テラーノベル
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銭湯を出たあと、ほかほかに温まった体を冷やさないように小走りで大通りへ戻り、そこから広場の方角へ向かって歩き出した。
湯で流したはずの汚れはもう残っていない。けれど、通りを歩くたびに視線が刺さる。
そんなに変な格好してるつもりはないんだけど……。
訝しみながら自分の服装を見下ろす。さっき買ったばかりの簡素な服に背中には私の身長よりも長い大剣。
ここまで来てようやく原因に思い至る。
(汚れじゃなくて、こっちか。背中の大剣だね)
若い女が自分の身の丈を超える大剣を背負って歩いている光景なんて、そうそうないだろう。
そう結論づけて妙な注目を気にしないことに決めて頭の中を切り替える。
――今考えるべきは、ちゃんと眠れる宿。
お金の残量を思い返す。
手持ちは、金貨八枚、銀貨四枚、銅貨が二十枚。
(……しまった。ジャックに貨幣価値をちゃんと聞いておけばよかった)
銭湯代、洗髪剤や石鹸、買った服、そういった出費を思い出しながら地球での物価に当てはめてざっくりと計算を始める。
(銅貨一枚を百円ぐらい、銀貨一枚を千円、金貨一枚を一万円……この辺りが妥当かな)
あくまで感覚だが、さっきまでの買い物と照らし合わせるとそこまでズレてはいない気がする。
そんなことを考えながら歩いていると、少し洒落た看板が目に入ってきた。木板に丁寧な文字で、こう書かれている。
『空室あり
一泊 銀貨八枚』
広場からそう離れておらず、立地も悪くない。建物の外観も安宿というよりはきちんとした宿屋といった印象だ。
先ほどの試算通りなら手持ちで十泊はできる。だが食事代や予備費を考えるとジャックが言っていたように七泊が限界だろう。
軋むことのない重厚な扉を押して中へ入ると外の喧騒が嘘みたいに静かなエントランスが広がっていた。
磨かれた床、壁際に飾られた観葉植物、落ち着いた色合いの絨毯。ざっと見回すだけでも安宿ではないことが分かる。
正面のカウンターには、きちんとした身なりの受付らしき人物が立っていたので足を向けて声をかける。
「まだ空いてる?」
「はい、空室はございます。何泊のご予定でしょうか」
「とりあえず、七泊頼むよ」
「かしこまりました。お食事は朝と夕の二回ご用意できますが、どちらも別料金となります。一食あたり銀貨一枚です」
「それもお願いしていいかな」
「承りました。では合計で宿泊代が1泊銀貨八枚の七泊で金貨五枚と銀貨六枚、そこに朝夕のお食事代が銀貨一枚が二回で七日分……金貨七枚となります」
計算も説明も無駄がなく声もはきはきとしている。
こういうところの応対一つで宿の質が何となく分かる。少なくとも安かろう悪かろうではなさそうだ。
受付へ代金を渡すと刻印の入った鍵が手渡された。
「お客様のお部屋は階段を上がって右にお進みいただき、突き当たりの部屋になります」
「ありがと。食事の時間も聞いていいかな?」
「はい。朝のお食事は日の出の鐘から正午の鐘までにお越しいただければいつでもお出しできます。夕のお食事は――」
説明をしている最中、街全体に響くような大きな鐘の音が三回鳴り響いた。重く深い音が床から伝わってくる。
「今お聞きいただいたのが日暮れの鐘です。この鐘から夜間の鐘が鳴り終わるまでが夕食の提供時間となっております」
「了解。食事はどこで出る?」
「そちらの暖簾の奥に食堂がございます。お越しの際は、お部屋の鍵をお持ちいただければ確認いたします」
受付が指差した先には落ち着いた色の暖簾が下がっている入口が見えた。
聞きたいことは一通り聞けたので礼を言い、鍵を握りしめて二階の自室へと向かった。
案内通り廊下の突き当たりまで進み、鍵を差し込んで扉を開ける。
中に広がっていたのは木を基調とした簡素ながら整った部屋だった。
壁際にベッドが一つ。小ぶりなテーブルと椅子が二脚。荷物を置くための棚。
飾り立てたものは何もないが床やシーツはきちんと掃除されていて清潔さが一目で分かる。
背中の大剣を壁に立てかけてから、そのままベッドに倒れ込んだ。
ふかりと沈み込む感触に思わず息が漏れる。
「柔らかい……」
今まで硬い地面や適当な場所で眠ってきた反動か普通の寝床がやけに贅沢に感じる。
「一体こっちの何日が地球の一日なんだろう」
天井を眺めながら、これまでの行程をざっと振り返る。
この十五層までかかった時間は体感では五日ほど。日の光が届かない階層や最初から薄暗い場所もあったので正確な時間は分からない。
仮に、この世界の百日が地球の一日だったとしても――。
「今のペースで行ければ、最終層の三百二十層まで百日くらいか……?」
単純計算をしてみる。もちろん、階層が下がるごとに敵も環境も苛烈になる。
そう簡単にはいかないだろう。
それでも、ざっくりとした目安にはなる。
「モンスターが強すぎるんだよね……」
この十五層までの道のりを思い返して、つい愚痴が漏れた。
ジャックの話では十層の風竜ですらクエスト経由で避けるのが普通で真正面から倒すための敵ではなかったらしい。
「ジャックの言ってたクエストってやつは、時間がかかるみたいだし」
別ルートがあるのは有難いが時間のかかる手段は論外だ。
