その部屋は、外界を拒むように閉め切られている。
つまりは完全な密閉空間であり、太陽の陽射しさえも入り込めない。
だからこその暗闇だ。
火を灯せば外のように明るくなるのだろうが、老婆がその素振りすら見せない理由は、闇そのものを見つめているためか。
両脚を揃えて折り畳み、床板に座り込んだままピクリとも動かない。
背中は年齢のせいか丸まっており、立つことさえ困難に見える。
長い黒髪に混ざる、多数の白髪。
顔面の皮はたるんでおり、頬の肉もすっかり垂れてしまっている。
着衣は喪服のようだ。その色彩は、暗闇の中においても際立って黒い。
室内は真っ暗だが、同時に不気味なほどに静寂だ。日中ゆえに話し声や足音が届いたとしても不思議ではないのだが、ことここにおいては生地が擦れる音すら見当たらない。
だからこそ、か。
扉をノックする音が、異様なまでに木霊した。
「ティットスです。帰還しました」
声の主は、板一枚隔てた向こう側に立っている。
老婆はその声も名前も知っているため、地蔵のように静止したまま、ゆっくりと口を開く。
「入りなさい」
「失礼します」
扉が久方ぶりに開かれた結果、室内に光が入り込む。
それでもなお、ここは真っ暗だ。黒色が照らされることを拒んでおり、老婆の全身は依然として闇に溶け込んでいる。
しかし、訪問客は怯まない。入室と同時に頭を下げると、魔眼で暗闇を見つめながら報告を開始する。
「五十三番が全滅しました」
その事実とは裏腹に、彼女の口調は冷静だ。
部下の死を嘆いておらず、こうなることをわかっていたような口ぶりだ。
「そうかい。収穫は?」
「はい。ジレット監視哨の破壊と、警戒すべき人間を新たに二人、見つけました」
そこで一旦、ティットスは息を整えるように空気を吸い込む。
彼女もまた、葬儀に参列するような身なりだ。
しかし、両腕には古びたガントレットを装着しており、武装を解く前にここを訪れた。
その髪は赤く、前も後ろも長さは異なるが横一列に切り揃えられている。
その瞳は当然のように魔眼だ。瞳の虹彩部分には赤色の線で円が描かれており、外見的特徴はそれだけながらも、彼女のそれは特別な力を宿している。
一呼吸は報告を中断するためでもなければ、疲労が原因でもない。
言葉に詰まらないための予備動作ゆえ、ティットスの口は動き始める。
「一人目はおそらく傭兵。緑髪の若い男で、年齢は十代半ばくらい。これがあの子らに打ち勝ちました。実力は本物で、既に壁を越えているか、少なくとも越えかけているものと思われます」
「おまえさんとどちらが強い?」
「私です。多少、拮抗するかもしれませんが……」
「ふむ、その程度か。もう一人は?」
彼女がここで挙げた人物はエウィンだ。童顔ゆえに実年齢より若く見えてしまうも、実際には十八歳が正しい。
「二人目は二十代前半の女で、名前はアゲハ。こいつもおそらくは傭兵……。ですが、その、なんと言えばいいのか……」
このタイミングで言い淀む。
その理由は、ティットスがアゲハについて何もわからないからだ。
それでもなお、本能が警告を発した。
この女には、眼前の老婆とは方向性が異なる闇が潜んでいる、と。
「おぬしが言葉に詰まるとは、珍しいのう」
「申し訳ありません。実力や戦闘系統については何もわからず、ち、近づくことすら恐ろしいと言いますか、その姿を見ただけで背筋が凍ってしまいました……」
「そうかいそうかい。それで、魔眼を使って逃げてきた、と」
「あ、いえ、確かにパレードで足止めを試みたのですが、その、なぜかこの二人には通用しなくて……」
ティットスは冷や汗を浮かべながら俯く。
部下を殺されたことを恥じているわけではない。
ましてや、悲しいという感情すら微塵も抱いていない。
あまりに不可思議なことを経験したがために、思い出すだけで体が震えてしまう。
対照的に、黒色の老婆は静かに笑いだす。
「カカカ。それは災難じゃったのう。まさかおぬしの魔眼が破られるとは、わえにも予想がつかなんだ」
「状況的に、どうやらこの二人も無自覚にやってのけたようで、だからこそ、深追いはせずに撤退しました」
「それでええ。あやつらは単なる捨て駒。むしろ役立った方じゃろう。カカカ、やっと死ねたと喜んでおるかもしれん」
闇に浸りながら、老婆がしわしわな顔を歪ませる。
