着物姿の店主が
硝子張りの席へと静かに歩み寄った。
その姿は⋯実に品があった。
藍色の着物が滑らかに揺れ
長く束ねられた黒褐色の髪が
歩く度に肩の辺りで柔らかく揺れる。
背筋は凛と伸び
彼が手にした銀のトレイの上で
漆黒色のコーヒーが揺れる事は無かった。
テーブルに着くと
店主は姿勢を崩さぬまま
コーヒーカップを女性の前にそっと置いた。
女性は
一切の動作に反応する事無く
伏せたままだった双眸を
僅かに開いた。
深紅の瞳が
静かにカップを見つめる。
白磁のような白い指が
カップの取っ手に優雅に添えられ
口元へゆっくりと運ばれた。
その動作に
何の迷いも無かった。
まるで
それが決められた舞の一部であるかのように
機械的で
無駄のない所作だった。
⋯⋯なのに、美しかった。
唇がカップの縁に触れ
漆黒色の液体がゆっくりと傾く。
ごくり、と
わずかに喉が動いた。
それだけだった。
それだけなのに
彼女は絵画の中の女神のように
儚く
けれど確かに其処に在る。
(……ほんと、綺麗な人……)
レイチェルは
無意識にそう思った。
だが⋯⋯
(……殺してやる)
脳裏に響いたその言葉に
レイチェルの思考は止まった。
「……え?」
自分の心が
紡いだ言葉とは思えなかった。
けれど
確かに自分の中から
湧き上がった声だった。
混乱に顔を強張らせたレイチェルは
無意識に視線を動かした。
その先で⋯
店主が
此方を見つめていた。
鳶色の瞳は穏やかに見えたが
何処か深い哀しみが滲んでいた。
それが何に対するものかは
分からなかった。
ただ
まるで静かな痛みのようにも感じられた。
「……どうぞ」
不意に横から声がして
レイチェルは肩を震わせた。
ウェイターの男が
レイチェルの手元に
静かにコーヒーを置いていた。
「あ……はい。ありがとうございます」
ぎこちなく礼を言い
カップを手に取る。
その時
ふと目に留まった。
ソーサーの上に
小さな紙が折り畳まれている。
(……まさか……)
心臓が早鐘のように鳴る。
噂では
スペシャルドリンクを頼んだ後
心で強く願えば
答えが貰えると聞いていた。
そんなバカな話が
ある訳が無い。
半信半疑だった⋯⋯のに。
指先が震えながら
紙を広げる。
『あなたの仲間は近くにいる』
たったそれだけの文字が
丁寧な筆跡で書かれていた。
「……仲間……?」
理解が追いつかず
ぼんやりと紙から顔を上げた。
その瞬間
レイチェルの目の前に
先の硝子張りの席にいた
男の子が立っていた。
「わっ!?」
思わず声が漏れた。
いつの間に
という驚きよりも
その無邪気な笑顔に目を奪われた。
彼の全身は包帯に巻かれていたが
包帯の隙間から覗く口元が
にっこりと綻んでいた。
包帯越しでも分かる
心からの満面の笑みだった。
「これあげる!」
小さな手が
テーブルの上に
飴玉をコロリと転がした。
透き通った赤い飴玉。
光に透けて
宝石のように輝いていた。
「食べて食べて!」
レイチェルは思わず視線を彷徨わせた。
視線の先には
硝子張りの席に座る女性がいた。
彼女は
男の子が其処に居ないかのように
無表情のまま
じっとコーヒーを見つめていた。
(……この子の親、なのよね?)
彼女が何も言わないのなら
拒絶されている訳では無いのかもしれない。
「……じゃあ、いただくね」
レイチェルは
小さな手の温もりが残る
飴玉を口に入れた。
甘さがゆっくりと口の中に広がり
心の緊張が
少しだけ解けるのを感じた。
「ありがとう」
そう声を掛けると
男の子はさらに満面の笑みを見せ
包帯の隙間から見える山吹色の瞳が
まるで太陽のように輝いた。
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