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それから毎日、あたしは家に帰るとすぐに小説の続きを書いた。
書いている物語は、学園ものだ。
主人公は、中学生。舞台は架空の私立学園。
あたしはまだ小学生だけど、中学生になったらこんなふうになりたい、こんなことをしたいと想像しながら書いている。
部活、生徒会、文化祭、恋愛……考えるだけでわくわくする。
主人公の友だちを登場させるときは、あたしの学校のクラスメイトをモデルにする。
クラスには、元気な子、おとなしい子、勉強のできる子、スポーツの得意な子など、いろんな子がいるから。
最近は学校でも、今度はどんな子を登場させようかなぁ、なんて考えて、教室のなかを見まわしてしまう。
この間は授業中、先生をじーっと観察していたら、目が合って当てられてしまった。今度からは気をつけなくちゃ。
登場人物が決まると、その子たちはあたしの頭のなかで、勝手に会話をはじめる。笑ったり、怒ったり、泣いてしまったり……表情もくるくる変わる。
あたしも一緒になって、よろこんだり、かなしんだりしながら、それを文字にしてスマホに打ち込む。
会話だけでなく、風景描写もがんばって書く。
毎日通っている学校の教室や特別教室、廊下や校庭……いろんな場所を思い出しながら、文章にする。
難しいけれど、自分だけの世界が作れて、とっても楽しい。
学校の勉強はすぐ飽きちゃうのに、不思議なことに小説なら、何時間でも妄想していられたし、書いていられた。
物語を作っているときだけは、あたしもほんとうの自分でいられる気がした。
毎晩寝る前、その日書いたお話を、澤口が教えてくれた投稿サイトに投稿する。
最初のころは、投稿ボタンを押すのに、ものすごくドキドキした。だってこれを押したら、あたしの書いた小説が、一瞬で世界中に広がってしまうんだもの。
毎日目をつぶって、心のなかで「えいっ」と気合を入れて投稿していた。
サイトには、いつもたくさんの小説が掲載されている。恋愛、ファンタジー、ミステリーやホラー……小説を書いているひとがこんなにいたなんて、知らなかった。あたしのまわりには、そんなひと、ひとりもいなかったから。
更新するとトップページにある「新着コーナー」にのせてもらえる。でもすぐに、他のひとの作品が次々掲載されてくるから、あたしの作品は、あっという間に流れてしまう。
そうなるともう、広い広い海のなかに放り込まれて、たったひとりで漂っているようなものだ。このサイトで、偶然あたしの作品を見つけてくれるひとがいたら、それは奇跡じゃないかって思う。
だけどあたしの小説の読者が、たったひとりだけいる。その読者はあたしが更新をするたびに、ちゃんと読んでくれて、ひと言感想をくれる。
『とても読みやすくて、きれいな文章ですね。続きも読みます』
『なかなかおもしろいと思います。次回も楽しみにしています』
『意外な展開で驚きました。次も期待しています』
『最後のセリフがよかったです。続きが早く読みたいです』
『主人公の気持ちに共感しました。こういう話は好きです』
感想の投稿者は『ヒロ』。澤口比呂のユーザー名だ。
澤口のページにはいくつもの小説がブックマークされていて、そのなかにあたしの小説も入っている。
澤口は紙の本以外に、ウェブ小説もたくさん読んでいるみたいだった。異世界に転生しちゃうようなファンタジーものや、謎解きミステリーにこわーいホラー、それから泣ける青春恋愛ものなどなど。
「澤口も書けばいいのになぁ……」
小説は書かないって言っていたけど、こんなにたくさん読んでいるひとなら、なんだかすごい作品が書けそうな気がするから。
それからも毎日、たったひと言でも澤口から感想をもらえるのがうれしくて、どんどん続きを書いて投稿した。
頭のなかに次々とすてきなシーンが浮かんできて、それをつなぎ合わせて、物語にするのが楽しかった。
「麗。ご飯のときは、スマホやめなさいって言ってるでしょう?」
