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#ご本人様とは一切関係ありません
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あんにんどう腐(ゆ腐)
2,751
#ご本人様とは一切関係ありません
さくら(皇千ト君最推し)
2,469
夜道。
しばらく笑い合ったあと、ふたりはやっと歩き出した。
さっきまでの張りつめた空気が嘘みたいに、今は少しだけ軽い。
夜風も、さっきよりやわらかく感じる。
でも――
やっぱり、少しだけ違う。
カノンは歩きながら、無意識に自分の唇へ指先を触れさせた。
ほんの一瞬だけ。
(……したよな、今)
さっきのキス。
事故じゃない。
酔ってもいない。
ちゃんと、自分の意思で触れたやつ。
思い出した瞬間、また胸の奥がうるさくなる。
横を見る。
ゴイチはいつもの顔で歩いていた。
ポケットに手を突っ込んで、少し前を見ながら、何でもないみたいに歩いている。
(なんだよ、その顔)
カノンの眉が少し寄る。
(さっきキスした男の顔じゃねぇだろ)
そう思ったところで、ゴイチが横目でちらっとこっちを見た。
「……どうした」
カノンは反射みたいに前を向く。
「いや」
少しだけ唇を尖らせる。
「普通すぎない?」
ゴイチの眉が動く。
「何が」
カノンは歩きながら片手を軽く振った。
「いや、ほら」
少しだけ言いにくそうにして、でも結局そのまま言う。
「さっきさ」
一拍。
「……キスしたじゃん」
ゴイチの歩幅が、ほんの少しだけズレた。
カノンはそれを見逃さない。
「なのに」
少し笑う。
「その顔なに」
ゴイチは小さく息を吐いた。
それから、少しだけ空を見上げる。
「……普通に歩いてるだけだろ」
カノンはすぐ返す。
「普通じゃねぇよ」
ゴイチが止まる。
カノンもつられて止まる。
街灯の下。
夜の住宅街。
人の気配はほとんどない。
「相棒とキスしたあとだぞ?」
カノンの耳は、もう隠しようもなく赤い。
ゴイチはそれを見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……そうだな」
その一言だけで、カノンの胸がドンと鳴る。
ゴイチはゆっくり近づいた。
一歩。
「じゃあ」
もう一歩。
「普通じゃないこと」
カノンの目が少し大きくなる。
ゴイチはカノンの肩へ手を添えて、軽く後ろへ押した。
背中が、すぐ後ろの街灯の柱へ預けられる。
逃げ道はある。
でも、近い。
近すぎる。
「もう一回するか?」
カノンの心臓が暴れる。
「……は?」
ゴイチは少しだけ首を傾けた。
「確認」
カノンは思わず笑う。
「お前それ」
少し息を漏らすみたいに。
「便利な言葉にすんなよ」
ゴイチは静かに言う。
「さっき」
少しだけ目を細める。
「お前からだった」
カノンの呼吸が止まる。
ゴイチはそこで、少しだけ顔を寄せた。
でも、触れない。
その距離で止まる。
「今度は」
低く落とす。
「俺の番だろ」
カノンの耳が真っ赤になる。
言葉に詰まる。
でも、逃げない。
むしろ、そこで小さく笑った。
「……ほんと」
少し目を伏せる。
「ズルい男だな」
それでも、顔は逸らさない。
むしろ少しだけ、顎を上げた。
その瞬間。
ゴイチの唇が、静かに重なった。
最初はやわらかい。
本当に、触れることを確かめるみたいなキスだった。
でも、カノンが逃げる気がないのを確認した瞬間、
浅いままなのに、さっきよりずっと意志がある。
優しいだけじゃない。
確かめる、というより――ちゃんと自分のものとして覚えさせるみたいなキス。
「……っ」
びっくりして、カノンが思わず目を開ける。
心臓が追いつかない。
しかも、ゴイチの方が今はずっと落ち着いて見えるのが悔しい。
思わずゴイチの胸を押した。
「ちょ……」
唇が離れる。
カノンは視線を落としたまま、何度か瞼を瞬かせる。
呼吸が整わない。
ゴイチは目を細めて、カノンの顔のすぐ横で声を落とした。
「……これが、俺の確認」
その声が、やたら近い。
カノンの肩がぴくりと揺れる。
ゴイチはそれだけ言うと、ゆっくりと正面へ戻った。
ちゃんとカノンの顔を見る。
カノンは顔を真っ赤にしたまま、ゴイチを見返した。
その瞬間、頭の中に八崎の言葉が蘇る。
相棒ってさ
一番危ないやつ
(……あ)
今になって、ようやくその意味が胸の内へ落ちる。
ただ長く一緒にいたからじゃない。
気心が知れてるからじゃない。
何でもない距離で笑って、支えて、隣にいられる相手だったからこそ。
そこから恋に変わった時、どうしようもなく深い。
(俺は、ヤバい奴に恋をしてしまったかもしれない)
カノンはそんなことを思ってしまう。
「お前なっ……今のは……」
何か言い返したい。
でも、言葉がうまくまとまらない。
ゴイチが少し屈んで、カノンの顔を覗き込む。
「何だよ」
その声にまた胸が鳴る。
カノンは悔しそうに眉を寄せる。
「確認ってレベルじゃねぇだろ、今の……」
「そうか?」
「そうだよ!」
「でも、お前」
ゴイチは少しだけ笑った。
「ちゃんと逃げなかったじゃん」
それを言われて、カノンはまた言葉に詰まる。
逃げなかった。
確かに。
むしろ、受けた。
それがいちばん悔しくて、でもいちばん嬉しい。
ゴイチはそんなカノンの目を見て、ふっと笑う。
それから静かに言った。
「確認したくなったら」
一拍。
「いつでもどうぞ」
カノンの目が少しだけ見開かれる。
次の瞬間、ゴイチはそっとカノンの額にキスを落とした。
軽く。
でも、やけに甘い。
「っ……」
カノンの呼吸がまた跳ねる。
ゴイチはそのまま、ゆっくりと離れた。
距離ができる。
夜風が間に入る。
なのに、さっきよりずっと近い感じがした。
カノンは柱に背中を預けたまま、しばらく動けない。
額が熱い。
唇も熱い。
胸なんて、もうどうしようもない。
ゴイチは少し離れた場所で、何でもない顔を装いながら立っている。
でも、耳だけは少し赤い。
それを見つけて、カノンは思わず小さく笑った。
「……お前もじゃん」
「何が」
「普通じゃねぇの」
ゴイチは一瞬だけ黙って、それから小さく息で笑う。
「そりゃ、相棒とキスしたあとだからな」
その返しに、カノンはまた心臓をやられる。
なんなんだ、今日。
なんでこんなに一個一個が強いんだ。
でも、嫌じゃない。
むしろ、ずっとこうやって、ゆっくり変わっていくのかもしれないと思った。
相棒だった時間を急に壊すんじゃなくて。
その延長に、こういう夜が少しずつ増えていく。
それはたぶん、付き合った直後の甘さより、ずっと深く効くやつだった。
何でもない夜道。
何でもない街灯の下。
なのに、ふたりにとってはちゃんと忘れられない夜になっていた。
翌朝のスタジオ。
カノンは、明らかに寝不足だった。
眠れていないわけじゃない。
たぶん少しは寝た。
でも、質が悪かった。
ベッドに入ってからも、帰り道のことばかり頭の中で反芻していたからだ。
事故じゃないキス。
街灯の柱。
「俺の番だろ」
額に落ちた軽いキス。
“確認したくなったら、いつでもどうぞ”
全部思い出せる。
余計に寝られるわけがない。
「……っはぁ」
カノンは朝のスタジオで、コーヒーを片手に壁へ背中を預ける。
メンバーはもう何人か来ている。
ルイはストレッチ中。
タイキは床に座ってスマホを見ていて、アダムは飲み物を取りに行っていた。
その中で、ゴイチだけがいつも通りだった。
ほんとうに、いつも通り。
「おはよ」
何でもない顔で、何でもない声。
カノンは反射みたいにそちらを見る。
「……お、おう」
自分だけ少し反応がぎこちない。
ゴイチはそれにも特に触れない。
バッグを置いて。
軽く肩を回して。
そのまま自然な流れでカノンの前を通る。
そして、通りすぎざまに。
ぽん、と。
カノンの頭を撫でた。
本当に自然だった。
雑にじゃない。
でも、特別な意味があるようにも見せない。
寝癖でも直すみたいに、さらっと一回。
スタジオの空気が、ぴたりと止まる。
ルイのストレッチが止まる。
タイキの目がスマホから上がる。
アダムは飲み物を持ったまま、一瞬だけ動きを止めた。
全員。
「……?」
カノンが一拍遅れて、ガバッと顔を上げる。
「おい!!」
耳まで真っ赤だった。
ゴイチは平然と振り返る。
「何だよ」
「何だよじゃねぇだろ!!」
「寝癖」
「寝癖じゃねぇよ!」
「ついてた」
「今のやり方が問題なんだよ!」
ゴイチは小さく息を吐く。
「朝からうるせぇな」
「うるさくなるだろ!」
タイキが床から、ぽかんとした顔で呟いた。
「え、普通に頭撫でたよな?」
ルイが少しだけ目を細める。
