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「どうだいナギサ、私が仕入れたこの馬車の乗り心地は」
「ええ、それに加えて風も心地よく吹いていて、より居心地良さを引き立てますが……」
助手席という彼女の指定席で、ナギサは何かの言の葉を呑み込んだようだね。
ここは私の愛車の中。風と語らうための、ささやかな舞台さ。
発端は、ミカからの休暇という甘美な誘い。
まあ、随分と言の葉を重ねて、ようやくナギサをこの席に座らせることに成功したのだけれど。
どこまでも青く澄んだ蒼穹、潮の香りを運ぶ風が緩やかに頬を撫でていく。この光景は、まさしく『夏』という物語の一幕に相応しいものだ。
だというのに、彼女の胸の内では、まだ小さな嵐が燻っているようだった。
観測するに、実にわかりやすいものだね。
「ちょっとスピード出しすぎではありませんか!?カーブでも毎回スピードを落とさず……!」
「……はぁ、全く。これでも速度を抑えているのだが……。堅牢であった城に閉じこもっていた君にとって、この衝撃ですら耐え難いものだったかな?」
「自覚あるなら、落としてください!!喉奥から何かが這い上がって……うっぷ……」
「いいかいナギサ。ご要望した速度では、確実に約束の時間を過ぎてしまうだろう。だからこそ、ここは我慢の一時を過ごしておくれ」
「もう、本当に……!!」
ふと、計器盤に目を落とす。そこに示された数字は『80』。この車が紡ぎ出す速度を、ただ無機質に告げていた。
ふむ、この数字に何の不思議もないのだけれどね。なにせ、我々が駆けるこの道には、人が定めた速度という名の枷は存在しないのだから。万物は、定められた理の中でこそ、その真価を発揮するというものさ。
それでも、ナギサが悲鳴にも似た言の葉を紡ぐのには、相応の理がある。青ざめた顔で必死にシートにしがみつく彼女の姿は、観測対象としては実に興味深いものだ。
原因は、私のささやかな悪癖にある。
どうにも私は、この車体が描く円弧の軌跡を、減速という無粋な行いで乱すことを好まないのだ。流れを滞らせず、ただただ美しく駆け抜けること。それこそが、最速で目的地に辿り着くための、最も合理的な解だと、私は思うのだが……。
どうやら彼女がこの走行力学の詩を理解するには、まだ少しばかり時間が必要なようだね。
「ふふ、私の華麗なる運転を感じながら、母なる海でも眺め……んっ?」
ありきたりな戯言で彼女を揶揄おうと、言の葉を紡ぎかけた、その刹那のことだった。
ふと、鏡の世界に、黒い染みが滲み出すのが観測できた。我々と同じ道を駆ける、無粋な影。それも、片手の指では到底足りないほどの数がね。
本来、紡がれるはずだった平穏な物語にとって、あまりにも異質な不純物。そうだね……これを名付けるならば、まさしく『起承転結』における『転』の幕開け、といったところか。
「ふむ。すまないが、ナギサ。どうやらあるべきだった物語をなぞる事は叶わないようだ」
「えっ?それってどういう意味ですか?」
「背後を見てみるといい。火を見るより明らかだろう」
「この状況の私に酷な事を……!碌でもない事でしたらタダじゃおきませんから……えっ!?」
鏡越しに観測していた染みは、いつしか我々との距離を詰め、その輪郭を白日の下に晒したようだ。
黒鉄の装甲を纏った車体が七つ。その窓の内側には、見慣れた奇抜な仮面を被った者たちや、どこの学園にも属さぬ服装の生徒たちが、殺意にも似た輝きを放つ銃を携えているのが見て取れる。
……ふむ、ヘルメット団とスケバン、か。実に珍妙な混成部隊だね。
真を言えば、この唐突な邂逅は、私の描いていた未来の脚本には存在しない一節だった。予定調和を愛する私にとって、これは実に……興味深いイレギュラー、ということさ。
しかし、不可解な点も存在していた。
「ふむ、護衛でないことは火を見るより明らかだが……。しかし、腑に落ちないね。機密であったはずの私たちの休暇という脚本が、いかなる経緯で外部の役者の耳に入ったのか……」
