千代は刀を受け取ろうと手を差し出したが、継人はかぶりを振る。
「何を言っている……? 僕じゃないと出来ない」
夫としてのけじめだとでも言うのだろうか。それでも、死ぬ時くらいは自分で決めたい。千代は今まで色んなものに翻弄されて、押し流されて生きて来た。最期くらいは、自分で選んだと思いたかった。
「……行くぞ。少し痛いけど、我慢していてくれ」
「…………はい」
わずかな逡巡の後、千代は頷く。それを確認すると、継人はゆっくりと歩み寄り始めた。
これから死ぬんだな、と意識すると、少しずつ怖くなる。
何もかもがここで終わって、消えてしまう。あり得たかも知れないいくつもの未来も、何一つ選べないまま終わる。
そう考えるとどんどん涙が溢れてきて止まらない。頬から這い出した膿のようなものと混じって、足元にこぼれ落ちた。
「ジッとしていてくれ」
刀を抜かないまま、継人はそう言う。千代は小さく頷いてから、ギュッと力強く目を閉じた。
「……お願い、します……」
他にもっと何か言えれば良かった、と口にしてから千代は後悔する。しかしもう何も、残すべき言葉なんてないようにも思えた。
間近に迫った終わりに身を委ねてしまいたくて、千代は眠るような気持ちで意識を手放そうとする……が、その意識は力強い手に引き戻された。
「……え?」
もう刀で刺すなり斬るなりされる寸前だと思っていたが、千代が感じたのは顔を右手で掴まれる感触だった。そしてそれに困惑している暇もなく、全身が何かから引っ剥がされるような激痛に襲われる。
「……っ……!?」
その激痛は耐え難く、千代はすぐに悲鳴を上げ始める。目ももう、閉じているのか開いているのかもよくわからない。
それが数秒続き、やがて全ての痛みが消える。それと同時に、ふわりとした浮遊感が伴う。恐る恐る目を開けると、自分の足元に倒れた自分が見えた。
「え……っ……え!?」
困惑して辺りを見回す千代だったが、その視界は突如黒いモヤに覆われる。そして次に千代が見たのは、自分の眼前をすれすれで通り抜けていく刀の刀身だった。
わけがわからず困惑する千代の視界が晴れ、黒いモヤと対峙する継人の姿が見えてくる。継人は例の刀を構えて、目の前の黒いモヤをきつく睨みつけていた。
「……君にはもう少し、同情してあげたかった……」
口惜しそうにそう呟いてから、継人は刀を握りしめる。
「でも――」
そして次の瞬間には間合いを詰め、継人は黒いモヤを切り裂いていた。
「僕の嫁に手を出すなら、話は別なんだ」
千代は、まるで心臓が跳ね上がるような思いだった。
理解出来ない状況で、自分が今生きているのか死んでいるのかもわからない。千代の心臓は、もう止まっているかも知れない心臓だ。そんな心臓が跳ね上がったような気がするくらいの衝撃が、継人の言葉にはあったのだ。
それから段々気恥ずかしくなってきて、千代は継人から目を背けてしまう。
「……ごめん、無理矢理幽体を身体から剥がすのは痛かったろう? 今元に戻すよ」
そんな千代の思いを知ってか知らずか、継人は何事か唱え始める。すると千代の意識は一瞬だけ遠のいて――
「……良かった……もう、大丈夫だ……」
継人の穏やかな微笑みの前で、目が覚めた。
そっと触れた継人の手が、千代の柔肌をなでる。丁寧に、壊してしまわないように、継人は千代の頬に触れ続ける。両手で触れて、千代の目線を固定してしまう。目の前の継人が何だか泣きそうに見えて、千代は理由のわからない小さな罪悪感を持ってしまった。
ゆっくりと、継人と千代の額が重なる。そのまま数秒、千代は継人に身を委ねた。
***
「ゆーれい……ですか?」
自室で継人と向かい合って座り、千代は間の抜けた声で問い返す。すると、継人は深く頷いて見せた。
「……ああ。信じられないかも知れないけど、僕の患者は霊に憑かれている人なんだ。僕は霊に憑かれたことで起きる症状をまとめて霊症と呼んでいるよ」
あれからしばらくしてから、お互い落ち着いてきただろう、という頃合いで千代は事の真相を問いただすことにした。結果的に千代の霊症……というものは治り、一件落着したかのようだったが千代にはわからないことの方が多い。