物語は二十四時間、いつでもあたしの頭に浮かんでくる。ご飯を食べているときも、お風呂に入っているときも、勉強しているときも。眠っている間、夢に出てくることもある。
頭のなかに浮かんだシーンは、すぐ文字にしたくなる。だから家にいる間、あたしはずっとスマホを持っていた。
「聞いてるの? 麗」
「ごめんなさい」
お母さんに謝って、いそいでご飯をかき込む。
早く続きを書かなきゃ、忘れちゃう。
「ごちそうさま!」
そして席を立つとスマホを手にとり、自分の部屋に走った。
「もう。麗ったら。スマホばっかり見てないで、ちゃんと勉強しなさいよ!」
「はーい!」
文句を言っているお母さんは、あたしが小説を書いていることを知らない。知ったらなんて言うだろう。
「そんなくだらないことやってないで、ちゃんと勉強しなさい」
そう言われたら、いやだなぁ。
「どんな小説書いてるの? お母さんにも見せてよ」
そう言われても、やっぱりいやだ。
だからお母さんやお父さんに、小説を書いていることは言っていない。
あたしは自分の部屋にこもって、さっき考えたお話の続きをスマホに打ち込む。
このころにはもう、投稿ボタンを押すのはこわくなくなっていた。
あたしの作品を読んでくれるひとが、ひとりでもいる。
そのひとが小説の続きを、待ってくれている。
そう思うと早く投稿したくて、毎日この時間が一番楽しかった。
「うららん? 聞いてる? あたしの話」
休み時間に声をかけられ、はっとした。
しまった。お話の続きを考えていて、瑞穂の話を聞いてなかった。
「あ、ごめん。なあに?」
あわてて聞くと、瑞穂があたしの前で、ぱちんっと両手を合わせた。
「算数の宿題忘れちゃったんだ。お願い! 見せてくれない?」
ああ、またか。瑞穂は宿題を忘れると、すぐあたしに頼んでくる。
「……うん! いいよ」
あたしがそれを断れないって、瑞穂は知っているから。
あたしは机のなかから、算数のノートを取り出そうとして、手を止めた。
「あっ」
そういえば、たしかこのノートには……
「どうしたの? うららん」
瑞穂が首をかしげて、あたしの顔をのぞきこんでくる。
「うん、あの、えっと……」
まずい。このノートは瑞穂に見せられない。あたしは出しかけたノートを、机の奥に押し込んだ。
「ごめん。あたしも宿題忘れちゃった」
「えー、しょうがないなぁ、うららんは」
あきれたような声を出す瑞穂の前で、あたしは苦笑いをする。
「あっ、菜摘ー、算数の宿題見せてー!」
瑞穂がくるっと背中を向けて、菜摘たちのほうへ行ってしまった。あたしはほっと息をつき、誰にも見られないよう、そっとノートを開く。
ほんとうはちゃんと、宿題はやってあった。だけどページの端っこに、あたしの考えたお話が書いてある。
最近は学校にいるときも、ぼんやり小説のことを考えてしまう。だけど学校にスマホは持ってこられない。だからいいシーンが思い浮かんだときは、こっそりノートの隅にメモしていたんだ。
あぶなかった。瑞穂に見られたら、なにを言われるかわからない。ぜったい笑いものにされるに決まっている。
あたしが小説を書いていることを、まだ学校の友だちにも話していない。もちろん話すつもりもない。これは決して、知られるわけにはいかないのだ。
あたしの秘密を知っているのは……
ノートを閉じて、ちらっと窓際の席を見る。澤口は今日もひとりで机の上に本を広げて読んでいる。
あたしの秘密を知っているのは……この世界でたったひとり。澤口だけなのだ。
その日、小説を更新しようと投稿サイトを開いたとき、教室での澤口の姿を思い出した。
今日も澤口は本を読んでいた。なんの本を読んでいたんだろう。そう思ったら、澤口が読んでいるウェブ小説も気になった。
澤口のページを開き、ブックマークを見る。あいかわらずたくさんの小説が登録されてある。
「澤口って、ほんとにいろんなジャンルを読んでるんだなぁ……」
試しに一作のぞいてみた。あらすじを見てみると、どうやら感動するお話らしい。一話読んでみたら、すごくドキドキして、ぐんぐん引き込まれた。
