ピピピッピピピッピピピッ
設定しておいたアラームが鳴り、林は暗闇の中で携帯電話をまさぐった。
止めて、画面を見る。
4時半。
「……人間が起きる時間じゃないって…」
言いながら二度寝回避のためにその場に座り込んでから、強く目を擦る。
障子越しに見える空がまだうす暗い。
「――――」
携帯電話をもう一度見ると、紫雨から着信が入っていた。
22時50分。
こんな時刻まで仕事をしていたのだろうか。
今日は早く起きなければいけなかったため、昨日の22時には就寝してしまっていた。
もしかしたら声を聞かせた方がよかったかもしれないのに。
『昨日の夜、寝てしまってました。すみません』
寝ているのはわかっていたが、メールだけ返しておいた。
日中、電話をしてみよう。
意外と自分がいなくなった席を見て、少し寂しくなってくれているかもしれないし。
自意識過剰な考えに、自分で苦笑しながら立ち上がった。
就職活動もするのだからと、アパートから大量に持ち帰ったスーツは、昨日の帰りに家具やで買った簡易的なハンガーラックにかけてある。
しかし林はその脇にある衣装ケースの中から、シャツとカーディガンとチノパンを取り出した。
「あ。この組み合わせ……」
かつて新谷が「眼福」と形容した服装だった。
自分の部屋から引っ張り下ろしてきた姿見鏡で確認する。
「――――」
ゲイの人間の考えることはわからない。
この服装は、彼らにとって受けがよかったのだろうか。
別に紫雨に褒められたことはないけれど。
自分は紫雨が一昨日着ていたような、首元がゆったりとした黒いニットとか、たまらなく好きなんだけど。
(いや、違うな。紫雨さんが着てるからイイんだ)
紫雨の白い首が、広く開いたニットから出ている色っぽさが好きなのだ。
白い鎖骨が、首の筋が、角度によって、態勢によって、浮き上がるのが好きなのだ。
一昨日、車で堪えきれずに抱き寄せた身体を思い出す。
もともとやせ型で、ちょっと油断するとすぐに肉が落ちてしまうしなやかな腰。
肌は滑らかで、指を差し入れるとすぐ手に馴染んで―――。
胸の先端を撫でると、腕に力が入るとは対照的に、腰の力が抜けるのがわかる。
素直に反応する体が嬉しい反面、彼の経験値の高さを表すようで、いつも胸を焼き切るような嫉妬を覚える。
噛みつくようなキスをしていると思う。
奪うように舌を絡めていると思う。
でも紫雨は、潤んだ目をして応えてくれて―――。
(って……!)
林は姿見鏡に手をついて、深い溜息をついた。
(夜も明けない朝っぱらから、俺は何を考えてんだ……!)
自分に呆れながら、ビジネスバックではなく、大学時代に愛用していたアイボリーのリュックを背負うと、林は静かに廊下に出た。
智花には今日は早くに家を出ることを伝えていた。
「見送ってあげたいけど、妊娠してから、朝は起きられなくて」
はなから期待していないのにそんなことを言う義理母を、林は微笑ましく思った。
宣言通り彼女は起きてこない。
それでいい。
林は静かにシューズボックスを開けて、自分が昨日まで履いていた革靴をしまうと、代わりにスニーカーを出した。
トントンとつま先を打ち付けて履くと、ドアを開けた。
朝の湿っぽい香りが流れ込んでくる。
林は一息つくと、その朝靄の中に飛び込んでいった。
まだ暗い街を、ヘッドライトを付けながら走る。
いつもの癖でコンビニでカップコーヒーを買い、車に乗り込んだ。
「――あ」
カップの蓋のツメを起こしてから気が付いた。
「あそこ、喫茶店なんだった」
◇◇◇◇◇
昨日、和氣は一方的に口説いた後、林の都合も希望も聞かずにこんな提案をした。
「どうせ君は有給消化中でまだ再就職できない。だから俺も君を採用することはできない」
林は握られた手を離すこともできずに、ただその顔を見つめた。
「だから君はボランティア。でも三食は出すよ」
「は?」
「三食は出すって言ってるんだよ。君、独身だろ?」
言いながら和氣はやっと手を離すと、林の後ろを指さした。
林は促されるまま個室の窓から見えるカウンターを覗いた。
先ほどのパーソナリティーと、ゲストたちがスパゲッティーを食べている。
「今日のメニューはねえ。シーフードトマトパスタ」
「―――あなたが作ったんですか?」
信じられない思いで、料理をしている姿などみじんも想像できない彼を振り返る。
「そ。早番の子には、今日はエッグベネディクトだったかなー」
「エッグ……?」
林はいよいよ眉間に皺を寄せて、砂埃が舞う荒野でライフル銃でも構えていそうないで立ちの男を睨んだ。
「うまいコーヒーと、うまい飯はただで提供してやるって言ってんだよ」
「はあ。でも、俺……」
「それに」
和氣は人差し指を立てた。
「ラジオ局には情報が集まる。ニュース、天気、道路だけじゃない。いろんな仕事の裏側、やりがい、さらには年収まで。
次の職業がまだ決まっていないなら、情報収集するためだけでも、相当お役に立てると思うけどね」
「――――」
林は個室の中を見回した。
地元バンドのコンサートのポスター。
ドキュメント映画のチラシ。
講演会の案内状。
セミナー口座の予定表。
桜回廊の地図。
就職ガイダンスの申込書。
