主催者のシャルロットがいる談話室は、離れの第二ノ棟にあった。来客用に作られた宿舎でもあるそれは、奥に進むほど豪華な装飾で彩られている。これも、出来たのはここ数年だ。彼女が組織を牛耳るまでは、軍はこんな趣味ではなかったはずである。
魔力に頼るスピードでしばらく走ると、談話室の扉が姿を見せた。
そのまま、重いチョコレート色の扉を勢いに任せて破った。人命がかかった蹴りの重みと、確かに葛葉の怒りが一撃に篭った。
床が鳴り、木材の破片が舞う。
「これはどういうことだよ、大奥様」
数秒の沈黙の末、赤いソファに腰掛けた艶やかな背中がこちらを振り返る。その妖艶な唇は笑っていた。
「我が倅は出来損ないに作法というものを教えなかったか」
「ラグーザの恥め」シャルロットは威厳と重みを含んだ声で凄んだ。
その向いに座っている軍の上層部らしき男は、葛葉の到来に顔をひくつかせていた。何がなんやらの状態で、いたって落ち着き払ったシャルロットだけが、優雅に紅茶を口に運んでいる。
護衛はひとりもいなかった。一見貴族がお茶を嗜んでいるとも見えるそれは、しかし女が数百を葬った戦士だからこその余裕である。心底気味が悪いだろう。
「お前が来るのは計算外だったよ……フフっ」
「そうだろうな。」
「良かろう、お前の推測を聞こうぞ」
当主を降りたとはいえの異様な実力に、戦闘にもなれば敵いようがないと肌で感じた。相手の調子に合わせて表情こそは余裕綽々だが、膝が震えるのを抑えるのに精一杯だった。
こめかみを、汗が流れていく。
「あんたらの目的は、投資した軍本体に巣食って、人間界で地位を築くことだろう。だから謀った」
軍の上層部が一挙に集う、この式典でな。
「…違うか?」
怒りが滲んでいく葛葉の表情に反して、シャルロットは口を覆った。けばけばしい扇子に隠れた表情は見えないが、目がゆっくりと細められる。
「いや、誠に天晴。続けようぞ」
総統であるあんたが表に姿を表したのは、万が一生き残った旧軍派の指揮官やそれに順ずる下っ端の兵が事を荒立てないよう、自分も被害者のひとりであることを匂わせた為だ。抜かりない計画だよ。
勿論、魔界派の兵士にとってはあんたのスピーチはそれだけで合図になる。一石二鳥の算段だった……
計画通り照明が落ちた中、給仕の女人や魔界派の者を誘導。そいつらの隠し場所は恐らく、暗殺が行われる会場から離れたところか、逆に直接攻撃可能な射程圏内になる。
そして、会場に残ったターゲットは旧軍派の上層部のみ。会場に残したのがターゲットであるあたり、物理攻撃で旧軍派の壊滅を謀った。ここにいる最大戦力であるあんたを引き金にな。
「そうだろう?元女当主さんよ」
もはや糸のようになったシャルロットの眼は、突然笑みを消した。命の危機さえ思わせる無表情をたたえて、予想外の発言をする。
「お前がそんなに入れ込んでいるのは、あの孤児がおるせいだのう」
「………」
「随分と下賤の成り上がりに毒されたものよ……良かろう、憐れな愛息子にひとつ、教えてやる」
葛葉は身構えた。シャルロットは視線を横に流した。
その仕草ひとつ取っても美しく、そして恐ろしかった。
「魔界派の同志諸君は今此処、此の別棟におる。うぬらとて敵う相手ではない。お前の連れは生きては還れぬ」
「はっ、?」
「それに、遣いの者はもう始めただろうの。とっくにステージに向かったぞ………例の諜報員の働きは素晴らしいの」
あと一歩、遅かった。葛葉は最後まで言葉を待たずに駆け出した。
「くそっ」
背中からシャルロットが鼻で笑うのが聴こえたが、もう構っていられる余裕は無かった。
「叶っ!!」
叫びながら会場に足を踏み入れた。___そこはもう、戦場だったことは言うまでもない。
多くの男は遮蔽物を設け、護身用の銃を片手に様子を伺っていた。そうでない者は、床に転がる肉塊と成り果てている。
__始まってしまったのだ。
乱発する砲撃音の中で、近くで一番聞いてきた、中距離ライフルの音がした。
葛葉は、叶はまだ生きていることを確信していた。
葛葉の夜目は攻撃を上方の伝い通路からの銃撃と見て取れた。観察眼の鋭い叶なら、もうとっくに気付いているはずだ。
ざっと見て、通路が取り付けられていないのは北側のステージの天井のみとなっている。そこに人の気配は無かった。
奴の定位置、目標の左斜め後方____差し当たって、南口のシャンデリアの下に、叶はいた。
