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車の中から鉈を引っ張り出し、北西の方角へと駆け出した。
グリップに残った手の汗が、いやでも緊張を思い出させる。
家の入り口には、さっき仕留めたゴブリンの頭を置いてきてある。
乾きかけた血がアスファルトに黒い染みを作り、その中心で、濁った瞳だけが虚空を見上げていた。
あいつらは同族の仇討ちより、自分の保身を優先するモンスターだ。
――この敷地内には、自分たちを狩れる存在がいる。
そう、ひと目で理解させるための、分かりやすい「看板」のつもりだ。人間で言うところの『ここ、地雷原につき立ち入り禁止』くらいの意味合いはあるだろう。
全力疾走で森まで突っ切れば、息を切らして回復するまでの時間が無駄になる。
母さんには一分一秒でも早く解毒薬を届けたいけれど、そこでバテてしまっては本末転倒だ。
そのため、少しペースを落とし、呼吸と足運びを意識しながら一定の速度を保って走る。
靴底が土を踏みしめるリズムと心臓の鼓動を、意識的に同じテンポに揃えていく。
森に足を踏み入れると、空気が変わったのがはっきりと分かった。
ひんやりとした湿気が肌にまとわりつき、葉と土の匂いの奥に、ぞわりと肌を逆なでするような異質な気配が混ざる。
魔力の濃度が、さっきまでとは段違いに濃い。
肺に吸い込むたび、体の内側を撫で回されているような感覚がする。
「【全知】、方角は間違っていないか?」
『回答します。あと一〇〇メートルほど前進すると、ゲートが視認できます』
茂みの枝を腕で払いのけながら、指示された方向へ進む。
木々の密度が増し、足下も根や石で不安定になっていくのに、頭の中の感覚だけは逆に澄んでいった。
……そして。
そこには、回帰前に嫌になるほど見てきた光景――ゲートが、ぽっかりと口を開けていた。
ひし形に近い輪郭に、中心は濃い紫。
何度見ても、あの不気味な色合いには「生き物の臓腑の中を覗き込んでいる」ような嫌悪感がつきまとう。
この色合いなら、間違いなく突発型ダンジョンだ。
見分け方は単純で、濃紫なら突発型、真っ黒なら持続型。
外側からでは内部構造を覗き見ることはできず、ダンジョンの難易度が上がるほど、ゲートのサイズも肥大化していく。
ゲームなら「推奨レベル:〇〇」とでも出てくれるのだろうが、現実はそう甘くない。
入る前に、まずは周囲の状況確認だ。
本来なら、モンスターがダンジョンの外に出てくるのは【出現から最低でも十日後】。
それはこの数十年で、世界中のハンターたちが身をもって積み上げてきた、ある意味「常識」だった。
あくまで――そのはずだった。
『回答します。ダンジョンの外にモンスターが十日以内に出ることは、原則としてあり得ません』
「……原則、ねぇ」
つまり【全知】ですら断言できない、何らかの異常が起きているということだ。
マニュアルにも書かれていないバグみたいな存在――そういうものが、もう動き始めている。
ゲートの周囲を一周する。
足跡や血痕、折れた枝、ゴブリンが隠れていそうな死角も一つずつ確認してみたが、それらしい気配はない。
……やはり、外に出ていたのは家に来た四匹だけ、と見るべきか。
そう判断するしかないが、胸の中の嫌な予感は消えてくれない。
「よし。中に入るか」
息を一度深く吐き出す。
肺の中の空気を入れ替えるみたいに、雑念も押し流していく。
「ふぅ……よし!」
パチン、と自分の両頬を軽く叩いて気合を入れ直し、そのままゲートへと飛び込んだ。
世界がぐにゃりと歪む。
地面の感触も、重力の方向さえも一瞬あやふやになり、胃袋がふわりと浮いた。
立ち眩みに近い不快感が一瞬だけ脳を揺さぶり、視界が戻ったとき――私は、洞窟の中に立っていた。
ゴブリンが主力で出現するダンジョンは、こうした洞窟タイプであることが多い。
湿った岩肌、ぽたぽたと落ちる水滴、どこからともなく聞こえてくる風の音。全部、嫌というほど知っている景色だ。
難易度が上がってくると、遺跡風だとか、石造りの砦のような構造になることもあるが……今回は見たところ、典型的な洞窟だ。
「今の私でも、まあ、何とかなるレベルってところか」
鼻から大きく息を吸い込む。
ツンと鼻を刺す土と苔の匂い。
その奥に、むせ返りそうになるほど濃密な魔力のにおいが混ざっている。
――ああ、帰ってきた。
私は、またダンジョンに帰ってきたんだ。
胸の奥が、ぞくりと震えた。懐かしさと緊張と、ほんの少しの高揚感が混じった、あの感覚。