「可能性としてあるなら……ティーパーティ内部に裏切り者が……?」
「おっと。一度閉じた本の頁を、再び開くのは感心しないな。その物語はもう終わったはずだよ?」
「冗談です……」
彼女の紡ぐ戯言は、時として真実の響きを帯びて聞こえるから、私の耳も存外あてにならないものだ。……まあ、そうでなければ、これは運命という名の脚本家が描いた、単なる偶発的な遭遇に過ぎないのだろうが。
それにしても、これは些か厄介な盤面になってきたようだね。隣で青い顔をしている彼女のfragile な状態を鑑みれば、これ以上の速度は酷というものだろう。だが、このままではあの無粋な狩人たちの間合いに入るのも、時間の問題だろうしね。
選択肢は、初めから一つしか無かった、ということか。
心の中で、隣で震える友人にそっと詫びを入れる。すまない、ナギサ。
どうやらこの鉄の馬に、本当の風の纏い方を思い出させる時が来たようだ。
「ナギサ。すまないが、私の本気を彼女らに魅せないといけないようだ」
「セイアさん!?一体何をっ……きゃあっ!?」
私は踏み板に込められた力を解放し、この鉄の馬に荒々しい咆哮を上げさせる。後方の景色が、まるで過去の出来事のように溶けていく。
隣でナギサが何か言の葉を紡ごうとしていたようだが、生憎、加速という純然たる物理法則と唸り声の前では、それも虚しい響きに過ぎなかったようだね。
おっと、いけない。どんな演目であれ、演者はその所作も美しくなくてはね。
私は舞台装置触れ、この状況に最も相応しい音色を響かせた。
♪Gas Gas Gas
ふふっ、やはりこの旋律がなくては、私の内に眠る何かが目を覚ましてくれない。
まるで舞台化粧を直すかのように黒眼鏡の位置を正し、私は再びこの荒馬の手綱を強く、そして確かな手応えをもって握り締める。
ーーさぁ、私という抗えぬ流れに置き去りにされぬよう、精々、抗ってみるがいい。
あれからいくばくかの時が流れたが、物語は膠着状態というべきか、相対的な変化は観測できないでいた。
計器盤が示す数字は『140』という領域に達しているというのに、あの無粋な狩人たちは、なおも我々の影を執拗に追ってくる。ふむ、彼らの中にも、いくらか風の読み方を知る者が混じっているようだね。
「セイアさん!?カーブが見えてきましたよ!?この速度で曲がってしまうと、私が吹き飛ばされそうなのですが!?」
「案ずることはないさ、ナギサ。君をその座席に繋ぎ止めているのは、シートベルトという物理的な理だろう? 私がこの速度で円弧を描くのは、狩人たちを振り落とすという、最も合理的で美しい解を導き出すためだよ」
行く手には、四つの連続した曲線が、我々の技量を試すかのように待ち構えている。だが、私にとって、それは道筋を示す優美な標に過ぎないがね。
一つ目の円弧が眼前に迫る。私は手綱を握る力を僅かに緩め、そして刹那、再び強く握り締めた。アクセルから足を離すことなく、鉄の馬の鼻先を滑らかに内側へと向ける。
「ひゃっ!?」
隣から聞こえる悲鳴をBGMに、車体は悲鳴のようなスキール音を上げながらも、まるで定められていたかのように完璧な軌跡を描き出した。強烈な横Gがナギサの小さな体を窓へと押し付けるのが、視界の端に映る。
鏡の世界では、追手の車が一台、無様に均衡を失ってスピンしているのが観測できた。ふむ、やはり彼らにこの旋律は早すぎたようだね。
続けて二つ、三つと、私は同じように、ただただ水の上を滑るような円舞を踊る。後方で混乱の音色が増えていくのを観測しながら、私は最後の曲線へと、この鉄の馬を導いていくのだった。
「……無事に、敷かれた道筋を辿れたようだね。体調はいかがかな、ナギサ?」
「うっぷっ……本当に、荒々しいにも程がありますよ……」
息も絶え絶えといった様子のナギサは、なおも私への不満を律儀に紡いでいた。ふむ、彼女の本質というものは、いかなる状況下でも揺らがないらしい。不変性は、美徳の一つではあるがね。
さて、盤上から幾つかの駒は退場したはずだが……おや?