「しかも何の迷いもなく」
アダムが静かに言う。
「朝から濃い」
「濃くねぇよ!」
カノンがすぐ返す。
「なんで全員、そこに乗るんだよ!」
ゴイチはもうカノンから視線を外して、自分の飲み物を開けていた。
本当に普通だ。
それが余計に腹立つ。
(なんなんだよ、こいつ……)
昨日あんなことしたくせに。
なんで朝からこんな平常運転なんだ。
そう思ってるのに、胸の奥はさっきの一回だけでまたうるさい。
リハが始まっても、カノンはどこか落ち着かないままだった。
立ち位置確認。
振りの合わせ。
フォーメーション移動。
そのたびに、ゴイチは必要以上に距離を測らない。
ぶつかりそうなら自然に肩を引く。
位置がズレたら腰の横を軽く叩いて「そこ」と言う。
飲みかけのペットボトルを置き忘れていれば、何も言わず隣へ置き直す。
全部、今までだってやっていたことだ。
やっていた、はずなのに。
今は全部、意味が変わる。
タイキが途中で、アダムに小声で言う。
「これ、もう隠す気ないのかな」
アダムは淡々としていた。
「隠してるつもりなんじゃない」
「ゴイチの中では」
「それが一番やばくない?」
「かなり」
ルイは鏡越しにその二人を見ながら、口元だけで少し笑った。
「マイペースな男が恋愛すると、ああなるんだな」
その評が、妙に正しかった。
休憩に入ると、カノンはコーヒーを持ったままゴイチの横を通る。
「……お前、朝のあれわざとだろ」
小声で刺す。
ゴイチはベンチに座ったまま、足首を回している。
「何が」
「頭」
「寝癖」
「だからそこじゃねぇんだって」
「でも直っただろ」
「そういう問題じゃねぇよ!」
ゴイチがそこで初めて少しだけ口元を緩める。
「赤くなんの早かったな」
カノンが一瞬止まる。
「……っ、うるさい」
「否定しねぇんだ」
「うるさい!」
また耳まで赤くなって、カノンはその場を離れる。
その背中を見ながら、タイキが小さく笑った。
「漏れてるな。色々」
アダムは頷く。
ルイがタオルで首を拭きながら言う。
「一番見えてないの、カノンだろ」
「たしかに」
タイキが笑う。
「ゴイチは見えててやってる顔だし」
その通りだった。
ゴイチはわりとわかっている。
でも、わかっていても直すつもりがない。
それがまた、カノンにはやりにくい。
スタジオの空気はいつも通り回っているのに、
その中でゴイチとカノンだけ、確実にひとつ先へ進んでいた。
⸻
その日の夕方、スタジオの空気が少し落ち着いた頃だった。
練習終わりの間際。
汗も引き始めて、メンバーがそれぞれ荷物をまとめたり、水を飲んだりしている。
その時、カノンのスマホが震えた。
画面を見る。
八崎
カノンの指が一瞬だけ止まる。
「どうした?」
すぐ横から、ゴイチの声。
「……あ、いや」
カノンが画面を伏せる。
「八崎くん」
ゴイチの目が、ほんの少しだけ細くなる。
でも声は平らだった。
「何だって」
「番宣コメントの件」
カノンはスマホを見直す。
「今夜ちょっと通話できるかって」
「ニュアンスとかコメントでどう言うか確認したいらしい」
少しだけ間。
スタジオの空気は普通だ。
でも、ゴイチの内側だけが少しざわつく。
八崎。
通話。
嫌な単語が綺麗に並んでいる。
でも、顔には出さない。
「返しとけ」
ゴイチが先に言った。
カノンが少しだけ目を上げる。
「え?」
「待たせんな」
ゴイチは淡々としている。
「仕事だろ」
「……あぁ」
カノンは少し迷いながらも、メッセージを返そうとする。
でも、なぜか少しだけ動きが鈍い。
「なんだよ」
ゴイチが聞く。
カノンはスマホを持ったまま、小さく言う。
「いや」
「こういうの、お前に見せるのちょっと変な感じするなって」
その言葉に、ゴイチの喉が小さく鳴る。
でも返ってきた声は低くて静かだった。
「見せてるわけじゃねぇだろ」
「困ってるから、今ここで止まってんだろ」
カノンは少しだけ苦笑する。
「……まぁ」
ゴイチはそこで、小さく息を吐いた。
「だったら返せ」
「どうせ今日中にやんなきゃなんねぇんだろ」
その言い方は優しい。
でも、その優しさの奥に、微かにざらついたものがある。
カノンはそれに気づく。
「……お前、嫉妬してる?」
冗談半分みたいに聞いたつもりだった。
でも、ゴイチは否定しなかった。
少しだけ視線を落として、それからカノンを見る。
「してる」
カノンの呼吸が、一瞬止まる。
こんなにあっさり認めると思っていなかった。
ゴイチはそのまま続ける。
「してるけど」
「困ってんだろ」
一拍。
「それとこれとは別」
低くて、落ち着いた声だった。
カノンの胸が、じわっと熱くなる。
嫉妬してる。
でも手伝う。
困ってるなら、そっちを先に取る。
そういう男なんだと、改めて思い知らされる。
「……お前、ずるい」
ぽつりと漏らす。
ゴイチは少しだけ眉を上げた。
「何が」
「そうやって、優しいまま嫉妬すんの」
ゴイチは一瞬だけ黙る。
それから、カノンの首元へ手を伸ばした。
「動くな」
「え?」
カノンのTシャツの襟元に、イヤモニのケーブルが引っかかっていた。
ゴイチはそれを外して、ついでみたいに首元を軽く整える。
指先が肌の近くをかすめて、カノンの肩がぴくっと揺れる。
「……今それやる?」
「気になったから」
「嘘つけ」
「半分ほんと」
ゴイチは平然と言う。
そして、そのまま少しだけ顔を寄せた。
周りから見れば、荷物を片づけながら小声で話してるだけにしか見えない距離。
でもカノンにとっては、だいぶ近い。
「八崎との通話、やれよ」
低い声。
「でも」
ほんの少しだけ目を細める。
「終わったら俺にも連絡しろ」
カノンの目が、わずかに大きくなる。
「……なんで」
ゴイチはもう一度、襟元を指で整えてから手を離した。
「嫉妬してるから」
静かに言う。
「そのまま寝られると、余計なこと考える」
その真っ直ぐさに、カノンは言葉を失う。
なんだそれ。
めちゃくちゃ優しいくせに、ちゃんと嫉妬も隠してない。
いちばん危ないやつだろ、と思う。
「お前さ……」
「ん?」
「それ、普通の顔で言うなよ」
「無理」
ゴイチは小さく言う。
「今もう、普通の”ふり”しかできねぇから」
その一言に、カノンの胸がまた鳴る。
八崎に言われた言葉が、今度は別の形でよみがえる。
相棒ってさ
一番危ないやつ
ほんとうにそうだと思った。
だって今、目の前の男は嫉妬しているのに優しい。
独占したいくせに、仕事を優先する。
しかもその両方を隠さず、でも押しつけすぎずに置いてくる。
カノンが黙ったまま立っていると、ゴイチは少しだけ屈んで顔を覗き込んだ。
「何だよ」
カノンは少し遅れて、やっと言う。
「……お前、ほんとやばい」
ゴイチが口元だけで少し笑う。
「知ってる」
それもまた、妙に男だった。
少し離れたところで、アダムが静かにタイキへ言う。
「今の顔」
タイキがこそっと返す。
「ゴイチ?」
「うん」
アダムは目を細める。
「だいぶやばい」
ルイもそれを横目で見て、小さく息だけで笑った。
「一番タチ悪いタイプだな」
「嫉妬してんのに、優しくすんの」
「わかる」
タイキが頷く。
「逃げ場なくない?」
本当に、その通りだった。
その日は、珍しく早めに切り上げられたスケジュールだった。
リハも思ったより押さず、撮影確認も少なくて、
「今日早いな」なんてメンバー同士で軽口を叩けるくらいには、余裕のある終わり方だった。
カノンとゴイチも、自然な流れで一緒にスタジオを出た。
夕方の街は、まだ少し明るさを残している。
空は薄曇りで、風は少し湿っていたけど、雨が降る気配までは読めなかった。
「今日、久々にまともな時間に帰れんじゃん」
カノンが肩を回しながら言う。
「お前、それ毎回言ってるな」
ゴイチが小さく返す。
「毎回まともじゃねぇんだから仕方ねぇだろ」
そんなやり取りをしながら、いつもの道を歩く。
でも、その穏やかな時間は長く続かなかった。
ぽつ。
最初は本当に、小さな一粒だった。
「ん?」
カノンが空を見上げる。
次の瞬間には、ぽつ、ぽつ、ぽつ、と音が増えて、
その数秒後には――
「うわ、待っ……!」
ザァッと一気に雨脚が強くなる。
「は!?」
「早ぇよ!」
二人は反射的に駆け出した。
近くの建物の軒先。
コンビニでもない、閉まった小さな店舗の前。
ほんの少し雨を避けられる程度の浅い屋根の下へ飛び込む。
「っは……」
「なんだこれ……」
息を整えながら、二人は揃って空を見た。
さっきまでの曇り空が嘘みたいに、雨は本気だった。
細い雨じゃない。
地面を白く揺らすくらいの、しっかりした大雨。
「マジかよ……」
カノンが髪をかき上げる。
駆け込んだとはいえ、肩や前髪はしっかり濡れていた。