死者を冒涜するように笑みを浮かべる理由は、死んだ五人の本心を代弁したためか。
「あの子達は、散々いじめられていましたからね」
「生き地獄とはこのことよ。立ったまま腹を裂かれ、こぼれた内臓を自分で拾わせる。そんなことを繰り返しておれば、心が壊れて当然じゃ」
五十三番を構成する魔女達は、ティットスを除いた五人が全身古傷まみれだった。
顔も。
胸も。
腹部も。
両手両足も。
隅々に多種多様な傷が刻まれていたのだが、それらは魔物狩りの産物ではなく、この地の強者が弱者をいたぶった結果だ。
この老婆はそれを容認しており、だからこそ彼女らの死が救いであると言ってのけた。
「黒婆様、私はこれからどうすれば?」
「そうじゃのう。肝心の回遊魚は出ずっぱり。ふむ、おぬしは渡り鳥と合流し、しばらく鍛錬に励め」
「え? しかし、ジレット監視哨を落とした今が好機では?」
「カカカカカ。なにもわかっておらんのう」
闇を拡散させるように、老婆が嘲笑う。
ティットスの言う通り、五十三番の働きによってイダンリネア王国は重要な拠点を一つ失った。
次の襲撃に備えることすら出来ない以上、攻め込む側が追撃の手を緩める理由などない。
そのはずなのだが、しわしわな頬を歪ませながら、その口が真実を語り始める。
「現戦力で攻め込んだ場合、敗れるのはわえらじゃ。王国軍は、それほどの戦力を隠し持っておる。上には上がおる。その意味、おぬしなら十分わかるはずじゃ」
「は、はい、その通りです……」
「おぬしは確かに強い。五十三番など、足元にも及ばんじゃろう。だとしてもじゃ、おぬしは弱い。比較する相手が変われば、所詮はその程度でしかない」
矛盾する言い回しだが、説教じみたこの発言がティットスの顔を曇らせる。
つまりは、言い当てられた。
この事実を否定出来ない以上、彼女は顔を伏せるしかない。
「わかり、ました……」
「今回の件で、王国はこれまで以上に警戒を強める。カカカ、いずれはここを突き止め、攻め込んでくるやもしれぬ。回遊魚がしばらくは戻らぬ今、ここを守るのはおぬしらの仕事じゃ。それに、のう……」
老婆の思案は一瞬だ。細めた瞳をわずかに開くと、闇を凝視し直す。
「魔眼が効かぬ二人、その調査が必要じゃ。誰を向かわすかはこれから考えるとして、平行して南の経路についても開拓せねばならぬ。さらに、さらにじゃ……」
「巨人族、ですか?」
「そうじゃ。近年の動きは明らかに奇怪。だからこそ、回遊魚を調査に向かわせた。さりとて、わえらはわえらで動かねばならぬ」
「はい。奴ら、王国へ攻め込む素振りを見せたと思ったら、波が引いたように撤収。その潔さ、普通ではありません。もしや、ゴブリンとの連携を強化した?」
「その可能性は大いにあり得るのう。じゃが、決めつけてはならん。先ずは調査じゃ。そして、障害と成りえるのなら排除かのう。おぬしらの世代で……おそらくは戦力が整う。今の内に準備を進め、そのための基盤を盤石のものとする」
闇の中で、真っ黒な魔女が笑みを浮かべる。
顔だけでなく手の甲もしわが深く、腕に関しては木枝のように細い。
そうであろうと、この老婆は頂点だ。ティットスでさえ、歯向かうことが出来ない。
「では、私は次の命令まで研鑽に努めます」
「カカカ、励め励め。そうすれば、王国の人間を好きなだけ殺せるぞ」
「はい。失礼します」
このやり取りを最後に、室内が静寂を取り戻す。
客人が立ち去ったのだから、ここには家主しか残らない。
髪は床板に届くほど長く、白髪交じりの黒髪は闇よりも深い漆黒だ。
そう見える理由は、抱く野心がそれほどに黒いためか。
(あやつら程度でも、簡単に落とせたのう。たかがゴミ、されどゴミと言ったところか。確かに、少しばかりは浮かれたくもなるわい。それでも、じゃ。王国には四英雄がおる。あれらには回遊魚をぶつけるしかあるまいて。あるいは、双子か……。どちらにせよ、今は時期尚早。王国の目を欺くことは出来たじゃろうし、次は様子見を兼ねて渡り鳥を……。王国なぞ、もののついで……。本命までは、若い連中に死んでもらうとするかのう)
静かな室内で。
闇の中で。
老婆が静かに笑う。待ちわびた機会が訪れようとしているのだから、こみ上げる感情を抑えることなど出来るはずもない。
ここはコンティティ大陸のどこか。イダンリネア王国からは随分と離れており、彼らの息など届かない。