ここから先は戦場だ。一瞬たりとも気を抜くわけにはいかない。
母さんの時間を削っている、という自覚が、意識をさらに研ぎ澄ませる。
洞窟ダンジョンの構造は単純だ。
ひたすら奥へ奥へと進み、時折現れる下り階段を降りていけば自然とボスの間に辿り着く。
今いる場所を地下一階と仮定するなら、このゲートの大きさだと地下三階構成と見ていい。
回帰前の経験が、数字と感覚で「たぶんそれくらい」と答えを出してくれる。
「……二時間で片付けようか」
ぼそりと独りごちると、身体の感覚がすっと鋭く研ぎ澄まされていく。
心拍は少し早いが、呼吸は乱れていない。今なら、走れる。
洞窟内を走り出す。罠は気にしない。
といっても、最序盤のゴブリンダンジョンにある罠はどれも稚拙で、素早く走り抜ける相手に当たるような代物ではない。
簡易な落とし穴、石を吊るしただけの振り子――そんな玩具じみた危険を、足捌きだけで軽々と躱していく。
靴音と水の滴る音だけが、一定のリズムで洞窟内に響いた。
走り始めて三分ほど。
視界の先がふわりと開け、少し広い空間に出た。
そこには、ゴブリンが二〇匹ほど。
武器を投げ捨て、焚き火の名残のような石の輪の周りでだらしなく体を伸ばして寛いでいた。
(防具もなしで正面から突っ込むのは、普通なら自殺行為だけど……)
鉈を握る手に、自然と力がこもる。
頭の中で、母さんの寝顔と、タイムリミットの「八時間」が重なった。
「臆してる暇はない、か」
地面を強く蹴った。
「ギギャッ!?」
手前にいた一匹が私の存在に気づき、間の抜けた悲鳴を上げる。
それを合図にしたかのように、周囲のゴブリンも慌てて地面に転がしていた武器へと手を伸ばした――が、遅い。
私はすでに間合いに入っていた。
間近にいた八匹の首を、ほとんど一息に切り払う。
鉈が骨と筋肉を断つ感触が、腕を通して伝わってくる。
続けざま、鉈を振り抜きながら横移動。飛んできた矢と石を最小限の動きで避けつつ、射線の先にいたゴブリン六匹を斬り捨てる。
矢羽が耳元を掠め、石ころが頬の前をかすめていく。
残るは逆方向に展開していた六匹。
「――貸してもらうよ」
足元に転がっていた投石用の丸い石を拾い上げる。
鉈をいったん地面に置き、右手で石を握る。
腕だけでなく、腰と脚、全身のバネをまとめて、ゴブリンたちへ向けて解き放った。
直後、ゴブリンたちの頭が、砕けるようにして弾け飛んだ。
湿った破裂音と、岩にぶつかる鈍い音が、ほぼ同時に響く。
「一九……二〇。よし、この広間は全部」
低く数を数え、息を整える。
奥へと続く階段が見える。
予定より早く片付いたため、少し余裕ができた。
「やれることは、今のうちにやっておこう」
ポケットからサバイバルナイフを取り出し、倒れたゴブリンの胸を切り開いて魔石を取り出していく。
ぬるりとした体液の感触と、鉄臭い匂いが指先にまとわりついた。
「確かこれを食えばスキルが……」
手のひらの上で魔石をじっと見つめ、鼻につけて匂いを嗅ぐ。
その瞬間。
「くっっっっっさ!!?」
反射的に地面へ叩きつけていた。
下水道で育ったザリガニを、そのまま腐った卵と酢で炒めて、一週間放置したような――そんな、言語化を躊躇うレベルの悪臭が鼻腔を蹂躙する。
目の奥がツンと痛み、涙が勝手に滲んだ。
「え、無理なんだけど……これ口に入れるの? ほんとに? うぇ……」
想像しただけで吐き気が込み上げた。
……うん、決めた。
ゴブリンの魔石は絶対に食べない。スキルどうこう以前の問題だ。
集めるだけ集めておいて、ハンター稼業が世間に浸透したあとで、換金用素材として売り捌こう。
少なくとも、口に入れるよりはずっと健全な用途だ。
悪態をつきながらも、手は止めずに魔石を回収していく。
二〇個すべて取り終えたところで、ふと周囲を見回す。
階段の脇に、見慣れない横道があることに気がついた。
「……最初に確認したとき、あったっけ?」
見落としていたのか、それとも今この瞬間に形成されたのか。
どちらにせよ、時間にはまだ余裕がある。行って確かめる価値はあるだろう。
階段を通り過ぎ、横道を進んでいくと、その先は袋小路になっていた。
ただし――そこにはひとつ、ぽつんと宝箱が置かれている。
「罠付き、だよねぇ……?」
慎重に距離を取り、先ほどの魔石を一つ手に取って宝箱へと投げつける。
カツン、と虚しい音が響くだけで、何も起こらない。
「魔力反応で作動するタイプじゃない、か」
今度はゆっくりと歩み寄り、宝箱のすぐそばまで近づく。
それでも特に変化はない。