通路伝いで攻撃してくる敵を、相手側が頭を見せるのを待って狙う作戦だろう。その圧倒的に不利とも取れる思惑を即座に察し、葛葉は滅入った。相手の姿が見えない状態で上方から一人ずつ斃れていく状況、圧倒的不利である。
今こそ自分が優位を利用しなければ。そうしなければ、勝てない。
また一人、目の前の将校が倒れた。頭骨が砕かれ、脳が赤い絨毯をさらに深紅に染めていた。
すぐさま敵の射角を辿って、目を凝らす。次の瞬間、敵位置を割り出した葛葉は、引き金を引いていた。距離40メートルと言ったところか。
銃弾は見事に敵の身体を貫いたようで、すぐに攻撃は無くなった。
辺りに静寂が戻ってくる。
緊張で、心臓は痛いほどの早鐘を打っていた。全く別の景色を視ているのに、あの夜と重なる。
なんでだよ。叶は生きているのに。
推し量った通り、南口のシャンデリアの下に叶はいた。
叶は葛葉の姿を認めて、笑う。
「遅いよ、お前」
「始まっちゃった」と笑う叶は無事だった。その事実に安堵しらがらも、いつまでもそうしてはいられない。ここはもう戦場なのである。
「状況がわかんない……これはどういうことなの?」
「それを説明する時間はない。敵は撃たれたように見えるけど…かなりの手練れだね。命を絶った保証はないな」
弾を限界まで装填して、背中を向けた。
「お前は行くな。」
葛葉の言葉を飲み込みきれなかったのか、数秒の沈黙の後、叶が口を開いた。
「どういうこと?」
「軍の犬がお前を狙ってる。逃げたほうがいい…かも。会場から出て寮に戻れ。北口は危険だが、気配がない東から回れ。まあ、そこも抑えられてるかもしれない」
怪訝そうな表情が、葛葉を貫いた。
「は、待ってそんなのおかしい」
ここで出来ることなら。
葛葉は鋭い視線で威圧した。しかし叶は、そんな牽制に怯む相手ではない。
「諜報員だよ!上層部が暗殺された相手だ。お前ひとりじゃ無理なんだよ………お前が逃げることで奴が顔を出すから、俺もそこを狙う。今から上の射撃魔の顔を拝みに行くからさ」
逡巡の末、
「………わかった」
と叶が苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。
「寮につくことが出来たら、できる限りの武器を揃えて遠くまで逃げろ」
いいか、と勢いを落とした声で訊く。葛葉が撃った敵がまだ生きていて、叶を追う可能性は十分にある。これから生死を確認しに行く必要があった。
叶も、葛葉に背を向けた。
「用意はいい?」
「ああ、せーので飛び出せ」
叶が不敵に笑う。
「生きて帰れよ、相棒」
クセぇこと言うな、とくすりと笑った。砂埃が舞って、ふたりは駆け出していた。軍の犬どもを狩りに行こうではないか。
十歩の助走を数えて、勢いよく上方の通路めがけて飛び出した。葛葉の身体は瞬く間に安全柵の内側に滑り込む。軽やかな身のこなしは種族の幸と言って良いだろう。
足を付けた床に耳を傾けるが、よほど気配を誤魔化すのが上手いのか、足音の方向を割り出せそうになかった。
舌打ちをした葛葉は、通路の階段へ続く方向へ身を翻した。気配を悟られないよう慎重に歩を進める。弾はほとんど鳴りを潜めていて、敵の位置を割り出すのは至難の業だった。
扉の影に、ふとチラつく物が見えた。これに掛けるしかない。
構えた小銃で、頭を覆うフードらしき影に向かって2発、発砲した。気配が動く。間違いなかった。
どれだけの力量の兵士でも、攻撃を避ける際に気配も足音も誤魔化せるのは不可能なのだ。もっとも、相手がシャルロッテのような化物で無いことに限るが。
それを確認した葛葉は駆け出した。開いたままの扉の向こうに、自身から剥ぎ取ったマントを投げ入れ、それを囮にして飛び込む。葛葉ほどのヴァンプにも、早い列車程度の速度で走ることは可能である。
こちらに背を向けて走るコートの裾を捕まえた。
「止まれ」
止まらなければ撃つ意図を、後頭部に置いた銃口で伝える。
黒いコートの背中が僅かに揺れた。思いの外背丈は低く、出血した右肩を庇いながら肩で息をしているのが見て取れた。
「そのまま手に持っている武器を置け………そうだ。手を挙げてゆっくり振り向け、いいぞ」
指示通り素直に振り向いたコートの隙間から、射撃犯が顔を見せた。葛葉はたじろいだ。その正体は、人間の少女だった。
重い鉄の装備で覆われた手は震え、碧い瞳は警戒心に満ちた様子で葛葉を捉えて離さない。
___『最近諜報員の暗殺者が軍にも潜り込んでるって言うし、気をつけなきゃ』
まさか、こいつが__?