ゴイチも同じだ。
シャツの肩口が濡れて色を変えている。
前髪の先から、ぽたり、と水滴が落ちる。
軒先は狭かった。
二人並んで立てる。
でも、ちゃんと距離を取ろうとすると片方の肩が濡れるくらいには狭い。
だから自然と近くなる。
何も言わないのに、腕が触れそうな距離。
吐いた息が少し混ざるくらいの距離。
雨音が大きいせいで、周囲の音はほとんど消えていた。
この狭い空間だけ、妙に世界から切り離されたみたいになる。
(てか……)
カノンは横目でちらっとゴイチを見る。
(雨に濡れてるコイツ……)
シャツの生地が少しだけ肌に沿っていて、
首筋には水滴が伝っていて、
前髪はいつもより重たく落ちていて。
(目のやり場に困るんですけど……)
思わず、そろ〜っと目を逸らす。
でも、逸らした先にあるのは狭い壁だけで、
結局また意識は隣へ戻ってきてしまう。
近い。
近すぎる。
しかもゴイチは、こういう状況で変に慌てない。
平然とした顔でそこにいる。
それが余計にカノンを困らせる。
「……近いって」
小さくぼやいて、カノンはゴイチの胸をくっと押した。
押した、と言っても本気じゃない。
距離を取るための軽い抵抗みたいなものだ。
ゴイチは一瞬だけカノンを見た。
その視線に、カノンの心臓がぴくっと跳ねる。
でもゴイチは何も言わない。
ふぅ、と小さく息を吐いて、
何事もなかったかのように少しだけ身体を離した。
それから、そのまま空を見上げる。
「これ、しばらく止まねぇな……」
低く、静かな声。
その横顔が、やけに綺麗だった。
濡れた前髪。
少しだけ濡れた睫毛。
顎の線。
何でもないふうに空を見る目。
カノンはその横顔を見たまま、胸のざわつきが止まらなくなる。
(なんなんだよ……)
さっき、少し離れたはずなのに。
むしろちゃんと距離をくれたはずなのに。
それでもこの男は、どうしてこうも普通に色気を出してくるんだろう。
雨音が強い。
二人とも少しだけ濡れていて、
狭い軒先の下で、同じ方向を見て立っている。
それだけなのに、空気が妙に甘い。
カノンは視線をゴイチから逸らしたまま、ぼそっと言った。
「……今…そういう空気だった……」
雨音の中に落ちる、小さな本音。
ゴイチはすぐには返さない。
空を見たまま、少しだけ目を細める。
それから、静かに言った。
「まぁ」
一拍。
「カノンが確認したいってなったら」
ゴイチはまだ空の方を向いている。
でも、目だけがこちらを見た。
「俺はいつでも」
カノンの心臓が大きく跳ねた。
「っ……」
呼吸が少し乱れる。
そのままゴイチは、濡れた自分のジャケットを脱いで、カノンの頭にふわっと被せた。
「え」
「冷えるだろ」
何でもないみたいに言う。
でも、そのジャケットの中に隠れた瞬間、カノンは余計にだめだった。
(隠したところで……)
(ゴイチの匂いしかしねぇ……)
濡れた布の匂い。
柔軟剤の残り香。
体温の気配。
全部がゴイチだった。
カノンはジャケットの中に少し隠れるようにして顔を伏せる。
でも、隙間から見えるゴイチの横顔から目が逸らせない。
雨を見ている横顔。
さっき「いつでも」なんて言った口元。
平然としているくせに、ちゃんとこっちを揺らしてくる男の顔。
「……お前さ」
カノンがジャケットの中からくぐもった声で言う。
「ん?」
「そういうの、普通に言うなよ」
ゴイチは少しだけ口元を動かした。
「普通に聞こえたか?」
「最悪に聞こえた」
「ならよかった」
「よくねぇよ」
カノンがむっとして言い返す。
でも、その声には本気の怒りなんてない。
ゴイチはそこでようやく、少しだけカノンの方へ向き直る。
「確認したいんだろ?」
雨音の中でも、ちゃんと聞こえる低さだった。
カノンはジャケットの端を指で掴む。
「……したいっていうか」
「うん」
「お前がそう言うと、したくなる」
言ってから、自分で何を言ってるんだと思う。
耳が一気に熱くなる。
でも、ゴイチは笑わなかった。
少しだけ目を細めて、ほんの少しだけ近づく。
軒先は狭い。
もうこれ以上離れようとしても、壁か雨しかない。
「それ、だいぶ危ないな」
「お前のせいだろ」
「知ってる」
またその返し。
カノンはジャケットの中で小さく息を呑む。
ゴイチはそこで一度だけ、カノンの頭の上からジャケットを軽く押さえた。
濡れないように、というより。
その中に隠れたカノンごと大事に扱うみたいな手つきで。
「風邪引くから」
そう言って、ゴイチはまた外の雨を見る。
「止むまでここだな」
カノンはジャケットの中から、じっとその横顔を見つめた。
(止まなくていいかも)
一瞬だけ、そんなことまで思ってしまう。
隠れたところでゴイチの匂いしかしない。
しかも、この隙間から見える横顔がやけに近い。
胸のざわつきは、もう収まる気配がなかった。
何でもない雨宿りのはずなのに。
ただの帰り道の途中のはずなのに。
二人の間にはまた、ゆっくりと
“相棒”だけじゃ言い切れない甘さが溜まっていく。
雨はまだ、しばらく止みそうになかった。
雨は、まるで空が壊れたみたいに降っていた。
軒先に立っていても、風に煽られた雨粒が横から入り込んでくる。
足元はもうだいぶ濡れていて、このまま止むのを待つには少し厳しい。
ゴイチは雨を鬱陶しそうに見つめた。
少しだけ考えるような顔をして、視線を前に向けたまま言う。
「このまま走って、俺ん家来る?」
カノンが顔を上げる。
「……は?」
ゴイチはあくまでさらっとしていた。
「近いし」
それだけ。
なのに、その一言の破壊力がまるで軽くない。
カノンの心臓が一瞬遅れて鳴る。
「いや、でも」
「この雨だぞ」
ゴイチが空を見る。
「お前の家まで行ったら普通に風邪引く」
「俺ん家の方が近い」
理屈は、たしかにその通りだった。
その通りなのに、カノンの頭の中だけが変にうるさい。
ゴイチの家。
このタイミングで。
雨宿りの延長で。
しかも、今のこの空気のまま。
「……行く」
気づけば、そう返していた。
ゴイチが小さく頷く。
「よし」
「走るぞ」
「いや、これ走ってどうにかなる雨か?」
「ならねぇけど、立ってても無理だろ」
「雑!」
言いながら、二人は顔を見合わせる。
次の瞬間には、小さく笑って一気に飛び出した。
⸻
目の前が見えないくらいの土砂降りだった。
アスファルトを叩く雨の音。
跳ね返る水。
靴の中まで浸透してくる冷たさ。
「うわっ、無理無理無理!」
「黙って走れ!」
カノンが半分笑いながら叫ぶと、ゴイチも珍しく声を張る。
もうこの時点で、濡れるとか濡れないとかの次元じゃない。
シャツは肌に張りつく。
前髪は目に入る。
息を吸えば、湿った空気が肺まで冷たい。
それでも二人は止まらず走った。
そしてようやく、ゴイチの家の前に辿り着く。
玄関の屋根の下へ飛び込んだ瞬間、二人とも揃って息を吐いた。
「っは……!」
「……やば」
目の前が真っ白になるくらい濡れている。
服からぽたぽたと雫が落ちて、玄関先の床をどんどん濡らしていく。
カノンは笑いながら髪をかき上げた。
「ここまで来るともう笑うしかねぇな」
「お前、笑ってる場合か」
ゴイチも息を整えながら鍵を開ける。
「ちょっと待ってろよ。タオル持ってくる」
水を含んだ服が、動くたびに重い音を立てる。
ゴイチは靴を脱いで中に入ると、そのまま廊下の奥へ行った。
「あと、風呂」
独り言みたいな声が聞こえる。
そのまま洗面の方へ消えていく。
カノンは玄関でひとり、濡れたまま立ち尽くした。
(俺の考えすぎなのか……)
(いや、でも……)
この状況を、意識しない方が無理だった。
ゴイチの家。
ずぶ濡れ。
二人きり。
ついさっきまで、雨の下であんな会話をしていた後だ。
首筋を伝う雨水がやけに冷たい。
でも、胸の奥だけはずっと熱いままだった。
頭からかけられていたゴイチのジャケットは、もうほとんど意味をなしていない。
カノンはそれを脱いで、腕に引っかける。
顔に張りついた髪を片手でかき上げると、水滴がぽたりと落ちた。
その時。
洗面所の方から戻ってきたゴイチが、廊下の途中で一瞬止まる。
首にはバスタオル。
自分の頭を軽く拭きながら、でも目だけはまっすぐカノンを見ていた。
「大丈夫か?」
そう言って近づいてくる。
カノンが何か返すより先に、ゴイチは持っていたバスタオルをそのままカノンの頭から肩へ、ふわっとかけた。
優しい手つきだった。
本当はそのまま、風呂へ行けって言うつもりだったのだと思う。
でも。
濡れたカノンを正面から見たゴイチの視線が、思わず落ちる。
顔。
首元。
濡れて肌に張りついた服のあたりまで。
ほんの一瞬。
でも、カノンはそれを見逃さなかった。
「……意外」
ぽつりと落とす。