「えっ、他のひとって、こんなにおもしろいお話書いてるんだ」
あたしはいままで、ウェブ小説をほとんど読んだことがなかった。でもこのお話は、本屋さんで売っている本と変わらないくらいおもしろい。
ページをめくる手……いや、画面をスクロールする手が止まらなくて、一気にラストまで読んでしまった。
「……すごい」
読むだけで心がキラキラとときめいて、物語の風景が頭のなかに浮かぶ。まるで自分自身が体験した記憶みたい。
小説って、すごい。
物語って、すごい。
「もっともっと読みたい!」
言葉では、簡単に言い表せないようなこの気持ちを、もっともっと感じてみたかった。
あたしは澤口がブックマークしている他の小説も、次々と読んでみた。
やっぱりどれもおもしろい。
途中でお母さんに「ご飯よ」と呼ばれたけれど、「いま勉強してるからあとで」と嘘をつき、夢中で続きを読んだ。
ネットの世界にはたくさんの物語があふれていた。お母さんに買ってもらえないジャンルのお話も読むことができる。しかも無料なんて、サイコーだ。
こんなにすてきな世界があったことを、あたしはいままで知らなかった。教えてくれたのは、澤口だ。
退屈だった毎日が、澤口のおかげで二倍も三倍も楽しくなった。教室で瑞穂に、いやなことを言われても、すぐ忘れてしまうほどに。
「澤口に、感謝しなくちゃだなぁ……」
あたしはその日から、書くだけじゃなく、いろんなネット小説を読むようになった。
そんな日々が、一か月くらい続いたある日。澤口以外の誰かが、あたしの小説をブックマークしてくれた。
「嘘……マジで?」
あたしは信じられなくて、その画面を何度も何度も繰り返し見た。
ブックマークのところに、堂々と輝く「2」という数字。
うれしい。うれしい。うれしすぎてスクリーンショットまでしてしまった。
澤口が読んでくれるのもうれしいけど、まったく知らない誰かがあたしの小説を見つけて、それを読んでくれるなんて奇跡だ。
こんなすごいことが起きるなんて。
だってこのサイトには、ものすごくたくさんの小説が投稿されているし、ネットのなかには、もっともっとたくさんの小説が投稿されているのだから。
あたしはそれを澤口に直接伝えたくてうずうずしていた。
朝、登校するとすぐに、澤口の席を見た。あたしよりも早く登校してくる澤口は、ランドセルから出した教科書やノートを一冊ずつ確認しながら、丁寧に机のなかへ入れていた。
あたしはその姿を見て、そわそわした。
どうしよう。声をかけてみようか。
小説を投稿するようになってから、澤口はいつもあたしの小説を読んで、感想をくれるけど、学校ではあいかわらず話したことがない。
頭のなかで想像する。ブックマークが増えたことをあたしが報告して、澤口も一緒によろこんでくれるシーン。
澤口はあたしの「好きなこと」を知っている。だからきっとあたしの気持ちをわかってくれて、一緒によろこんでくれるはず。
そしてなにより、あたしは誰かと、この気持ちを共有したかったのだ。
だけどそのとき、以前聞いた声が頭に浮かんだ。
『澤口って、キモくない?』
瑞穂が言ったひと言。あたしは出しかけた一歩を、すっと引っ込める。
教室のなかに、明るい笑い声が響いた。瑞穂が女の子たちと一緒に、教室に入ってくる。
「あ、うららん、おはよー」
あたしは澤口のほうを向いていた体を、ゆっくりと瑞穂へ向ける。そして無理やり作った笑顔を貼りつけて、いつものように言うのだ。
「おはよう。瑞穂」
結局その日、教室で澤口に声をかけられなかった。
あたしはやっぱり、瑞穂やみんなの視線がこわかったのだ。
だからあたしは家に帰ってから、サイトを通して、こっそり澤口にメッセージを送った。
『明日の放課後、図書館のあの場所に来て』
どうしてもこのことは、直接あたしの口で伝えたかったから。そして目の前で、一緒によろこんでもらいたかったから。
送ったあと、胸がすごくドキドキした。
「うららん。今日、茉莉花んちに遊びに行くんだけど、うららんも来るよね?」
