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花凜
その日も、私はいつも通り喫茶店へ向かった。
少し肌寒い春の風。制服姿の高校生たちが笑いながら通り過ぎていく。
なんてことのない一日が、また始まるはずだった。
けれど。
「羽月ちゃん、ちょっといいか?」
出勤してすぐ、店長に声をかけられた。
奥の事務所に呼ばれ、私は首をかしげながらついていく。
「……はい?」
店長は、気まずそうに口を開いた。
「昨日でね、柊月くん、バイト辞めるって連絡があったんだ」
「……え?」
耳を疑った。
頭の中で、言葉が何度も反響する。
「辞める……って……」
「急だったけど、本人の意思が強くてね。最後の挨拶も“いいです”って。急用があるみたいで……何か聞いてない?」
私は必死に記憶をたどった。
昨日だって、いつもと同じようにメッセージをやりとりした。
「早く寝ろよ〜」
「今度うちで鍋しよな〜」
そんな言葉を交わしたばかりだった。
辞めるなんて、ひと言も。
「……知りませんでした」
かすれる声でそう答えると、店長は困ったように頭をかいた。
「そうか……ごめんな。心配だろうけど、しばらく様子を見た方がいいかもな」
私はただ、うなずくことしかできなかった。
それから数日間。
彼からの連絡は一切なかった。
LINEを送っても、既読はつかない。
電話をかけても、「おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が……」という機械的な声が流れるばかり。
(どうして……?)
不安が、胸の奥でじわじわと広がっていく。
“何も言わずに辞める”なんて、柊月らしくない。
(浮気? 飽きた? 逃げた……?)
そんな最悪な考えが頭をかすめるたびに、泣きたくなった。
だけど――信じたかった。
きっと理由があるはずだ、と。
ある夜。
ベッドの上でスマホを握りしめたまま、眠れない時間を過ごしていた。
どれだけ更新しても変わらないトーク画面。
そのとき、ふいに「既読」の文字がついた。
「……っ!」
胸が跳ねる。涙がにじむ。
(やっと……!)
けれど。
メッセージは来なかった。
返事はなく、ただ“既読”だけが残された。
「……なんで」
声が震えた。
スマホを抱きしめたまま、涙がぽろぽろとこぼれた。
それから三ヶ月。
柊月からのLINEは、あの日の“既読”を最後に、一度も動かなかった。
私は何度もスマホを開き、何度も文字を打っては消した。
「どうして」
「どこにいるの」
「なんで黙っていなくなったの」
言いたいことは山ほどあった。
けれど、“返事がない画面”を見るのが怖くて、結局送れなかった。
バイト先でも、もう誰も彼の名前を出さなかった。
それでも、私はふとした瞬間に視線を向けてしまう。
彼がいつも立っていたポジション。
カウンターの端。
「また行こうな」って言ってくれた水族館のチケット。
全部が痛かった。
時間だけが、淡々と流れていく。
あのあたたかい日々が、まるで幻だったかのように。
(柊月くん……どこにいるの?)
答えのない問いが、夜ごと胸を締めつけた。
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