テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
――その恋は、静かな夜にだけ、少し熱を帯びた
昼間の彼は、あくまで「大人」だった。
無駄に触れない。
必要以上に近づかない。
笑うときも、どこか距離を残す。
「ごめんem彡、ちょっとこれ任せていいか‥?」
「全然大丈夫ですよ。いつもお疲れ様です。」
それが、安心だった。
壊れない関係の形をしていたから。
けれど夜だけは違った。
街の光が少しだけ柔らかくなる時間。
人の声が遠くなる時間。
そのときだけ、彼は少しだけ近くなった。
「…帰りたくないって顔してるで」
そう言ったのは、何気ない冗談のはずだった。
でも、見透かされたみたいで言葉が出なかった。
「そんな顔、してました、?」
「してる」
短く笑って、彼はコーヒーのカップをテーブルに置いた。
その音だけが、やけに大きく響いた。
沈黙が落ちる。
けれどその沈黙は、嫌いじゃなかった。
むしろ、少しだけ心地よかった。
言葉にしなくてもいい時間。
説明しなくてもいい距離。
大人になると、
そういう時間が少しずつ減っていく。
だからこそ、余計に危うい。
「…少し歩こ―か」
彼の声は、夜の温度に似ていた。
外に出ると、空気は少し冷たかった。
それなのに、隣にいるだけで体の内側だけが温かくなる。
歩幅が、いつの間にか揃う。
どちらから近づいたわけでもないのに、 気づけば肩が触れそうな距離にいた。
触れそうで、触れない距離。
それが一番、甘い。
「こういうの、よくないと思う?」
不意に彼が言った。
「何がですか?」
「ちゃんと線、引いてない感じ」
その言葉に、少しだけ笑ってしまった。
「大人、なのに?」
「大人だから、かもな笑」
夜風が、髪を少し乱す。
彼はそれを見て、何も言わずに視線を逸らした。
その仕草が、妙に優しかった。
手を伸ばせば届く距離なのに、 伸ばしたら壊れてしまいそうな距離。
――その曖昧さが、一番危ない。
「…じゃあ、やめますか?」
自分でも驚くくらい、静かな声だった。
彼はすぐには答えなかった。
ただ、少しだけ長く息を吐いた。
「…やめたくないって言ったら?」
その一言で、世界の温度が変わった気がした。
何かが崩れる音はしなかった。
ただ、境界線が少しだけ溶けた。
気づいたときには、 彼の指先が、ほんの一瞬だけ私の手に触れていた。
それだけだった。
それだけなのに、 そこから先の記憶は、少し曖昧になる。
言葉は減っていった。
代わりに、沈黙が増えた。
沈黙は、時々いちばん雄弁になる。
何も言わないのに、 何も否定しないのに、 そこに「許されているもの」が確かにあった。
夜が深くなるほど、 距離は曖昧になっていく。
触れるか触れないかの境界が、 意味を失っていく。
彼の呼吸が少し近くに感じられる。 それだけで十分だった。
それ以上は、いらないはずだったのに。
「……帰さないほうがいい?」
冗談みたいな声だった。
でも、その冗談の中にだけ、 本音の輪郭があった。
私は答えなかった。
答えたら、終わってしまいそうだったから。
その代わりに、 ほんの少しだけ目を閉じた。
それが合図みたいになったのかどうかは分からない。
ただ次の瞬間、夜の距離が、少しだけなくなった。
言葉はそこで途切れる。
残るのは、熱と、呼吸と、 どこか遠くで鳴っている街の音だけ。
そして翌朝。
何事もなかったように差し込む光の中で、 貴方はいつも通り少しだけ笑っていた。
「おはよう」
その一言だけが、 昨夜のすべてを、静かに包み隠していた。
大人の恋は、 終わらないかわりに、言葉に残らない。
けれど時々、 砂糖みたいな甘さだけが、 記憶のどこかに、そっと残る。
触れなかったはずの場所ほど、 なぜか一番長く、熱を持ったままで。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!