パニックでも眼は相手から逸らさない、精緻に訓練されたことが分かる少女が、口を開いた。
「貴方は、殺すなと仰せつかりました」
予想外の言葉に、葛葉はぽかんと口を開けた。逡巡して、言葉に隠された意味を勘ぐる。
「え、」
頭が割れそうだった。
シャルロット辺りが同じ血統の者を贔屓させている可能性は大いに考えられる。
そうであるなら都合が悪かった。葛葉がこの惨事の参謀と吹き込まれているのかもしれない。一連の事件の加害者に、葛葉の名が加えられている可能性すらある。
「待て。差し向けられたのはお前一人で間違いないか?」
少女は口を噤んだ。これ以上の情報を寄越す気は無いらしい。
「えぇ………しょうがないなぁ〜!お前、どこから来た?」
くしゃりと髪を掻き上げる。
子どもに汚れ仕事をさせるシャルロットに、怒りが湧いていた。汚い話だ、と思う。
彼女は肩に弾丸が貫通していて、銃を撃てる余力は無いらしい。かろうじて持ち上げて引き金を引く程度は出来るだろうが、まともに狙いも定まらないだろう。第一、そんな事をすれば肩が裂ける。
「…もう、お前が狙ってる目標はとっくに死んでる。もう殺すな」
嘘だった。
葛葉が少女に手を差し伸べ____その手は、少女に触れることは無かった。彼女が走り出したのだ。
「なっ…!?お、おい!」
葛葉は混乱していた。俺が失言したのか。今話した短い言葉の中に、何か情報が潜んでいたか。
必死に追う葛葉と対象に、少女は打って変わって追いつけないほどの逃げ足だった。右肩の傷はまるで無い物のようなスピードで、先程の震えた素振りは演技と思われた。
軽やかなな足取りで、少女は安全柵を滑り降りる。どんどん背中は見えなくなっていく。
「ああっ!…どいつもこいつも」
とにかく今は、暗殺者を追いかけること意外は考えてはいけない。
「誰か居るのか…?おい__!?」
振り返った男の喉笛に飛び掛かり、頸動脈を締め付ける。懐に忍ばせておいたナイフで、そいつの鳩尾を刺した。横隔膜の辺りを刺されると、人は声を上げる事が出来なくなる。叶に武器を漁らせながら、男は苦しげな金魚のように口をパクパクさせていた。
案の定男はそれなりの武器と弾を携えていて、持ち合わせを穴埋めする事が出来た。
部屋には、魔族派の兵士らしき気配があって近付くことができなかった。仕方なく現場に戻り、控えていた敵兵らしき警備から武器を頂戴していた訳である。
「まあ、当分はこれで我慢するしかないか」
とにかく、ここは危ないから早く離れたほうが良さそうだ。
今は兎にも角にも時間が惜しい。会場の様子を映すモニターには、混沌とした暗闇が映っていた。葛葉の姿を確認することは出来ない。
「……信じてるよ、葛葉」
近くにあった、商人たちが着る防寒着で装備を隠す。これで軍人だと一目でバレることは無いだろう。
建物を出ると、静かな夜が叶を待っていた。月が出たお陰か、辺りが見渡しやすくなっている。
これで夜闇に紛れて逃げる事は出来なくなった。だがそれは相手もまた同じである。変装をしたのはどうやら正解だったようだ。
安堵の溜め息をついたとき、叶は足を止めた。足音が聴こえて、続いて倒れ込むような音がしたのだ。
「うっ…」
幼い嗚咽のような音が前方から聴こえて、叶は逃げる選択肢を奪われた。
くそ、今は時間が無いのに。