継人が言うには、彼は医者を名乗ってはいるが正確には医者ではない。霊症を発症した人の身体から幽霊を引き離し、除霊するのが彼の仕事なのだ。
幽体を相手に、取り憑いた手術を外科的に取り除く。
「僕は、霊能外科医を名乗っている」
聞き慣れない言葉ばかりが続いたが、先程までの事態のせいで半ば強引に飲み込むはめになった。
「……じゃあお部屋にあった不気味なものも……」
「一応、仕事の道具だよ。というか……入ったのかい……?」
「ご、ごめんなさい……。トミさんが、旦那様が屋敷に戻られていると聞いて……その、少し話がしたくて……」
「そうか……。何だか妙に怖がっていると思ったら、そういうことだったのか……」
継人にそう言われて、千代は少しムッとする。別に部屋の中が不気味だったから継人のことが怖かったわけではないのだ。
落ち着いて考え直してみると、千代は少しだけ腹が立ってくる。そっけない態度を取って、いつでも出て行って良いだなんて言っておいて、今度は”僕の嫁”である。千代からすればわけがわからない。
「……旦那様が……なんだか冷たかったから……」
思わず、千代はぼそりと呟くように言ってしまう。自分の言ったことに気づいてハッと口元を袖で隠して継人の様子を見ると、継人は目を丸くしていた。
「えぇっと……。ああ、そうか……。そうかも知れない」
「ああいや、あの、そういうわけじゃなくて、私……」
「……いいんだ、ごめん。多分、僕の方に非がある」
少ししゅんとした様子でうなだれながら、継人はそう言って頭を下げる。
「わ、私……この家にはあまり必要とされて……ないのかなって……思っちゃって……」
躊躇う気持ちもあったが、この機を逃すわけにはいかない。いつまでもわだかまりを抱えたまま生活するのは嫌だったし、何やら誤解があるなら解いてしまいたい。千代はこのまま、思っていたことをきちんと継人へ伝えることに決めた。
「トミさんは良くしてくれましたけど……旦那様は、あまりお話してくださらないし……手伝うことも、何もないって……」
「……うん、そう言ったね……ごめん」
「それに……いつでも出て行って良いって……。必要ないから、どこかに行ってくれって思われてるのかと……思っていました……」
「……そう、か……」
途切れ途切れになりながら話す千代の言葉を、継人はうなずきながらしっかりと聞く。そして聞き終えると、申し訳なさそうに目を伏せた。
「……でも君は、龍之介のことが好きなんじゃないのかい?」
「…………え?」
思いもよらない継人の言葉に、千代は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
「私が……龍之介さんを……?」
「……違うのかい……!? 僕はトミからそのように聞いていたんだけど……!?」
「え、なんで――――」
と、言いかけて、千代は昨日のことを思い出す。
「あ、ああ……あの時の……」
千代は継人と初めて会った日、驚いて龍之介に廊下で泣きついてしまっていたのだ。その時はそれどころじゃなくて気に留めていなかったが、あの現場をトミが見れば誤解するのも無理はない。
本当は龍之介のことが好きで、嫁ぐのを嫌がっている。そう見えても仕方がないだろう。だから継人は、いつでも出て行って良いと言ったのだ。龍之介を愛しているなら、駆け落ちしても構わない、という意味だったのだろう。こう考えれば、縛りたくない、という話も納得出来る。
「あ、あれは……その、違うんです……。龍之介さんのことが好きとかじゃなくて……私、思ったより旦那様と歳が離れていて……びっくりしちゃって……」
「…………そうか……」
龍之介については誤解だと伝えられたものの、継人はどこか気を落としている。
「……おじさんでごめんね……。確かに二十五は、君からしたらおじさんかも知れない……」
「二十五!?」
驚きを隠すことが出来ず、千代は思わず声を上げた。
「いや、うん……。よく間違えられるんだよ……老け顔だから、四十前後に見えるみたいなんだけど……僕はまだ、二十五だよ……。父が思ったより早く亡くなってしまったから、この家は予想より早く僕のものになってしまったんだ……」
「あ、その……ごめんなさい……」
「……良いんだ……おじさんなんだよ僕は……継人おじさんなんだ……」
