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ダンジョンが崩壊して、視界が暗闇から現実へと切り替わる。
足元にしっかりとした地面の感触が戻ってきた瞬間、肺の奥から、安堵とも疲労ともつかない息が漏れた。
外は、夕方に差し掛かる少し手前だった。
乾いた風と、人工的な排気と、土の匂い。ダンジョンの濃密な魔力の空気とはまるで違う、薄くて味気ない「現実の空気」が、逆に新鮮に感じる。
その現実には、すでに大勢の人間が待ち構えていた。
視界が慣れるにつれ、目の前にずらりと並ぶ自衛官の列がはっきりしてくる。迷彩服の列が壁のように広がり、その中心部、人垣を割るようにして一人の老人が前に出てきた。
「嬢ちゃん! 無事だったのか!」
相田さん。
声を聞いた瞬間、緊張の糸が少しだけ緩む。
「無事だけど元気ではないよ……」
自分でも分かるくらい、声に張りがなかった。
全身は動く。致命傷はもうない。けれど、どこか芯の部分がぐにゃりと軋んでいる感じが抜けない。
「生きていて本当に良かった。嬢ちゃんたちが入った後、ゲートの大きさが変わったと聞いたときは老いぼれの先短い儂の心臓が止まるかと思ったぞ」
ゲートの、大きさ。
その言葉に、遅れて脳が意味を結びつける。ゲートのサイズは難易度の目安――それは、私自身が相田さんに説明した内容だ。
相田さんの話では、私たちがダンジョンに入った後、ゲートはみるみる膨れ上がり、最終的には高さ十メートルほどの巨壁みたいなサイズになったらしい。
(そりゃあ、心臓にも悪いよね……)
私たちのことを気にしてくれているのもあるだろうし、それ以上に――「手に負えない何か」が生まれる可能性を恐れていたのだろう。
状況の説明や詳細の報告については後日で構わない、と相田さんは気を利かせてくれた。
その申し出に、私は遠慮なく甘えることにした。今はもう、とにかく「家」という安全圏に戻りたい。
相田さんが用意してくれた車に乗り込み、私は、そしてぐったりしている三人と一緒に家へと送ってもらった。
玄関の鍵を開けた瞬間、三人はほぼ同時に靴を脱ぎ捨て、競うように脱衣所へと駆け込んでいく。
キングサイズベッドですら狭く感じるメンバーが、一坪もない脱衣所に押し寄せているのだから、そりゃもうすし詰め状態だ。
小森ちゃんが「じゃんけんで決めませんか?」と言い出し、全員がそれに頷いた。
その結果――。
私は、見事に敗北を喫し、一番最後に入る権利を獲得してしまった。
「……まあ、最後なら後の人に気を遣わなくていいし、いいか」
誰に聞かせるでもない言い訳をひとつ吐いて、ソファにどさりと腰を下ろす。
ふと、頭の中に浮かんだのは、この数時間で起こったあれこれ――ではなく、もっと直接的な、現実的な問題だった。
「スキルの確認をしておく、か……?」
意識を内側に向けて、能力値を思い浮かべる。
淡い文字のパネルが、頭の中に浮かび上がった。
――レベル52。
渋谷のときのレベルが21だったことを思い返すと、笑ってしまうくらいの上がり方だ。
あの地獄の四日間と、あの二体――ゴブリンロードと魔族。考えるまでもない。
そして何より目を引いたのは、スキル欄だった。
そこに並んでいる文字は、たった三つ。
【全知】
【剣術】
【竜の威圧】
回帰前から積み上げてきたはずのスキルが、軒並み消えている。
喉の奥がひゅっと鳴る。
『回答します。先ほど獲得した【竜骨】と【竜体】は器に適用されており、常時発動状態です。【竜の心臓】も同様になります』
【全知】の声が、いつもの調子で補足を入れてくる。
(つまり「スキル欄に出てないけど、常にオンになってる」ってことか)
それぞれを意識でなぞると、詳細が自然と言葉の形になって浮かび上がってきた。
—
スキル名:【竜骨】
効果:古代竜の骨を基にしている。人骨と比べて強度の次元が違う。
スキル名:【竜体】
効果:古代竜の魔力に耐えるために体が細胞単位で変化した。高い防御力を誇り強靭に。超高出力の魔力にも耐えうる。
スキル名:【竜の心臓】
効果:古代竜の魔石を取り入れたことで本来あった魔石が変質した。人族の魔石とは違い限界が存在せず、際限なく魔力を取り込むことができる。
スキル名:【竜の威圧】
効果:全てのモンスターの頂点に君臨する竜の存在感を放出できる。下位のモンスターはあまりの恐怖に意識を手放す。影響を与える範囲は消費した魔力に比例する。
—
「……いや、ちょっと待って。強くない?」
思っていた以上の、という言葉では足りない。
桁が違う、という表現がしっくりくる効果の羅列だった。
【竜の威圧】については、一度肌で受けたことがある。
回帰前、まだ私が「剣聖」と呼ばれていた頃――古代竜に挑んだときだ。
あのとき、体の芯が凍り付くような恐怖に襲われ、膝が笑い、視界が震えた。
逃げ出したくて、でも逃げられなくて、興奮薬を使って無理やり恐怖を殺して、命を賭けて斬り結んだ。苦くて、そして、少しだけ誇らしい記憶。
その「竜の力」が、今は私の中に宿っている。
(……笑えないなぁ)
そういえば、と脳裏に別の疑問が浮かぶ。
「魔族との戦闘中、なかったはずの剣が手に握られてたのは……あれもスキルの一部?」
あの瞬間、たしかに右手から剣が消えた感覚があって、それから――いつの間にか、また手の中にあった。