五十三番が全員殺された。
監視役のティットスだけが静観した。
そんなことはどうでもよい。
イダンリネア王国の壊滅は、足掛かりでしかないのだから。
底なしの野心が、瘴気のように室内を満たす。
◆
静まり返った、無機質な地下空間。
照明の類が見当たらないにも関わらず、ぼんやりと薄紫色に色づいている。
肌寒い理由は、太陽の陽射しが届かないためだ。
何らかの方法で空気は循環しているのだろうが、温室に関しては配慮が足りていない。
もしくは、その必要がないためか。
ここはかつての戦場だ。
天井や床は薄紫色の物質で構成されているのだが、あちこちが砕かれ、切断され、焼け焦げている。
その中心で、巨大な炎が心臓のように脈打っている。
燃料も無しに燃え続ける理由は不明だ。
そうであろうと、ただひたすらに揺らめいている。
煮えたぎる大地の地下深くで。
誰にも悟られない地中の奥底で。
それはこの広間を照らすように燃え続けている。
「タだ今、戻りましタ」
女の声だ。
そして、光源が二つに増えた瞬間だ。
巨大な業火と、胴体代わりの火球。どちらも轟々と燃えているのだが、その大きさは大樹と新芽のように大小だ。
「早かったな」
「ハい、ヘカトンケイレスのギュゲスが王国軍に倒されましタ。数の暴力に為す術もなク」
現れたそれが、大きな炎に語りかける。
見上げながら。
真面目な表情を作りながら。
その顔は人間の女性そのものだ。
しかし、これは魔物で間違いない。
頭髪を模倣するように頭からは炎が生えており、胴体部分も人魂のような火球だ。
一方で顔だけでなく両手両足も人間と大差ない。玉のような肌からは色気さえ漂うことから、胴体が炎でなければ男達を魅了しただろう。
魔物の名前はオーディエン。
エウィンに巨人族とヘカトンケイレスをけしかけるも、結果は当然のように期待通りだった。
むしろ、それ以上か。
大事な手駒が葬られてもなお、この魔物は悶絶するほどの多幸感に酔いしれている。
「そうか」
「ニンゲンを侮っておりましタ、申し訳ありませン」
「ふん。どうせおまえが連れて来た連中だ。われに黙って、な」
「ソの件につきましてモ、重ね重ねお詫ヲ……」
あのオーディエンでさえ、ここでは首を垂れる。
そして、萎縮させられる。
これらはそのような主従関係ゆえ、この光景こそがここでは当たり前だ。
「結界についての進捗は?」
「依然として不明でス。デすガ、手がかりとなりえるニンゲンを、ツいに見つけましタ」
「本当か?」
「ハい。千年前のあの戦いヲ、知る者でス」
オーディエンはかしこまりながら。
それは他者を見下しながら。
炎に照らされた深淵の内で、淡々と言葉を交わし続ける。
「どういうことだ?」
「書に記シ、代々引き継いでいるようでス」
「ならば奪えばよかろう?」
「ソれガ、ワタシだけでは力及ばズ……。ソこデ、少しお時間を頂いてもよろしいでしょうカ?」
「好きにしろ。われが何を言っても、おまえは自由にやるのだろう?」
見透かすようなこの発言が、オーディエンをわずかにたじろかせる。
こうなってしまっては、言い訳か謝罪のどちらかだ。
魔物は焦るように口を開く。
「ワタシはアルジの忠実な部下でス。あの時の御恩、決して忘れてはおりませン」
「おまえの方から現れておいて……。ニンゲンの殲滅は二の次で構わん。この結界さえなければ、われ一人で事足りる」
「承知しておりまス。ソの時ハ、ソう遠くないと考えておりまス」
「ふん、よしなに」
このやり取りを最後に、魔物が闇に溶け込み姿をくらます。
その結果、巨大な地下空間が静寂取り戻すも、それは依然として燃えたままだ。
フロアの中心に浮かぶ、巨大な炎。
その内側で、何かが不可視の十字架に拘束され、無残にも磔にされている。
右腕も。
左腕も。
両足さえも動かせない。
例外は長い黒髪と真っ白なワンピースだけ。それらは赤色の揺らぎに撫でられながら、ゆらゆらと踊っている。
太陽の移ろいが観測出来ないここでは、時間の流れはひどく曖昧だ。窓すらなく、風すら吹き込まないのだから、あれからどれほどの月日が過ぎ去ったのか、何もかもがわからない。
にも関わらず、それは自分を見失わない。
どれほどの年月であろうと無関係だ。
体の自由は利かずとも、思考の海に飛び込めばいくらでも時間は潰せてしまう。