そう思いつつも、街の商人らしくザッザッと足音を立てて、影に近付く。
「如何なさいました?」
自分の問う声がやけに白々しく響くが、眉一つ動かしたりはしない。
倒れ込んで震えていたマントが動きを止めた。ゆっくりとフードが上を向き、顔を見せる。
叶は息を呑んだ。
___それは、小さな女の子だった。碧い眼は濡れていて、叶を認識した彼女の肩は大きく揺れる。少しの間固まった少女の目から、再びダムが決壊したように涙が溢れた。
「うぅ、う…ぁ…」
小さな身体を丸めるようにして嗚咽する少女の姿は、見ているだけで痛々しい。
困ったな。生憎、泣いている子どもを放って傷付かない心を、叶は持ち合わせていなかった。
「え、ちょっと……どうしたの、こんなところで」
叶が袖の裾で少女の涙を拭ってやろうとすると、少女は叶の手を支えに立ち上がろうとした。さり気なく少女が右肩を庇っている事も、叶の目に留まった。
叶が支える為に少女の肩に手を伸ばすと、彼女はくしゃりと顔を歪めた。急いで引いた指先には、彼女に触れた面積の分だけ血で染まっている。
「肩、怪我してるよね…?見せてくれるかな」
反応を示さない少女のマントを捲ったが、抵抗もせず、叶にされるがままになっている。
マントの下は、妙に薄着だった。応急処置に手慣れた叶は素早く彼女の肩をはだけさせ、眉間に皺を寄せた。「え、」
「銃痕…」
抉られたようにも見えるそれは傷自体は小さいが、周囲の皮膚を巻き込んで大出血を起こしている。戦場で見慣れたそれに、思わず顔を顰めそうになった。
「………さまが」
「え?」
少女の顔を見る。
「お母様たちが………」
言葉を紡いだ少女の目から、涙痕をなぞって雫が落ちていった。
こんなところに女の子がひとり居るのは変に思われたが、震える少女の姿に嘘は無かった。そして、その様子は誰かと重なった気がした。誰か、って誰なんだろう。
叶は少女の頭を撫でていた。子どもに慣れてもいない僕が、なぜそんなことを出来たのかは分からない。ただなんとなく、誰かと重なる少女の姿がそうさせた。
「お母様たちに、なにか酷いことをされたの?」
「……られた」
途切れるような声は聴き取るに難くて。
しかし叶は聞き返すことはしなかった。言わせなくても、わかってしまった。
「おかぁ、さま……ぁ」
ぼろぼろの薄着に、大きさの合わない黒いマント。血で濡れた自身の血で濡れた頬。
彼女がどんな仕打ちに遭ったかは、聞かなくても分かってしまう。
かつては叶もそうだったから。
彼女がこんなに悲しい眼をしているのは、そのせいなのだろう。
「おぉおい!」
叶を呼ぶ声が聴こえたのは、その時だった。
さっと振り返ると、物凄い剣幕で走ってくる葛葉の姿が見えた。
「あっ、葛葉ぁー!」
必死の形相をした葛葉に疑問を抱いたが、何やら心配げな表情に少々嬉しくなってしまった。
「はっ!?馬鹿、叶!離れろ」
葛葉が何やら叫んでいる。
何やら不穏な空気を感じ取って、叶は少女の方を窺った。少女はきつく歯を食いしばって苦しそうな表情をしている。
大きな声が苦手なんだろうか。少女の様子から、大きなトラウマを抱えていてもおかしくない。悪い事をしてしまった。
傷に障らないようそっと小さな頭を抱いてやると、少女がギュッと目を瞑った。
「ちょっと、葛葉この子が」
「叶」
なに___?
