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『……ギムナジウムに入ることにした』
『え?』
その言葉をベルトランが聞かされたのは、以前とちょっとだけ変わった気持ちでウーヴェの家に遊びに来ていた時だった。
最近のウーヴェはいつ遊びに来ても勉強しているか本を読んでいることが多く、以前のように庭で遊んだりする事は少なくなっていた。
それでも友達であることに変わりは無いため、学校が終われば真っ先にウーヴェの部屋に遊びに来ているのだが、今日もハンナが作ってくれるであろうプリンを待ちわびながらウーヴェとボードゲームをしていた時に告げられたのだ。
『ギムナジウム? 大学に進学するの?』
『うん。そう思ってる。……先生ももう少し頑張れば好きな学校に入れるって言ってる』
『そっか。でもさ、家から通うんだろ?』
ギムナジウムといっても色々あり、通学できるところもあれば寄宿しなければならない所もあるが、もちろん家から通うんだろうとベルトランが当たり前のように問えばウーヴェの白くなった髪が小さく左右に揺れる。
『ううん。寄宿舎のある学校に入ることにした』
『どうして? 家から通えば良いじゃないか』
『家にいると……』
どうしても父や兄の顔を見なければならないし見なかったとしてもその存在を感じずにはいられない、それが酷く辛いのだと子供時代を一足先に抜け出したウーヴェが悲しげな顔で告げ、バートには悪いがもう決めたことだと小さく笑う。
『俺もその学校に行く!』
『バート……』
『お前が行く所に絶対に行く! ……って言いたい。でも俺も将来なりたいものがあるから、俺もごめん』
ウーヴェといつも一緒だったベルトランだが、幼なじみが事件に巻き込まれて生還した後、ようやく遊びに来られるようになった時に見た無表情の息をする人形のような顔に衝撃を受け、自身でも分からない心の動きからただただウーヴェに抱きついて泣いてしまったのだが、あれからも毎日のように通い、ちゃんと自分を見ているのかどうかも分からないウーヴェに学校での出来事や家であったこと見聞きしたことを今までと同じように話していた。
その時にウーヴェが以前のようにおやつを食べなかったため、ハンナにこっそり事情を聞けば食事らしい食事をしなくなったと教えられたのだ。
好きなものを食べるウーヴェの顔がその時脳裏に浮かび、今の人形のような顔と比べてしまってまた大泣きしたベルトランはその時密かに決意をしたのだ。
将来、自分が大きくなってウーヴェに好きなものを好きなだけ食べさせてやるようになる、と。
十歳やそこらの子どもが抱くにしてはあまりにも具体的な夢は原動力となるものの存在が大きければ大きいほど突き進む力となるのか、ベルトランはその日を境に食べることだけではなく誰かに食べさせることへ興味を持ち始め、その勉強も密かに始めていたのだ。
『夢があるんだ?』
『うん。ある。それを叶えるためならどんな勉強だってする』
だからその為に行かなければならない学校があるが、それはきっとお前の行く道とは別の道だと足を掴んで笑うと、ウーヴェの顔に小さな笑みが浮かび上がる。
『うん。きっと、違う道だ……』
でも自分たちが友達である事に変わりは無い、住むところも離れて会う機会も減るけれど、友達である事に変わりは無い、手紙を書くし電話も出来るならするとウーヴェが笑えばベルトランも釣られて笑う。
『なあ、ウー。お前は? ギムナジウムに行って大学目指すんだろうけどさ、何になりたいんだ?』
ベルトランの疑問はもっともなものだったが、少し考えるように頭を小さく左右に振ったウーヴェは、医者という言葉を告げてベルトランを驚かせる。
『医者?』
『うん。無理、かな』
『ううん。ウーは頭が良いからなれるって!』
医者になるのなら大学に通わなければならないしまた医者になっても色々時間が掛かるだろうが、自分が怪我をしたときには治療してくれとベルトランが笑いウーヴェも素直に頷くが、もし選べるのなら傷を治したり手術をしたりする医者ではなく人の気持ちを何とか出来るような医者になりたいと、その時ばかりはしっかりとした意志を目に宿してウーヴェがベルトランを見る。
『気持ち?』
『うん。……僕のような人がいれば……少しでも助けてあげたい』
『そっか』
『うん』