まさか、本当に罠なし……? いやいや、そんな甘いはずが――
宝箱の蓋にそっと手を触れた瞬間、視界に青いウィンドウが浮かび上がった。
『【決して小さくない加護】の効果によって、宝箱に仕掛けられていた罠が解除されました』
「は?」
思わず間抜けな声が漏れる。
「【全知】、どういう理屈で加護が罠を解除するの?」
『回答します。宝箱の「隠された本質」である罠の存在を加護が看破し、罠レベルが貴女の器用さの閾値を下回っていたため、自動的に解除されたものと推察されます』
「……なるほど。つまり神々が与えた加護が、ここで役に立ったってことね」
ステータス画面を脳裏で思い浮かべてみるが、「器用さ」という項目は表示されていない。
目に見えない隠しパラメータ的な何かがあるのだろう。ゲームで言うところの『隠し補正』というやつだ。
ともあれ、罠の心配がなくなったのは純粋にありがたい。
「じゃ、遠慮なく開けさせてもらおうか」
古びた扉をこじ開けるような、軋む音が洞窟内に響く。
湿った空気をかき混ぜながら、ゆっくりと蓋が持ち上がっていく。
蓋を持ち上げると、中には金貨と――小さな革袋がひとつ、ちょこんと収まっていた。
「こっ、この袋は……!」
手が震えた。
細かな傷の入り方。
そして袋の中央には、骨付き肉から花が咲いている――本人もよく分かっていない、謎のマーク。
あれは、私がこの袋を手に入れたとき、一緒にいたパーティーメンバーの僧侶が、悪ノリで描いた落書きの名残だ。
革に染み込むインクを使ったせいで、どれだけ擦っても消えず、そのまま一生ものになってしまった。
数十年、見続けてきた柄だ。見間違えるはずがない。
「どう見ても、私のアイテム袋じゃないか……」
アイテム袋――
十種類までという制限つきではあるが、種類ごとなら無制限に収納できる、ダンジョン産のお宝。
袋を使用するには【所有者登録】が必要で、登録者の血を袋の内側に垂らすことで、その人物以外は使用不能になる。
つまり、これは紛れもなく「私のもの」のはずだ。
「まさか……中身まで残ってるなんてこと、ないよね?」
恐る恐る袋の中へ手を入れる。
次の瞬間、頭の中に、袋の中身リストが流れ込んできた。
◆——————-◆
・金貨 40,930,108枚
・携帯食料 250個
・古代竜の魔石
・古代竜骨の剣
・古代竜骨の鞘
・古代竜骨の杖
・古代竜骨の弓
・古代竜骨の矢 2000本
◆——————-◆
「……マジか」
思わずその場に立ち尽くす。
回帰前、最後に確認したときの中身と――完全に一致している。
古代竜を討伐し、その骨から作らせた一式の武器。
想像を絶する価値がある代物で、失うのが怖くて結局一度も実戦投入できず、袋の肥やしにしていた装備たちだ。
――なあ、私を見ている神よ。
私は心の中で問いかける。
私に、これを渡して、何をさせたいんだ。
もちろん、返事はどこからも返ってこない。
それでも、誰かがこちらを見てくすくす笑っているような、そんな気配だけが消えない。
この袋が、どういう経緯でここにあるのか――
考えるべきことは山ほどあるが、それは後回しだ。
今はただ、このダンジョンのボスを倒し、母さんを助けるための解毒薬を手に入れることだけを考える。
宝箱に入っていた金貨を、回収したゴブリンの魔石と一緒にアイテム袋へ収納する。
袋の口は小さいのに、すべてが吸い込まれるように消えていくのは、見慣れていてもどこか不思議だ。
右手に持った鉈は、すでに刃こぼれが目立ち、あと数体も斬れば役立たずになるのが明らかだった。
断面がギザギザになった刃先が、その寿命の短さを物語っている。
「……これも、何かの縁ってやつか」
鉈をそっと地面に置き、アイテム袋へ手を差し入れる。
そして――古代竜骨の剣を、取り出した。
柄を握った瞬間、身体の重心がぴたりと決まる。
何十年も使ってきた相棒を握るような、不思議な安心感が手のひらに宿る。
「……軽い」
さっきまで握っていた鉈の半分どころか、三分の一ほどの重さにすら感じられる。
それでいて、握っているだけで「斬れる」という確信が湧いてくる。
切れ味を確かめるため、近くにあった岩に刃をそっと押し当てた。
――抵抗が、ない。
剣を前に押し出した瞬間、岩は何の手応えも残さないまま両断され、少し遅れて「ゴトリ」と二つに割れてずれ落ちる。
「は、ははっ……」
乾いた笑いが、自然と漏れた。
想像を、遥かに上回っている。
「これからこの剣で斬られるゴブリンが、少し可哀想に思えてきたな……」