後方から聞こえる不協和音は、数を減らすどころか、むしろ新たな音色を加えて厚みを増しているようだ。先程までの四輪の駒に加え、新たに二輪の駒が我々の影を追いかけている。
二輪車という駒は、四輪のそれとは異なる理で動く。より敏捷で、細やかな軌跡を描くことに長けているからね……これは少々、厄介な変数が増えたものだ。
そして行く手には、山という巨大な存在に穿たれた、深淵へと続く隧道が黒い口を開けていた。ふむ、これは私にとってあまり好ましい舞台ではない。壁に囲まれた直線的なこの道では、私の描く優美な円舞が意味をなさないのだから。このステージは、また別の技技術を要求されるということさ。
だが、未知の脚本というものは、いつだって私の知的好奇心を刺激してくれる。
閉鎖された舞台で、彼女らは一体どんな演目を見せてくれるのだろうね。物語は、次の章へ。
我々はこの暗闇の舞台へと、迷わず駒を進めたのだった。
オレンジ色の照明が、等間隔に我々の車体を照らしては、またすぐに後方へと流れ去っていく。反響するエンジン音が、この閉ざされた空間が持つ異質さを際立たせていた。
その静寂を破ったのは、左右から同時に響き始めた、甲高い駆動音だった。
ふと左右の鏡に目をやると、二台のバイクが、まるで鉄の馬に寄り添う二匹の猟犬のように、ぴたりと並走しているのが観測できた。その運転手たちは、無機質なヘルメットの奥から、こちらに無遠慮な視線と……そして、銃口を向けていた。
どうやら次の演目は、銃弾の雨の中を駆け抜ける、というものになりそうだね。
だが、この展開すらも、私の描いた脚本の筋書き通りさ。
「ナギサ。これから些か無粋な雨が降るだろう。その雨に濡れぬよう、頭を低くしておくれ」
「まさか、このような状況で一か八かの賭けに出るというのですか!?セイアさん、それは……!」
「不可能、と君の瞳は語っているようだね。だが、心配は無用だよ。私の紡ぎ出す弾丸は、決して的を違えることはないのだから」
物語を読み解くにあたり、用意された道筋をただなぞるだけでは芸がない。盤上の駒の動かし方に無数の可能性があるように、この盤面にも、ただ銃弾の雨から逃れる以外の解はいくつも存在する。
私がこれほどまでに余裕な言の葉を紡げるのには、実に単純な理があるのだよ。
まず、あの狩人たちがこの不規則な揺れの中で、正確に我々を射抜くことの蓋然性は限りなく零に近い。よしんば銃弾を放てたとして、この鉄の馬に意味のある傷を刻むことすら叶わないだろう。
ならば、彼女たちが初手として選択する最も合理的な行動は何か。それは、確実に獲物を仕留められる――確実に中る――間合いまで、その身を寄せることだ。
ほら、現に彼女らは、最適な距離を測るかのように、じりじりとこちらへ近づいてきているではないか。
では何故、私がこの一見して不利な状況を待ち望んでいたか。その解もまた、明快だろう?
敵が私を射抜ける間合いは、即ち、私もまた敵を射抜ける間合いに他ならない、ということさ。
加えて、私の『勘』という名の観測能力は、この不安定で先の見えぬ舞台においてさえ、彼女たちのそれより僅かに広い有効範囲を確保してくれるのだから。
「……来たようだね」
私は独りごち、片手で手綱を握ったまま、もう片方の手でコートの下から愛銃『鋭き光彩』を引き抜いた。
右側のバイクが、焦りからか僅かに前に出る。その運転手の指が、引き金にかかるのがスローモーションのように観測できた。
ーー今だ。
躊躇はない。右腕をしなやかに伸ばし、その銃口が描く未来を確定させる。
パンッ、と乾いた音色がトンネル内に響き渡り、右側のバイク搭乗者のヘルメットが大きく揺れた。彼女は均衡を失い、まるで操り糸の切れた人形のように壁へと吸い込まれていく。
「一つ」
間髪入れず、私は体の軸を回転させ、銃口を左へと向ける。驚愕に目を見開く左側の運転手と、一瞬、鏡越しに目が合ったような気がした。
「二つ、だ」
二発目の鋭い音色が響くと同時に、彼女もまた前の駒と同じ運命を辿る。火花を散らしながら壁を滑るバイクの残骸をバックミラーに映しながら、私は静かに『鋭き光彩』を元の場所へと戻した。
これでまた、舞台は少しだけ静かになったようだね。
「さて、ナギサ。もう銃弾の浴びる事は現時点では無いだろう」
