その後、江崎さんが果てる前に俺たちは店を後にしました。
アパートに着くまで一言も発することはなく、彼女は呆けたように、ただ俺の跡を着いてきました。
正直、何て言葉をかけていいのかわからないまま、家についてもシャワーを浴びて布団に潜る彼女をただ見守っていました。
「ねえ」
彼女がやっと口を開きました。
「電気消してよ」
言われるがままに電気を消し、ベッドに入ると、彼女はすぐに俺に跨がり求めてきました。
何度も何度も渇きを沈めようとする吸血鬼のように彼女は俺を貪りました。
俺は心ない狂った人形をただ呆然と受け止めていました。
人はおかしくなるとこんな風になるのかと薄ら寒くなりながら、ただ夜が明けるのを待っていました。
何度しぼりだされたかわかりませんが、気がつくと朝になっていました。
いつもなら昼過ぎまで寝ている汐梨さんの姿は消えていました。
夜、いつもどおりに店に行きましたが、彼女の姿はありませんでした。
「汐梨さんはお休みですか」
何気なく江崎さんに聞いてみると、
「実家のほうに行っているんだ」
とカウンターチェアをアルコールで消毒しながら答えました。
「夜には来るんじゃないかな」
その言葉通り、夜もふける頃彼女は数本のワインを持ってにこにこと店に入って来ました。
「あれー、咲楽先生いないのお?」
「昨日もいらしたから、今日はどうかな」
江崎が苦笑しました。
「なーんだ、宝畠のワイン、お土産に買ってきたのにー」
常連客が汐梨さんを囲んだ頃、
カラン。
咲楽さんが入ってきました。その姿を見て、一番驚いていたのは江崎さんでした。
「今日は仕事の打合せが近くであったので、寄ってみたんだ」
いつものカウンター席に座ると上着を脱ぎました。
それを受け取ると、俺は内心ハラハラしながら、三人を見守りました。
「ねえ、咲楽先生、宝畠のワイン、飲んだことあります?私、今日実家に寄ってきたの」
カウンターを挟んで向かい合った汐梨さんが若干のりだして咲楽先生を覗き込みました。
「そうなんですか。遠い昔に両親が飲んでいたような気がします」
「ね。一緒に飲んでみましょうよ。“まほろばの郷”。結構高かったんだから。白も飲めるでしょう?」
グラスを、咲楽さんと自分用に二つ準備すると、器用に開けてトクトクと注ぎはじめました。
それを見ていた咲楽さんが目を細めながら言いました。
「良い音ですね」
「そうでしょ。そこらへんの高いだけのワインとは違うんだから」
「まるで、毒でも入っているようだ」
言いながら咲楽先生が、グラスを通して汐莉さんを見つめました。
「毒を盛られるようなこと、したの?」
汐莉さんも目の高さまで掲げたグラスの中から言いました。
「乾杯しましょ。私もいただくわ」
小気味いい音で、グラスを合わせると、少し離れた場所で他の客と話していた江崎さんが一瞬、こちらを見ました。
二人はワインをゆっくり飲み干し、見つめ合いました。
「ねえ、先生。明日は忙しい?」
「明日?まあ、夜は用事がありますが」
「デート?」
「ええ、昔の友人と」
「まあいいけど。日中私に少し時間くれない?お話があるの」
そう言うと、汐莉さんはおもむろに身をのりだし、咲楽さんに何か耳打ちしました。
彼は顔色一つ変えませんでしたが、
「わかりました。じゃあ2時に」
と言うと、席を立ちました。
「今日は帰りますね」
「あら、残念。まほろばの郷、とっておくから、また一緒に飲みましょう」
「ええ、ぜひ」
言い残して、彼は去っていきました。
汐莉さんはいつもはしない彼のグラスの片付けをしていて、俺は本当に毒でも入っていたんじゃないかと、彼女の感情のよみとれない横顔に話しかけました。
「明日の2時どこで何をするんですか」
汐莉さんはたった今俺の存在に気がついたようにハッとこちらをみると、安心したように笑い、唇に人指し指を当てました。
「秘密の場所で、内緒の話よ」
どうやら留まり木には関係ないようです。
俺はこうなったらとことん傍観者であることに徹しようと思いました。
やけ酒が祟ったのか、次の日はひどい二日酔いで、起きては吐き、起きては吐きを繰り返しているうちに、日は傾きかけ、支度をする時間になりました。
江崎さんはその日、市街の会合の予定で、オープンは俺が任されていました。
慌ててシャワーを浴び、歯磨きをしているところで、チャイムがなりました。
ピーン、ポーン。
ピンとポンのあいだに間がありました。この押し方は一人しか知りません。
どんな表情をした彼女が立っているんだろう。俺は昨日の夜から目をそらしてきた現実を、強制的に見せられる恐怖に震えました。