『【竜骨】を構成するときに剣を持っている貴女が対象となりました。つまり、貴女が剣であり鞘です』
「私の足りない頭では理解に乏しいのだが……魔力を流せばいつでも剣を取り出せるという事か?」
『その認識で問題ありません。右手に魔力を流せば剣が生成され、消そうと思えば剣を構築していた魔力は魔石へ戻ります』
要するに、剣を「持ち歩かなくてよくなった」ということだ。
右手さえあれば、どこでもいつでも武器を呼び出せる。アイテム袋の枠も、そのぶん空く。
非常に便利。非常に、チートめいている。
けれど、今さらそこに突っ込みを入れる気力はなかった。
ふと気が付くと、脱衣所の方から「上がったよー」という声がして、風呂の順番が回ってきていた。
「……考え事は後でいっか」
頭の中を一旦まっさらにして、湯に浸かってのんびりすると決める。
熱い湯が、張り詰めていた筋肉のこわばりをゆっくり溶かしていく感覚に、思わず目を閉じた。
風呂から上がった後は、睡魔に逆らう気力もなく、簡単に身支度を整えてベッドへ。
シーツの感触を感じた瞬間、意識は暗闇に引きずり込まれていった。
◇
完全に「目が覚めた」と言える状態になったのは、二日後のことだった。
ずっと寝ていた、というわけではない。
起きては水を飲み、適当に何か口に入れ、また眠りに落ちる。
それを延々と繰り返していた結果、合計すると二日は惰眠を貪っていた計算になる。
他の三人も同様だった。
全員、限界まで削られていたのだと、改めて実感する。
さすがにそろそろ身体を動かさないと鈍りそうだと思い、私は一足先に布団から起き上がった。
身支度を整えて、音を立てないように注意しながら玄関へ向かう。
対策本部へと電話をかけ、迎えの車を出してもらうように依頼した。
しばらくすると、見慣れた黒服が運転する車がアパートの前に停まる。
促されるまま車に乗り込み、前回と同じ自衛隊の基地へ。
通されたのも、やはり前回と同じ部屋だった。
ドアを開けると、そこには相田さんと、情報部の林さんの姿があった。
「よう、嬢ちゃん。この前ぶりだな」
「おはよう、相田さんと林さん」
互いに軽く挨拶を交わし、指定された椅子に腰を下ろす。
相田さんが、早速だな、と前置きしてから本題を切り出した。
遺跡のダンジョンで何が起きていたのか。
対策本部の人間だけで攻略できたダンジョンの報告。
そして――覚醒の方法を一般人へ公開するための原案。
テーブルの上に置かれた書類には、難しい言葉でびっしり説明が書かれている。
内容があっているかどうか、それを私に確認してほしいというわけだ。
しばらく目を通して、要点をチェックする。
間違っていれば命に関わる情報だ。適当に流すわけにはいかない。
「……うん。大丈夫だと思う」
そう告げると、相田さんは大きく息を吐いた。
「ありがとう。嬢ちゃんは疲れてると思うから、後5日は儂ら本部でダンジョンはどうにかしよう」
「助かったよ。色々あって体の感覚が変わっちゃったから、調整が必要でさ……」
起きてからすぐに気づいたことだ。
力加減が、繊細な動きが、以前とまるで違う。
コップを掴もうとして、力を入れすぎて割りかけたことがすでに二回。
ドアを普通に開けたつもりが、勢い余って壁にぶつけてしまったことが一回。
笑い話で済んでいるうちはいいが、このままだと本当に誰かを傷つけかねない。
だからこそ、しばらくはダンジョンに潜らず、体の「慣らし」をしないといけない。
できれば、皆を連れて実家に帰り、ゆっくり療養したいと考えていた。
表面上の傷は【再生】でどうにでもなる。
けれど、あの遺跡でボロボロになるまで痛めつけられた心の傷は、そんな簡単には塞がらない。
私にも、沙耶にも、七海にも、小森ちゃんにも――少しだけ、「普通の時間」が必要だ。
それに、母さんも話し相手が増えれば喜ぶに違いない。
原案の詰めが終わり、必要な確認も全て済んだところで、私は再び黒服の車で家まで送ってもらった。
玄関を開けると、そこには全身筋肉痛で動きがぎこちない三人がソファに座っていた。
まるで油切れしたロボットのように、ぎしぎしとした動きでこちらへ向かってくる。
「おかえり」
「おかえりっす」
「おかえりなさい……」
「うん、ただいま」
短いやり取りの中に、妙な温度の高さを感じた。
ダンジョン以降、私たちはうまく言葉を交わせていなかった。
互いに気まずさと申し訳なさと、色んな感情が喉に詰まっていたからだ。
けれど今は――そのしこりが、少しずつ溶けていくのが分かる。
私が遺跡に突っ込んだ後に何があったのか。
三人がどんなふうに戦い、どこで限界を迎えたのか。
泣きながら、それでも諦めずに足掻いたこと。
彼女たちは、ぽつりぽつりと、時に笑いを交えながら話してくれた。
笑えるようになるまでには、きっと何度も頭の中で整理して、折り合いをつけたのだろう。
ソファの背もたれに体を預けていると、ベランダ側から「ジジジ……」と耳障りな鳴き声が聞こえてきた。
ふと目を向けると、網戸に一匹の蝉が張り付いて、懸命に鳴いている。
「うわ、夏だね……」
「マジっすか、現実世界の敵現るって感じっすね……」
「蝉さんは敵じゃないですよ……」
他愛もない会話に、自然と笑いが零れる。
その瞬間、ようやく自覚した。
あの遺跡ダンジョンでの長い長い四日間は、本当の意味で終わったのだと。
私たちはちゃんと生きて帰ってきて、今ここで、蝉の熱烈な求愛行動に苦笑いしているのだと。