「げ、現時点、ですか……? まるで、まだ次が来るかのような……」
「ふふ、出来れば労いか、賞賛の言の葉を期待していたのだけれどね」
「どこまでも余裕を崩さないのですね……その胆力、本心から羨ましい限りです……」
「だが、この静寂も長くは続かないようだ。次の役者が、もう舞台袖に到着したらしい」
「はぁ……また、胸騒ぎが……」
「その予感には、私も同意しておこう。しっかりと、その座席に捕まっているといい」
ナギサが再びシートを強く握りしめたのを気配で感じ取り、私は再び鏡の世界へと目を落とした。この閉ざされた舞台は、すぐに喧騒を取り戻すだろう。
次に姿を現したのは、獣のごとき威圧感を纏った大型の護送車だった。本来、何かを護るべきはずの鉄の箱が、牙を剥くための道具に成り下がるとは……実に皮肉な光景だね。
その荷台に据えられた重機関銃が咆哮を上げ、死の光が瞬くのを観測した瞬間、私は躊躇なくこの鉄の馬の手綱を、大きく横へと切った。
私が何故、この壁に囲まれた逃げ場のない空間で、敢えて破滅へと誘うかのような円弧を描いたのか……かい? ふむ、これにもまた、明確な理があるのだよ。
私の蔵書に、『ギョギョ』という名の奇譚がある。その物語の第三部で、描かれていた光景を思い出したのさ。生死を賭けた競争の最終局面、主人公一行の一人が、ただ一つの勝利の道筋を奪い合うため、物理法則という理を無視し、壁や天井すらも道として駆けていたのだ。
幸い、この隧道自体雑に整えられていたようで、床から天井にかけて滑らかな円弧を描いている。……そう、これは物語への憧憬を、この現実で再現するための、ささやかな賭けだ。最悪の結末は、我々が歪な鉄塊と化す、ただそれだけのことさ。
車体は悲鳴のような軋み音を上げ、遠心力という見えざる手に押し上げられるようにして、その車輪をコンクリートの壁面へと食い込ませた。
オレンジ色の照明が、もはや我々の真横を、いや、足元を流れ去っていく。天地が反転したかのような、実に奇妙で、それでいて美しい光景だ。
直後、我々が先程までいた空間を、無数の曳光弾が虚しく通り過ぎていくのが見えた。まるで、届かぬ星へ手を伸ばすかのような、実に滑稽な弾道だね。
隣でナギサが完全に声を失っているのを気配で感じながら、私は円弧の終わりを見定める。そして、壁を蹴るように手綱を操り、車体を再び重力という名の理に従わせた。
四つの車輪が再びアスファルトを捉えた時、背後ではただ虚しい銃声だけが、虚空に響き渡っていたのだった。
さあ、ようやくこの暗闇の舞台にも終幕の光が差し込んだようだね。隧道の出口から放たれる眩いばかりの日光が、我々の帰還を祝福している。
「ナギサ。やっとこの膸道という名の舞台から降りることができたが……君の世界はまだ保たれているかい? 折角、日の光を浴びるために誂えたその衣装に、無粋な染みが付いていなければ良いのだが」
「……もう、ほんとにっ! セイアさん!!!」
「いてっ」
感情の昂ぶりをそのまま乗せたかのような言の葉と共に、ナギサの小さな拳が私の肩を叩いた。だが、その一撃に込められていたのは、想像していたような破壊の衝動ではなく、むしろ触れるだけの、実に弱々しいものだった。ふむ、彼女の内に残された最後の理性が、その拳の威力を殺した、ということか。
「暴力という、最も原始的な対話に訴えるのは感心しないな。……もっとも、君の理性がその衝動を見事に御してくれたようだから、今回は不問としておこうか」
「……セイアさん。私との会話に夢中で、盤上の変化を見逃しているとは思いませんが……」
不意に、ナギサの声から先程までの激情が消え、乾いた冷静さが響いた。その変化に、私も思わず彼女へと視線を戻す。
「上空に、鉄の巨鳥が何羽も舞っているという……あまり直視したくない光景が広がっているのですが」
「……ふむ」
まさか、あの狩人たちが、ここまで執拗な役者だったとはね。私の描いていた脚本も、少しばかり修正が必要なようだ。
視線を天へと向ければ、鋼の猛禽たるヘリコプターが、獲物を見つけたかのように我々の上空を旋回している。これは盤上に、また新たな駒が追加されたことを示す、実に分かりやすい合図だ。
後方の護送車は変わらず地響きを立て、二輪の猟犬たちも道の両端から、虎視眈々と隙を窺っている。それに加えて、空からの刺客か。