ゴイチが少しだけ眉を上げる。
「何が」
カノンは濡れた前髪の隙間から、ゴイチを上目で見た。
「余裕ねぇじゃん」
その言葉に、ゴイチの喉が小さく鳴る。
一瞬だけ、目が細くなる。
でもすぐにふっと笑った。
「それ、俺に何て言ってほしいんだよ」
視線を少し落としながらの、その笑い方がやけに男っぽくて、カノンの心臓が跳ねる。
ゴイチはそのまま、カノンの肩にかけたバスタオルを両手で持ち直した。
そして、頭を拭き始める。
ざしざしというより、丁寧に水気を吸わせるような手つき。
でも、顔の前のタオルは少しだけ閉じ気味で、まるで自分の表情を隠すみたいだった。
「ちょ、ゴイチ……」
「黙ってろ」
低い声。
「こんだけ濡れてりゃ、余裕も無くなるだろ」
そのセリフに、カノンの心臓が大きく跳ねる。
息がうまくできない。
ゴイチの手は止まらない。
髪の水気を取って、耳の横を軽く押さえて、首筋のあたりもざっと拭っていく。
近い。
近すぎる。
「風邪引かれたら、困るって意味でな」
そう言って、ゴイチはタオルを外した。
またいつもの顔に戻っている。
それが余計にたちが悪い。
「風呂、そっち」
廊下の奥を顎で指すように示す。
カノンはまだ少し固まったまま、バスタオルを胸元で握る。
「……お前さ」
「ん?」
「そういうの、あとから付け足すなよ」
ゴイチが少しだけ振り返る。
「何が」
「“困るって意味”とか」
カノンは顔を赤くしたまま言う。
「そういう保険みたいなやつ」
ゴイチは数秒だけ黙ってから、小さく息を吐いた。
「保険じゃねぇよ」
その返事が思ったより真っ直ぐで、カノンはまた言葉に詰まる。
ゴイチはそれ以上何も言わない。
ただ、バスタオルを首にかけ直して、少しだけ視線を逸らす。
「早く行け」
「そのまま立ってると、ほんと風邪引く」
カノンはしばらくその横顔を見ていた。
濡れた前髪。
首元にかかったタオル。
少しだけ赤い耳。
(余裕ねぇの、そっちもじゃん……)
そう思うと、胸の奥が少しだけやわらかくなる。
「……じゃ、借りる」
「おう」
短いやり取り。
でも、そこにある温度はもう前とは違っていた。
カノンはバスタオルを抱えたまま、ゴイチに示された方へ歩いていく。
その背中を見送りながら、ゴイチは小さく息を吐いた。
視線を逸らせなかったこと。
余裕がなかったこと。
全部、たぶん気づかれている。
「……無理」
誰にも聞こえない声でそう溢して、濡れた髪をもう一度乱暴に拭う。
でも、その口元は少しだけ緩んでいた。
洗面の入り口に立ったカノンの顔は、まだ赤かった。
雨に濡れたせい。
走ったせい。
――なんて、もう言い訳にもならないくらい、耳まで熱い。
バスタオルを胸元で握ったまま、洗面のドア枠に手をかける。
灯りのついた脱衣所は、妙に明るく見えた。
その背中に、ふっと気配が近づく。
ゴイチだった。
カノンの赤い顔を見て、ゴイチが少しだけ目を細める。
「カノン」
低い声で名前を呼ばれて、カノンの肩がぴくっと揺れた。
思わず振り返る。
ゴイチはもう、すぐ後ろに立っていた。
近い。
玄関先の時より、雨宿りの軒下の時より、ずっと近く感じるのは、ここが家の中だからだろうか。
狭い洗面の入り口。
逃げ場の少ない廊下。
それだけで、妙に距離が濃くなる。
「ゴイチ……?」
カノンはそのまま、一歩だけ後ずさるように洗面へ入る。
ゴイチの手が伸びた。
(来るっ……)
一瞬で心臓が跳ねる。
でも、その手はカノンの身体じゃなく、その横へ伸びた。
「これ」
カノンの横に差し出されたのは、バスタオルと着替えだった。
「バスタオルと服」
ゴイチが淡々と言う。
「俺のだけど」
そこでようやく、カノンは自分がとんでもない勘違いをしたことに気づく。
「……あ」
情けないくらい小さな声が漏れた。
ゴイチはそのまま、見下ろす形でカノンを見る。
カノンは手を胸の前で少し縮めたまま、見上げるしかない。
視線が合う。
それだけでまた心臓がうるさくなる。
「服乾くまで、着てていいから」
ゴイチの声は、やけに普通だ。
「ごゆっくりどうぞ」
しかも最後は、ちょっと笑顔だった。
それがまたたちが悪い。
何でもなかったみたいに。
さっき濡れたカノンに視線を落としたことも、余裕が少しなくなってたことも、全部誤魔化すみたいな顔で。
そう言って、ゴイチは背を向けた。
そのまま洗面の前から離れていく。
濡れた髪をタオルで拭きながら、ほんとうに何でもないみたいに。
「……っは」
カノンはその場に取り残されて、小さく息を吐く。
頭どころか、心臓まで爆破寸前だった。
(なんなんだよ、ほんと……)
さっきから何回同じことを思ってるんだろう。
ゴイチは距離を詰めてくるくせに、最後の最後でちゃんと引く。
でもその引き方が、余計に甘い。
バスタオルと服を受け取りながら、カノンは洗面台の鏡を見る。
自分の顔が、ひどい。
髪は濡れてる。
頬は赤い。
目だけ妙に潤んで見える。
「無理だろ……」
誰にも聞こえないくらいの声で呟く。
それでも、ゴイチの服を胸に抱いた瞬間、また別の意味で心臓が跳ねた。
(これ着んの……?)
もう、何をしても平常心に戻れる気がしなかった。
一方で。
濡れた服をサッと着替えたゴイチはキッチンへ入ると、首からかけたタオルで前髪ごと拭きながら小さくため息をついた。
「……もう少し、警戒心持ってくれ……」
誰に言うでもなく、ぽつりと漏れる。
ほんとにそうだった。
赤い顔のまま、濡れたまま、洗面の入り口で振り返って。
しかも、手を伸ばしただけで「来る」と思った顔をしていた。
あんな顔されたら、こっちの方が危ない。
ゴイチはため息をつきながら、コーヒーを淹れる準備を始める。
キッチンに立つ。
棚を開ける。
マグカップを出す。
コーヒーの粉を量る。
手は動く。
でも、頭の中は全然静かじゃない。
ふっと浮かぶ。
カノンの濡れた姿。
髪が頬に張りついていたこと。
シャツが少しだけ肌に沿っていたこと。
上目で「余裕ねぇじゃん」と言ってきた時の顔。
「……っ」
小さく息が引っかかる。
だめだ、と思う。
今ここでそれをまともに考えたら、たぶんろくなことにならない。
ゴイチは使い終わったコーヒーフィルターを、少し乱暴なくらいの勢いでゴミ箱へ投げた。
カサッと乾いた音がする。
その程度じゃ、もちろん頭の中は切り替わらない。
でも、少しだけ呼吸は戻る。
「……落ち着け」
自分に言い聞かせるみたいに、低く言う。
カノンは今、風呂に入るだけだ。
服を貸しただけ。
それだけの話だ。
それだけの話――なのに、どうしてこうもいちいち効くんだろう。
ゴイチはポットに湯を注ぎながら、また小さく息を吐く。
相棒だった頃なら、もう少し自然にやれた気がする。
風呂貸して、服貸して、「風邪引くなよ」で終わるくらいの距離でいられた。
でも今は違う。
濡れたカノンに目を落としてしまう。
顔が赤いのを見ると、こっちまで変に熱くなる。
そして、その全部を気づかれたくなくて、余計に平然を装う。
それがまた、たぶんバレてる。
「最悪だな……」
小さく呟く。
でも、その声に本気の嫌さはあまりなかった。
マグカップに湯気が立ちのぼる。
コーヒーの匂いが少しずつ広がる。
ゴイチはその匂いに意識を寄せるみたいに、ゆっくり息を吸った。
とりあえず、カノンが風呂から出たらこれを渡そう。
温かいもの飲ませて、少し落ち着かせて。
そのあと、たぶんまた普通の顔をする。
そうしないと、自分の方が持たない。
それでも、頭の隅にはまだ、濡れたカノンの姿が残っている。
追いやるみたいに、もう一度深く息を吐く。
「……ほんと、勘弁してくれ」
そう言いながらも、ゴイチの口元はほんの少しだけ緩んでいた。
洗面のドアを閉めた瞬間、カノンは小さく息を吐いた。
「……っはぁ……」
脱衣所の明るい灯りの下で、ようやくひとりになる。
でも、落ち着くどころか余計に心臓がうるさかった。
手の中には、ゴイチの服。
借りたバスタオル。
さっきまで頭からかけられていた、あの柔らかい感触。
「なんなんだよ、ほんと……」
誰にも聞こえない声でこぼす。
洗面台の鏡を見る。
自分の顔はまだ赤い。
風呂に入る前から、もう十分のぼせてるみたいだった。
濡れた服を脱ぐ。
肌に張りついていた布が離れるたび、なんとなく呼吸がしやすくなる。
でも、胸の奥は全然軽くならない。
シャワーをひねると、温かい湯気が一気に立ちのぼった。
「……あっつ」
最初に肩へ当たった湯の熱さに、ようやく少しだけ現実へ戻る。
髪を濡らして、顔を流して。
首筋を伝うお湯に、さっきまでの雨の冷たさが流れていく。
それなのに、思い出すのは全部ゴイチだった。
雨の軒先。
“このまま走って、俺ん家来る?”
