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「ねえ。本当に行かないの……智樹」
お気に入りのコートに袖を通す母に、本から視線を譲らず、智樹が答える。「……行かないよ。デートの邪魔なんかしたくないもん」
「もしかして智樹、嫉妬してる?」
「なわけないだろ」と智樹はソファーに身を預けたまま、「せっかくの初デートなんだから。二人っきりで楽しんでおいで。それに、今後世界がどうなるか分からないんだから。出かけるのならいまのうちだと思うよ」
「……分かった。じゃあ、行ってくる」
「行ってらー」
母が消え、ひとりきりのリビングに取り残される。
姉は、部活だ。来年の演奏会に向けて毎日練習を頑張っているはずであるが、この調子だとどうだろう。開催も危ういのではないか、と智樹は見ている。
考えることは山ほどある。圭三郎を撃つ手段。晴子を守る技術。それから、自分の将来……。
おれは、いったい何者なのだろう。何者になって、この社会でどう、生きていくのだろう。
自慰をする気にもなれず、智樹はテレビを点け、ひとりきりの孤独を癒した。
「清太郎さんと、智樹が、そんなに仲良くなるだなんて、思いもしなかったわ……」
コーヒーをかき混ぜる手が止まる。
分かりやすいひとだ。小さく虹子は笑った。「だって、毎晩あの子、電話で誰かと話しているみたいだから……。友達は、いるにはいるわ。でも学校外で、DMを打つか、以外は休日に会う間柄みたいだから……。毎日話す必要のある相手といったらね。あなたしか、考えられなかったの……。
ねえ、清太郎さん。
あなたの抱え持つものを、わたしに、分け合うことは、出来ないのかしら。
わたしは、晴子の親であり、智樹の親でもあるのよ……。
あの子たちが、わたしの知らないところで苦しんでいるのなら、その苦しみを癒してあげたい。立ち向かうべき敵がいるのなら、一緒に立ち向かいたいのよ。
あの子たちは、自分たちだけで解決しようと、努力している。
親のわたしに、秘密を貫いている……。
わたしは、智樹の気持ちに気づいていながら、なにも、出来なかった。
そのことを、後悔しているの。
……ねえ、清太郎さん。
わたし、これからは一切、後悔なんか、したくないの……。
あなたの知っている情報を、わたしに教えることは、出来ないのかしら?
智樹にも晴子にも、秘密にすることを誓うわ。お願いだから……」
「……虹ちゃん」下げられたままの虹子の頭に手が添えられる。「そんなことをされると、ぼくは、困ってしまうよ……。智樹くんからは、誰にも内緒で、って条件で相談を承っているんだから。例え、相手がきみでも、簡単に打ち明けることは、出来ない……」
「分かった。――でも」虹子は顔を起こし、「もし、あの子たちに危害が及びそうな事態があるのなら。夜中でも構わない。絶対に、連絡をちょうだい。……お願いします」
少しの苦渋の間ののちに、石田が答えた。「分かった」
毎日、こうも、楽器を吹き続けていると、口が疲れてしまう。
特に、合奏している間は、他の嫌ななにもかもを忘れられる。――音楽は、力なのだと晴子は思う。
この世に生きる意味を見いだせず、煩悶する人間であっても、音楽を聴けば、力が湧く。
生きる勇気を与える目的こそが音楽であり、使命なのだと思う。
夏に演奏した課題曲を口ずさみながら、玄関戸を開く。「たっだいまー」
誰の声も聞こえない。――母は、石田さんとデートのはず。弟が在宅のはず、だが……。
リビングのソファにて、眠る弟の姿を見つけ、自然、晴子の頬は緩んでしまう。――あどけない、その顔に。
かつて自分のそこを野性的に貪った唇が、てらてらと光っている。思い切って、晴子は、それを、舐めあげた。よだれを垂らして眠るなんて、美少年のすることではない、と思いながら。
弟の頬に触れ、晴子は、
「大好きよ――智ちゃん……」
そっと弟の髪を撫でると、晴子は自室へと入る。直後、弟が目を開いていたことなど、露知らずに。
毎日、いくら石田と会話を交わせども、答えは、出ない。
同情の余地はある。だが、だからといって、愚行を重ねていい理由になど、ならない。ましてや、誰かが大切にしている誰かを痛めつける理由になど。
圭三郎の生い立ちを知り、智樹は、ショックを受けた。その過酷な環境に置かれていたとしたら、果たして自分ならば、どうなっていたか、分からない。自分は愛を与えられて育った人間ゆえに。
父親への屈折した感情を宿せど。結局、智樹は、勝彦のことを憎み切れない。被害者ではないからだ。おそらく自分が、母親である虹子の立場だったなら、彼を、憎んで憎んで憎み続ける、地獄の煩悶のなかに突き落とされていただろうが。