壁が見えないほどの情報が貼り付けてある。
「どう?社会勉強だと思って。どうせ大学出てからセゾンしか知らないんだろ?」
言いながら和氣が立ち上がって、その中の1枚のピンを外すと、林に渡した。
「―――あ」
【天賀谷ハウジングプラザ GWウォークラリー。3つ以上の展示場を回った方には、洗剤セットをプレゼント!】
「ね。悪くない話でしょ」
和氣はニヤニヤとこちらを見下ろした。
◇◇◇◇◇
なぜあの時、頷いてしまったのかわからない。
ラジオになんか、大して興味ないのに。
いつ倒産してもおかしくない、あんなに小さなコミュニティラジオ局に将来性も感じないのに。
そして何より―――。
紫雨に胸を張って伝えられるような会社じゃないのに。
「――――」
紫雨に聞かれたらなんて言おう。
『なんていうラジオ局ですか?』
紫雨が眉間に皺を寄せながら、秋山に言った言葉を思い出す。
『BE JUMPエフエム?聞いたことないですね』
とても、言えない。
自分の未来を楽しみにしてくれているだろう紫雨をがっかりはさせられない。
今日だけ手伝ったら―――。
「やっぱり、断ろう」
もし和氣が言う通り、自分がラジオ制作に向いていたとしても、自分が求めているのはラジオ局でもなければ、BE JUMPエフエムという小さな会社でもない。
「よし。そうしよう」
自分に言い聞かせるようにコーヒーを一口飲むと、林はギアをドライブに入れた。
5時過ぎだというのに、BE JUMPエフエムは、煌々と明かりがついていた。
駐車場に車を滑り込ませ、外階段を上りドアを開けると、中からは昨日と同じく香ばしいコーヒーの匂いが漂ってきた。
「あ!林さんですか?」
カウンターの中から、女の子がひょこっと顔を出した。
「あ、はい」
言うと、彼女はぐるっと回ってこちらに出てきた。
「……………」
(これはまた…)
林は日常ではなかなかお目にかかれない、彼女の上から下まで白とピンクのヒラヒラで覆われたロリータファッションを、視線を三往復くらいしながら見つめた。
「パーソナリティー兼制作の、中村珠稀(なかむらたまき)です。みんなはタマちゃんと呼ぶのでそう呼んでいただいて結構です」
そして見た目を裏切らないアニメ声。
二次元から迷い込んできたような女の子を林は口を開けながら見つめた。
「役職は制作ですが、主にパーソナリティー業をしているので、こういう番組のサポートは基本しないんですけど、急に欠員が出ちゃった上に、志穂さんが具合悪いので今日は私がピンチヒッターで」
さすがパーソナリティーをしているだけあって、口がくるくるとよく回る。
情報をその速さで脳に入れるのに精いっぱいだ。
「ここに貼ってあるのが、うちの会社のメンバーなんですけど!」
彼女が指さしたカウンターの上を見上げる。
本来なら喫茶店のメニューが表示されているべき場所に、顔写真がずらりと並んでいる。
「左から。社長の和氣さんです」
ちゃんときれいに髪を結わえた和氣が、カウンター席に座って少しかっこつけている写真を環希が指さす。
「その隣。奥様の夕夏さんです。主に経理を」
視線をずらす。
もしかしたら和氣より年上かもしれない。
落ち着いた美人がそこに恥ずかしそうに写っていた。
「さらに隣。営業の大窪さんです」
昨日、スタジオまで無理やり引っ張っていったスーツの男だ。
「それで、私」
環希が今日と寸分も変わらないようなロリータ服でダブルピースをしている。
「隣が志穂さん」
視線を右にずらす。
「――――」
林の反応を楽しむかのように環希はこちらを見上げた。
「美人、でしょう?」
―――美人なんてものではなかった。
まるで女優か、はたまたモデルか。
とにかく林が出会ったことのあるどんな女性を思い浮かべても彼女よりもきれいな人はいない気がした。
「彼女もパーソナリティーなんですか?」
思わず聞くと環希は首を振った。
「違う―。制作。表舞台に出るの、嫌いなんだって。勿体ないよねー」
そういう環希は、なんとなく素顔の地味さを化粧で補っているような作り物のような印象を受けた。
きっとメイクをとったら、別人タイプだ。
「――――何ですか?」
「いえ……」
思いを見透かされたようで気まずくなって視線を逸らす。
「以上。5名の社員と、10人の外部パーソナリティーが、それぞれ番組を受け持って、構成しています!」
珠稀は視線を戻したが、志穂の右にもう1枚写真が並んでいた。
「―――もう1人は?」
「………あー」
環希が小さくため息をつく。
「遥(はるか)君です」
「あ。男性ですか」
林はもう一度よく写真を見た。
白いパーカーを着ている遥は、顔の美しさと比例して線が細く中性的で、どちらとも見て取れた。
(なんか……どことなく、紫雨さんに似てるな)
思わず口が綻ぶ。
「彼が急に辞めちゃうから、私たちがこんなことに……」
ぼそっと低い声で環希が呟いた。
「―――え?」
「あっと!もうこんな時間!番組始まるまで1時間ちょっとですよ!やることは山ほどあるので!」
環希はそういうと、小さな手をパンパンと叩いた。
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