翌日の放課後、瑞穂に言われた。まるであたしが行くのが当たり前のように。
「ほらぁ、茉莉花んちで飼いはじめたワンちゃん、見に行きたいって言ってたじゃん?」
それは「瑞穂が」でしょ? あたしはそんなこと、言った覚えはない。
ちょっと迷ったけれど、今日はどうしても図書館に行きたかったから、思い切って瑞穂に伝える。
「ごめん。今日は用事があって無理なんだ」
ちらっと窓際の席を見る。澤口はいつものように、黙って本を読んでいる。
瑞穂がわかりやすく顔をしかめた。瑞穂は自分の思いどおりにならないと、途端に不機嫌になる。低学年のころからそうだった。
「最近うららん、ノリ悪いよねー。いっつもいそいで帰ろうとするし」
「えっ……」
それは小説を書いて投稿するため、なんだけど……言えるわけがない。
特に瑞穂になんか話したら、クラス中に言いふらされて、笑いものにされてしまう。
だけどちょっと、ヤバかったかな。瑞穂を怒らせると大変なことになる。あたしは以前、仲間はずれにされたことや、瑞穂に目をつけられて、学校に来なくなってしまった子を思い出す。
次はぜったい瑞穂の言うとおりにしなくちゃ。
あたしは瑞穂の前で困った顔を作り、両手を合わせる。
「ほんとにごめんね。この前の算数のテストが悪かったからさ。家で勉強しないとお母さんがうるさくて」
お母さんのせいにして、もう一度「ごめん」と、謝るふりをする。瑞穂はしばらくむすっとしていたけれど、ふうんと鼻を鳴らしてあたしに言った。
「じゃあ次はぜったい遊ぼうね」
「うん。次はぜったい」
瑞穂たちと別れて、いそいで家に帰った。澤口はまだ教室にいた。
澤口に送ったメッセージ、見てくれたよね?
ちゃんと図書館来てくれるよね?
胸をドキドキさせながらスマホを持ち、あたしはひとりで待ち合わせの図書館に向かった。
市立図書館に着くと、すでに澤口が児童コーナーにいた。
今日も赤いソファーに腰かけ、ちょっと背中を丸めて、本のページをめくっている。
読んでいるのは子ども向けの本だった。あたしも小さいころ、図書館で借りて読んだことがある本だ。懐かしい。
あたしは気に入った本があると、同じ本を何度も何度も借りていた。
お母さんには「たまには違う本にしたら?」と言われたけれど、やっぱり同じ本を何度も何度も借りて、お母さんにあきれられた。
澤口も小さいころ、あの本を読んでいたのかな。同じ本を読んでいたのかもと思ったら、胸の奥がなんだかちょっとあったかくなった。
「澤口」
本に夢中になっている澤口に近づいて、名前を呼ぶと、澤口はのっそりと顔を上げた。
「ねぇ、澤口、聞いて聞いて! あたしの書いた小説にね、澤口以外のひとが、ブクマつけてくれたの!」
駆け寄ってスクリーンショットした画面を見せると、澤口がわかりやすく眉をひそめて、「しー」っと口元に指を立てる。あたしはあわてて口を結んだ。
「あんたもしかしてそれを言うために、おれを呼び出したわけ?」
苦笑いをして、澤口のとなりに座る。
児童コーナーには、今日も子どもがたくさんいて、本を探してうろうろしていたり、自由な体勢でぱらぱら絵本をめくったりしていた。
やっぱりここは、この図書館のなかで、一番ほっとできる場所だ。だからといって、大声でおしゃべりはよくないとわかっているけど。
「だって、こんなこと、誰にも話せないし」
「だったらおれに、メッセ送ればいいだろ」
「直接話したかったんだもん! 澤口に!」
言ってからずいぶん声が大きかったことに気がついて、あたしはまた口元を押さえた。
なんだかひとりで興奮しているみたいで、恥ずかしい。
澤口があたしから視線をそむけた。そして本を静かにめくりながらつぶやく。
「知ってたよ」
「え?」
あたしは澤口の横顔を見る。
「知ってたよ、そんなの。毎日あんたの話、読んでるんだし」
「あ、そ、そうか」
そう言いながら、もっと恥ずかしくなる。
あたしはスマホをしまい、姿勢を正した。静かな館内に、お母さんが絵本を読み聞かせしている声や、小さな子どものくすくす笑う声が聞こえる。