濡れたままの玄関。
“余裕ねぇじゃん”って言った時に落ちた視線。
そして、洗面の入り口で伸びた手に、一瞬本気で“来る”って思ってしまったこと。
「……やば」
シャンプーを泡立てながら、小さくこぼす。
自分でも、だいぶどうかしてると思う。
でも、もう今さらだった。
髪を流しながら、何気なく脱衣かごの上に置いたゴイチの服を見る。
Tシャツと、ゆるめのスウェット。
たぶん家で普通に着てるやつ。
何でもない部屋着。
でも、それを今から自分が着るのかと思うと、また妙に心臓が鳴る。
(……無理だろ)
洗い終わっても、しばらくシャワーの下に立ったままでいた。
温かい湯が肩を流れる。
それでも落ち着かないのは、たぶん今夜は何をしても無理なんだろう。
ようやく蛇口を止めて、バスタオルで身体を拭く。
髪の水気をざっと取って、借りた服に袖を通す。
ぶかっとした。
袖が少し長い。
肩も少し落ちる。
首元から漂う洗剤と、うっすら残った体温みたいな匂いが、完全にゴイチのもので。
「っ……」
思わず、服の前を軽く握る。
(隠れ家みたいな匂いしやがって……)
落ち着くのに、心臓には悪い。
最悪だと思いながら、でも嫌じゃない。
カノンは最後に鏡を見た。
少し長い袖。
乾ききってない髪。
まだ熱の残る顔。
どう見ても、今の自分はだいぶゴイチの家に馴染みすぎていた。
「……帰れる気しねぇ」
そう呟いて、カノンは脱衣所のドアを開けた。
⸻
リビングに戻った時のゴイチの反応
リビングへ戻ると、コーヒーの匂いがした。
ソファの横のローテーブルにマグカップが二つ。
キッチンから戻ってきたばかりらしいゴイチが、そのうちの片方を持って振り向く。
「……あ」
ほんの一瞬だけ、ゴイチの動きが止まる。
カノンはその一瞬を見逃さなかった。
借りたTシャツ。
少し大きい。
袖も余る。
乾ききっていない髪が首筋に落ちていて、風呂上がりの熱もまだ少し残っている。
ゴイチの視線が、カノンを上から下まで見た。
露骨じゃない。
でも、ちゃんと見たとわかるやつ。
「何」
カノンが少しだけ身構えるみたいに言う。
ゴイチはすぐ視線を戻した。
「……似合うな」
さらっと落ちたその一言が、カノンの胸に変な角度で刺さる。
「お前さ」
「何だよ」
「そういうの、普通に言うなって」
ゴイチはマグカップをテーブルに置いた。
「本当のことだろ」
その返しが、いちばんずるい。
カノンは赤くなりながらソファの端へ座る。
マグカップを渡されると、両手で包むみたいに持った。
「あつ……」
「そりゃ熱いだろ」
「心の方の話だよ」
ぽろっと出た本音に、ゴイチが少しだけ目を細める。
「今のはお前が悪い」
「なんでだよ」
「勝手にそっちで受け取ってるから」
「受け取るだろ普通……」
ぶつぶつ言いながら、カノンはコーヒーに口をつける。
少し苦くて、温かくて、ようやく人心地つく。
その時、ゴイチがカノンの頭を見た。
「……まだ濡れてるな」
「ん?」
次の瞬間には、ゴイチの手がタオルを持って伸びていた。
カノンが「え」と言う間もなく、頭にばさっとタオルがかかる。
ごしごしごし。
少し乱暴なくらいの勢いで、髪を拭かれる。
「おい、痛ぇって……」
カノンが顔をしかめる。
ゴイチの声が低く落ちる。
「動くな」
その言い方に、カノンは思わず黙った。
タオル越しに、ゴイチの指が髪をかき分ける。
水気を逃がすみたいに、ざしざしと拭いていく。
距離が近い。
近すぎる。
カノンはコーヒーのカップを持ったまま、視線を泳がせた。
どこを見ればいいのかわからない。
ゴイチの胸元も、顎の線も、腕の動きも、全部近い。
その合間に、小さくこぼす。
「お前も濡れたんだから、風呂入ってこいよ……」
ゴイチの手が、一瞬だけ止まる。
「……」
数秒。
それからまたタオルが動き出す。
「後で入る」
「いや今行けよ」
「なんで」
「なんでって……」
言葉が詰まる。
(近いからだろ……)
とは、さすがに言えない。
ゴイチは少しだけ笑った。
「心配してくれてんのか」
「違ぇよ」
カノンは即答する。
でも、耳は赤い。
ゴイチはそれを見て、何も言わずタオルをカノンの頭に戻した。
ぽん。
その手つきが妙にやさしい。
「じゃあ」
立ち上がる。
「入ってくる」
カノンはほっと息をつきかける。
その時。
ゴイチが振り返った。
「逃げんなよ」
「は?」
ゴイチは少しだけ口元を上げる。
「まだ」
一拍。
「確認終わってねぇ」
カノンの頭が、また爆発した。
「なっ……」
でもゴイチは、もうそのまま洗面の方へ行ってしまう。
タオルを肩にかけたまま、何でもないみたいに。
(なんっだよ、確認って……)
カノンは思わず、自分の胸元のシャツを掴んだ。
(落ち着け……)
(なんか、気を逸らせるもん……)
リビングをぐるりと見渡す。
ソファ。
テレビ。
ローテーブル。
その奥の本棚。
ふと、視線が止まった。
「あ……」
棚の端に立てかけられていた、少し大きめのアルバム。
カノンは思わず立ち上がり、本棚へ寄る。
そっと手を伸ばす。
丁寧に、ゆっくり開いた。
練習風景。
みんなとの思い出。
合宿期間中の写真。
まるで卒業アルバムみたいに、ひとつずつ整えられている。
「……懐かし」
小さく漏れる。
ページをめくるたびに、少し幼い自分たちがいる。
今より表情が硬かったり、まだぎこちなかったり。
でも、そのぶん全部がまっすぐだ。
「……なんか、幼いな」
カノンはふっと笑う。
「俺も、みんなも」
そこにはゴイチもいた。
今より少しだけ尖って見える顔。
でも、写真によってはちゃんと笑っている。
自分の知らない昔の一瞬がそこにある。
ゆっくりと眺めながら、カノンの頬がやさしく緩んだ。
さっきまで暴れていた心臓が、少しだけ落ち着く。
でも、それは静かになったというより、
今度は別のやわらかい熱に変わった感じだった。
(……こういうの、見せるんだな)
何でもないみたいに、部屋に置いてある昔のアルバム。
そこにある時間。
その延長に、今のゴイチがいて、自分がいる。
なんだか不思議で、少しだけ愛しい。
カノンはページをめくる指先を止めて、小さく息を吐いた。
洗面の方から、遠くでシャワーの音が聞こえてくる。
その音を背中で聞きながら、カノンはもう一度アルバムへ目を落とした。
さっきまでの“確認”の熱とは少し違う。
でも同じくらい深い何かが、静かに胸に溜まっていく。
シャワーの音が止んで、しばらくしてから洗面の扉が開く音がした。
カノンはアルバムを開いたまま、ページの上で指を止めていた。
まだ少し幼い顔をした自分たち。
懐かしいのに、見ているうちに胸の奥がじんわりして、なんだかそのまま動けなくなっていた。
そんなカノンの背中に、低い声が落ちる。
「一緒に見る?」
思わず肩が跳ねた。
振り向くと、風呂上がりのゴイチが立っていた。
髪はまだ少し湿っていて、ラフな部屋着姿。タオルで首元を軽く拭きながら、でも表情はどこかやわらかい。
「あ……」
カノンはアルバムを抱えたまま、少しだけ目を瞬かせる。
「勝手に見てた」
「見られて困るもんじゃねぇよ」
ゴイチはそう言って、ソファを顎で示した。
「つーか、そこに置いてある時点で見ていいやつだろ」
その言い方に、カノンは小さく笑う。
「たしかに」
ふたりでソファに並んで座る。
近すぎない。
でも、遠くもない。
アルバムを膝の上に開いて、カノンがページをめくる。
ゴイチはその横から自然に覗き込んだ。
「うわ、これ」
カノンが笑う。
「めちゃくちゃ若い」
「若いっつーか、ガキだな」
ゴイチも少し口元を緩める。
「お前、その頃からよく喋ってたけど」
「“その頃から”ってなんだよ。今も別に普通だろ」
「普通の基準がおかしい」
言いながら、ゴイチはアルバムの写真の一枚を指で軽く叩いた。
「これ、最終審査前のやつだ」
「みんな死にそうな顔してたな」
カノンが覗き込む。
