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レイチェルは
男の子が硝子張りの席に
戻る姿を見届けながら
自然とその隣に座る女性へと視線を移した。
その瞬間──
ふ、と。
深紅の瞳が
真っ直ぐにレイチェルを捉えた。
その目には
怒りも喜びも浮かんでいなかった。
ただ静かに
まるで深海の底から見上げてくるような
静謐さを湛えて
レイチェルを見つめていた。
(⋯⋯ちょっと怖いけど
やっぱり⋯⋯綺麗な人だなぁ)
それは、素直な感想だった。
触れれば壊れてしまいそうなほど儚く
それでいて芯の強さを感じさせる横顔。
光を受けてゆらめく金の髪。
まるでこの世の者ではないような──
神秘と、哀しみを帯びた容姿。
だが──
その思いに続くように
レイチェルの頭の中に
黒い染みのような感情が広がり始めた。
──あの美しい双眸を、抉り抜いてやりたい。
──その白い肌に刃を突き立て
滴る血がどんな絵になるか見てやりたい。
──その完璧な顔を、悲痛に歪めたい。
「⋯⋯っ!」
レイチェルは衝動的に首を振った。
(何⋯⋯何で、私⋯⋯こんなこと──っ)
思ってもいないはずのことが
次々に頭の中に浮かび上がる。
その思考のひとつひとつが
理性を裂き、心を削ってゆく。
(違う、違う⋯⋯
こんなこと、私は思ってない⋯⋯!)
まるで他人の思考が
頭の中に流れ込んでくるような感覚に
肩が細かく震える。
吐き気がこみ上げ
思わず両腕で自分の身体を抱きしめた。
深く、深く、呼吸を繰り返す。
けれど
──視界が、揺れ始めた。
店内の灯りがぼんやりと滲み
ピアノの旋律が
まるで水の底から聞こえてくるように
遠ざかっていく。
耳鳴りがして、手足の力が抜ける。
(⋯⋯ねむ⋯⋯い⋯⋯)
抗えない眠気が、意識を包み込む。
まるで優しい腕で抱きすくめられたような
心地良さと危うさを孕んだ温もりの中で──
レイチェルの意識は
深く、沈んでいった。
⸻
──どれほど、時が経ったのか。
「⋯⋯ん⋯⋯ぅ⋯⋯」
微かな唸り声とともに
レイチェルの瞼が、ゆっくりと持ち上がった
目に映ったのは、ぼんやりとした灯り。
カウンターの上に灯る柔らかな光が
仄暗い店内を静かに照らしていた。
テーブルの上には
冷えきったコーヒーカップ。
(⋯⋯寝ちゃってた⋯⋯?)
まだ眠気の残る頭で
ゆっくりと身体を起こす。
椅子の背が、わずかに軋んだ。
店内を見渡す。
静かだ。
あまりにも静かすぎる。
──誰も、いない。
客の姿も、カウンターの奥の店主の姿も
あの無愛想なウェイターの影すらも──
「⋯⋯違う」
直感だった。
店内には、誰も〝いない〟わけじゃない。
──〝何か〟が、いる。
その確信に似た予感が
背筋を冷たく這い上がる。
恐る恐る、テーブルから顔を上げると──
目の前に、彼女がいた。
あの深紅の瞳の女性。
たしかに、先ほどまでは
硝子張りの席に座っていたはずの彼女が──
今、自分の正面に、静かに座っていた。
──いや。
(⋯⋯私が⋯⋯)
気づいてしまった。
ここが、あの硝子張りの席だ──
入店直後に見た
ショーウィンドウのような空間。
他とは明らかに異なるその場所に
レイチェルが──
座らされている。
(⋯⋯なぜ⋯⋯)
思考が追いつかない。
胸が冷たくなり、脈が異常な速さで跳ねた。
次の瞬間、何かが脳内で弾けたように
レイチェルの理性が霧散する。
「う⋯⋯あ、ぁあああああっ!!」
喉の奥から迸る叫び声。
その声と同時に、手が──勝手に動いた。
視界の隅に見えた
テーブルセットのバスケット。
その中にあったナイフを
レイチェルは無意識に掴み取っていた。
(やめて⋯⋯やめてっ!)
心は叫んでいる。
だが、手は止まらない。
「うわあああああああっ!!」
悲鳴と共に、ナイフが振り上げられる。
銀の刃が、女性の喉元へと一直線に走る──
──ザクッ。
肉が裂ける音。
柔らかな皮膚が引き裂かれ
そこから勢いよく──
紅が、迸る。
噴き出した鮮血が、宙を描いた。
テーブルクロスに、壁に、光の届かぬ床に
紅が飛沫を上げる。
「何故ですっ⋯⋯!何故⋯⋯っ!」
レイチェルは叫ぶ。
「私達を⋯⋯裏切ったのですかああっ!!」
何故──〝私達〟?
その疑問すら、頭の奥に押し込められた。
ナイフは止まらない。
振り上げ、振り下ろし
血の色が弾けるたび、理性が削られていく。
(やめて!やめてってばぁああっっ!!)
自らの手を止めようと
もう片方の手で手首を掴む。
それでも、止まらない。
まるで自分の身体が
自分のものではないように。
彼女は、何一つ抵抗しなかった。
胸元を、腹を、肩を、頬を。
幾度となくナイフが突き刺さっても──
ただ、静かに
レイチェルを、見つめていた。
血に濡れた唇が、微かに動く。
「⋯⋯すまない」
──その言葉が、脳内に響いた瞬間。
レイチェルの中の何かが、砕けた。
(やめてぇ⋯⋯お願いだから⋯⋯
もう、やめてえええっ!)
涙が、視界を濁らせる。
濃紅の血と、滲む涙。
嗚咽が喉から漏れ、体の震えが止まらない。
それでも、手は止まらず。
ナイフは、なおも、刺さる。
痛みは
自分の方にすら伝わってくる気がした。
胃が強く痙攣し、喉が詰まる。
(こんなの⋯⋯こんなの嫌だ⋯⋯!)
もはや目の前は、真っ赤に染まっていた。
世界が血に染まり、音が遠のき
意識が再び──
沈んでいく。
ぐらり、と視界が傾く。
──そして、力が抜けた。
ナイフを握ったままの手がだらりと落ち
血に濡れた身体の上へ
レイチェルの身体が崩れ落ちる。
最期に見えたのは──
深紅の瞳。
その美しき瞳が、静かに、静かに──
閉じられていくのだった。
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目覚めた先で出会ったのは、すべてを見透かすような男と、静かに寄り添う幼子。 戸惑いの中、少女は自らの名を口にする。 その瞬間、止まっていた運命が──静かに、音を立て始めた。