陸と空からの三重奏とは……どうやらこの追跡劇は、いよいよクライマックスの交響曲を奏で始めたようだね。
「手厚い歓迎だが……生憎、三重奏を静聴する為の入場料金を払っていないのでね 」
「セイアさん?この状況から脱する方法でも思い付いたのですか?」
「如何にも。護送車の独奏に変更しようか」
運命という脚本家は、まだ私に微笑んでくれているようだね。この鉄の馬に備え付けられた舞台装置は、盤上の情報をリアルタイムで私に示してくれる。それによれば、この道筋の先には、急な曲線が待ち構えているらしい。……だが、私が真に好機と見出した理は、その周辺の地形さ。切り立った崖と、そこに広がる深い森の存在だ。
舗装された道から外れるなど正気の沙汰ではない、と君は思うかもしれないが、案ずることはない。私の『勘』が、そこが唯一の活路だと、明確に告げているのだから。
隣で悲鳴を上げるための準備運動をしているであろうナギサには悪いが、空中で鉄塊と散るよりは、幾分かマシな結末だろうさ。
「さて、ナギサ」
「あぁ、もう結構です! 次は一体どんな無茶をなさるおつもりで……!」
「簡単なことだよ。この重力という名の舞台と共に、一時的に降りるのさ」
「地に堕ちるということですか!? ええええ!?」
目前に迫るコーナーを、私は意にも介さない。時速140という奔流のまま、鉄の馬は定められた道筋を踏み外し、脆弱なガードレールを木っ端微塵に砕き散らした。
一瞬の浮遊感。我々の車体は、ついに空という広大な舞台へと完全に投げ出された。
「きゃあああああああああああ!?」
「ふむ、陳腐な鉄の塊なら、この程度の落下で歪なオブジェと化すだろうね。だが、この子は少々特別な仕掛けが施されていてね。この指先の先にある、ささやかなボタンを押すだけで……」
『ホバリング・モード、アクティベート』
無機質な声が響くと同時に、車輪はその姿を変え、車体下部から蒼い光を放つ何かが駆動を始める。
そして次の瞬間、我々の体を襲ったのは、落下という抗いがたい力に逆らう、柔らかな浮力だった。まるで、見えざる巨人の掌に、そっと受け止められたかのような感覚だ。
「成程。下へと向かう力を推進力に変換し、衝撃を相殺したか。淑女の扱いにしては少々乱暴だが、実に合理的な機能だね」
「もうっ……ほんとうに、本当にっ!!」
何度目になるかも分からない彼女の嘆きをBGMに、私は再び踏み板を強く踏みしめ、眼下に広がる木々の海へとこの鉄の馬を駆けさせた。
私がこの森という舞台を選んだ理は、至極単純だ。まず、この高低差では、バイクという脆弱な駒は追走を断念せざるを得ない。そして空の猛禽たちも、鬱蒼と茂る木々が我々の姿を隠し、その目を眩ませてくれるだろう。
残るは、あのしぶとい護送車のみ。
ふむ、我ながら、完璧な脚本だったようだね。
現在の盤面の状況を観測すべく、私は鏡の世界を通じて後方の景色を確かめた。
推測通り、二輪の猟犬たちの姿は既にない。だが、対照的に、あれほどいたはずの護送車が、今は不思議と二台しかその影を映していなかった。……ふむ、駒を減らしたにしては、どうにも後味が悪いね。
「何だか、胸騒ぎがするようだ」
「どうしてそう、不吉な言葉ばかり言うのですか……!」
「ナギサ。もし君さえ良ければ、狩人たちの動向を観測し続けてはくれないかな? どうにも私の視界は、目の前に次々と生えてくる木々を避けるという、単調な作業に忙しくてね」
「はぁ……仕方ありませんね。善処します」
こうして、鬱蒼と茂る森を舞台にした、獣から逃れるための追跡劇という新たな物語の幕が上がった。
もっとも、この章には特筆すべき山場も無く、ただ時が過ぎるだけの退屈なものだったがね。
「それにしても、本来のルートからは大きく外れていますが、本当に目的地へ辿り着けるのでしょうか? ……それと、左手から一台、来ていますよ」
「陳腐な疑問だね、ナギサ。私が確かなる勘もなしに、これほど大胆な脚本を描いたことがあったかい? ……おっと、観測に感謝するよ」
そんな他愛のない言の葉を交わしながら、私は次々と牙を剥く鉄の獣たちをいなし、行く手を阻む木々を縫うようにして、存在しない道を創造していく。