そこには、夜遅くのスタジオで床に座り込んだ自分たちが写っていた。
汗だくで、でもどこか必死に食らいついていた頃の顔。
「……あー、これ覚えてる」
カノンの声が少しやわらかくなる。
「この日、俺めちゃくちゃ振り入らなくてさ」
「お前、何も言わずに最後まで残ってくれたんだよな」
ゴイチは「ん」とだけ返す。
「何回やってもズレるから」
「お前がキレるかなと思った」
「キレねぇよ、そんなことで」
「いや、今思うとそうだけどさ」
カノンは少し笑う。
「当時はまだ、お前のこと今より全然わかってなかったし」
ページをめくる。
次は合宿の写真だった。
朝練。食堂。洗濯物。くだらないオフショット。
真面目な顔も、バテた顔も、笑い崩れてる瞬間もある。
ゴイチがふっと笑った。
「これな」
「お前、夜中に一人で冷蔵庫漁って怒られてたやつ」
「怒られてねぇよ」
カノンがすぐ返す。
「注意だよ、注意」
「同じだろ」
「違ぇよ」
「しかもそのあと、俺の分までアイス持ってきた」
「……そういうのは覚えてんだな」
「そういうのが一番覚えてる」
ゴイチはそう言って、また写真に目を落とした。
その横顔がやわらかい。
昔の思い出を見ているせいなのか。
それとも、さっきまでの“確認”だの“逃げんなよ”だのの熱が少しだけ落ち着いたからなのか。
いつもの落ち着いた顔より、少しだけ無防備に見える。
カノンはその横顔を見てしまう。
見て、胸の奥が妙にざわつく。
さっきまで雨の中でキスしてた男と、こうしてアルバムを見ながら昔話をしてる。
その温度差が、逆にずるいと思った。
「……そういうの、ズルいんだよ……」
ぽつりとこぼれた声に、ゴイチが少しだけ眉を動かす。
「ズルいってなんだよ、曖昧だな」
ふっと笑う。
視線はまだアルバムのまま。
カノンはその横顔を見たまま、喉が少し詰まる。
「……その」
言いかけて、やめるつもりだった。
でも、口からこぼれてしまった。
「横顔とか」
その瞬間、ゴイチの動きが一瞬止まる。
空気が、ほんの少しだけ変わった。
「あっ、いや……違くて……」
カノンが慌てる。
自分でも何を言ってるんだと思う。
耳がまた熱くなっていくのがわかる。
ゴイチはアルバムを見たまま、少し困ったように笑った。
「俺の顔がズルいって何?」
「いや、だから、そういう意味じゃ……」
「どういう意味だよ」
ゴイチの声は低いのに、どこか面白がっている。
でも、完全にからかってるわけでもない。
カノンは視線をアルバムへ落とすしかない。
ページの中の昔の自分たちが、今のこの空気を知ったらどう思うだろう、なんてどうでもいいことが頭をよぎる。
「……知らねぇよ」
小さく返す。
「なんか、ズルいもんはズルいんだよ」
ゴイチはそこでようやく、ゆっくりとカノンの方へ目だけ向けた。
「まるで、恋でもしてるみたいだな」
その言い方は、軽い。
でも、言葉の真ん中だけ妙にまっすぐだった。
カノンの心臓が、ドン、と鳴る。
さっきまでアルバムの写真で落ち着きかけていたはずなのに、一気にまた全部が熱くなる。
「……それ」
カノンは曖昧に笑う。
「お前が言う?」
「俺が言っちゃだめなのか」
「だめっていうか……」
カノンは言葉を探して、見つからなくて、結局視線を逸らした。
「そういうの、さらっと言うなよ」
ゴイチは少しだけ目を細める。
「じゃあ、さらっとじゃなきゃいいのか」
「そういうことじゃねぇって」
「じゃあ何だよ」
カノンは口を開きかけて、閉じた。
言えない。
“恋してるみたい”なんて、そんなのもう、たぶんそうなんだろうと思ってる。
でも、それを今ここで、真正面から認めるにはまだ心臓が追いつかない。
アルバムの上に落ちる自分の視線が、少し泳ぐ。
「……わかんねぇよ」
結局、そう返すのが精一杯だった。
ゴイチは数秒だけ黙ってから、小さく笑う。
「それも曖昧だな」
「うるさい」
「でも」
ゴイチはまたアルバムへ視線を戻す。
「お前がそういう顔してる時、大体わかりやすいぞ」
「は?」
「今みたいな」
カノンがむっとしてそっちを見る。
ゴイチはページをめくりながら、何でもないふうに続けた。
「昔から、困ってる時と照れてる時、顔ほぼ同じ」
「やめろ」
カノンは思わず肩をぶつけるみたいに軽く押す。
「全部見抜いてるみたいに言うな」
「全部じゃねぇよ」
「嘘つけ」
「本当に全部なら、もっと楽だったろ」
その一言だけ、少しだけ低かった。
カノンはそこで黙る。
アルバムはまだ途中だ。
写真の中には、何も知らない頃の自分たちがいて、今の自分たちは同じソファに座って、さっきまでキスしていた。
ふと、カノンは小さく息を吐いた。
「……お前ってさ」
「ん?」
「そういうやつだったっけ」
「どういう」
「思い出話しながら」
カノンはアルバムへ視線を落とす。
「人の心臓いちいち持ってくやつ」
ゴイチは少しだけ口元を上げた。
「知らねぇ」
「たぶんお前相手だからだろ」
その返しに、カノンはまた何も言えなくなる。
ズルい。
ほんとうに。
やわらかい顔で昔話をして。
何でもないみたいに隣に座って。
そのくせ、こういう時だけちゃんと刺してくる。
カノンはアルバムのページをめくるふりをして、少しだけ顔を伏せた。
認めてはいない。
まだ言葉でもはっきり言ってない。
でも、たぶんもう、だいぶ遅い。
そう思いながら、隣のやわらかい横顔を、また見てしまう自分がいた。
ソファに並んで座ったまま、アルバムのページがゆっくりめくられていく。
トレーニー時代の写真。
合宿の朝。
夜遅くまで残っていたスタジオ。
今より少し幼くて、でもどこか今と変わらない自分たち。
カノンがページに視線を落としたまま、何でもない顔を装おうとしているのを、ゴイチは横から静かに見ていた。
さっきから、曖昧な返しばかりだ。
わかんねぇ。
知らねぇ。
そういう顔してるだけ。
そのくせ、耳は赤いし、横顔はずっと落ち着かない。
ゴイチはアルバムを覗き込むみたいに少し前のめりになっていた身体を、ゆっくり起こした。
その瞬間、一気に距離が縮まる。
肩先が触れるくらい。
「えっ……」
カノンはアルバムに視線を向けたまま、思わず少し身を引いた。
でも、ソファの端まで逃げるには遅い。
ゴイチはゆっくりと、ソファの背へ腕を置いた。
自然な動きなのに、身体の向きがはっきりカノンの方へ向く。
逃げ道がなくなるわけじゃない。
でも、視界の端からゴイチが消えなくなる。
そのまま、ゴイチは少しだけ顔を傾けてカノンを覗いた。
「この前の“確認”」
低い声。
カノンの喉が小さく鳴る。
「結局、確認して答えは出たのか?」
「……」
返事が出ない。
カノンはアルバムに目を落としたまま、ページの端を指で押さえる。
でも、その指先に力が入っているのが自分でもわかった。
ゴイチは静かに続けた。
「俺のこと」
少し間。
「好きなのかどうか」
その言葉が、はっきりとカノンの耳に落ちる。
心臓が一気にうるさくなる。
また、それだ。
また真正面から来る。
カノンは呼吸を整えようとして、でも余計に浅くなるだけだった。
「……そういうの、急に聞くなよ」
やっと出たのは、また曖昧な返しだ。
「急じゃねぇだろ」
ゴイチはすぐ返す。
「だいぶ前から、そこにいる話」
「いや、でも……」
カノンは視線を泳がせる。
「なんていうか」
「そう簡単に言葉にできるやつじゃ――」
ゴイチが少し斜め下を見て、小さくため息をついた。
「まぁ、言葉で聞きたかったんだけど」
そのまま視線がカノンへ戻る。
その目が、少し鋭い。
カノンの呼吸がまた止まりかける。
次の瞬間。
ゆっくりと、ゴイチの手が伸びた。
「……っ」
カノンが身じろぎするより先に、ゴイチの親指がカノンの下唇へ触れる。
やわらかく。
でも、少しだけ圧をかけるように。
「っ……え」
固まるしかない。
低い声が落ちる。
「こっちで確認すれば、わかるか」
(え……)
(えぇーー!?)
