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傍に居たこと。ただ、あの御方の傍に居られたこと。
たとえ証など無くとも、それだけで満足だと思っていた。
ああ、なんて幸福な日々だったのだろう、と。
『どうか、俺と生涯を共にする契約を交わして欲しい』
_____私は、この幸福が続く術を知っている。
『ごめんなさい、本当にごめんなさい! ボク、殿下を引き止められなかった……!』
『どのような罰でも受ける所存ゆえ、どうかお心ゆくままに』
『我らが愛しの騎士団長様。君は、僕と共にこの罪を背負う覚悟はあるかい?』
近付いて、触れて、身を委ねる。
ただ、それだけでいい。
『……どうか、この気持ちだけは、お許し下さい』
ガッシャーンッ!!
夜の静寂を破る大きな音が爆発したかのように響き渡る。
身に覚えのないその音に、小首を傾げる。たしか私は、喉の渇きを覚えて水を飲みに来たはずだ。
木棚から透明な硝子のグラスを取って、水道の蛇口を捻ったところまでは覚えている。だが、右手に持っていたはずのそれは、見るも無惨な姿となって床に散らばっていた。
それに、心なしか少し足元が冷たいような気もする。もしや、立ったまま眠ってしまったりしたのだろうか。
「お師匠様!?」
「……ティア」
何をするでもなくただ立ち竦んで微睡んでいると、突然開かれた扉から聞き慣れた声が聞こえてきた。その声に込められていたのは、僅かな驚きと焦り。
「お怪我はございませんか!? 足に破片が刺さったりは……!」
慌てた声を上げるティアを見て、ようやく現実に戻ってきた頭が現状を理解する。どうやら、うっかりグラスを割ってしまっていたらしい。
「怪我はない。すまない、少し寝惚けていて……割ってしまったみたいだな」
「本当ですか? それなら、良かった……」
深く安堵のため息を吐いたティアの肩が大袈裟に上下し、腰まで伸びた彼女の勿忘草色の髪が視界の先で揺れる。
「ああ、そんなに飛び散っては無さそうですね。お師匠様、踏むと危ないからもう少しそのまま待ってて下さい」
そう言って、ティアは手際良くガラスの欠片を集めていく。粗方回収し終えると、濡れた床と私の足を拭き、数分前の惨状をあっという間に跡形もなく消え去った。
「これでよし。もう時間も遅いですし、お掃除は明日にしましょう。まだ危ないかもしれないから、気を付けて下さいね」
「ああ、ありがとう。また迷惑をかけてしまって、悪いな」
「このくらい気にしないで下さい! お怪我が無くて、本当に良かったです」
ティアの声が穏やかな波を保ったまま、部屋の四隅に溶け出していく。
彼女が私へと向ける眼差しは、いつだって柔らかなものだ。
それはとても優しくて、確かな温もりを持っている。安堵のあまり、胸が締め付けられて苦しくなってしまうほどに。
「お師匠様、今夜は一緒に眠りませんか? 私の部屋から見える星空がとても綺麗なんです」
辺りがふわりと明るくなるような、眩しいほどの笑みを浮かべた彼女がこちらに差し伸べた手は、あの日と正反対だった。
『どうか、わたしを殺してくださいませんか?』
いつかは終わりが来る、無期限の奉仕。
本来感受してはいけない彼女の慈悲と温情に、私は甘えた。
同じ家に住んでいる以上、景色なんてどの部屋から見てもさして変わらないというのに、無邪気に笑う彼女を手放したくなくて、逃げ道を探すようにその手へ縋った。
「そうか。それは、良く眠れるかもしれないな」
今日もまた、心の片隅に奇妙な喪失感を患っていた。