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雨の音が、コンクリートの壁を叩き続けていた。
ソネリーノ家の縄張りから遠く離れた、安アパートの一室。湿ったカビの匂いと、安っぽい芳香剤が混ざり合うその場所は、世界から弾き出された俺たちだけの、小さな箱庭だった。
ガチャリ、と重いドアが開く。
「……おい。タオル」
俺は濡れた靴を蹴り飛ばし、ソファにどかりと座り込んだ。
「はいはい。……また無茶をしたな、Chance」
iTrappedがため息交じりに近づき、ふわりと温かいバスタオルを頭に被せてくる。
視界が白に覆われた。
外の世界が遮断され、iTrappedの匂いだけが鼻孔をくすぐる。
ガシガシと乱暴に、けれど指の腹は労るように優しく、彼の手が髪の水分を拭い取っていく。
「痛えよ。……もっと丁寧にやれ」
「動くな。風邪を引いたら、稼ぎに響くぞ」
「ふん。……俺がくたばるわけねえだろ。運の女神が憑いてるんだ」
iTrappedが首筋の水滴を拭う段になると、張り詰めていた神経が勝手に緩んだ。猫が喉を鳴らすように、自然と彼の手のひらに頭を預けてしまう。
――心地いい。
俺は、こいつの前でだけは無防備になれる。
これまで、俺の周りにいた人間は、勝っている時は称賛し、負ければ潮が引くように去っていった。誰も、雨に濡れた俺の身体のことなど気にしなかった。
だが、こいつだけは違う。
こいつだけは、俺が幾ら稼いできたかを聞くよりも先に、俺の体温を気にするのだ。
「……ほら、手を出せ。消毒する」
髪を拭き終えたiTrappedが、今度は救急箱を開いた。
俺の腕には、逃走中に路地裏のフェンスで擦った、赤い切り傷がある。血が滲むそれを、iTrappedがそっと持ち上げる。
「こんなもん、唾つけときゃ治る」
「駄目だ。……傷が残ったらどうする」
iTrappedは低い声で囁き、消毒液を含ませた綿花を傷口に押し当てた。
その慎重な手つき。
まるで、ヒビの入った高価なガラス細工か、世界で一番貴重な宝石でも扱っているような、繊細で、どこか執着めいた指使いだった。
俺は息を呑んだ。
その瞳は、真剣そのものだ。俺の肌にわずかな瑕疵がつくことさえ許せない――そんな、完璧な独占欲を感じた。
「……重すぎんだろ、お前」
俺は呆れたふりをして、口角を上げた。
俺をここまで大切に扱うなんて、こいつは本当に俺に参っているらしい。
「相棒だろ? 大事に決まってる」
iTrappedが、ふわりと微笑む。
どこか作り物めいた、完璧すぎる笑顔。だが、その手つきの心地よさだけは真実だ。
俺はiTrappedの肩に額を押し付け、その体温に浸った。金目当ての有象無象とは違う。こいつだけは、俺の傷を塞いでくれる。こいつだけは、俺を壊さないように、まるで『壊れ物』のように扱ってくれる。
この狭い部屋こそが、俺の安息の地だ。
「コーヒーを淹れてくる。……少し休んでいろ」
手当てを終えたiTrappedが立ち上がり、キッチンへと消える。
俺はその背中を見送りながら、ソファに深く沈み込んだ。身体中が、彼に触れられた余韻で満たされている。
ふと、手持ち無沙汰になり、テーブルの上のタブレットを手に取った。
追手の情報を確認する。ただの暇つぶしだった。
外の世界の情報などどうでもいい。今はただ、キッチンから漂うコーヒーの香りと、雨音だけを感じていたかった。
だが、指先は残酷な『真実』を引き当ててしまった。
裏社会のニュースサイト。スクロールする指が、あるアーカイブ記事で止まる。
『伝説のサイバー犯罪グループ、ついにBAN処分へ』
そこに掲載されていた写真。
中央で不敵に笑う男は、間違いなくiTrappedだった。そしてその両脇には、EllernateとCaleb244という名の、二人の男が写っていた。
心臓が、早鐘を打った。
写真の中のiTrappedは、今、俺に向けている『保護者のような落ち着いた笑顔』とは全く違う顔をしていた。
獰猛で、楽しそうで、そして――『対等』な顔。
「……なんだよ、これ」
俺には、こんな顔を見せたことはない。あいつは俺の前ではいつも、聞き分けのいい子供をあやすような、あるいは壊れやすい骨董品を愛でるような顔をしている。
……あいつにとって、俺は対等じゃないのか?