さりとて、虹子に、勝彦を憎む様子は見られない。いくら成長したとはいえど、晴子は晴子の問題を抱え、智樹も同様。子どもたちの世話やケア、そして、仕事だけで精いっぱいの様相だ。あの母親の顔色を見る限り、きっと石田と居ても、せっかくの、恋愛の初期状態のあまずっぱい時期を堪能することにウェイトを置くのではなく、きっと子どもたちへの心配や気疲れで、日々を過ごしていることだろう。
味方は、ひとりでも多いほうがいいとは思えど、母を巻き込む気にはなれなかった。
実際智樹は、父親の問題を解消するにあたっても、母にかかる負担が最小限になるよう、努力した。いろんなひとの手を借りた。けれど、これは――出来るだけ最小限の人間で取り組むべき問題なのだ。自分と晴子の行為、それから、圭三郎の過去に関わる問題なのだから。
もし――本当に、晴子が、圭三郎を愛しているのだとしたら? いや、それはありえない……と否定したいのだが、否定しきれない自分も存在する。実際、晴子は、圭三郎のなにかしらに魅了されているようであり――確かに、智樹の目から見ても、圭三郎は、見惚れるほどの美少年だ。あの腹黒い性格が、彼の魅力を倍加させる効果を醸し出しているように思える。そんじょそこらの女の子では、彼の本質を看破出来ぬだろうことを、知りながらも。
考えても、答えは、出ない。
立ち上がり、思い切って智樹は、姉の部屋のドアをノックした。返事がすぐにあった。
「なぁにー? 智ちゃーん。いま、忙しいんだけどー」
確かに、言葉通り、姉の部屋からは音楽が聴こえる。おそらく、演奏会で披露する曲であろう。
「……なら、いいや」
大きな声で言い、大人しく、智樹は、引き下がった。
虹子は、まだ、帰宅していない。
愛するひとと、二人きりの空間に置かれてしまっては、また、同じ過ちを繰り返さないとも限らない。いや、彼自身はあれを過ちだとは思ってはいないが。尊くて崇高な行為だと彼は思っている。
愛する女とひとつになれる経験は、彼の思想を強化した。
欲望を持て余す彼は、部屋に入ると、結局自分を解き放った。
晴子は、そのとき、誰にも見せられない行為をしているさなかであった。
楽譜など、見ていない。智樹のことを想いながら――ただひとり、自分のこころの真ん中を占める、最愛の弟を思い浮かべながら、自分を慰めている最中だった。
どうしても、忘れられない、あの鮮烈で濃密な体験――。
もし、弟が弟でなければ、あそこがリビングであろうと、彼の衣類をひんむいて、いつか、彼がしてくれたように、彼の感じるところを貪ってやるのに。
彼の性器を可愛がってやれなかった。そのことを、いまでも晴子は、悔いている。
自分のなかでやさしく乱れ狂う弟の奏で上げるリズムに酔わされるあのいっときは、形容しがたい、幸福そのものであった。あの瞬間。あのいっときだけは、なにもかもを忘れられた。弟と姉というアイデンティティを取り外した、魂と魂のぶつかり合いを経験したのだ。
弟との性交を経た直後、楽器を演奏すれば、皆に、
『晴ちゃんなんか音が変わったね』――たちまち指摘され、晴子は、赤面した。
弟との愛の交流が、自分を変えた。
そして、一時的に、圭三郎に惹かれていた自分を、過去のものだと振り返られるようになった。あれは、過去のもの、なのだ。決してなにも圭三郎が、表とは違う裏の顔を隠し持つのが理由などではなく――晴子にだって、表と裏の顔を使い分ける場面があるのだ――あくまで、自分の女の部分を熱くするのが、智樹という男、ただひとりである。それが、理由である。
キスしたときに、胸が苦しくなる。切なくなる。涙が出る。こんな感覚を教えてくれるのは、弟である西河智樹、彼以外に、いないのだ。
仮にもし、この身に、命を宿していたとしても、晴子は、産む覚悟であったが、残念ながら弟は避妊をしている。避妊具を持っていることも驚きであったが、もし、弟が、他の女の子に、あのような行為をしていると思うだけで、死にたくなってしまう。
許されない運命なのだ。自分たちの行為は、許されるものではない。
その背徳感こそが、ますます彼らの行為をそして感情を高めていく。
(ああ……智ちゃん。智ちゃん……!)
互いに想いながらも、姉と弟が、それぞれの部屋で、自分を慰め、孤独を見出す。この行為は、彼らの母親が帰宅するまで、本格的に続いた。
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