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「おい眞魚(まお)!」と、身体を揺らされたので目を開けると、橘逸勢がワシの顔を覗き込んでいる。
橘逸勢は八つも歳下だが、四年前に亡くなった父親の官位が右中弁・従四位下だったのでヤツの身分も高い。
しかし、ワシの叔父である阿刀大足を師と仰いでいるから、ワシから見れば弟弟子に当たる。
だから、公の場でなければ、お互いの身分など気にせずに付き合おうと決めていたのだ。
「何だ、俺たちは助かったのか?」
ワシの言葉に、溜息を吐いた逸勢が首を左右に振った。
「嵐は過ぎ去ったが、この船は、帆柱が二本とも折れてしまって、今は、流れに任せて漂流しているのだ。
その上、ほとんどの積荷が流されてしまって、食糧も底をつきかけている。
とても助かったとは言えぬ状況だ…」
ワシは、橘逸勢が吐き出した弱音を無視して、ゆっくりと身体を起こすと抗議の声を上げた。
「逸勢、俺の諱(いみな)を気安く呼ぶな。
俺は、もう佐伯眞魚(さえきのまお)という名ではない。俺は、空海という人間に生まれ変わったのだ」
ワシの言葉に逸勢は苦笑いを浮かべた。
「相変わらずだな。
こっちは、お前が死んだのではないかと心配しておったというのに、呼び名などどうでも良いではないか」
ワシは、逸勢の文句を無視して、「水をくれ」と右手を差し出した。
逸勢は、持っていた竹筒を差し出してくる。
水を飲みながら辺りを見渡すと、船底に詰め込まれていた人数が随分と減った気がした。
「他の者はどうしたのだ?」
逸勢も周囲に目をやってから口を開く。
「漕ぎ手などの水夫(かこ)が何人か海に流されてしまった上に、残りの者は船の修理に駆り出されておる。
ここで寝ているのは、お主のように体調の優れぬ者だけだ」
ワシが起き上がりながら、「では、俺も船の修理を手伝うとするか」と言うと、ワシの僧衣を掴んだ逸勢が、「もう少し休んでおれ、修理はあらかた終わっておるのだ」と諭すので、中腰から、再び床板に腰を落ち着けた。
そこで、気になっていることを訊ねてみる。
「今回の遣唐使団は四隻が同時に出航している。
ならば、他の船もあの野分に遭遇したはずだ。
他の船は、どうなったのであろうか?」
この問い掛けに肩を竦めた逸勢が、当然だと言わんばかりに「分からん」と吐き捨てた。
「確か、二番船には最澄とかいう官僧が乗っておったな?
俺は、奴に頼みたいことが有るのだ」
不思議そうに首を捻った逸勢が「何を頼みたいというのだ?」と、一旦は訊ねておきながら、ワシの返事も聞かぬ内に、「しかし、お主と最澄では同じ坊主といっても身分が違う。お主は一介の学問僧だが、向こうは弟子を何人も引き連れて官費で入唐する官僧だぞ。お主の頼み事など聞き入れてくれるものか」と断言する。
「逸勢、お主は何も分かっておらぬな。
聞き入れてもらおうなどとは思っておらぬ。
聞き入れるように仕向けるのだ」
諦めたように首を振る逸勢が、「で、何を頼みたいというのだ?」と再び訊ねてきたので、「一緒に連れて帰ってもらうのだ」と打ち明ける。
二人の沈黙を埋めるように、船体に打ちつける波の音だけが、一定の間隔で聞こえてきた。
「な、何を馬鹿なことを申しておるのだ。
お主、気は確かか?
お主に課せられた修行期間は二十年だぞ。
それに比べて、天子様の命で入唐する最澄は、形ばかりの修行で奥義が授けられると約束されておる。
だからこそ、一年足らずで帰国出来るのだ。
その最澄と一緒に帰れば、お主は修行を放棄したとみなされて、間違いなく死罪となる」
ワシは、逸勢の肩を叩きながら笑った。
「心配するな。そんなことにはならぬ。
俺はもうすぐ三十だ。
馬鹿正直に二十年も唐で修行をしてみろ、生きて国に帰ることなど絶対に叶わぬ。
俺はな、いつか中央で活躍することを夢見て遣唐使に加わったのだ。
それなのに国に帰れないとなれば、そこで、夢が潰えてしまうではないか」
逸勢は、諦めたように再び首を振りながら、「やれやれ、何を考えておるのやら…」と溜息を吐き出した。
「我らが長安に入る頃、最澄も無事に長安に辿り着いておれば良いのだが…」
ワシが、こう呟くと逸勢が「お主は知らぬのか?」と訊ねてきたので、「何がだ?」と素早く聞き返すと、詳しい事情を説明してくれる。
「最澄は長安には行かぬ。
確か、明州の港から入唐して、そのまま隣の台州に有る天台山 国清寺(てんだいさん こくせいじ)で修行に入ると聞いておる」
ワシは不思議に思って訊ねてみる。
「遣唐使なのに長安に行かぬのか?」
すると、逸勢は声を落としてこう言ったのだ。
「これは噂だが、最澄の修行は建前で、本当は天子様の密命を帯びているらしい」
ワシも、前のめりになりながら再び小声で訊ねてみた。
「密命とは穏やかでないな。
天子様から何を命じられたというのだ?」
逸勢は、もったいぶるように辺りを見渡してから、声を潜めて打ち明けてくれた。
「不老不死の法を持ち帰れという密命らしい」
また、船体に打ち付ける波の音が一定の間隔で聞こえてくる。
呆気に取られて、しばらく何も言えなかったが、逸勢の突拍子もない言葉に思わず笑い出してしまった。
「おい逸勢。気でも狂ったか?