疑念は、一度芽生えれば雑草のように広がる。
俺はふらつく足で立ち上がり、iTrappedの私物が置かれた棚へ歩み寄った。大切にしまわれた、旧式のロケットペンダント。
……これだけは、開けるなとしつこく言われていた。震える指でそれを開く。
中には、あの三人の写真が入っていた。裏蓋には、手書きでこう刻まれている。
『必ず迎えに行く。俺の半身たち』
俺は、鏡に映る自分の顔を見た。金を持った、幸運なだけの道化。そこには『半身』になれる要素など、欠片もなかった。
先ほど傷を手当てされた時の温もりが、急速に冷えていく。あれは親愛じゃなかった。独占欲ですらなかった。
ただの、資産のメンテナンスだったのだ。割れ物を丁寧に扱うのは、中身がこぼれないようにするためでしかない。俺が壊れたら、金を引き出せなくなるからだ。
「……Chance? どうした、顔色が悪いぞ」
コーヒーカップを持ったiTrappedが戻ってくる。
その心配そうな眉、優しい声。すべてが完璧なプログラムに見えた。
俺は、手の中に握りしめていたロケットを、テーブルの上にカラリと投げ出した。
iTrappedの動きが止まる。
部屋の空気が、瞬時に凍りついた。
雨音だけが、やけに大きく響く。
「……説明してくれよ、親友」
俺は乾いた声で笑った。膝が震えそうになるのを、虚勢を張って必死に隠す。
「EllernateとCaleb。……お前の本当の友達だろ?」
iTrappedはロケットを見つめ、それからゆっくりと俺に視線を戻した。
そこに、先ほどまでの『理想の保護者』はいなかった。
感情の抜け落ちた、冷徹な観察者がそこにいた。
「……ああ。そうだ」
悪びれもせず、言い訳もしない。その肯定が、俺の心を抉った。
「俺に近づいたのは、金か? あいつらを解放するための」
「それ以外に何がある」
iTrappedは淡々と言い放ち、ロケットを愛おしげに拾い上げた。
俺に向けたことのない、本当の情熱をその目に宿して。
「あいつらを鉄の檻から出す裏取引には、天文学的な額が必要だ。お前の『運』と『資産』は役に立つ。……ソネリーノに追われている孤独な男。実に扱いやすかったよ」
「扱いやすかった、だと……?」
iTrappedが嘲るように笑う。
その言葉は、鋭利な刃物のように俺の鼓膜を突き破り、心臓を直接抉り取った。
屈辱で、目の前が明滅する。
俺は『Chance』だ。運に愛され、富を築き、誰もが羨むスリルを生きる男だ。
それが、どうだ。
こいつにとっての俺は、対等な相棒でも、守るべき友人でもなかった。
ただの、少し優しくすればエサを吐き出す、便利な集金システムでしかなかったのだ。
俺が感じていた『親愛』は、システムのエラーを防ぐための定期メンテナンス。
俺が感じていた『独占欲』は、所有物の資産価値を維持するための品質管理。
足元から、世界が崩れ落ちていく音がした。俺が信じていた『二人だけの箱庭』は、最初から存在しなかった。ここにあるのは、冷徹な飼い主と、愛されていると勘違いして尻尾を振っていた、滑稽な獣が一匹だけ。
叫び出したいほどの脱力感が、喉元までせり上がる。
今すぐこいつを殴り飛ばし、金を持ってこの部屋を出ていくべきだ。
『俺をナメるな』と、プライドを叩きつけてやるべきだ。
――だが。
怒りで握りしめた拳が、震えて開かない。
脳裏に焼き付いているのは、先ほどタオルで髪を拭いてくれた、あの指の感触だった。
傷口を消毒する時の、世界で一番大切なものを扱うような、慎重な手つきだった。
あれが演技? ああ、そうだろうよ。
あれが管理? その通りなんだろう。
だが、それがどうした?
外の世界を見ろ。
どしゃ降りの雨。血眼になったマフィア。金が尽きれば見向きもしない有象無象。
あそこに、俺の髪を拭いてくれる奴がいるか?
俺の怪我を見て、眉をひそめてくれる奴がいるか?
いない。
どこにも、いない。
俺がこの部屋を出ていけば、俺は誇り高いギャンブラーに戻れるかもしれない。
だが、その代償は『絶対的な孤独』だ。
誰にも触れられず、誰にも心配されず、冷たい路地裏で野垂れ死ぬ自由だ。
どんな死に方よりも、一人のほうが怖い。
iTrappedは、俺を見ていない。彼が見ているのは、ロケットの中の半身たちだけだ。
俺に向けられる眼差しには、温度がない。けれど、俺の身体に触れるその手には、確かな『体温』があった。
なら、それでいいじゃないか。
心が偽物でも、体温が本物なら。愛されなくても、必要とされるなら、そこが俺の居場所だ。
「……いくらだ?」
俺の口から出た声は、驚くほど冷静だった。
iTrappedが眉をひそめる。計算外の反応に、初めてその鉄壁の仮面が揺らぐ。
「は?」
「あいつらを助けるのに、いくら必要なんだって聞いてるんだよ」
俺は、足元のボストンバッグを蹴り上げ、中身をテーブルにぶちまけた。札束の山が崩れ、乾いた音を立てる。
それは、俺が人間としての尊厳を捨て、道具として生きることを誓った契約の音だった。
「お前の計画通りにしてやるよ。……俺を使って、あいつらを助けろ」
iTrappedは、初めて理解できないものを見るような目で俺を見た。
バグを起こした機械を見る目。それでいい。俺は今、お前にとって都合のいいバグになったんだ。
「……正気か? あいつらが戻れば、お前は用済みだ。俺は迷わずお前を捨てるぞ」
「知ってるよ。お前はそういう薄情な奴だ」
俺は傲慢に笑って見せた。
「でもな、iTrapped。……俺には、お前しかいないんだ」
金で人は買える。スリルも買える。
だが、自分の傷を心配して、丁寧に触れてくれる『誰か』だけは、どんなに幸運でも手に入らなかった。
たとえそれが偽物でも、演技でも、俺が壊れないように管理されているだけでも。
iTrappedが隣にいない世界よりは、マシだった。
「俺が金を稼ぐ。お前は俺のそばで、親友のフリを続けろ。……それが契約だ」
長い沈黙の後。
iTrappedは、薄く、冷ややかな笑みを浮かべた。
それはもう親友の顔ではなく、共犯者の顔だった。
彼はテーブルの上の金を掴み、俺に向かって手を差し出す。
「……良いだろう。取引成立だ、Chance」
俺はその手を握り返した。
冷たい手だった。だが、握り返してくる力強さだけは本物だった。
これでいい。
俺はこの手を握る権利を、金で買ったのだ。
運の女神は、やはり微笑んでいたのかもしれない。
少なくとも、破滅するまでの僅かな時間、この男を独占する権利だけは勝ち取れたのだから。