毎日がそれの繰り返しだ。長い眠りにつくこともあったが、今は意識を保ち続ける。代わり映えのしない状況に、不真面目な部下が変化をもたらしてくれる。
赤い炎に包まれながら。
見えない楔に拘束されたまま。
女は静かに思いを馳せる。
人間達よ、この世界から滅びなさい。
願望でもなければ妄想でもない。なにより、実現し得る手段は己自身だ。
人間を憎み、天を恨み、そして……。
思い出せない。
あまりに長い時間が、大事なことを忘れさせてしまった。
それでもやるべきことは明白だ。
自由を取り戻し、地上に巣食う人間達を駆逐する。
手足は動かない。見えない十字架に縛られている。絶対支配は文字通り絶対だ。
今はまだ待つしかない。
後、少しだけ。
時が満ちれば、すり潰すように殺す。殺し尽くしてみせる。
暗闇の中で。
沈黙の中で。
彼女はひっそりと待ち続ける。
この世の終わりを。
人間の滅びを。
大事なことは忘れてしまったが、破壊衝動と殺意だけは今なお色濃く残留している。
人間達よ、この世界から消え去りなさい。
愛に抱かれながら、消滅なさい。
◆
石畳の道は風化しかかっており、周囲の壁や建物もその多くが朽ちかけている。
城下町の一画であろうと、ここは廃屋だらけだ。放置され、見捨てられたのだから、再開発などありえない。
その片隅で、死体のように少年が横たわっている。
力尽きたのではない。
空腹が原因で倒れたわけでもない。
仕事を終えた自分への褒美として、地面に背中を付けて寝そべっている。
(くりくりの目がかわいい。鼻もピンクでかわいい)
少年の名前はエウィン。
髪の色は新緑のようだが、長袖のカーディガンもその色に近い。
そして、今は腹の上に猫を乗せている。
黒色と灰色が入り乱れるキジトラ柄の野良猫だ。
小柄なサイズ感とあどけない顔立ちから、おそらくはメスなのだろう。
ゴロゴロと喉を鳴らしながら、人間の腹の上で丸まっている。
(まだ晩御飯食べないけど、もうこのままでいい。いっそこのまま死んでもいい)
眩しい西日は夜が訪れる前触れだ。
つまりはまだ明るい時間帯なのだが、エウィンはこの後の予定を全て諦めてしまう。動けないのだから、やむを得ない。
空を見上げながら、心地の良い重みに幸せを感じる。
わずかな獣臭さも不快ではない。
野良猫を包み込むように撫でながら、少年は綿菓子のような雲を眺める。
(あの戦いから、ぼちぼち二週間くらい? ここまで忙しいなんて、夢にも思わなかったな。エルディアさんが言ってた通り、こうも呼び出されるなんて……。いよいよお金もなくなりそうだし、狩りに行きた……、ん?)
思案の最中、それは起こる。
撫でられることを拒んだのか。
もしくは、もっと撫でて欲しいのか。
野良猫が腹の上で起き上がると、次の動作としてエウィンの顎に鼻先をトントンと接触させた。
その結果、少年の体が震え始める。発作ゆえに抗うことなど不可能だ。
当然ながら、この奇行がキジトラ猫を逃がしてしまうも、エウィンは満面の笑顔でバタバタと震え続ける。
(ピャー! 死んじゃうー。幸せ過ぎて死んじゃうー。はぁはぁ、恐ろしい、巨人族よりよっぽど恐ろしい……)
ふと我に返るも、先ほどの猫は見当たらない。
エウィンはゆっくりと立ち上がるも、砂埃を払っていた時だった。
「エウィン、さん?」
「はう⁉」
見知った声だ。
本来は怯む必要などないのだが、不審者は頬を赤らめながら声の方角へ、つまりは背後へ振り返る。
「あ、どうも、アゲハさん。お久しぶりです」
「う、うん、昨日ぶり、だね。なんか、打ち上げられたお魚みたいに、痙攣してたけど、どうしたの?」
「に、似てたでしょう? 釣られた魚の物まねです。とぅ! どうですか⁉ 似てますか⁉」
事実を隠蔽するため、寝そべると同時に全身を激しく上下させる。もはや奇行以外のなにものでもないのだが、言い出した手前、打ち上げられた魚のように跳ねるしかない。
「ふふ、活きが良い、お魚さんだね。似てると、思うよ」
「さすがアゲハさん、見る目がありますね。この物まねは引き換えに人間としての自尊心的なものを手放すことになってしまいますが、まぁ、良しとしましょう。ところで、こんなところにどうして?」
愚問だろう。
アゲハが貧困街を訪れる理由など、エウィン以外ありえない。