今はとにかく国際交流戦に間に合わせることが最優先になる。
ここに入ったとき感じた時間の流れのズレ。あの時間圧縮の感覚が正しいなら、この世界で百日過ごしても地球では一日か二日程度で収まるかもしれない。
そこに安全地帯での休息や準備の時間を加味しても――。
(仮に三百日かけても三日分。なら国際交流戦には十分間に合う)
あれだけ偉そうに出場する気満々で宣言しておいて何の連絡もなく不参加はさすがに格好がつかない。
「とりあえず、行けるところまではボスを倒していく。クエストについて考えるのはモンスターが倒せなくなってからでも遅くないはず」
自分に言い聞かせるように呟く。
この階層にいる間にやるべきことは決まっている。まずはまともな剣を手に入れること。今の大剣は悪くないが、やっぱり手に馴染んだ長さの武器が必要だ。
そんなふうに今後の段取りを組み立てていると緊張の糸がゆるんだのか、急激な眠気が押し寄せてきた。
上瞼と下瞼が、まるで仲直りでもしたかのようにしつこくくっつこうとしてくる。
「久しぶりの、ちゃんとした寝床だし……」
抵抗をやめてシーツをめくり布団に潜り込む。
柔らかい感触と、洗い立ての布の匂い。目を閉じると意識がすとんと落ちていった。
どこか遠くで、鐘の音が一度だけ鳴った気がする。
ぼんやりと目を開けると、窓の外はまだ真っ暗だった。
受付で聞いた説明を思い出す。これは、おそらく夜間の鐘。
「あ……夕食、食べるの忘れた」
呻くように呟いて、布団の中でもぞもぞと身じろぎする。
すべてを諦めてベッドに沈み込み、瞼を閉じる。少しすると、またあの心地よい眠気が戻ってきた。
今度こそ、何も考えずに眠りへ身を委ねた。
◇
次に目を覚ましたとき、今度は鐘の音が四回鳴っていた。
窓の隙間から柔らかな陽光が入り込んで、床に四角い光の帯を作っている。
「これが、日の出の鐘ってやつかな」
寝起きの声を自分で聞きながら小さくあくびを一つ。
服の乱れを直し髪を軽く整えてから部屋を出る。
一階の食堂へ向かうと、すでに何組かの宿泊客が席に着いており思い思いの朝食を楽しんでいた。
皆、幸せそうな顔で皿に向かっている。それを見た瞬間、昨日の夕食を逃したことが改めて悔やまれる。
カウンターで部屋の鍵を見せて朝食を受け取り空いている席に腰を下ろす。
皿の上にはスクランブルエッグとソーセージ、サラダにパン、温かいスープ。
一口かじった瞬間思わず口元が緩んだ。
――美味しい。
特別に凝った味付けをしている訳ではない。それでも、一つ一つの素材の味がちゃんと生きていて体の中にすっと染み渡っていく。
あっという間に平らげてしまい名残惜しさのあまり空になった皿をしばらく見つめてしまった。
どうやら私の腹の虫はまだ足りないと主張しているようだ。
とはいえ、ここでおかわりができるか分からないため食器を片付けて部屋に戻り、装備を整えることにする。
背中に大剣を背負い直し荷物の位置を確認する。
宿を出る前に鏡代わりの窓ガラスで一応身だしなみを確かめ大通りへと足を向けた。
目指すのは、ジャックの家。
その道すがら串焼きの屋台が目に入った。香ばしい匂いが胃袋を直撃する。
値段を見ると一串あたり銅貨一枚。安い。
「これを二十本ください」
即決でまとめ買いをして、その場で一本を口に運ぶ。
適度な塩気と肉汁が広がって朝食で満たされきらなかった胃が元気になっていく。
残りを片手に持ったまま串を片付けつつジャックの家へ向かう。
何本かはお土産としてジャックに渡してもいいだろう。
家の前に着くと扉を軽く叩き呼びかける。
「ジャックー」
しばらくして、がちゃりと扉が開いた。
そこから顔を覗かせたのは茶髪の少女だった。
「ごめんなさい。兄はまだ寝てまして――あ、えっ、その……」
私の顔を見た瞬間、少女は言葉を飲み込み目を丸くして固まった。
何か気に障ることをしただろうかと記憶を探っていると、ふと昨日の会話を思い出す。
「あぁ、ジャックの妹さんか」
「はっ、はい! アリアです! 昨日は、本当にありがとうございました!」
勢いよく頭を下げ、何度も何度もお辞儀を繰り返す。
頬には血色が戻り、眼窩もふっくらとしていて、唇の青さもすっかり消えている。
あの絶望的な状態からたった一晩で、ここまで変わるものなのかと感心してしまうほどだ。
「兄を叩き起こしてきます! どうぞ、上がってお待ちください!」
「あ、うん。お邪魔するよ」
アリアに招き入れられ、家の中へ足を踏み入れる。
その瞬間、二階へ駆け上がる彼女の足音が、どたばたと家中に響いた。
本当に昨日まで毒に冒されていたのか疑いたくなるほど元気だ。
二階からアリアの声が響いてくる。
何度呼びかけても起きないジャックに対して、少しむくれたような声色だ。
その様子を聞いていると胸の奥で別の記憶が疼いた。
――私を起こしにくる沙耶の姿。
布団を剥がしてきたり耳元で大声を出してきたり、たまに優しく肩を揺すってくれたり。
うるさいと思いながらも、それが当たり前だと思っていた時間。
今はそれが、いかに幸せな日常だったのかよく分かる。
賑やかな兄妹の声を聞きながら、少しだけ胸の奥が寂しくなった。
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