やがて、時の流れが示すように、森はその密度を失い、木々の数が明らかに減り始めた。
それが何を意味するのか……答えは、空にあった。
「おっと、鉄の猛禽が再び舞台に戻ってきたようだ」
「もう、次から次へと……!」
再び始まった空からの無粋な攻撃を、私は残り少ない木々を盾にしながら、巧みにその射線から逃れ続ける。
「さあ、もうすぐだ。本来、我々が歩むはずだった道筋が、すぐそこに見えてくるだろう」
「やっと、この揺れ続ける地面から……って、セイアさん!」
ナギサの切羽詰まった声が響くと、ほぼ同時だった。
森の切れ目、道の合流点を狙いすましたかのように、横合いから護送車が木々をなぎ倒しながら、猛烈な勢いで突撃してきたのだ。
「ふむ、死角からの奇襲とは……芸がないね!」
衝撃に備え、私は手綱を強く握りしめる。だが、ただ衝突を受け入れるほど、私の描く脚本は単調ではない。
私は突っ込んでくる鉄塊の軌道を瞬時に計算し、逆にこちらの車体の側面をぶつけるようにハンドルを切った。
ガガガンッ! という耳障りな金属音と共に、二台の車は火花を散らしながら並走する。相手は私を崖側へと押し出そうと必死のようだね。
「ナギサ、少し揺れるよ!」
私は一度、相手に押し込まれるままに車体を崖へと寄せさせる。そして、相手が勝利を確信し、さらに力を込めたその一瞬を狙い、ホバリング機能による一瞬の浮上と、急ブレーキを同時に敢行した。いわば、慣性を打ち消したのだ。
我々の車体は、まるで石に躓いたかのようにその場で急停止する。対して、前へと押し出す力を殺しきれなかった護送車は、我々という抵抗を失い、その有り余る勢いのまま、前方の何もない空間へと――崖下へと、その巨体を躍らせた。
ゆっくりと落下していく鉄の塊をバックミラーに映しながら、私は静かに呟く。
「自らの力が、自らを滅ぼした。実に、普遍的な悲劇の結末だね」
「……すいません、汚いと思いますが、吐いてもいいですか?」
「急に思い返したように言うね。ふむ、出来れば汚してほしくないのだが……」
兎も角、直様迫ってきた危機から脱する事が出来た。まあ、しかしながら彼女らの猛攻の勢いはまだ擦り減ったりはしないけどね。何、平常通り、私の華麗な手捌きを魅せるだけさ。
「……この状況、どうするべきだと思うかい?」
「……どう、と問われましても。これはもう、打つ手なし、という盤面なのでは?」
どうやら我々は、この追跡劇における最大の窮地と邂逅してしまったようだ。素直に道筋を辿った結果、敵に先回りされていた、という実に陳腐な結末。……ふむ、この展開は、流石の私も予測できなかった一節だね。
「どうやら、彼らが選んだ道筋の方が、この終着点へ至るには僅かに近道だった、ということか」
「どうして、そのような冷静な推察を述べていられるのですか!? このままでは、蜂の巣にされてしまいますよ!?」
ナギサの言う通り、このままでは無数の風穴をその身に穿たれ、塵となって消えるという、実に無様な結末を迎えるだろう。だが、心配はいらない。これもまた、私の描いていた脚本の一幕に過ぎないのだから。この盤面を覆すための対抗策は、とうに用意してある。そうだね……彼女らと、この鉄の馬が衝突するまでの時間は、まだ少しだけ残されている。
「ふむ。ここで少し、与太話になるかもしれないが……この車は、先日の交流会で知己となった友人に、特別に誂えてもらったものでね」
「……???」
「その友人たちは、機械という名の芸術を紡ぐことに、ことさら長けていてね。時折、彼女たちの創造物を見せてもらっているのさ」
「は? えっ……ミレニアムサイエンススクールの話、ですよね……? 機械作り……まさか!?」
「ふむ。どうやら君にも、この物語の本当の結末が見えてきたようだね」
さあ、長かったこの物語に、美しい『結』を与えるとしようではないか。
『自爆シークエンス、起動。爆発まで、十、九、八……』
「ま、待ってください! じ、自爆ですって!? 私たちもろとも……!」
「何、案ずることはないさ。この終幕の祝砲は、決して我々を傷つけるためのものではないのだから」
無機質な声が、ただ淡々と、終焉への秒読みを続ける。
この後に訪れる結末は、盛大な爆発。そうだ、これこそが、この長い追跡劇のフィナーレを飾るに最も相応しい、美しき終止符だろう?