どうやら気にしていたようで、継人はしゅんと肩を落とす。慌てて取り繕おうとしたが、何とフォローすれば良いのかわからず、千代はひとまず話を戻すことにした。
「とにかく私……旦那様にはあまり好かれていないのかと思って……」
「そ、そんなことは……ないんだ……。ごめん、でも確かに……そっけなかったね……」
申し訳なさそうにそう言ってから、継人は頬を赤らめて千代から顔をそらす。
その様子に千代が首を傾げていると、継人は少したどたどしい様子で喋り始めた。
「き、緊張……してたんだ……」
「……緊、張?」
よくわからずに問い返すと、継人は目をそらしたままうなずく。
「写真を……見た時から……緊張してたんだ……。その、とても……綺麗、だったから……」
「……へ?」
間の抜けた声を上げてから、恥ずかしくなって思わず千代も目をそらす。そのまま数秒沈黙が続いたが、やがて継人が口を開いた。
「と、年も……少し離れているし……どう接すれば良いのか、わからなかった……。そんな折に、龍之介のことが好きなんじゃないかって知って……。余計どうすれば良いのか……わからなかったんだ……」
「そ、そう……なん、ですか……」
嬉しいやら恥ずかしいやらで、何と答えれば良いのかわからない。思わずそっけない言葉を返してしまい、千代は継人がどうしてそっけなかったのか少しわかったような気になってしまう。
しかしこれで、トミの言う通り、継人は本当に千代が来るのを楽しみにしてくれていたことがわかる。今まで千代が思いつめていたことは全部思い違いで、感情が全部空回っていたのかと思うと恥ずかしいし申し訳なかった。
「あの……霊は、君を見てすぐに取り憑いただろう……?」
「え、ああ……はい、多分」
「彼女は生前、何らかの形で顔が焼け爛れてしまったみたいなんだ……。それで死後、霊化して綺麗な女性に取り憑いて、苦しめていたんだ……」
継人の話を聞いて、千代はもうおぼろげな記憶を思い返す。あの霊が千代に取り憑いた時、千代は明かりのついた行灯に顔を突っ込まれる彼女の記憶を自分のもののように見ていたのだ。
「だから……僕は、君に必ず取り憑くと思ったんだ……」
「そ、それであんな言い方になったんですね……」
「……うん、ごめん」
継人が頑なに千代を手伝わせたがらなかったのは、あの霊が必ず千代に取り憑くと確信していたからだったのだ。
更に話を聞くと、どうもあの時の電話は患者の父親とのものだったらしい。てっきり千代は身代金でも要求しているのではないかと疑っていたが、向こうの父親が継人の請求する額を聞いて支払いを渋っていたようなのだ。
「……多分このままだと支払ってくれないだろうから、強く言ったんだけどね……ダメだったよ。仕方がないから、とりあえず除霊だけはすませて様子を見ようと思ってたんだけど……」
一通り話を聞き終えて、千代は全身から力が抜けていくような思いになる。つい机の上に突っ伏してしまいそうになったが、そんなはしたない姿は見せられないので無理に背筋を伸ばして見せた。
「……ご、ごめんなさい……私、旦那様のことすごく誤解してて……」
「ああ、いや、良いんだ……僕こそ……ごめん……」
そうやってお互いに謝り合っている内に、何だかおかしく思えて千代は吹き出す。すると、継人も釣られて笑みをこぼした。
「……うん、じゃあ、ちゃんと僕から……言わないとね……”千代”、これから……よろしく頼む」
少し恥ずかしそうに、それでも真っ直ぐに千代を見つめて継人は言う。また心臓が跳ねた気がして、千代はつい胸元を抑えた。
「…………はい、……」
旦那様、と言いかけて、千代は一度口をつぐむ。折角名前で読んでくれた”夫”に、いつまでも旦那様というのはよそよそしい。トミや他の使用人と同じ呼び方をするのも何だか嫌だった。
「不束者ですが……こちらこそよろしくお願いします……”継人さん”」
名前を口にして、慣れない口当たりに千代は思わず唇を結ぶ。今の変な表情を見られたかな、と継人の顔を見ると、彼は彼でなんとも言えない照れくさそうな顔で千代を見ていた。
天海千代改め黒鵜千代十五歳。値段は三百円で、恋愛は……きっとこれから、この人と少しずつ。