カノンの頭が完全に真っ白になる。
何を言われたかはわかる。
でも、意味が追いつく前に、身体の方が先に熱くなっていた。
ゴイチの親指が、下唇から少しだけずれる。
顎のラインをなぞるように、ゆっくり動く。
近い。
近すぎる。
ゴイチの視線はぶれない。
逃がす気も、今さら曖昧に戻す気もない目だ。
カノンはソファの端で、完全に追い詰められたみたいに動けなくなる。
心臓が、痛いくらい鳴る。
ゴイチの顔が、少しずつ近づく。
唇が触れそうな、その瞬間。
「好き……」
確かに、カノンの声だった。
ゴイチが止まる。
一拍。
二拍。
空気が、そこでぴたりと固まる。
カノンは自分が何を言ったのか、言ったあとでようやく理解したみたいに目を見開いた。
「……っ」
遅い。
もう遅い。
でも、今のは確かに、自分の声だった。
ゴイチはしばらくそのまま動かなかった。
それから、ゆっくりと顔を離した。
ほんの少しだけ。
触れそうだった距離が、呼吸ひとつ分だけ戻る。
カノンは息をすることを思い出したみたいに、浅く吸った。
赤い。
たぶん耳も、首も、全部。
ゴイチはその顔を見て、目を細める。
何か言いそうになる。
でもその前に、カノンが先に絞り出した。
「……お前は……」
声が掠れる。
「どうなんだよ……」
ゴイチは黙っていた。
その沈黙に、カノンの方が余計に落ち着かなくなる。
好きだって言った。
先に言ってしまった。
なのに、相手が何も言わないまま見てくるのは、さすがに心臓に悪すぎる。
ゴイチは目を細めてから、ソファの背に預けていた身体を、また前に戻した。
そのまま、カノンの頬に手を伸ばす。
そっと。
親指で、頬を撫でる。
カノンの肩がぴくりと揺れる。
瞼が伏せられたまま、小さく震えた。
「カノン」
はっきりと落ちる声。
その呼び方だけで、胸の奥がぎゅっとなる。
カノンがゆっくり視線を上げる。
ゴイチの瞳が、左右にカノンの目を確かめるみたいに見る。
それから、くっと顎を持ち上げた。
今度は迷いがない。
そのまま、ゴイチから唇が重なった。
優しいとか。
確かめるとか。
そういう予防線を全部外したキスだった。
深い。
カノンは咄嗟に目を閉じる。
逃げる余裕なんてない。
ただ受け止めるしかない。
でも、それが嫌じゃないどころか、胸の奥が熱くなる。
さっきの“好き”が、嘘じゃなかったと、キスの方から答えを返してくるみたいだった。
唇が離れる。
すぐに。
でも、その一瞬で充分すぎるくらい、全部が変わる。
遅れてカノンが瞼を上げる。
目の前には、迷いのないゴイチの目があった。
「これで」
低く、静かに。
「わかった?」
その言葉と、その目だけで充分だった。
カノンは息を詰めたまま、ただゴイチを見る。
もう、相棒だからとか。
確認だからとか。
そういう便利な言葉で逃げられる場所には戻れない。
それが、痛いほどわかった。
でも、不思議と怖さだけじゃなかった。
むしろ、やっと同じ場所に立てたような、そんな感覚の方が強かった。
ソファの上。
アルバムは開いたまま。
昔の自分たちの写真がそこにある。
その前で、今のふたりはもう、昔と同じ距離には戻れなかった。
唇が離れてからも、空気は動かなかった。
カノンの呼吸だけが少し乱れている。
ゴイチは真っ直ぐカノンを見たまま。
“これで”
“わかった?”
その言葉が落ちる。
カノンは数秒、固まっていた。
そして――
「……」
ゆっくり瞬きをする。
ゴイチ
「……カノン?」
カノンの耳が、みるみる赤くなる。
そして次の瞬間。
「お前なぁっ!!」
ゴイチの胸を両手でドンッと押した。
「うわっ」
思わずゴイチの背中がソファに当たる。
「急すぎんだろ!!」
顔真っ赤のカノン。
「普通そういうのって!もうちょい段階とかあんだろ!」
ゴイチは一瞬きょとんとする。
それから少し笑った。
「段階?」
「そうだよ!」
カノンは本気で噛みつく。
「心の準備とか!」
「なんかあるだろ!」
ゴイチは肘をソファの背に置いて、カノンを見る。
さっきまでより、少し楽しそうだ。
「キス未遂」
指を一本立てる。
「雨の日」
もう一本。
「確認」
三本目。
「段階、十分じゃねぇ?」
「それは段階じゃねぇ!」
ゴイチが小さく肩を揺らして笑う。
カノンはまだ顔が真っ赤だ。
でも、その赤さの奥に、さっきまでとは少し違う熱が混じり始めていた。
「お前さ……」
ゴイチがふっと息を吐く。
「好きって言ったの、どっちだよ」
「っ……」
カノンの言葉が詰まる。
ゴイチはその顔を見て、目を細める。
「今さら慌てるな」
「慌てるだろ!」
カノンは言い返す。
「普通!」
ゴイチはそこで、ほんの少しだけ身体を寄せた。
「……っ」
また距離が近い。
ゴイチは静かに言う。
「じゃあ」
一拍。
「次は」
少し低い声。
「カノンの番だな」
「……は?」
「さっき」
ゴイチは目を逸らさない。
「好きって言っただろ」
視線がぶつかる。
ゴイチは、わずかに笑う。
「確認」
少しだけ顔を傾ける。
「してみるか?」
カノンの心臓が、また大きく跳ねた。
(こいつ……)
(余裕かましやがって……)
カノンの眉がぴくりと動く。
(ここまできたら)
(やってやろうじゃねぇの)
数秒の沈黙。
ゴイチはたぶん、カノンがまた真っ赤になって言葉を失うと思っていた。
少なくとも、今まではそうだった。
でも今回は違った。
カノンはゆっくり息を吸うと、視線を逸らさずにゴイチを見た。
「……上等」
ぽつりと落ちる声。
ゴイチの眉が、ほんの少しだけ動く。
次の瞬間。
カノンが先に動いた。
両手を伸ばして、ゴイチのTシャツの胸元を軽く掴む。
そのままぐっと引く。
予想してなかった力加減だったのか、ゴイチの身体がわずかに前へ引かれる。
「っ……」
ゴイチの呼吸が、一瞬乱れた。
カノンはそこで止まらない。
逃げるみたいにじゃない。
確かめるみたいにでもない。
自分の意志で、ちゃんと近づく。
そのまま、唇を重ねた。
最初の一瞬は、浅い。
でも、カノンは離れなかった。
ゴイチが反応を返す前に、もう一度。
今度はさっきより少しだけ長く。
引いた息を奪うみたいなキスじゃない。
でも、受けるだけで終わるつもりもない、ってはっきり伝わる触れ方だった。
ゴイチの余裕が、そこで初めて揺れる。
「……っ」
喉の奥で、小さく音が鳴る。
その反応に、カノンの胸がどくんと強く鳴った。
(あ)
わかった瞬間、変に強気になる。
カノンは胸元を掴んだまま、少しだけ角度を変えてもう一度唇を重ねる。
今度は、さっきのゴイチみたいに“確認”なんて言い訳のないキスだ。
そのやり返し方が、思っていた以上に効いたらしい。
ゴイチの手が、カノンの手首を掴んだ。
止めるためじゃない。
でも、このままだと自分の方が危ないとわかった時の反射みたいな掴み方だった。
唇が離れる。
ふたりとも、少しだけ息が上がっている。
ゴイチはソファに半分沈んだまま、カノンを見る。
さっきまでの余裕が、きれいに崩れていた。
目が少し鋭い。
でも、その奥には熱がある。
カノンはその顔を見て、少しだけ口元を上げた。
「……確認」
わざと、さっきと同じ言葉で返す。
ゴイチの眉が寄る。
「どうだよ」
カノンは赤い顔のまま、でも視線は逸らさなかった。
「俺の番」
その一言が落ちた瞬間、ゴイチの手に少しだけ力が入る。
カノンの手首を掴んだまま、低く息を吐く。
「お前……」
掠れた声。
カノンは少しだけ首を傾ける。
「何」
その返しが、たぶんいちばん危なかった。
ゴイチはそこで、完全に笑わなくなった。
さっきまでの“余裕ある男”の顔じゃない。
本気で持っていかれた時の、少し危ない顔。
そのまま、低く落とす。
「煽んなよ……」
声が鋭い。
でも怒ってるわけじゃない。
むしろ逆だ。
これ以上やったら、本気でこっちも止められない。
そういう意味の声だった。
カノンの背中に、ぞくっと熱が走る。
でも、ここで引いたら負けな気がした。
「……お前が先だろ」
小さく返す。
ゴイチが目を細める。
「言うようになったな」
「誰のせいだよ」
言いながらも、カノンの心臓はずっと暴れている。
でもそれ以上に、今のゴイチの顔を見たことが嬉しかった。
いつも少し余裕があって。
マイペースで。
こちらが振り回される側みたいな顔をするくせに。
ちゃんと、自分でも崩せるんだ。
それがわかっただけで、胸の奥が妙に熱くなる。
ゴイチはカノンの手首を離さないまま、少しだけ身を起こした。
距離が、また縮まる。
今度はさっきみたいにすぐ触れない。
でも、そのぶん空気が濃い。
「……次やったら」
低い声。
「もう“確認”で済まさねぇぞ」
カノンの呼吸が止まる。
「……それ、脅し?」
「忠告」
「同じだろ」
「違う」
「どこが」
「お前がわかってねぇだけ」
また近い。
でも、今度はカノンも目を逸らさない。
ソファの上。
開いたままのアルバム。
少し乱れた呼吸。
さっきまでの“相棒”の延長みたいな空気は、もうどこにもない。
それなのに、不思議と怖さより先に来るのは、笑ってしまいそうなくらい高鳴る心臓だった。
カノンはふっと息を漏らした。
「……じゃあ」
少しだけ目を細める。
「次、気をつける」
ゴイチの口元が、ほんの少しだけ上がる。
「無理だろ」
そのまま、カノンの視界が天井を仰いだ。
ソファに背中がゆっくり沈む感覚に、カノンの目が見開く。
真上には、さっきまでの余裕を少しだけ剥がしたみたいな、危うい瞳のゴイチ。
ゆっくり横に視線をやると、自分がゴイチの腕に囲われていることに気づく。
思わず両腕で胸元を隠すみたいな仕草をした。
「ゴイチ…っ?」
掠れた声。
(俺、また……)
(大ピンチなんですけどーー!?)
