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心地良い眠りの中から無理やり引きずり出されてしまう。意識はぼんやりとしていて、夢と現実を行ったり来たりしているようだった。
僅かに息苦しさを感じる。
鼻の周りを圧迫されているような感覚もあった。呼吸がしづらいのはそれが原因だ。せっかく気持ち良く眠っていたところを妨害されてイライラする。自分の身に何が起きているのか。羽虫を追い払うように利き手で空を切った。
「おっ?」
謎の圧迫感が消えた。それと同時に自分ではない第三者の声が耳に入る。誰かいる……? 意識はどんどん覚醒に向かっていくが、体はまだ怠くて思うように動かない。それでも意を決して重い瞼を開いた。
「あ、起きた?」
俺の顔を覗き込んでいる者と目が合った。どこまでも美しく澄んだ紫色……極上の宝石をそのまま嵌め込んだようだ。見る者の心を引きこむ稀有で魅惑的なそれに視線が囚われる。
「まだ寝ぼけてるのかな。おーい、俺だよ。分かる?」
「ルーイ……先生?」
「うん。おはよう、セディ。よく寝てたね」
何で先生がいるんだ。ここは俺の部屋だろう。いるはずのない人物の登場に寝起きの頭が混乱する。
「しっかしまぁ、俺がこんなに近付いても起きないんだから驚いたよね。つい手が出ちゃったよ」
『苦しかったな。ごめんごめん』と、先生は毛ほども悪いと思っていないであろう態度で謝罪を口にする。寝ている俺の鼻を摘んで呼吸を妨害していたのは先生だった。
部屋の鍵は……かけていなかったけれど。先生の指摘通り、疲れていたとはいえ、他人にここまで接近されるまで目が覚めないなんて。この前のレオン様のように外的要因があったわけでもないのに……なんかショックだ。いや、そもそもどうして先生がここにいるんだよ。
先生は床に膝立ちをした状態で、俺が寝そべっているソファのすぐ横にいた。そうやって俺の様子を伺っていたようだ。
体を起こしてソファ前のテーブルに置かれたメガネと、愛用の懐中時計を手に取る。文字盤を確認すると13時半を過ぎていた。14時からの会合に備えて仮眠を取ろうと横になったのが12時頃だったと記憶している。思いのほか熟睡していたらしい。先生に起こされなかったら寝過ごしていたかもしれないな。
「寝ていたのは体感で10分くらいだったのですが……」
「疲れてんだろ、あんま無理すんなよ。セディまで倒れちゃうよ」
「私は大丈夫です。それより、先生はどうして私の部屋に? おかげで会合に遅刻せずにすんだので助かりましたけれど」
「どうしてって……その話し合いをする場所がここだからだろう。セディ、やっぱお前まだ寝ぼけてる?」
もうすっかり目は覚めている。寝ぼけてなどいない。先生は何を言ってるんだ。場所は『菫の間』、開始時刻は14時。間違いない。
「俺をここまで連れて来たのはレオンだぞ。あいつは親父さんに用があって、それを済ませてから来るから先にセディの部屋に行っててくれってな」
レオン様が? 聞いてないぞ。まさか……また主が俺の知らない所で何か始めたのか。隊員間での情報伝達が疎かになっているのを指摘されたばかりだったが、主からして物事を強引に進めるきらいがある。本当に会合の場所が俺の部屋になったのなら、当事者には連絡しておいて欲しいものだ。
「一応部屋に入る前もノックして呼びかけたんだぜ。でもセディは無反応。鍵もしてないしで……悪いとは思ったけど中を覗いたら、ぐーすかソファで寝てるしさ」
「開催場所が変わったとの知らせを受けていなかったもので。起きなかったのは……すみません。言い訳にしかなりませんが、普段はこんなこと無いのですよ」
「だろうね。だからこそ嬉しかった」
「え?」
「なんか信用されてるって感じ? 俺が近くにいても無防備に寝てるってことはさ……そういうことなんじゃないの」
先生は口の端を上げ、意味有りげに笑う。何度も見た。この顔は良くない……俺をからかって遊ぼうとしているな。先生は膝立ちのままソファに座っている俺の正面まで移動すると、下から顔を見上げた。
「セディが俺を受け入れてくれて感激だね」
「せっ、先生にはお世話になりましたからね。レオン様の事や……他にも色々」
「それはお互い様だろ」
いつの間にか先生の右手が俺の膝の上に乗せられている。それは緩慢な動きで太ももの内側へと移動していく。布越しではあるが、なぞるような指先の感触に背筋が震えた。
「……あの、流石におふざけが過ぎますよ」
「何が?」
絶対分かってやってる癖にしらばっくれやがって……。俺が慌てるさまを見て楽しむつもりだろうが、そうはいかない。先生にいいようにされてなるものかと、変な方向に火が付いてしまった。
「先生の真意が分かりません。まさか本気で私とどうこうなろうだなんて考えてはいないのでしょう? でしたら思わせぶりな振る舞いはやめて下さい。勘違いしてしまいます。貴方のその心無い戯れに私がどれだけ胸を痛めるか……ご存じないでしょう」
太ももに添えられた先生の手を取り、己の指を絡めた。一本一本長さや太さを確かめるように……指の又、関節と余すところ無くゆっくりと触れていく。ここで切なそうな表情を作るのも忘れない。
彼の手は俺よりも少し大きい。筋張った長い指に、短く切り揃えられた爪。爪はうちで働くと決めた時に切ったのだと言っていたな。髪の毛の事といい、妙なとこ真面目だよなぁ……この方は。
先生は瞳を大きく見開いていた。俺のこの切り返しは予想できなかったようだ。ささやかながら一矢報いることに成功して顔がニヤけてしまう。自分は存外負けず嫌いなのだ。さあ、先生どうでる。
「あれ、先生……?」
先生の様子がおかしい。右手はいまだ俺と繋がっており、されるがままになっている。違和感を感じたところで先生が動いた。彼は空いている左の手で自身の口元を覆い隠す。俺から目線を外して、ぶつぶつと何かを呟き始めた。
「は? 嘘だろ。だってそんな……ちょっ、待っ……あり得ない。俺が? うわぁ……あぁ……」
頬から耳にかけてが赤く染まっていく。先生は酷く動揺していて、呻き声のようなものまで聞こえてきた。ほんのちょっとだけやり返してやろうという軽い気持ちだったのに……先生の態度が不穏過ぎて心配になってくる。というか怖い。
「あの、ルーイ先生。大丈夫ですか?」
「セドリック……」
「……はい」
低く凄むような声で名を呼ばれる。こんな声、初めて聞いた。ひょっとして怒らせてしまったのだろうか。いつもの愛称呼びじゃないのも怖い。怖い……
「お前……責任取れよ」
先生は右手を思い切り引いた。その手と繋がっていた自分も当然だが一緒に引き込まれる。不意をつかれた事もあってか受け身も取れなくて、そのまま真っ直ぐ倒れ込むようにバランスを崩してしまった。
かつてないほどの至近距離に先生の顔がある。近過ぎて視点が合わず、ぼやけている。いや、ぼやけているのは衝撃で眼鏡が外れたせいもあるか。
唇に押し付けられた少し冷たくて柔らかい感触の正体。分かっているけど……理解したくない。
仕返しをしようだなんて思わなければ良かった。自分のちっぽけな対抗心がこの事態を招いてしまったのだと……今更後悔しても遅い。
俺はこの日、神様に唇を奪われた――