「さて、さっさとシートベルトを外したまえ。巻き込まれたくないだろう?」
「それはそうですが……!急に自爆すると告げられましても……!」
「ほらほら。さもないととんでもない事になってしまうよ?」
「あああーっ、もう!急かさないでください!」
『3、2、1……』
大群が目と鼻の先まで迫る直前、そしてアナウンスが数え切る前に、我々はこの鉄の馬から大海原へ向かって抜け出した。
そして、その声が自爆までの猶予を数え切った刹那……。
ドォォォォォォォォン!
「ひゃあああああ!?」
「ふふ、これぞ完璧なる終幕……!」
銀色の車体は、膨張し、最終的には耐えきれず、見事なる暖色の閃光を放ち、爆発した。その衝撃は、距離を置いていた筈の我々にまで伝わり、より一層遠くへ吹き飛ぶ事になったが……。
危惧していた事態が起きない事は確かだろうね。
「……ナギサ、ナギサ」
「ううっ…………」
「ナギサ、溺れ死にたいのかい?」
「おっ……起きてます……」
終幕を通り過ぎ、我々のエピローグは浜辺から始まった彼女は否定しているが、先程まで気を失っていたナギサを、海原から浜辺まで運搬して目醒めさせたところだ。ふと、先程の舞台に目をやると、煙と炎が立ち昇っているのを目撃した。敵の車体も確認できなければ、安全圏にあった筈のヘリコプターまで、空に浮かんでいなかった。これらで推測するに、広げた風呂敷はきっちりと畳めたみたいだ。
「はぁ、まだ始まってすらないのに、このような目に遭うなんて……」
「まあまあ、準備運動として最適だったろう?」
「準備運動という言葉では言い表せないでしょうに……こうなったら……」
「……」
普段のナギサなら、「危険ですので、中止にしませんか?」と不満を述べ、折角の休暇を台無しにしてしまう言動を漏らしそうだが……。しかし彼女の解は予想外のものだった。
「目的地に着いてから、より長く羽を伸ばしましょうか……」
「ふぅ……」
そういえば彼女は、所謂『馬車の魔法が解かれたネズミ』……つまり、素のナギサであったな……。久方振りだろうか。彼女が、好奇心を原動力に、気ままに何事にも楽しむ、やんちゃだった過去であろう状態だった。
「ふふっ、あの時のナギサであれば退却すると言の葉を紡いでいたであろうに……」
「おや?駄目でしたか?やはり、こう言う時は心をしっかりとオフの状態にしないとですよ……ね?」
「君の意見に同調するよ」
幾分先の出来事の話になるが……。きっとミカはナギサが不満を抱え、去ってしまうと危惧しているだろう……。しかし、それはあの時の彼女を覚えていないだけのことに過ぎない。
「さて、真に言うならば、スペアを用意していてね……」
「確か少し先のサービスエリアに停めてあるのでしたっけ……。しかし、セイアさんの運転は十分ですので……。むしろ、このままゆっくりと歩いていた方が性に合うと言いますか……」
「ミカが心配するだろう。彼女はきっと君を満足させる事に躍起になっているだろうね」
「ふふっ。そういえばミカ、いつもより頑張っていましたね。それでしたら、少し心が痛みますね……。乗せてもらっている間、気を失ってもいいですか?」
「出来れば、道ゆく道を辿っている間にも楽しんで欲しいものだが……好きにするといいさ」
イベント本編までこんな事があって欲しいという願望を抽出した物です!
こうあってくれると嬉しいなぁ……。
コメント
5件
あらま、見落としてた…それは申し訳ない… 褒めるしか無いよね?素晴らしいのだから
これはいけません!イケメンフォックス過ぎます!有難う御座います… セイアちゃんの難しい話し方と二人の絡みが素晴らしい… てか表紙がチェンソーマンのパワーとコベニのシーンじゃないですか…同じ様に描けるの凄い… 長編お疲れ様でした。楽しく読ませてもらいました…素晴らしい想像有難う御座いました