頭の中では盛大に騒いでいるのに、身体は少しも動いてくれない。
逃げたいわけじゃない。
でも、このままだと色々とまずい。多分。いや、絶対。
そのまま、ゴイチの鼻先がカノンの耳へ落ちた。
触れるか触れないかのところを、ゆっくり滑り降りていく気配。
くすぐったいのに、逃げられない。
カノンの肩が小さく震える。
(やばい)
(やばいって……)
喉が、思わず小さく鳴った。
はっとして、咄嗟に自分で口を押さえる。
その瞬間、ゴイチの動きが止まった。
カノンは見開いたまま、息を止める。
時間まで止まったみたいに、ソファの上の空気が張る。
ふっと、ゴイチの頭が少しだけ持ち上がる。
次の瞬間、カノンの口元を覆っていた手が、ゆっくり剥がされた。
「……っ」
カノンは真っ直ぐにゴイチを見られなくて、思わずまた目を閉じる。
それを見たゴイチが、何も言わずに顔を寄せた。
そして、ゆっくり唇が重なる。
優しいのに。
優しいだけじゃない。
今までの“確認”とも、“試す”とも違う。
カノンが逃げないことを知った上で、ちゃんと欲しがるキスだった。
(俺、これ……)
(止めるの無理かも……)
そう思った瞬間には、もう遅かった。
触れているだけのはずなのに、離れたくなくて。
息を継ぐ隙間も惜しくて。
気づけばカノンは、唇を離さないままゴイチのキスに返していた。
「っ……」
ゴイチの喉が上下する。
薄く目を開けたカノンの視界に、少しだけ崩れたゴイチの顔が映る。
その表情にまた心臓が跳ねて、カノンは思わずゴイチの肩をぎゅっと掴んだ。
その瞬間だった。
バッと、ゴイチが身体を離した。
「……っは」
浅く息をして、濡れた唇を手の甲で拭う。
視線を一度、カノンから逸らす。
「……危ねぇ……」
低く落ちた声。
「……ほんと」
呼吸を整えるように息をするゴイチは、もう一度だけカノンを見た。
その目に、さっきまでの余裕はほとんど残っていない。
なのに、それを無理やり抑え込んでるのがわかるから、余計にたちが悪い。
そっと、ゴイチの手がカノンの頭に落ちる。
やさしく、ゆっくり撫でる。
落ち着かせるみたいに。
でも多分、自分自身も落ち着かせるために。
(危ないのは俺だ……)
カノンは両手で顔を隠した。
多分、首まで真っ赤だ。
熱さでわかる。
耳も、頬も、唇も、全部熱い。
「……無理……」
くぐもった声が手のひらの奥で潰れる。
ゴイチは身体こそ離したものの、それ以上距離を空けることはしなかった。
ただ、カノンが落ち着くまで、頭を撫でる手だけは止めない。
「…お前が煽るからだろ」
ぽつりと落ちる声。
カノンは手で顔を隠したまま、すぐに言い返す。
「先に煽ったのお前だろ……」
「最初はな」
「最初って何だよ……」
「途中からは、お前」
その返しに、カノンは何も言えなくなる。
だって、否定できない。
自分から掴んだ胸元。
自分から返したキス。
そしてさっき、離れないまま受け入れてしまったこと。
ゴイチの指が、濡れた髪を梳くみたいにもう一度頭を撫でる。
「……カノン」
低い声に、カノンの肩がぴくりと揺れる。
「ん……」
まだ顔は隠したまま。
「そろそろ顔見せろ」
「無理」
即答だった。
ゴイチが小さく笑う気配。
「なんで」
「なんででも」
カノンはむっとした声で返す。
「今見たら、お前絶対なんか言うだろ」
「言うかもな」
「ほら!」
「でも、言わねぇかも」
「信用できねぇ……」
ゴイチはそこで、また少しだけ口元を緩めた。
その空気だけで、カノンにはわかる。
こいつ、だいぶ楽しんでる。
でも同時に、本気で危なかったと思ってるのもわかる。
その両方があるから、余計に困る。
しばらくして、カノンが指の隙間から少しだけ片目を覗かせる。
ゴイチは近いままだった。
でも、もう追い詰める距離ではない。
ただ、すぐ隣で見ているだけ。
「……落ち着いた?」
「落ち着くわけねぇだろ」
「だろうな」
「そこで納得すんなよ」
言い返しながら、カノンはようやく両手を少しだけ下ろす。
案の定、ゴイチと目が合う。
その瞬間また熱くなる。
ゴイチはふっと目を細めた。
「赤い」
「うるさい」
「首まで」
「言うな!」
ゴイチが小さく笑う。
でも、そのあとで少しだけ真面目な声になった。
「今日は、この辺にしとく」
カノンが目を瞬く。
「……今日は、って何だよ」
「そのまんま」
ゴイチは静かに言う。
「今以上やったら、多分止まんねぇから」
その一言に、カノンの呼吸がまた浅くなる。
ゴイチはそれを見て、今度は少しだけ困ったように笑った。
「だから、コーヒー飲んで落ち着け」
「……お前が一番落ち着けよ」
「俺は無理」
「即答すんな」
「無理なもんは無理」
その真っ直ぐさに、カノンはまた何も言えなくなる。
ソファの上。
開いたままのアルバム。
少し乱れた呼吸。
頭を撫でる大きな手。
こんな空気になるなんて、少し前の自分たちは想像もしてなかったはずなのに。
今はもう、こうしてすぐ隣にいることが当たり前みたいに思えてしまう。
カノンは小さく息を吐いた。
それから、少しだけゴイチの肩にもたれるみたいに力を抜く。
ほんの少しだけ。
ゴイチの手が、その動きに合わせるように頭をもう一度撫でた。
「……危ないの、俺だけじゃねぇじゃん」
ぼそっとカノンが言うと、ゴイチは視線を前に戻したまま答える。
「それはそう」
「最悪だな」
「今さらだろ」
その返しに、カノンは小さく笑う。
心臓はまだ全然うるさい。
でも、そのうるささごと嫌じゃなかった。
むしろ、このまま少しずつ慣れていくんだろうな、と、どこかで思う。
相棒だった時間の延長で。
こうやって、少しずつ。
コメント
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うわ、この回やばい…!雨宿りから流れでゴイチの家、アルバム見て昔話、からの「好き」って言っちゃうカノン最高すぎる。しかもゴイチも余裕ぶってたのに最後は「危ねぇ」って自滅するところが刺さる。相棒から恋人に変わる瞬間の甘さと痛さ、めちゃくちゃ丁寧に描かれてて胸が詰まったわ。八崎くんの「一番危ないやつ」回収もお見事。次が待ち遠しい🔥