それでも、尋ねられてしまった以上、彼女ははぐらかすように回答する。
「あ、その、猫ちゃん、いないかな、って。それと、エウィンさんが帰ってたら、晩御飯、どうかな、って……」
「探せばすぐに見つかると思いますよ。晩御飯も、少ししたらギルド会館にでも行きますか」
「う、うん」
「走り回ったわけでもないのに、もうクタクタのペコペコです。アゲハさんは今日、何してたんですか?」
今日は完全に別行動だ。
エウィンは王国軍に呼び出され、関係者とジレット監視哨襲撃の件で話し合った。これは連日のように続いており、一方でアゲハには声がかからない。
マークがこの地球人については伏せたためであり、エウィンだけが軍区画へ足しげく通っている。
「あ、わたしは、宿屋で地理の本、読んでた……」
つまりは宿屋の自室に引きこもっていた。この世界に転生する前は外出しないことが当たり前だったため、こういった過ごし方は全く苦にならない。
もっとも、彼女にとってもこの少年にとっても、読書は有意義だ。
「あぁ、新・地理学六版ですね。勉強にもなりますし、地図代わりにもなって、良い買い物でしたよね」
「うん、おかげで、だいぶ暗記出来た」
「お、さすが。どこか行ってみたいところとか見つかりました?」
二人は肩を並べて歩き出す。
先ずはエウィンが住み着いている、廃棄されたボロ小屋へ。
夕食を食べるにはまだ早い時間帯なため、ひとまずはそこで時間を潰す算段だ。
「あ、えっと、ミファレト荒野、かな」
「ミファレト……、ってどこでしたっけ?」
「ケイロー渓谷の、その先。けっこう、遠い……」
イダンリネア王国の遥か南西に位置する寂れた土地だ。傭兵でさえ寄り付かない枯れた大地なのだが、アゲハはあるものに関心を持つ。
「掲示板にも全然貼られない場所だと思いますけど、見どころとかあしましたっけ?」
「大地の裂け目、ミファレト亀裂が、クレバスみたいで、すごそうかな、って……」
「あー、読んだことあるような……。せっかくですし、落ち着いたら観光がてら見に行きましょう。その前に、いくらかお金を稼がないとですけど……」
残念ながら金欠寸前だ。
二人分の食費。
アゲハの宿代。
これらは避けようがない出費ゆえ、所持金はぐんぐんと減ってしまう。
「さっき、掲示板見てきた。依頼、いっぱいだったよ」
「へ~。あぁ、ジレット大森林の封鎖が解かれたからかな?」
「うん。それと、ジレット監視哨の再建にも、取り掛かるみたい」
そのためには人手が必要だ。
建物の材料。
それらの運搬。
加工と組み立て。
何より、その場所の防衛。
さらには、大工の往来に伴う護衛や食糧の調達も欠かせない。
王国軍だけでも可能だろうが、傭兵の助力を得れば工期のさらなる圧縮が見込まれる。
「なるほど。だとしたら、仕事もよりどりみどりって感じなのかな。お、猫発見。白黒でかわいい」
「ハチワレちゃん、だね。こっち見てる。おいでー、おいでー」
二人は歩く。
ゆっくりと、同じ歩幅で足を動かす。
彼らの間柄は一言では言い表せない。
十八歳と二十三歳の男女。
しかし、友人でもなければ恋人でもない。
それぞれの事情で帰る場所を失ったが、その理由は似て非なる。
故郷を追い出された者。
異世界に転生した者。
接点などない二人だが、今は廃墟と化したこの場所で、仲睦ましく野良猫を撫でている。
少年の名前はエウィン・ナービス。両親を魔物に殺された、若き傭兵。
女性の名前は坂口あげは。神に見出された、地球生まれの日本人。
これは、全てを突破する物語。
立ちはだかる魔物も。
悪事を企てる魔女も。
ついには己自身も越えていく。
そのための力は、彼女からもたらされた。
殻を打ち破る、奇跡の涙。
それが、成長を阻害していた壁を取り払ってくれた。
だからこそ今は、どこへだって歩いて行ける。
金を稼ぐため。
好奇心を満たすため。
そして、アゲハを地球へ帰すため。
その果てに、彼らは知ることとなる。
彼女が転生した理由を。
彼女が死んだ理由を。
彼女に与えられた能力の意味を。
真実が何であれ、今はがむしゃらに進むしかない。
世界の名前はウルフィエナ。
いつの日か、二人は全てを越えてたどり着く。
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