咲楽さんを脅して、江崎さんを返してもらいに行ったのか、それとものし紙つけてくれてやると啖呵切ってきたのか、はたまた今度こそ本気で誘惑してきたのか。
でもどれだとしても、どうして俺の家にくるんだろう。
意を決してドアを開けると、予想だにしなかった姿で、彼女は立っていました。
十一月にしては異例の大雪警報が出ていました。
そのせいか客は一人も来ませんでした。
降り出した雪がぼた雪に変わった頃、彼は現れました。
俺は顔を見るなり、雪のついたコートの胸ぐらをつかみ、拳を頬に打ち込みました。
「よく来れたな、ホモ野郎!」
怒りは収まらず、二発、三発と彼の体に打ち込みました。
よろけた両肩を掴み、壁に思い切り打ち付けると、頭を打ったのか低く喘ぎ、そのまま座り込んでしまいました。
「おい。その足の間にぶら下がってるものをちょん切って、マジでオカマにしてやろうか?あんたは掘られる専門だろ!女に突っ込んでんじゃねーよ!」
泣きながら現れた汐莉さんの姿を思い出しました。
キレイに結っていたのだろう三つ編はほつれ、白いレースのついたワイシャツのボタンは幾つもとれていて、震えた肩には噛み痕があり、はだけた胸には鬱血が何ヵ所もありました。
抵抗して殴られたという頬も、少し腫れているように見えました。
「そんなにセックスが好きなら、今俺が、あんたが汐莉さんにしたことをそのまま、ここでやってやんぞ!」
「……ああ、そういうことか」
咲楽さんはふっと笑うとバカにしたように瞬きを繰り返しました
「僕相手に勃つなら、相手になってもいいよ」
「なんだと!」
完全に頭に血が上っていました。
「ただで済むと思うなよ。もう警察に相談も済ませた。いつ逮捕されてもおかしくないんだからな」
咲楽さんが高らかに笑いました。
「それはおすすめしないな。恥をかくのは、君が大好きな汐梨さんだよ」
「なん、だと?」
肩を掴んだ手から力が抜けました。
「ーーーまさか、あんた、何もしてないのか?」
「さあね。君に話して何か得があるかい」
俺は呆然と座り込みました。
なんて愚かなんだ。あの女は。
ホテルに連れて行かれてレイプされたと泣く汐梨さんの話に逆上し、すぐさま警察に引きずっていきました。
体液や精液など体に残っているうちに検査を受けるべきだと、警察でも彼女を説き伏せようとしましたが、彼女はただ泣くばかりで応じようとしないばかりか、被害届も結局出しませんでした。
「一応、相談記録は残しておきますから、いつでもご協力できますからね」
少し困った顔で言っていた女性警察官の顔が忘れられません。
「ホテルに行ったのも嘘か?」
「行ったよ。誰にも聞かれたくない話だからと連れ込まれたんだ」
「それで汐梨さんの誘いに乗ってーーー」
「まさか。僕は女性相手に興奮しないんだ」
咲楽さんは鼻で笑いました。
「特に、頭の悪い女にはね」
一度消えかけた怒りの炎が沸々と湧き出しました。
「じゃあ、ホテルではどんな話を?」
咲楽さんは心底馬鹿らしいというように、手を広げました。
「江崎さんを返してやるって言ったんだよ。もともと、僕は特定の相手に依存するタイプではない。面倒くさくなった頃が潮時ってことだと思ってさ」
そんな火遊びのために、汐梨さんは、こんなに傷ついたのか。芸術家の暇つぶしに利用されたのか。
「ならどうして今日ここに来た。汐梨さんのことをチクるつもりか」
「まさか。僕と彼との間に、彼女が影響したことなど一度もない。彼女の名前を出すつもりは一切ない。他に男ができたとでも言うよ」
「嘘つけ。あんたは、汐里さんがいるから、江崎さんと堂々と付き合えないんだろう。
そして彼女が亭主の真ん前で他の男を誘惑するような女だから、遠慮をやめたんだろう。
あんたらの関係には常に汐梨さんがいたんだ。
そして、今回も汐梨さんが原因で別れるんだ。
結局は二人の関係にあんたは勝てなかったんだ。
認めろよ」
「……ああ。そうかもしれないな。だがそれは」
咲楽さんが、俺を嘲笑いました。
「君も同じだろ」
気がついたら、目の前の小綺麗だった男は見る影もなく、服も体も髪型も乱れまるで浮浪者のようになっていました。
それを自分がしたのだと自覚するのに数秒かかりました。
愕然としながら店を見回しました。
テーブルがとんでもない角度になり、椅子は二つ、壊れていました。
所々に咲楽さんのものと思われる血痕がついていました。
回らない頭で悩みました。どうしよう。店を汚してしまった。
「いいよ」
小さな声を発した息から血の匂いがしました。
「殺したければ殺せばいい。ただ、ここでは辞めろ」
ココデハヤメロ?