この世に、不老不死の法など存在しておらぬ。
そんな有るはずもない法を求めて、最澄は命懸けで唐に渡るのか?
それが誠であれば、最澄はうつけだぞ」
ワシが笑っているのに、逸勢は真剣な目で見返してくる。
その真剣な眼差しに気圧されて、真顔に戻したワシが、「確かな証拠でも有るというのか?」と確認すると、橘逸勢が重々しく頷いたのだ。
「今より十年ほど昔、最澄は比叡山に籠って法華経の研究に没頭していたのだが、その折に偶然、鑑真(がんじん)が唐より持ち込んだ経典を書き写す機会に恵まれた。
そこに、不老不死の秘密が隠されていたらしい」
「鑑真とは、五十年も前に唐から渡ってきたという伝灯大法師様のことか?」
ワシの言葉に逸勢が再び頷いた。
「最澄は、十年も前に発見した不老不死の秘密を、どうして今頃になって探し始めるのだ?」
この言葉に大きく頷いた逸勢が「当時は、詩文に記されていた言葉の意味が理解出来なかったらしい」と打ち明ける。
「詩文だと?経典の中に詩文が記されていたというのか?」
この問い掛けに、逸勢は首を振りながら「いや、経典の最後に一枚の紙が挟み込まれておって、そこに詩文が記されていたというのだ」
そう前置きしてから、「最澄は、何故そこに経典とは全く関係のない詩文が挟み込まれていたのか、ずっと気になっておったそうだ。だが、最近になってその謎が解けたらしい」と続けた。
そこで、ふと我に返ったワシは、今までの会話で、急速に膨らみ始めた疑念を逸勢に投げ掛けてみる。
「お主、やけに詳しいではないか。
その情報をどこで手に入れたのだ?」
この問い掛けに、少し躊躇いを見せていた逸勢だったが、ここまで喋っておいて、今更、隠し立てしてもしょうがないと諦めたのか、訥々と事情を語り始める。
「今回の遣唐使に、最澄の通詞として参加しておる義真(ぎしん)という坊主から聞いたのだ」
その言葉に、ワシが話を誤魔化すなとばかりに笑い飛ばす。
「おかしいではないか。その義真とかいう坊主は最澄の弟子なのであろう?
弟子の義真が、どうして師匠である最澄の秘密を、お前ごときに打ち明けるのだ?」
こう言って追求すると、逸勢は困ったように頭を掻きながら、「話が、多少ややこしいのだ…」と言い淀んだが、ワシは「構わぬ。どうせ漂流しているのだ。時はいくらでも有る」と追い討ちを掛ける。
「義真と最澄は恋仲であったが、最近になって、最澄に別の想い人が出来たらしいのだ…」
この言葉にワシは目を丸くした。
「逸勢、お主は一体何の話をしておるのだ?
坊主とはいえ、両方とも男ではないか」
すると、ワシの言葉を遮った逸勢が、「仏教界ではよくある事なのだ」と訳知り顔で言い切った。
「その話が、最澄の秘密とどう関係しておるのだ?」
「だから、話が多少ややこしいと言ったではないか。
黙って聞いておれ。
義真と私は歳が近い。義真は、最澄の愚痴が言いたいし、私は、最澄の密命を聞き出したいということで、寝物語に義真から色々と聞き出したという訳だ」
悪びれることもなく、自らの背徳を告白する逸勢に唖然としていると、「公家の世界でもよくある事なのだ」と開き直った。
ワシは、何だか全てが馬鹿らしくなってきて、「不老不死の法など俺には関係のないことだ」と逸勢の話を一方的に遮る。
しかし、これで最澄に連れて帰ってもらうという計画は、最初から見直さなければならなくなった。
まあ、最澄が求める不老不死の法は眉唾物だが、白紙になった帰国計画を練り直すのに、何かの役立つかもしれない。
覚えておいて損はないだろう。
さあ、船の修理でも手伝うとするか。
コメント
5件

よくある事なのだ…って!!! めちゃ笑った(笑)😆😆😆
第5話読了!空海の強かさと計算高さが前面に出てきて面白かったな。最澄の密命とか不老不死の話も気になるし、逸勢とのやり取りも生き生きしてて歴史小説の良さを感じた。漂流中の閉塞感の中で情報が動いていく感じが上手い。続き楽しみにしてる🔥
琴猫

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るぃ@BL好き 🎀♡
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