事件で負った傷は日に日に良くなっていくが心の傷は見えない分だけ治りが遅く分からなかった。そんな己と同じような人がいればその思いを少しでも分かりたいとギムナジウムに進路を決めた本心を吐露すると、さすがにほ乳瓶を咥えていた頃からの友人はそれで総てを察し受け入れたのか、大きく満面の笑みを浮かべたかと思うとじゃあ将来ウーはお医者さんで俺は料理人だと宣言する。
『バートは料理人になりたいの?』
『そう! ウーの食べたいものを作ってやるからさ、俺が店を出したら一番に食べてきてくれよな!』
『うん。……リンゴのタルト、食べたい、な』
『分かった。どんな店になるかわかんないけどリンゴのタルトだけはお前専用のメニューにするからな』
『ありがと、バート』
『うん』
互いの夢を知りそれに向けて歩き出したのだと気付かない二人だったが、生活する場所が離れていても気持ちは離れないことだけはしっかりと気付いていて、お互いの夢が将来叶えば良い、その時どんな大人になっているのだろうと笑いながら話しているが、ドアがノックされてウーヴェの身体に緊張が走る。
『ウーヴェ様、ベルトラン、プリンをお持ちしましたよ』
『ハンナのプリンだ! ウー、一緒に食べよう!』
『……うん』
『!』
ベルトランの誘いにウーヴェが小さく頷いたことが嬉しかったのか、ハンナがプリンと飲み物を乗せたトレイをテーブルに置くとウーヴェの前に膝をついてその顔を温かな手で撫でる。
『ハンナが腕によりを掛けて作りましたからね。美味しいですよ』
『うん。ありがとう』
『ウーヴェ様が食べて下さるのが嬉しいんですよ。ねぇ、ベルトラン』
そうベルトランを振り返ったハンナだったが、もごもごと何か口を動かしていることに気付いて手元をよく見るとベルトランが一足早く己のプリンを食べていたようで、慌てて飲み込んだのか器用なことにプリンを喉に詰めてしまう。
『バート!』
『あらあら、まあまあ』
ハンナが呆れた様な顔でベルトランにジュースを飲ませて落ち着かせると、涙目になったベルトランが照れたように笑う。
『まったく』
『へへ。ウー、やっぱりハンナのプリンは美味しいから食べよ!』
『うん』
家族の前では子どものような顔を見せることは少なくなったウーヴェだったがやはりベルトランの前では違うのか子どもらしい素直な顔で頷き、久しぶりにハンナの作ったプリンを一口食べるが前のように美味しいとは思えなかった。
ただ美味しいと言う言葉を期待しているハンナに気付き、それを裏切ることは出来ないとの思いから美味しいと伝える代わりにもう一口と頑張ってプリンを食べ続け、何とか完食するとハンナにありがとうと礼を言う。
『ウーヴェ様、食べたいものがあれば言って下さいね。いくらでもハンナが作ってさしあげますからね』
『うん。ありがとう、ハンナ』
『いいえ。じゃあベルトラン、あまり遅くなるとお母さんも心配するから早く帰るんですよ』
『はーい』
良い子の返事をするベルトランはウーヴェの様子がおかしいことに気付いていたが、ハンナの気持ちもウーヴェの気持ちも理解出来ていたため、今何を言っても無駄だろうがさっきウーヴェに告げた様に己が店を開いて料理をしたものを美味しいと思ってくれるようになればいい、そう感じさせられる料理人になろうと新たに決意をするのだった。
ウーヴェを腰にしがみつかせたままキッチンに入ったリオンは、先に入ったハンナがこの場所について詳しいのだと気づき、蜂蜜と生姜とレモン、そして白ワインを用意して欲しいと告げる。
「白ワインを使うのですか?」
「へ? ああ、ムッティ。そうそう。いつもは水なんだけどさ、それはマザーが俺たちガキでも飲めるようにしてくれてたから。今は大人ばかりだしオーヴェがちょっとでも落ち着くならって思って」
背後からの声に振り返るとそこにはイングリッドがいて、手伝ってくれることを思い出したリオンが肩を竦めるとハンナから受け取ったエプロンを手早く着けて指示を待つように腕まくりをする。
「グリューワインのようですね、奥様」
「そうねぇ、言われてみればそうね」
グリューワインとは入っているスパイスが違うが似たようなものになると笑うとリオンがなるほどと手を打ち付けるが、腰の辺りから聞こえた鼻を啜る音に目を丸くする。
「あ、オーヴェ、服で鼻をかんじゃダメだからなっ!」
ちょっとだけ待ってダーリンと告げて目にしたキッチンタオルを掴んだリオンは、ウーヴェの顔を上げさせて無造作にそれを宛がう。
「はい、オーヴェ。んーってしてみ?」
その言い方がまるっきり子どもに対するものだった為にウーヴェ以外の大人が何ともいえない顔になるが、リオンにしてみればホームと呼ぶ児童福祉施設に戻った際に行っているごくありふれた行動だった。