ピンッ、と近くで音が鳴ったのが、最後だった。爆風と熱に、意識が絶たれる。
何処からか聞こえた猫の鳴き声に、ゆっくりと目を開けた。首を回すと少し離れたところに警戒した様子の黒猫が見え、宥めるように「大丈夫だよ、」と言った。
そしてすぐに上から大きな声で、
「起きたか」
と声を掛けられる。酷く頭が痛い。葛葉の姿を捉えて、何が起こったのだろうと逡巡した。
あれ、僕今、『大丈夫だよ』と言ったか。一体何が大丈夫なんだろう。
「意識は確かか。記憶は………」
葛葉が辛そうに顔を顰める。状況を把握しようと起き上がろうとして、全身に鋭い痛みが走った。
「うっ……」
なんだこれ。頸動脈の近くは出血しているし、腹部に至ってはもはや内臓を損傷しているのではないか。
声にならない声で尋ねようとすれば、葛葉に遮られた。
「破片がいくつか当たってるみたいだから……」
葛葉の声音から、動かなければ助かる程度の傷らしいことを感じ取る。
破片、という葛葉の言葉に首を傾げ、それを理解するのにもう3秒。
碧い瞳と、叶の腰にしがみついた姿が脳裏をよぎる。
「あの子は!」
葛葉が言葉に詰まるのが分かった。叶もその様子を見て、ゆっくりと現実を理解する。
僅かな瞬間の、熱と痛みが、体に再現を経て戻ってくる。
あの子に叶が近付かれたのは、最初から目標だと認識されていただけのこと。叶は、狙われていただけのことだった。
今更理解して、悔しさのあまり唇を噛んだ。なぜ最初から気付いていなかったのだろう。葛葉の警告を聞いておきながら、それを無下にした。
自分が許せなかった。
あの子はどこだろう。例え彼女が鍛え抜かれた諜報員であろうと、いや、そうなのであれば尚更。あの涙は嘘ではないと、叶は確信していた。
「…葛葉、おねがい。」
お願い。教えて。その子はどこ。
続けざまの問いかけに、葛葉がくしゃりと顔を歪めた。辛そうに俯いて、叶に手を伸ばす。視界が覆われた。葛葉の手に遮られ、その表情を伺うことは出来ない。
「脳震盪じゃなくて良かった。少し揺れるぞ」
ふわりと身体が宙に浮いて、風を感じた。
魔界に行く気なのか。
させない。気の知れた葛葉だからこそ、叶はいつも本心をぶつけることが出来た。
「待ってよ!」
応えないまま葛葉の手に力が籠り、肩を押さえつけられる。叶はその腰に回し蹴りを入れた。
拳を振り上げ、振り下ろす。
「叶、やめろ!傷が開く」
もう一度渾身の一撃を葛葉の脇腹に埋めるも、びくともしなかった。軽い音が暗闇の中に響く。
「落ちるぞ!!」
「……てもいい。」
落ちてもいい、と繰り返す。その言葉に反応したのか、葛葉が僅かに身じろぎしたのが腕から伝わった。
「僕は、死んでもいい」
ねえ、分かって。
自分は愛情を乞う乞食なのだ。宙を回る車輪だ。歪んだ鍵だ。持て余された孤児だ。惨めな雑兵だ。壊れたトリガーなのだ。弾を与えられて、人を撃った。ぼろぼろで息をした。
それでも、今日まで生きてきた。そう。
彼女も乞食だった。宙を回り、戦に身体は歪み、持て余されていた。壊れたトリガーだ。
与えられた弾〈任務〉を鵜呑みにし、人を撃った。
それでも、今日まで生きてきた。
その少女は、僕と同じ世界を見ている。
意識を失った人間に下手に触れることも出来ず、為す術もなく待つ。
月を見上げて、その時を待っていた。叶はまだ起きない。白い瞼は閉じていて、そのすぐ上の額には、先程出来たばかりの火傷痕があった。
手榴弾のピンが外れた瞬間、葛葉は叶の体を守った。咄嗟の判断で自爆した少女ではなく、叶を彼女の身から引き剥がした感覚が、今もこの手にある。すぐ真横で爆風を受けた少女は自身の脳髄と血液で、地面を濡らしていた。
間に合わなかった。
一瞬前の、子どもを庇おうとする叶の姿が目に焼き付いている。この惨状を見て、叶は泣くだろう。いや、感謝に涙を流すか。
どちらにしろ、叫びだしたくなる衝動に駆られるだろうと、その予想は当たった。
「僕は、死んでもいい」
我が愛棒ながら、叶は勘がいい人間だと思っている。
わざわざ葛葉が変わり果てた少女を叶から遠ざけようと、子どもの命を捨ててでも自分を助けると直感で理解してしまっている。
それでも葛葉には、事実を言うことは出来なかった。震えながら過去を打ち明けた叶が、今も離れない。
人間が死ぬのなんて、もう慣れたはずだった。慣れた気になっていた。
叶が血を吐く。人間がどれほどの出血で死ぬのかなんて、葛葉はもう嫌というほど知っていた。
涙が溢れた。
もう、何もかも遅い。
もしあのとき、爆発を1番反応が速い葛葉が受けたら、他のふたりは死ななくて済んだだろうか。自分が死ぬだけで、済んだだろうか。
もし少女だけを助けたなら、命を育てることが、出来ただろうか。
叶の体は腕の中で冷たくなった。悲しみが、後悔へと変わっていく。
コメント
7件
今最初からぶっとうしで呼んだですけどシンプルに泣きましたね はい、えぐいっす語彙力どっか飛びました( '-' ) フォロー失礼します!
素敵すぎるーー