どうやら目の前の男も、この店が汚れるのを心底嫌がっているようでした。
江崎さんがどんなにこの店を大事にしていたか知っているのです。
「あんた、なんで江崎さんを奪うって選択肢がないんだよ」
俺は、机と倒れた椅子の間に挟まることでなんとか上体を起こしている咲楽さんに言いました。
「あんなに誰かに夢中になったあの人を俺は知らない。汐里さんじゃだめなんだ。わかるだろ。なんで身を引く必要がある」
咲楽先生は弱く笑いました。
「それこそ、君だって同じじゃないか。結局僕らは、自ら盗蜜者であることを望んでいるのさ」
「なんだ、これは」
振り向くと、江崎さんが立っていました。
彼はまず店を見回し、そのあと俺を見て、最後に肩で息をしている咲楽さんを見ました。
「咲楽先生!」
駆け寄る江崎さん。
俺はその光景を見て、ああ、終わった。この人はもう汐梨さんのもとに返ってくることはないと思いました。
「大丈夫ですか!おい、どういうことだ!お前がやったのか?説明しろ、横山!」
満足かよ、咲楽さん。
俺は江崎さんの胸の中にいる男を睨みました。
結局はこれであんたの欲しいものは手に入ったな。
「馴れ馴れしいな」
しかし、咲楽さんは、その手を振り払うと、ふらふらと立ち上がり、壁にもたれかかりました。
「あなたも勘が悪い人だ。見てわかりませんか。恋人に、浮気がばれて叱られているんですよ」
何を言っているんだ。この男は。
意味がわかりませんでした。誰の浮気が誰にバレたって?
「俺は、あなたと横山君の二股かけていたんだ」
「な、まさか」
江崎さんがよろめきました。
「冗談でしょう。先生がそんなこと・・・」
「勝手な理想を押し付けられても迷惑だ」
咲楽先生は、目を閉じため息をついた。
汐莉さんの虚言に乗っかれば、警察が動き、嘘がばれる。
そもそも汐莉さんの作り話の綻びを見つけられない江崎ではない。
だからといって他の浮気相手の話をでっち上げても、相手がいない以上、説得力に欠ける。
どちらの場合でも江崎は、咲楽の嘘を見破ったあとに、彼を二度と離しはしないでしょう。
自分の気持ちを犠牲にして、江崎と、江崎の店を守ろうとしている咲楽さんを。
当人同士が認めている浮気。これが江崎を確実にして唯一、納得させられる唯一無二の手段でした。
「江崎さん。俺の雌豚が失礼しました。もう二度と店にいれませんので、勘弁してください」
俺は頭を下げました。
「そういうことさ」
咲楽が鼻で笑い、痛めたのか、腹を押さえながら立ちあがりました。
「店を汚して悪かったね。もう来ないから安心してくれ」
「俺って言いましたか」
江崎さんが呟くように遮りました。
「先生、今、俺って言いましたか」
咲楽先生も俺も、江崎さんを振り返りました。
何が言いたいのか、問うのが怖くて、ただ次の言葉を待ってしまいました。
どれくらいそうしていたでしょう。
江崎さんが忘れていた呼吸を慌ててしたように、深呼吸を二度、ゆっくりすると、口を開きました。
「お願いがあります。咲楽先生。“また来る”と言って、出ていってください」
咲楽さんが江崎さんを一瞥したあと、壁づたいに歩き始めました。
そしてドアノブに手をかけ、江崎さんを振り返りました。
「じゃあね、江崎さん。また来るよ」
カランカラン。
あとには、置いてある水槽のモーター音が聞こえるほどの静寂が残りました。
どのくらいそうしていたでしょう。江崎さんが小さく呟きました。
「あの人、絶対自分のこと、“俺”って言わないんだ」
それは俺に言っているようで、自分自身に言い聞かせていたんだと思います。
「ーーーとんだ、茶番だ」
江崎さんの目から、大粒の涙がこぼれ落ちました。
時間の問題だと思いました。
江崎さんは、咲楽さんの芝居を見抜いてる。
そしてそれは店を守ろうとしているからだと言うところまでもきっと勘づいている。
その上汐莉さんが咲楽さんに詰め寄ったのを江崎さんが知ったら、しかも彼にレイプされたと嘘までついているとわかったら、二度と彼女のもとには戻らないでしょう。
さらに、咲楽先生は雲隠れできる人じゃない。
展示会もあるし、ガラスプロムナードもある。
会おうと思えばいつでも会える。
いつ江崎さんの気持ちが爆発して、会いに行ってもおかしくない。
ダメだ。あの人が生きてては。
一生汐莉さんは幸せになれない。
俺は決心しました。彼に消えてもらうしかないと。
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