だからその子供達と同列に扱った訳ではないと後で言い訳することになるが、大人しくウーヴェがリオンの言葉に従って鼻をかんだ為、はいよく出来ましたとこれもまた子供達と同じ扱いをしてしまう。
「命の水作るからさ、皆と一緒に飲もうな」
「……うん」
「じゃあ作るの手伝うから、そこに座って待っててくれよ」
「……」
嫌だと言う代わりにリオンの服を引っ張るウーヴェの行動がホームの幼い弟や妹と激しく重なってしまい、あぁあああと何とも言い表しがたい声を垂れ流したリオンは、ウーヴェの前に膝をついて涙の跡が残る頬をぐいと撫でると、ハンナも言ってたが皆ここにいるだから大丈夫だ心配するなと笑い、頭のてっぺんにキスをする。
「……大丈夫、だ」
「そっか。そうだよな。じゃあさ、手を離してくれねぇか?」
大丈夫だというのならシャツを掴む手を離せとその手をぽんと叩くと、かなり激しく躊躇った後に手が離れていく。
そのやり取りを見ていたハンナがエプロンで目元を拭いイングリッドもなにやら感慨に耽っている顔だったため、もしかして小さな頃のウーヴェはいつもこんな感じで誰かについて回っていたのかと問いかけると二人の女性がそっと頷く。
その様子からウーヴェが過去を口に出し涙を流すことでいわゆる子ども返りをしたのではないかと危惧するが、覗き込んだターコイズ色の双眸は例え映し出す世界が灰色であってもリオンが見続けてきたものと何ら変わらないものだった。
その確信から一つ頷き涙を流したことへの羞恥やどのように気持ちを切り替えれば良いのか分かっていないだけだとも気付くと、危うく鼻をかまれかけたシャツを脱いでウーヴェの頭から無造作に被せると、ウーヴェの手がもそもそと動いてシャツの前を合わせその中に隠れるように身体を丸める。
「出来たら呼んでやるからなー」
「……リーオ」
「ん? どーした?」
「……ハチミツ、多めが良い」
「りょーかい。と言う訳で、ムッティ、ハンナ、今回はハチミツ多めのものを作ろうかー」
ウーヴェのリクエストに気軽に応えて指示を待つ二人に笑いかけると、温めて飲むには贅沢すぎる白ワインを惜しげも無く鍋に注ぐイングリッドに目を瞠り、ハチミツを多めに入れるハンナの豪快さに呆然とするが、二人が楽しそうにウーヴェの為、他の家族のために命の水と呼ばれる有り触れた飲み物を作り出す作業を背後から見守る。
「な、オーヴェ」
「……何だ」
「うん。……嫌味でも皮肉でも何でも無いんだけどさ、お前って本当にみんなに愛されてたんだなぁ」
お前がハチミツ多めが良いと言っただけで二人の女性が嬉しそうに楽しそうに作業をするのだからと笑うリオンをシャツの隙間から見上げたウーヴェは、その横顔が先程父の書斎で雲間から差し込む光のようだと感じたことを思い出すが、差し込む光では無くその光を降り注がせる太陽そのもののように感じ、リオンの言葉を脳裏に響かせる。
本当の太陽は俺ではなくお前だとリオンは笑ったが、ここにいてこの部屋全体を照らし出しているのは己ではなくやはりリオンの存在だと改めて気付くと止まったはずの涙がじわりと溢れ出す。
本当に今日は泣いてばかりだと呆れてしまうが、リオンの好きなだけ泣けば後は必ず笑えるという言葉を思い出し、身体の好きなようにさせようと肩に入れていた力を抜く。
「リーオ」
「ん?」
「うん……俺の太陽。お前がいるから……必ず笑える」
だから今はこうして泣くことを許してくれと泣き笑いの顔でリオンを見上げると嘲るような色も子どもなんだからと笑うような色もなく、今まで見た事がない様な優しく穏やかな顔でリオンが身を屈め、ウーヴェの塩味のする唇にキスをする。
「分かってる。だから気の済むまで泣け、オーヴェ。泣いて泣いて全部話して泣いたら……」
また二人で一緒に笑おう。二人だけではなくこれからはお前の愛する家族と皆一緒になって笑おうと囁くと、ウーヴェの口角が綺麗な角度に持ち上がる。
「……うん」
素直に頷くウーヴェのその笑顔はリオンが生を終えるその瞬間まで決して忘れる事のないもので、またそのキスも二人の中では絶対に忘れ得ないものとなる。
その二人を少し離れた場所から見守っていたイングリットとハンナだったが、互いの目に涙が浮かんでいることに気付くとそっとエプロンの裾で涙を拭い、リオンとならば絶対に今の苦境を乗り越えられるという確信をウーヴェ以上に抱き、二人や待っている家族のための飲み物を作ってしまいましょうと囁きあうのだった。