「ほんとは……」
その声にまぎれて、澤口の言葉が聞こえた。
「ちょっとバカにしてた」
「え?」
「小学生が書く小説なんて、たいしたことないだろうって」
澤口が本に目を向けたまま続ける。
「でも読んでみたら意外におもしろくて……いや、意外というか……普通におもしろくて…昨日の更新分はマジで感動した」
「ほ、ほんとに?」
「うん。いまは家に帰って、あんたの小説読むのが楽しみなんだ」
その言葉が胸に染み込む。
あんなにたくさん小説を読んでいる澤口が、毎日あたしの小説を読んでくれて、しかも楽しみにしてくれるなんて……
「続き、期待してる」
ぎゅうっと胸が痛くなった。恥ずかしくて、うれしくて、なんだか泣きたくなった。こんな気持ち、生まれてはじめてだ。
「誰かがブックマークしたってことは、おれと同じように思ってるヤツが、他にもいるってこと。自信持っていいと思う」
「うん……」
スマホを抱きしめて、澤口に向かって言う。
「ありがと……うれしい」
ほんとうに、うれしい。
これからも書こう。澤口のために。あたしの話を読んでくれた誰かのために。そしてあたしのために。
自信を持って書こう。
すると澤口は持っていたリュックのなかから、一冊の本を取り出した。前に学校で読んでいたライトノベルだ。
「これ」
あたしはとなりに座る澤口を見る。
「読む?」
本を差し出す澤口と目が合う。
「え、いいの?」
「貸してやるよ」
そっと手を伸ばし、澤口から本を受け取る。
「うん。じゃあ借りるね」
澤口はすぐにあたしから顔をそむけた。
児童コーナーには大きな窓がある。そこからやわらかな西日が差し込み、あたりが淡い金色に染まる。あたしはキラキラ輝く澤口の横顔をちらっと見る。
きれいだなって思った。
やわらかい色に包まれた館内も。澤口の横顔も。澤口の心も。きっといまのあたしの心も。
「で、他に用事は?」
澤口が、本に視線を落としてそう言った。あたしはあわてて答える。
「えっ……いや、ないけど」
「……そう」
本を見たまま、澤口がつぶやく。あたしは少しそわそわしながら、澤口にたずねる。
「えっと……澤口は? まだ帰らないの?」
「おれはもう少しいる」
澤口の、いつもと変わらない落ち着いた声が響く。あたしは澤口に借りた本を胸に抱きしめ、こう言った。
「じゃああたしも……もう少しだけいる」
澤口はちらっとあたしを見たけど、黙ったまますぐに目をそらした。「帰れ」とも「いてくれ」とも言わなかった。でもそういうところが、澤口らしいな、なんて気がして、なんだか心地よかった。
あたしはそんな澤口に伝える。
「澤口。いつも感想くれて、ありがとね。本もありがと」
澤口はやっぱりなにも答えない。
あたしは本をバッグにしまって立ち上がると、本棚をながめ、昔好きだった本を取り出した。そして澤口のとなりに座って表紙を開く。
小さいころ、ここでずっと本を読んでいた。あのころは好きなものを好きって言えたし、好きなものがひとと違っても、恥ずかしいなんて思わなかった。
だけどいつから、あたしは変わってしまったのだろう。
自分の好きなものを、素直に好きって、言えなくなってしまったのだろう。
どうしてこの気持ちを、隠すようになってしまったのだろう。
隠す必要なんてないって、ほんとうはわかっているのに。
ぱらりとページをめくる。となりの澤口も同じようにめくる。ふたりのページをめくる音が、静かに重なる。
できればもっと澤口と、小説や本の話をしたかった。
いろんなジャンルを読んでるんだね? どんなお話が一番好きなの? 好きな作家さんはいるの? 小さいころ読んでいた本は?
でも――いまはいいや。
なんとなくこうやっているだけで、ほっとした気持ちになれるから。
あたしたちは夕方のチャイムが鳴るまで、並んで本を読んでいた。
だけどあたしと澤口がしゃべったのは、その日が最後になってしまったのだ。
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